我々は言わば昭和末期に若者時代を過ごした世代だが、暮れと正月の過ごし方や家周辺の風景、テレビ番組なども少しずつ変わってきたものだ。正月明け朝の連ドラではそれこそ「昔の日本の正しい正月」(商家バージョン?)が短い15分という短い放映時間にダイジェスト版で登場した。あれと比較すると確かに昭和も平成も日本の家庭そのものが劇的に変化したと言えるだろう。しかし昭和末期から今まで30年くらいを見ると、なくなったものとまだあるものがたくさんあり、変化としては微妙なのである。もちろん年齢によるスタイルの変化も多分にあるが、文化という面から見ると昭和末期には現在の生活で当たり前のように使用するほとんどのものが存在したのである。インターネットやスマホは確かにあの時代には無かったが、普段の生活と異なり年明けを過ごすにあたり、あんなものはあってもなくても大差がない。餅つきや年賀状も、門松や正月飾りも減るには減ったが、絶滅してしまったわけでもない。福笑いや羽子板は確かに見なくなったが同様のゲーム、スポーツはあるし、駒は「缶ゴマ」という形で学童で見られるし、海浜公園の空を埋め尽くしたゲイラカイトも数は減ったが健在だ。巨大な凧を上げて喜んでいるのは「○○凧揚げ会」とかいう大人のグループだが。
ちなみに我が地方で遊んだコマは先日ハイキングした大山がルーツの「大山こま」というもので、紐が麻で編まれた細い縄のようになっている。馬の尻尾のような先端は「はたき」と言い、回した後コマの回転が衰えないように回転方向に「はたく」のだがあまり効果はない。「けんかゴマ」といって先に回っているコマ目がけて投げつけ叩き割る遊び方が主流だが、頑丈な大山こまはそんなことで割れることもないので、そのまま一番長く回っていた者が勝ちとなる。ある者が一計を案じ、はたきの先端に細かく線上にちぎった布きれを装着して回転補助力を強化しようとしたが、はたいた瞬間、コマごと吹っ飛んでしまい隣家のガラス窓を叩き割ってえらい怒られていた。またある者は芯の部分を本体と見分けがつかぬほど短く削り、「止まっても倒れず、はたけば再び回り始める」不死身のコマを考案したが「豚ゴマ」と蔑まれて姿を消した。芯の中央にベアリングを打ち込んできた者もいて、滑らかなコンクリの上では威力を発揮したが土の上では刺さってしまってダメだった。
子供の頃、大晦日はNHK夜の番組で「刑事コロンボ」を放映する日以外に唯一、日付が変わるまで起きている日だった。今は完全な時代の変遷と番組としての行き詰まりを感じるが、高橋圭三さんの「輝く!日本レコード大賞」が始まる夕方7時頃までには全て正月準備が終わっていた。歌番組とアイドル全盛期を過ごした青少年の注目は最初、「最優秀新人賞」、そしてその彼、彼女らが盤石のアイドル基盤を築いて受賞する「レコ大」だった。レコード大賞は「日本を代表する歌の上手い人が歌う日本で一番売れた曲」だと思っていたが、ピンクレディがこの常識を打ち破った(というのは失礼かな)。その頃はレコード大賞発表とNHK紅白歌合戦の始まり時間がカブっていて、レコ大受賞者は武道館から駆け付けたが紅白のオープニングには間に合わなかった。この遅刻こそ歌手最高の栄誉と思われていたようだ。当時の紅白歌合戦では新人アイドルは全てトップバッターや前半に集められ、いきなり登場、一番だけ歌って退くという明らかな差別扱いだった。少年の私達は最初から3組くらい見ると後は「聞いたこともない」懐メロしか出て来ないので紅白など全く興味を持てず、自分の部屋で「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ」や「仮装大賞」を経てべーやんが歌い里見浩太郎さん演じる「年末時代劇」を見ていた。そして紅白歌合戦が終了するとNHKは地味に雪降る「永平寺」などが映ったが、昭和の終わり頃までは確か民放の「ゆく年くる年」は割と華やかに全局同じ番組だったと思う。
私はこれまで「深夜番組を延々と見る」という習慣がなく、大晦日も年が明けてしばらくすると寝てしまっていた。今でこそ「年越しライブ」とか「朝まで生放送」など24時間そこそこ内容のある番組があるようだが、昭和の頃は朝方の空白時間帯までの「つなぎ番組」は年明け前後の華やかさとは考えられないくらい「落差の激しい」映画ものだった。(うろ覚えて適当に挙げているが)例えば「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神の逆襲」の3部作そのまんま放送、「猿の惑星」「続・猿の惑星」「新・猿の惑星」なんてやはりシリーズ3連チャン、「水戸黄門(天下の副将軍)」、「旗本退屈男」「社長何とか記」シリーズ・・・どうだろうか?自分の守備範囲だけで決めつけてはいけないが、どう考えてもわざと「斜め下」を進んでいるとしか思えない。大魔神・・・?「ゴジラ」なら間違いなく見た。猿の惑星・・・?「スター・ウォーズ」は無理でも「スター・トレック」ならたぶん見た。時代劇なら「関ヶ原」をやってほしかった!森繁さんの社長シリーズ・・・?「釣りバカ日誌」なら。。。。見ないな、やっぱり。
新年の朝を迎えると、その昔は正月番組と言ったらどこのチャンネルを回しても「爆笑ヒットパレード」や「新春東西寄席」など純粋お笑い番組に事欠くことはなかった。この時期のお笑い番組は1年で正月以外たまに笑点でしかテレビで見られない正統派の漫才やコントなどの宝庫で、ある意味貴重な記録だ。染之助・染太郎師匠を筆頭?に楽器持ちの演芸なら玉川カルテット、東京ボーイズ、横山ホットブラザーズ・・・純正漫才なら昭和のいる・こいる、大木こだま・ひびき、中田カウス・ボタン・・・中には亡くなってしまった人もいるな。元々漫才やコントが本職だったのに、テレビではバラエティ番組の司会やコメント出演、クイズ番組の回答者ばかりやっているのが正月だけはちゃんとしたネタを一応はやるところが面白い。最近は「出ては消え」が激しく、流行の人気芸人が毎年変わっているようだでさすがに「一発屋」とは言われないが、「去年流行って、今いない人」みたいな感じでミニコーナーで紹介される人々には何か哀愁のようなものを感じる。「ゲッツ!の黄色い人」「ワイルドな人」「そんなの関係ねえ人」「ごめんねごめんねえの栃木人」などは辛うじてチョイ出を見たが、M1グランプリなどで正統派コントを勝負するとは思えない「だめよ、ダメダメの連合」「ぐぅ〜っの美人なお姉さん」「らっすんごれらいの人」などはとうとう、テレビで見かけることはなかった。妻は「あなたは『お笑い』あんまり見ないから」と言うが。。。
朝の連ドラで見たほどがっつり「大晦日と正月」をそれらしく過ごした記憶はない(でもあれを見ると「なるほどなー」と感心する)が、コンビニ主流となる前は正月3が日は近所の商店街も全てシャッターが下りて「しーん」としており、食品や必需品が不足すると何一つ買えなくなった。大掃除や正月料理など正統派を改めて見ると我が家はかなりサボっていたようだが、それでも普段は外さない網戸や換気扇を洗ったのは覚えている。また自家用車がやってきてからは必ず洗車はしていた。今ではとんと見なくなったが、ボンネットの前の小さな正月飾りも付けていた。いつだったか正月飾りを付けたまま大晦日に洗車していたら、中央の安っぽい海老の模型がボロボロに溶けてしまい悲惨な姿になった。慌てて新しいのを近所のダイクマに買いに行こうとすると「そのままにしておけ」という父親の言葉で初めて「一夜飾り」というのはよくないことなのだということを知った。
私も父親も「おせち料理」なるものはあまり好きでなかったから、母もあまり精を出して作らなかったようだ。黒豆はよく煮ていたが家中異様な臭いに包まれていた。その結果、出来上がった黒光りする豆が何とも薄気味悪く、数の子は漬物っぽくて食べられない。田作りなども豊作祈願があるそうだが、「何で正月からこんな釣りエサみたいなものを食わねばならんのか?」という気分が否めなかったし、伊達巻や栗きんとんなどは甘くて酒の肴にはならない。昆布巻きとかまぼこ以外正当おせち料理を色々出してもあまり手を付けずいつまでも残っているので、そのうち正月の食卓には出て来なくなってしまった。
両親とも富山の人だから魚や独特な漬物にはこだわりがあり、送られてくるヒラメの昆布〆やバイ貝煮付け、煮しめなどはよく食べていた。私が成人して酒を飲むようになると尾頭付き鯛の塩焼きを箸でつつき、骨を炙って骨酒にして飲んだ。雑煮を普通に食い、あまり歓迎されないおせち料理の代わりに日持ち(というか製作者が楽)する大量のおでん鍋とか、すきなべ、豚しゃぶなど鍋ものが台頭していた。餅もよく食べたがちょっと変わっていて富山から送られてくる豆もちと昆布もちが主だった。豆もちはこの辺でも見かけるが、昆布もちとなると中々売っていないようだ。また「おせちもいいけどカレーもね♪」というキャンディーズのCMにすっかりやられた私にはよくカレーが作り置きされ、カップラーメンなどもかなり買い置きされていた。家族3人でひたすら酒ばかり飲んでいたのだが、妻が増えて4人となり、さらに甘辛が登場していち早くルールを覚えてしまうと、そこそこ飲み食いした後は箱根駅伝中継をつけっ放しにして「新春麻雀大会」が開催できるようになった。残念ながら麻雀好きの父が亡くなってしまった後だったが息子が幼稚園の頃であり、一応受験生の今に至るまで続いている。(一家で所縁ある何校も箱根駅伝の応援を沿道で楽しめるという月美さんご家族におかれてはまことに羨ましい限りである)
あろうことか息子甘辛がクビになってしまった駅前の進学塾の前を通ると「センター試験まであと9日」という大きなカウンターが見えた。ずいぶんと追い込むようなことをするものだが、幸いにも(と言ってよいかの判断は後年に委ねなければならないが)甘辛はこの暗黒期間を潜り抜けることができた。しかし神妙にも今回はどこにも出かけずに家で皆と寝正月を決め込んでいた。恐らく近くで「遊んでくれる者」が見つからなかったのだろうが。来年は友達同士どこかに出かけてしまうかもしれない。スキー場とまでは行かなくても、首都圏近郊、我が家周辺でも若者らしく?カウントダウンして夜通し過ごすイベント、場所には事欠かない。そしたら妻と老母3人で久々に正月の温泉にでも出かけるか。そうなったとしても1日には帰宅していなくてはなるまい。月美さんに「絶対にテレビに映る場所」を教えてもらい、ウルトラコスプレで小夏師匠に合図を送ることになっているから。。。
今回は写真がないのだが、正月に赤いライオン号を取りに家に戻った時に不思議なことがあった。ポインター号用の車体カバーの下に何と「カニ」がいたのである。海までは400m、川までも50mはあるのだが、どこからどうやってやってきたのか?そのまま203号を持って川辺を少し歩くと、縁起のいいことに「青い鳥」に出会うことができたので、これだけ載せておこう。
ちなみに我が地方で遊んだコマは先日ハイキングした大山がルーツの「大山こま」というもので、紐が麻で編まれた細い縄のようになっている。馬の尻尾のような先端は「はたき」と言い、回した後コマの回転が衰えないように回転方向に「はたく」のだがあまり効果はない。「けんかゴマ」といって先に回っているコマ目がけて投げつけ叩き割る遊び方が主流だが、頑丈な大山こまはそんなことで割れることもないので、そのまま一番長く回っていた者が勝ちとなる。ある者が一計を案じ、はたきの先端に細かく線上にちぎった布きれを装着して回転補助力を強化しようとしたが、はたいた瞬間、コマごと吹っ飛んでしまい隣家のガラス窓を叩き割ってえらい怒られていた。またある者は芯の部分を本体と見分けがつかぬほど短く削り、「止まっても倒れず、はたけば再び回り始める」不死身のコマを考案したが「豚ゴマ」と蔑まれて姿を消した。芯の中央にベアリングを打ち込んできた者もいて、滑らかなコンクリの上では威力を発揮したが土の上では刺さってしまってダメだった。
子供の頃、大晦日はNHK夜の番組で「刑事コロンボ」を放映する日以外に唯一、日付が変わるまで起きている日だった。今は完全な時代の変遷と番組としての行き詰まりを感じるが、高橋圭三さんの「輝く!日本レコード大賞」が始まる夕方7時頃までには全て正月準備が終わっていた。歌番組とアイドル全盛期を過ごした青少年の注目は最初、「最優秀新人賞」、そしてその彼、彼女らが盤石のアイドル基盤を築いて受賞する「レコ大」だった。レコード大賞は「日本を代表する歌の上手い人が歌う日本で一番売れた曲」だと思っていたが、ピンクレディがこの常識を打ち破った(というのは失礼かな)。その頃はレコード大賞発表とNHK紅白歌合戦の始まり時間がカブっていて、レコ大受賞者は武道館から駆け付けたが紅白のオープニングには間に合わなかった。この遅刻こそ歌手最高の栄誉と思われていたようだ。当時の紅白歌合戦では新人アイドルは全てトップバッターや前半に集められ、いきなり登場、一番だけ歌って退くという明らかな差別扱いだった。少年の私達は最初から3組くらい見ると後は「聞いたこともない」懐メロしか出て来ないので紅白など全く興味を持てず、自分の部屋で「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ」や「仮装大賞」を経てべーやんが歌い里見浩太郎さん演じる「年末時代劇」を見ていた。そして紅白歌合戦が終了するとNHKは地味に雪降る「永平寺」などが映ったが、昭和の終わり頃までは確か民放の「ゆく年くる年」は割と華やかに全局同じ番組だったと思う。
私はこれまで「深夜番組を延々と見る」という習慣がなく、大晦日も年が明けてしばらくすると寝てしまっていた。今でこそ「年越しライブ」とか「朝まで生放送」など24時間そこそこ内容のある番組があるようだが、昭和の頃は朝方の空白時間帯までの「つなぎ番組」は年明け前後の華やかさとは考えられないくらい「落差の激しい」映画ものだった。(うろ覚えて適当に挙げているが)例えば「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神の逆襲」の3部作そのまんま放送、「猿の惑星」「続・猿の惑星」「新・猿の惑星」なんてやはりシリーズ3連チャン、「水戸黄門(天下の副将軍)」、「旗本退屈男」「社長何とか記」シリーズ・・・どうだろうか?自分の守備範囲だけで決めつけてはいけないが、どう考えてもわざと「斜め下」を進んでいるとしか思えない。大魔神・・・?「ゴジラ」なら間違いなく見た。猿の惑星・・・?「スター・ウォーズ」は無理でも「スター・トレック」ならたぶん見た。時代劇なら「関ヶ原」をやってほしかった!森繁さんの社長シリーズ・・・?「釣りバカ日誌」なら。。。。見ないな、やっぱり。
新年の朝を迎えると、その昔は正月番組と言ったらどこのチャンネルを回しても「爆笑ヒットパレード」や「新春東西寄席」など純粋お笑い番組に事欠くことはなかった。この時期のお笑い番組は1年で正月以外たまに笑点でしかテレビで見られない正統派の漫才やコントなどの宝庫で、ある意味貴重な記録だ。染之助・染太郎師匠を筆頭?に楽器持ちの演芸なら玉川カルテット、東京ボーイズ、横山ホットブラザーズ・・・純正漫才なら昭和のいる・こいる、大木こだま・ひびき、中田カウス・ボタン・・・中には亡くなってしまった人もいるな。元々漫才やコントが本職だったのに、テレビではバラエティ番組の司会やコメント出演、クイズ番組の回答者ばかりやっているのが正月だけはちゃんとしたネタを一応はやるところが面白い。最近は「出ては消え」が激しく、流行の人気芸人が毎年変わっているようだでさすがに「一発屋」とは言われないが、「去年流行って、今いない人」みたいな感じでミニコーナーで紹介される人々には何か哀愁のようなものを感じる。「ゲッツ!の黄色い人」「ワイルドな人」「そんなの関係ねえ人」「ごめんねごめんねえの栃木人」などは辛うじてチョイ出を見たが、M1グランプリなどで正統派コントを勝負するとは思えない「だめよ、ダメダメの連合」「ぐぅ〜っの美人なお姉さん」「らっすんごれらいの人」などはとうとう、テレビで見かけることはなかった。妻は「あなたは『お笑い』あんまり見ないから」と言うが。。。
朝の連ドラで見たほどがっつり「大晦日と正月」をそれらしく過ごした記憶はない(でもあれを見ると「なるほどなー」と感心する)が、コンビニ主流となる前は正月3が日は近所の商店街も全てシャッターが下りて「しーん」としており、食品や必需品が不足すると何一つ買えなくなった。大掃除や正月料理など正統派を改めて見ると我が家はかなりサボっていたようだが、それでも普段は外さない網戸や換気扇を洗ったのは覚えている。また自家用車がやってきてからは必ず洗車はしていた。今ではとんと見なくなったが、ボンネットの前の小さな正月飾りも付けていた。いつだったか正月飾りを付けたまま大晦日に洗車していたら、中央の安っぽい海老の模型がボロボロに溶けてしまい悲惨な姿になった。慌てて新しいのを近所のダイクマに買いに行こうとすると「そのままにしておけ」という父親の言葉で初めて「一夜飾り」というのはよくないことなのだということを知った。
私も父親も「おせち料理」なるものはあまり好きでなかったから、母もあまり精を出して作らなかったようだ。黒豆はよく煮ていたが家中異様な臭いに包まれていた。その結果、出来上がった黒光りする豆が何とも薄気味悪く、数の子は漬物っぽくて食べられない。田作りなども豊作祈願があるそうだが、「何で正月からこんな釣りエサみたいなものを食わねばならんのか?」という気分が否めなかったし、伊達巻や栗きんとんなどは甘くて酒の肴にはならない。昆布巻きとかまぼこ以外正当おせち料理を色々出してもあまり手を付けずいつまでも残っているので、そのうち正月の食卓には出て来なくなってしまった。
両親とも富山の人だから魚や独特な漬物にはこだわりがあり、送られてくるヒラメの昆布〆やバイ貝煮付け、煮しめなどはよく食べていた。私が成人して酒を飲むようになると尾頭付き鯛の塩焼きを箸でつつき、骨を炙って骨酒にして飲んだ。雑煮を普通に食い、あまり歓迎されないおせち料理の代わりに日持ち(というか製作者が楽)する大量のおでん鍋とか、すきなべ、豚しゃぶなど鍋ものが台頭していた。餅もよく食べたがちょっと変わっていて富山から送られてくる豆もちと昆布もちが主だった。豆もちはこの辺でも見かけるが、昆布もちとなると中々売っていないようだ。また「おせちもいいけどカレーもね♪」というキャンディーズのCMにすっかりやられた私にはよくカレーが作り置きされ、カップラーメンなどもかなり買い置きされていた。家族3人でひたすら酒ばかり飲んでいたのだが、妻が増えて4人となり、さらに甘辛が登場していち早くルールを覚えてしまうと、そこそこ飲み食いした後は箱根駅伝中継をつけっ放しにして「新春麻雀大会」が開催できるようになった。残念ながら麻雀好きの父が亡くなってしまった後だったが息子が幼稚園の頃であり、一応受験生の今に至るまで続いている。(一家で所縁ある何校も箱根駅伝の応援を沿道で楽しめるという月美さんご家族におかれてはまことに羨ましい限りである)
あろうことか息子甘辛がクビになってしまった駅前の進学塾の前を通ると「センター試験まであと9日」という大きなカウンターが見えた。ずいぶんと追い込むようなことをするものだが、幸いにも(と言ってよいかの判断は後年に委ねなければならないが)甘辛はこの暗黒期間を潜り抜けることができた。しかし神妙にも今回はどこにも出かけずに家で皆と寝正月を決め込んでいた。恐らく近くで「遊んでくれる者」が見つからなかったのだろうが。来年は友達同士どこかに出かけてしまうかもしれない。スキー場とまでは行かなくても、首都圏近郊、我が家周辺でも若者らしく?カウントダウンして夜通し過ごすイベント、場所には事欠かない。そしたら妻と老母3人で久々に正月の温泉にでも出かけるか。そうなったとしても1日には帰宅していなくてはなるまい。月美さんに「絶対にテレビに映る場所」を教えてもらい、ウルトラコスプレで小夏師匠に合図を送ることになっているから。。。
今回は写真がないのだが、正月に赤いライオン号を取りに家に戻った時に不思議なことがあった。ポインター号用の車体カバーの下に何と「カニ」がいたのである。海までは400m、川までも50mはあるのだが、どこからどうやってやってきたのか?そのまま203号を持って川辺を少し歩くと、縁起のいいことに「青い鳥」に出会うことができたので、これだけ載せておこう。