夏休みの自由課題シリーズ第2弾(いつからなったんだ?)はオキナワの「建設物」についてのレポートだ。かの地には誰でも知っている世界遺産がある。2000年に登録された「琉球王国のグスク及び関連遺産群」である。首里城と言えばその中心として有名だが、前回の旅行では息子が幼かったので観光コースには入っていなかった。何せ1歳そこそこだからどこへ行っても何も分からないと思うが。。。世界遺産として登録されているのは①首里城跡②園比屋武御嶽石門③玉陵④識名園⑤今帰仁城跡⑥勝連城跡⑦座喜味城跡⑧中城城跡⑨斎場御嶽の9か所だそうだ。私が建てたのは那覇空港から最初の目的地である浜比嘉島までのルートで①、②、⑧、⑥を一気に制覇する欲張り計画だった。③の玉陵だけは時間の関係からカットしてしまったのが実に残念だった。
まず第一は那覇市内を見下ろす小高い丘の上にある首里城跡である。赤を基調とした独特の建物構成は写真でもよく見かけたものだが、実に広大な公園で長い城壁といくつもの門をくぐって正殿に向かう所だ。首里城や琉球王国・・・教科書などで名前だけは覚えていても実際にいつ頃のどんなものなのかは全くと言ってよいほど知識がない。私と息子にとって戦国時代のバイブルとなっているコミック(というのが情けないが)「花の慶次」に「尚寧」という国王が出てくるだけ、という頼りなさだから、この機会に勉強しておこうと熱心に立て看板を読みこんだ。琉球王国ができたのは1429年、つまり日本では応仁の乱の40年くらい前で、明治政府が沖縄県設置を宣言するまで約450年間続いたことになる。
王国と言うだけに尚氏という王族がいて一旦農家出身の者にクーデターで政権奪取されるが、その農夫が尚氏を承継している。中国や日本、朝鮮や東南アジア諸国との交易により独特な文化として発展することになる。城や建物の作りも日本古来のものとは少し違うし、漢字の読み方などもだいぶ異なる。まさしく前田慶次の時代、1609年というから関ヶ原の戦いの少し後、日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって侵攻し首里城を占拠した。その後は表向き中国皇帝の支配下にありながら実質は徳川幕府(薩摩藩)に二重従属するような微妙な立ち位置で存続してきたようだ。クーデターの農夫から数えて19代目の国王まで続いたが、彼が明治政府に追放されて滅亡することになる。以上のような歴史とその後太平洋戦争時の悲惨な被害、さらに今でも米軍基地問題に悩む市民を考えると「倭(やまと)」の人間としてはかなり心苦しいものを感じてしまう。
広大な城跡地の正面にまず現れる華麗な門が「守礼門」である。やはりデザインとしては日本よりも中国の雰囲気が強いと思う。首里城というのは過去に何度か建立・再建されているようだが、オリジナル建築は太平洋戦争末期に沖縄戦で破壊されてしまいほとんど残っていないそうだが、この門も戦後復元されたものだ。「何で作ったのか誰も知らない」2000円札の絵柄にもなっているそうだ。そのすぐそばにある古代遺跡のような建造物が園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)という絶対聞かなければ読み方の分からない、一見何の変哲もない石造建築だがなんとこれが世界遺産!最初通った時は子供がおばあさんとかき氷を食べていたが、「国王が外出するときに安全祈願した礼拝所」だそうだ。次にくぐるのが「歓会門」という。石垣で覆われていて、城郭へ入る最初の正門だそうだ。「歓会」とは歓迎するという意味だと書いてあった。いくつかの門を通り過ぎ、鐘や時計台などを過ぎて巨大な赤い門を入ると正殿である。国王が座る「玉座」や中国皇帝から王として承認される儀式の模型などが興味深い。建物は再建されたばかりの最新式のアミューズメント館にも見える(バリアフリーだし)が、琉球王国の全体を十分?勉強し我々は首里城を後にした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/54/f5/946ddaa12a9e6522205da111e1833c29_s.jpg)
次なる世界遺産は「中城城跡」である。かの地では「城」と書いて「グスク」と読む。つまり「なかぐすくじょうあと」と読むそうだ。最初の宿泊地、浜比嘉島までの中間地点にあるので高速道路を使って一気に向かった。首里城からは30〜40分の距離だ。駐車場から広大な庭を少し歩くと巨大な遺跡のような城郭が現れる。最初にくぐるのは堅固な作りをした「裏門」だ。何と黒船のペリー提督の探検隊がやってきて、調査測量を行いこのアーチを「エジプト式」と評したらしい。巨大でなおかつ堅牢そうな城郭群はマヤの遺跡、ローマの遺跡などを連想させた。琉球諸島では尚氏に統一されるまでは按司(あじ)」とよばれる豪族があちこちに点在し、戦いや和解を繰り返して自然淘汰が進んだそうだ。そのうちの一按司が中城城を構築したらしい。首里城とは対照的に手付かずのまま残っているようで人工的な仕掛けはほとんど見られない。
さらに車を走らせ、勝連半島の根元に位置する「勝連城跡(かつれんじょうあと)」を目指す。勝連半島から海中道路を渡って浜比嘉島まではあとわずかだ。世界遺産なのにここに至っては道路を挟んで申し訳程度の案内所(無人)があるだけで周囲には何もない・・・中城城跡でも入場料はかかったのだが、ここは全くの無料な代わりに来訪者向けの案内や手すりなどの安全対策、照明なども一切何もない。。。中城城跡よりもはるかにワイルドな造りで一段一段が高くてしかも傾斜している石段が長々と続く「年寄には優しくない」遺跡である。何かあるとすぐに責任を問われるから何かにつけて規制している日本にしては手の入っていない、「何が起きても自己責任だからねー」という外国の観光名所のようなところがある。この地方では最も古く阿麻和利(あまわり)という按司が12世紀に建設しやはり最後は王国に滅ぼされたらしい。ここも剥き出しの城壁が丘の上にそびえるのみだがてっぺんからの景色は素晴らしい。夕方にも近くなっていたが、これから渡る海中道路やその先の浜比嘉大橋など臨むことができる。
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世界遺産群の最後は後半に訪れた本部半島方面にある「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」だ。やはりこちらも独特の城壁が残る遺跡だが、結構規模が大きくまた険しい渓谷を形作る一つの山に幾重もの郭に隔たられている。また入口の小さな門までの狭い石段は両サイドが桜並木になっていて1月に訪れると素晴らしい満開の桜が見られるそうだ。ちょっと歩き回るにはしんどいが、ところどころにある展望ポイントからの眺めはどれも素晴らしい。この城も歴史は古く13世紀に遡るようだが、だれがいつ頃建設したかは不明らしい。尚氏が王国として統一する前は本島は北部地域は「北山」、中部意地域は「中山」、南部地域は「南山」と三山分立の時代があったらしい。このグスクはむろん北山にあたり、やんばるの地を守る要であったらしい。中山の尚氏に滅ぼされてからは監守が派遣されるようになり祭りを行う場所としても使用されたそうだ。
うちなーの世界遺産は以上だが、建築物として近所では決して見られない名所が他にもたくさんある。離島を繋げる「橋」である。特にドライブ雑誌で一度見た「古宇利大橋」は昔外国のCMで見た、海の上の一本橋を自動車が疾走するようなシーンに憧れ、この旅行中で必ず訪れたい名所として登録していた。瀬戸内海や東京・横浜湾などの巨大な「吊り橋」とは異なり、い海に一本すーっと走りまるで海上を滑るように車が進む姿は上から眺めたら絶景なんだろうと思っていた。初めに通過したのは勝連半島から「平安座(へんざ)島」へかかる海中道路である。「海中」というからアクアラインのようなトンネル又は品川水族館のようなガラスチューブを思い浮かべていたが、こちらは普通の道路だった。両サイドに地面らしいものがあり、道路も4車線なので「橋」とは思えなかったが、勝連城跡から眺めた姿は中々のものだった。次は浜比嘉大橋、真横から見ると立派なものだ。平安座島から宮城島、そして伊計ビーチのある伊計島に渡る橋が伊計大橋、瀬底島に渡る瀬底大橋、そして本命の古宇利大橋である。色々なスタイルはあるが、離島に渡る橋というのは海が深くないので橋の作りが簡単で美しい海の色と相まって絶景を作り上げるようだ。橋を眺める絶景ポイントを巡るだけでもレポートが書けそうだ。(さらにつづく)
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おまけ 「うちなーの空と海」編で書いた瀬底ビーチの廃墟はこんな姿をしている。建物の壁など色々凝った造りになっていて、完成時のものすごい規模がうかがえるが、造るも壊すもできず、これまで見てきた遺跡群とは違って無残なものだ。
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まず第一は那覇市内を見下ろす小高い丘の上にある首里城跡である。赤を基調とした独特の建物構成は写真でもよく見かけたものだが、実に広大な公園で長い城壁といくつもの門をくぐって正殿に向かう所だ。首里城や琉球王国・・・教科書などで名前だけは覚えていても実際にいつ頃のどんなものなのかは全くと言ってよいほど知識がない。私と息子にとって戦国時代のバイブルとなっているコミック(というのが情けないが)「花の慶次」に「尚寧」という国王が出てくるだけ、という頼りなさだから、この機会に勉強しておこうと熱心に立て看板を読みこんだ。琉球王国ができたのは1429年、つまり日本では応仁の乱の40年くらい前で、明治政府が沖縄県設置を宣言するまで約450年間続いたことになる。
王国と言うだけに尚氏という王族がいて一旦農家出身の者にクーデターで政権奪取されるが、その農夫が尚氏を承継している。中国や日本、朝鮮や東南アジア諸国との交易により独特な文化として発展することになる。城や建物の作りも日本古来のものとは少し違うし、漢字の読み方などもだいぶ異なる。まさしく前田慶次の時代、1609年というから関ヶ原の戦いの少し後、日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって侵攻し首里城を占拠した。その後は表向き中国皇帝の支配下にありながら実質は徳川幕府(薩摩藩)に二重従属するような微妙な立ち位置で存続してきたようだ。クーデターの農夫から数えて19代目の国王まで続いたが、彼が明治政府に追放されて滅亡することになる。以上のような歴史とその後太平洋戦争時の悲惨な被害、さらに今でも米軍基地問題に悩む市民を考えると「倭(やまと)」の人間としてはかなり心苦しいものを感じてしまう。
広大な城跡地の正面にまず現れる華麗な門が「守礼門」である。やはりデザインとしては日本よりも中国の雰囲気が強いと思う。首里城というのは過去に何度か建立・再建されているようだが、オリジナル建築は太平洋戦争末期に沖縄戦で破壊されてしまいほとんど残っていないそうだが、この門も戦後復元されたものだ。「何で作ったのか誰も知らない」2000円札の絵柄にもなっているそうだ。そのすぐそばにある古代遺跡のような建造物が園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)という絶対聞かなければ読み方の分からない、一見何の変哲もない石造建築だがなんとこれが世界遺産!最初通った時は子供がおばあさんとかき氷を食べていたが、「国王が外出するときに安全祈願した礼拝所」だそうだ。次にくぐるのが「歓会門」という。石垣で覆われていて、城郭へ入る最初の正門だそうだ。「歓会」とは歓迎するという意味だと書いてあった。いくつかの門を通り過ぎ、鐘や時計台などを過ぎて巨大な赤い門を入ると正殿である。国王が座る「玉座」や中国皇帝から王として承認される儀式の模型などが興味深い。建物は再建されたばかりの最新式のアミューズメント館にも見える(バリアフリーだし)が、琉球王国の全体を十分?勉強し我々は首里城を後にした。
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次なる世界遺産は「中城城跡」である。かの地では「城」と書いて「グスク」と読む。つまり「なかぐすくじょうあと」と読むそうだ。最初の宿泊地、浜比嘉島までの中間地点にあるので高速道路を使って一気に向かった。首里城からは30〜40分の距離だ。駐車場から広大な庭を少し歩くと巨大な遺跡のような城郭が現れる。最初にくぐるのは堅固な作りをした「裏門」だ。何と黒船のペリー提督の探検隊がやってきて、調査測量を行いこのアーチを「エジプト式」と評したらしい。巨大でなおかつ堅牢そうな城郭群はマヤの遺跡、ローマの遺跡などを連想させた。琉球諸島では尚氏に統一されるまでは按司(あじ)」とよばれる豪族があちこちに点在し、戦いや和解を繰り返して自然淘汰が進んだそうだ。そのうちの一按司が中城城を構築したらしい。首里城とは対照的に手付かずのまま残っているようで人工的な仕掛けはほとんど見られない。
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さらに車を走らせ、勝連半島の根元に位置する「勝連城跡(かつれんじょうあと)」を目指す。勝連半島から海中道路を渡って浜比嘉島まではあとわずかだ。世界遺産なのにここに至っては道路を挟んで申し訳程度の案内所(無人)があるだけで周囲には何もない・・・中城城跡でも入場料はかかったのだが、ここは全くの無料な代わりに来訪者向けの案内や手すりなどの安全対策、照明なども一切何もない。。。中城城跡よりもはるかにワイルドな造りで一段一段が高くてしかも傾斜している石段が長々と続く「年寄には優しくない」遺跡である。何かあるとすぐに責任を問われるから何かにつけて規制している日本にしては手の入っていない、「何が起きても自己責任だからねー」という外国の観光名所のようなところがある。この地方では最も古く阿麻和利(あまわり)という按司が12世紀に建設しやはり最後は王国に滅ぼされたらしい。ここも剥き出しの城壁が丘の上にそびえるのみだがてっぺんからの景色は素晴らしい。夕方にも近くなっていたが、これから渡る海中道路やその先の浜比嘉大橋など臨むことができる。
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世界遺産群の最後は後半に訪れた本部半島方面にある「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」だ。やはりこちらも独特の城壁が残る遺跡だが、結構規模が大きくまた険しい渓谷を形作る一つの山に幾重もの郭に隔たられている。また入口の小さな門までの狭い石段は両サイドが桜並木になっていて1月に訪れると素晴らしい満開の桜が見られるそうだ。ちょっと歩き回るにはしんどいが、ところどころにある展望ポイントからの眺めはどれも素晴らしい。この城も歴史は古く13世紀に遡るようだが、だれがいつ頃建設したかは不明らしい。尚氏が王国として統一する前は本島は北部地域は「北山」、中部意地域は「中山」、南部地域は「南山」と三山分立の時代があったらしい。このグスクはむろん北山にあたり、やんばるの地を守る要であったらしい。中山の尚氏に滅ぼされてからは監守が派遣されるようになり祭りを行う場所としても使用されたそうだ。
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うちなーの世界遺産は以上だが、建築物として近所では決して見られない名所が他にもたくさんある。離島を繋げる「橋」である。特にドライブ雑誌で一度見た「古宇利大橋」は昔外国のCMで見た、海の上の一本橋を自動車が疾走するようなシーンに憧れ、この旅行中で必ず訪れたい名所として登録していた。瀬戸内海や東京・横浜湾などの巨大な「吊り橋」とは異なり、い海に一本すーっと走りまるで海上を滑るように車が進む姿は上から眺めたら絶景なんだろうと思っていた。初めに通過したのは勝連半島から「平安座(へんざ)島」へかかる海中道路である。「海中」というからアクアラインのようなトンネル又は品川水族館のようなガラスチューブを思い浮かべていたが、こちらは普通の道路だった。両サイドに地面らしいものがあり、道路も4車線なので「橋」とは思えなかったが、勝連城跡から眺めた姿は中々のものだった。次は浜比嘉大橋、真横から見ると立派なものだ。平安座島から宮城島、そして伊計ビーチのある伊計島に渡る橋が伊計大橋、瀬底島に渡る瀬底大橋、そして本命の古宇利大橋である。色々なスタイルはあるが、離島に渡る橋というのは海が深くないので橋の作りが簡単で美しい海の色と相まって絶景を作り上げるようだ。橋を眺める絶景ポイントを巡るだけでもレポートが書けそうだ。(さらにつづく)
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おまけ 「うちなーの空と海」編で書いた瀬底ビーチの廃墟はこんな姿をしている。建物の壁など色々凝った造りになっていて、完成時のものすごい規模がうかがえるが、造るも壊すもできず、これまで見てきた遺跡群とは違って無残なものだ。
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石積みの風景は、ほんと海外の遺跡を思い出します。
橋、、橋と言いますと、下に何かついているのかな~と、師匠が以前書かれたことを思います^^
海外の海に浮かぶような長い橋はフロリダじゃなかったでしょうか~?^^キーウエスト??
いやー、先生に褒めて頂いてとても嬉しいです~。
かの国の歴史もあらためて勉強したいと思えるほど色々興味深い世界遺産でありました。ホント、日本の城郭とは少し文化が違うのですねー。
ははは。橋の下の標識ですね。特殊作業車で取り替えにいったのが懐かしい~。
そうそう、海外には広大な海原に長ーい一本道というところがありました。古宇利大橋はスケールは大きくないですが、晴れた空の下では素晴らしい光景だと思います。