犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

主観説と客観説

2007-07-27 13:04:34 | 言語・論理・構造
法律学には、「主観説」と「客観説」の争いというものが非常に多い。その中でも特に決着がつきそうもないのが、偽証罪(刑法169条)の成立基準に関する主観説と客観説の争いである。偽証罪とは、証人が裁判の法廷で嘘の証言をしたときに成立する犯罪であるとされる。さて、それでは、「嘘をつく」とは一体どのようなことか。これを分析哲学の視点もなしに、法律学のツールのみによって条文解釈という形で行おうとすれば、あっという間に行き詰まる。現に、裁判の法廷はタヌキとキツネの化かし合いであり、多くの証人は白々しく嘘をついているが、これを立証して処罰することはほとんどできていない。

客観説は、証人が客観的真実に反することを述べれば、それが偽証罪であると考えている。この仮説が不可能であることはすぐにわかる。過去に起こった歴史的な事実として「客観的真実」というものが存在すること前提に話を進めているが、そもそも裁判をして大騒ぎをしているのは、その「客観的真実」が何なのかがわからないからである。そこで、判例・通説は主観説を採用しており、証人が自己の記憶に反することを証言することが偽証罪であると考えている。つまりは、一般に言われるところの「嘘をつこうと思って嘘をついた」ことが犯罪であるとする。しかし、これは政治家の証人喚問でも明らかなとおり、簡単に逃げられてしまう。「勘違いでした。嘘をつくつもりはなかったのですが、結果的に嘘になってしまいました」と言われれば行き止まりだからである。たとえ記憶にあっても、「記憶にございません」と言われてしまえば、それ以上他人からは突っ込みようがない。

刑法学ではこの点について、記憶は人間の内心に関わることであり、偽証をしたことの立証は困難であるという理由がもっともらしく述べられている。しかし、これはそもそも立証の難しさの問題ではない。主観と客観の二分法が可能であり、この世の中にそのような二元的な観点が存在すると思い込んでいる錯覚に基づくものである。客観的事実は明確であるが、人間の主観は不明確であるという捉え方は、近代科学主義・実証主義からすれば当然の常識である。この二分法はツールとしては有用であるから、一歩引いた視点から、必要悪の道具として使用していればよい。主観は客観であり、客観は主観であるといった哲学的真実に毎日向き合っていては疲れるので、とりあえずの生活の知恵として捉えておけばよい。

ところが、このような主観と客観という視点が二元的に実在し、客観性のほうは動かぬ真実であると信じ込んでしまうのが人間である。こうなると、それ以外の考え方ができなくなる。刑法学者は、悪質な証人を偽証罪で立件するための方法について、何十年も前から「詳細な研究が待たれる」「今後の課題である」と言っているが、何を詳細に研究したところで無駄な労力である。刑法学の大家といわれる人達の立派な基本書には、この手の記述が非常に多い。閉鎖的なアカデミズムの議論に終わってしまうのも当然である。



※ 文章の内容がややマンネリ化してきたので、テーマを若干広げて、いじめや過労死などの問題も視野に入れて考えていきたいと思います。現代の主流な議論の文法がもたらす問題、すなわち主語と人称の固定化によって視角が抑え込まれているという問題点において、犯罪被害といじめ、過労死の問題の根本は突き詰めれば同じところに行き着くものと思います。「ブログの概要」の欄を微妙に変更しました。よろしくお願いします。

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