「何が見えるのか」で違ってくるクオリティライフ
自分であることだけは確かである。現れるままに受け入れてしまう印象と陰の欠片が、何かにつけて体内を通り抜けていく。今いる所とは別の空間にいるような気分でもある。人はほとんど知識としてしか知ることのない酸素や栄養を摂り込んで生きていると教えられてきた。実はそれだけでない。自らの成長・維持に合わせるように、外見の変容を自在に摂り込み、活用して生命を養っている。そこには人たらしめる「精神」という存在がある。食や栄養だけでは生命は維持できない。理想を掲げることで心身は構築されていくように思う。
私たちの身体は、「見えたもの」を相手に常に呟いている。自身にとって、あるいは身体の各機能にとって好ましい組み合わせなのかどうか、見えるものから発生する印象とその背景にあるイメージについて検証を欠かせないのだ。いつも馴染みにしているコーヒーショップ、オーダーを受けに来るいつもの女性は見当たらず、外国人らしい女性が代わりにサービスにお出ましになった。ただそれだけのこと、表向きなんの変わりもないとするのが我々の観念だが、その場に一瞬立ち込めたイメージの破片は言葉にならずに散乱する。
それが人体にとってどのように「見える」か、また信号化されるのかは、理解の上でとりわけ重要である。自在のあり様や変幻の流動によって、養われる身体や精神もあるが、見ることが主題でないとしても、そこに付随してくるさまざまな印象、非言語としてのバーバルがもつ多くの語彙と意味を読み解かねばならない。当然、身体は力づく一辺倒の機械ではない。むしろ、そのような感覚能力・性能は、われわれの想像をはるかに超えるものに違いない。他者に見られた笑顔を瞬時に判断し、人の思いや願いを分析・理解できてしまう。
私たちは、人のことを「人間」とも言ってきた。人の「間」がまさしく人間なのである。人の間を往来し、思いや価値を表すために「言語」が配置された。言ってみればこの間にこ人の意味であり価値であると言える。この間の言葉と意味を交わすことが人間である。言語には言葉というシステムやルールもない「非言語」でのやりとりによって、様々なコミュニケーションが可能になる。その認識の原点は、「見ること」「見えること」という人間の感受性である。「何がそこに見えるのか」、そのことによって伝わる質と生の意味が違ってくる。
mitameya181110
自分であることだけは確かである。現れるままに受け入れてしまう印象と陰の欠片が、何かにつけて体内を通り抜けていく。今いる所とは別の空間にいるような気分でもある。人はほとんど知識としてしか知ることのない酸素や栄養を摂り込んで生きていると教えられてきた。実はそれだけでない。自らの成長・維持に合わせるように、外見の変容を自在に摂り込み、活用して生命を養っている。そこには人たらしめる「精神」という存在がある。食や栄養だけでは生命は維持できない。理想を掲げることで心身は構築されていくように思う。
私たちの身体は、「見えたもの」を相手に常に呟いている。自身にとって、あるいは身体の各機能にとって好ましい組み合わせなのかどうか、見えるものから発生する印象とその背景にあるイメージについて検証を欠かせないのだ。いつも馴染みにしているコーヒーショップ、オーダーを受けに来るいつもの女性は見当たらず、外国人らしい女性が代わりにサービスにお出ましになった。ただそれだけのこと、表向きなんの変わりもないとするのが我々の観念だが、その場に一瞬立ち込めたイメージの破片は言葉にならずに散乱する。
それが人体にとってどのように「見える」か、また信号化されるのかは、理解の上でとりわけ重要である。自在のあり様や変幻の流動によって、養われる身体や精神もあるが、見ることが主題でないとしても、そこに付随してくるさまざまな印象、非言語としてのバーバルがもつ多くの語彙と意味を読み解かねばならない。当然、身体は力づく一辺倒の機械ではない。むしろ、そのような感覚能力・性能は、われわれの想像をはるかに超えるものに違いない。他者に見られた笑顔を瞬時に判断し、人の思いや願いを分析・理解できてしまう。
私たちは、人のことを「人間」とも言ってきた。人の「間」がまさしく人間なのである。人の間を往来し、思いや価値を表すために「言語」が配置された。言ってみればこの間にこ人の意味であり価値であると言える。この間の言葉と意味を交わすことが人間である。言語には言葉というシステムやルールもない「非言語」でのやりとりによって、様々なコミュニケーションが可能になる。その認識の原点は、「見ること」「見えること」という人間の感受性である。「何がそこに見えるのか」、そのことによって伝わる質と生の意味が違ってくる。
mitameya181110