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御朱印蒐集~石光山 石山寺2『御神木・宝篋印塔・硅灰石』~

2020-06-25 20:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 石山寺へ秘仏本尊「木造如意輪観音坐像(平安後期・重文)」の御開扉に参拝し、巨大で温和な姿の御本尊に手を合わせ、石山寺に安置される仏像群に堪能させてもらうことが出来ました。
石山寺へ前回参拝したのは2016年の秋のことでしたので、4年近く前の事になりますが、その時は33年ごとの御本尊の御開扉の年でもありました。

その間、当方の興味の対象や趣味嗜好も多少変わったのでしょう。
今回の参拝では仏像中心の面と、石・木・塔への興味の面など幾つかの面から石山寺を堪能させていただきました。
駐車場に車を停めて、最初に遭遇したのは「郎澄律師 大徳遊鬼境」の像でした。



郎澄律師は石山寺の鎌倉初期の学僧で、自分は鬼の姿となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、鬼の姿になったと伝わります。
石山寺で5月に開催される「青鬼まつり」に登場する杉の葉で作られた大鬼は、鬼の姿となった郎澄律師を表すといいます。

東大門から入山すると参道の横に「比良明神神影向石」が祀られているのが見える。
石山寺の開山・良弁が、聖武天皇より東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられて、金剛蔵王の夢告に従って石山へ訪れる。
岩の上で釣りをしていた老人(比良明神)から、夢告の地がここ石山であることを知らされたといいます。



比良明神は高島市にある白髭神社の別称でもありますから、奈良の良弁と近江が結びついた地と言えるのかもしれません。
石山寺の前には琵琶湖の唯一流れ出る川であった瀬田川があり、奈良の寺院建立に使う木材などを滋賀の湖南で伐り出して琵琶湖の水運で都へ運んだといいます。
資材は、淀川を下って大阪湾へと出て、大和川を遡って運んだといわれますから、古来より都との結びつきは深かったと考えられます。

影向石を過ぎると、「くぐり岩」の奇岩があり、このあたりの岩は全部大理石だという。
天然にできた体内くぐりだとされており、せっかくなので中へと入ってみる。



入口はさほど狭いとは思わなかったが、内部の天井はかなり低い所がある。
前日まで雨が続いていたので水溜まりが出来ており、そもそも大理石なので滑りやすく、短い穴にも関わらず、途中でしゃがんだまま少し休んで出口から出る。



「観音堂」「毘沙門堂」「本堂」へと続く石段の上には、「千年杉」と呼ばれる石山寺の御神木が立ちます。
説明書には“天平時代 石山寺草創当時からの老杉である”と書かれてあったが、巨樹ではあるものの幹周は5mには至らないように見える。



樹高は30mはありそうですが、こんなバランスの悪そうな場所に真っすぐに立っているのを不思議に思う。
石山寺には3本の御神木があるといい、1本はこの「千年杉」、もう1本見ることが出来た杉は「天狗杉」といい、幹の太さはこの「千年杉」の方が樹齢が経っていると思います。



「千年杉」から「観音堂」「毘沙門堂」へと歩いていくと、南北朝期の作と推定されている「宝篋印塔」がある。
高さ182cmの塔の周りには四国八十八ヶ所の砂が敷かれてあり、お砂踏みができるようになっている。
石山寺には宝篋印塔が幾つかあり、石塔めぐりで歩いても興味深い寺院だと思います。



この地が石山と呼ばれる所以となったのは、「石山寺硅灰石」と呼ばれる奇岩の大岩塊となり、何度見てもその独特の姿には圧倒される他ありません。
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩との接触による熱作用で変質したものとされ、通常はその作用で大理石になるものが、石山寺では硅灰石となったといいます。



硅灰石の上部には「多宝塔」が見えますが、剥き出しになっていないまでも、この地には多くの硅灰石が眠っているのかと思います。
こういう姿は、自然の奇跡のみが成しうる造形だといえ、この硅灰石は国の天然記念物に指定されています。



上の高台から硅灰石を眺めると、ミミチュア・サイズではあるものの、高山の険しい絶壁を連想してしまいます。
この地は地球のエネルギーが噴き出す場所、奇岩が突出する場所であったことで、信仰を集めた霊地となり、石山寺の建立に至ったといえるのでしょう。



硅灰石を越えたところには、県下で最古の校倉造の遺構「経蔵(16世紀頃・重文)」があり、高床式の経蔵の束の一部に硅灰石が露出しています。
岩盤には座布団が置かれてあり、束を抱くように岩盤に座ると安産になるといわれています。



「経蔵」の横には「紫式部供養塔(重要美術品)」が笠を3つ重ねた不思議な姿で立っている。
一番下の4面に仏像が彫られてあり、寄せ集めではないことも証明されている鎌倉時代に造られた宝篋印塔だといいます。
高さも2.6mある珍しい塔の隣には、松尾芭蕉の句碑もある。



「多宝塔」のあるエリアまで登ると、2基の宝篋印塔があり、右が源頼朝の供養塔、左が頼朝の娘の乳母である亀谷禅尼の供養塔だという。
亀谷禅尼は、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願した中原親能の妻だったといい、剃髪後は石山寺に住み、宝塔院の本尊大日如来の胎内に頼朝の毛髪を納めて日々勤行し、頼朝に石山寺の再興を勧めた人とされます。
尚、亀谷禅尼の宝篋印塔は、南北朝期に造られたものとされ、重要文化財に指定されています。



「多宝塔」の西側には鎌倉期に造られたという「めかくし石」があります。
筒形の塔身には何も彫られた跡はなく、目隠しして塔身を抱きとめることが出来れば願い事が叶うという御利益があるそうです。



記憶が曖昧になっていてよく分からないのが下の宝篋印塔2基。
多宝塔の近くだったとは思いますが、玉垣に囲まれたこの宝篋印塔は誰の供養塔だったのでしょうか。
石山寺には他にも石塔が多く、見落としが多かったかもしれない。



本堂の裏てから「子育て観音」へ向かう道の途中に、阿弥陀如来の石仏があった。
ただここでは石仏よりも剥き出しになった硅灰石?の巨石に目を引かれます。
さすが石山の名そのものの巨石群が至る所に見られ、この地が特別な場所だったことが分かる。



石山寺で最後に立ち寄ったのは「天狗杉」と呼ばれるもう一本の御神木でした。
石山寺の経典と聖教を守ると誓い鬼になった郎澄律師は、律師の死後に出臣の行宴が松の梢の上で金色の鬼の姿を見たと「石山寺縁起絵巻」に描かれてあり、それとは別に杉の上に現れたとも伝わるといいます。



寺院の石段の上にあった「千年杉」よりは幹が細いため、若いと思われますが、上部で二股に分かれていて樹勢のよい木に見えます。
石山寺には、もう一本の御神木があるようですが、コロナ感染症拡大防止により、境内が通行止めとなっていて辿り着けず、またの機会となりました。



石山寺では紫式部展が開催されている豊浄殿でも来館者が脱いだスリッパをアルコール消毒されていたり、エチケットパネルを設置したりして、感染防止に努められていました。
入山の時には護摩供養済みの護符を頂き、コロナ終息への願いを感じます。
久しぶりの寺院参拝でしたが、普通に寺院の中に入って仏像に手を合わせることの出来る日常に戻ることを祈ります。





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