犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

パオロ・マッツァリーノ著 『つっこみ力』 その1

2007-07-28 13:58:58 | 読書感想文
筆者は、現代に欠けている「戯作者」の視点に立つ。戯作者とは、うがった見方で趣向を凝らし、何でも茶化して笑いに変える人物である(p.25)。権威や権力に正面から立ち向かうのではなく、そうかと言ってよくありがちな権力を揶揄する風刺や毒舌でもない。戯作者の根底にあるのは、人間を忘れて世相や世間を論じることの虚しさ、滑稽さを笑い飛ばすことであり(p.218)、人間に対する深い洞察である。

筆者は文中で主に経済学について茶化しているが、法律学についても同様のことがあてはまる。難しい専門用語を駆使する点では、経済学者も法律学者も同じだからである。誰にでもわかるように説明しようと思えばできてしまうのに、権威を保つためだけに、あえて難しい言葉でカモフラージュするのが学者である(p.28)。振り込め詐欺の犯人は、単に遊ぶ金欲しさに詐欺をしただけなのに、専門家にかかると「欺罔行為・錯誤・処分行為・財産上の利益の移転・因果関係」という仰々しい話になってしまう。峻厳な国家刑罰権の発動による構成要件の明確性などと言われては、詐欺師本人もびっくりである。

法学者が国民の裁判に対する違和感を見下し、犯罪被害者の声を無視するのは、「世間知」と「専門知」の区別に基づいている(p.21)。これは、「世間やマスコミは法律学の基礎も知らない」、「こんな愚かな人々をまともに相手している暇などない」というエリート意識である。刑法学者にとっては、構成要件該当性の厳格性・刑法の体系を維持し、罪刑法定主義を維持するのが先決であって、切れば血が出る生身の人間のことには興味がない。筆者は、このような「専門知」を、頭でっかちな優等生が考えそうな理屈であると茶化している(p.174)。刑法学者は感情論を何よりも見下し、「心情刑法に陥ってはならない」と力説する。しかし、今この瞬間に溺れかけている人には、今すぐ浮き輪を投げなければ意味がない(p.168)。

刑事裁判は、何年も前の殴り合いについて、正当防衛の要件を1つ1つ立証するために証人を呼んで、右手を挙げたり左手を挙げたり、法廷で細かく動作を再現する。飲酒運転の裁判では、どこのお店で何のお酒を何杯飲んだかが焦点となり、ビールをジョッキ半分残したのか残さなかったのかを巡って何ヶ月も大騒ぎする。このような厳粛な儀式は、正面切って批判されるよりも、笑い飛ばされることを何よりも恐れる。笑い飛ばされるのは、まずは犯罪被害者の声に直面してオロオロしている近代刑事法の枠組みである。そして、被告人の権利と被害者の権利は両立するといいながら、いざ被害者が裁判で証言するとなると筋が通らなくなり、ボロボロになってしまう人権論である。

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