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病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

目の前の印象を変えていく生き方

2018-11-15 16:00:29 | はとはあと最新情報
目の前の印相を変えていく生き方

なんでもいい。目に見える世界があるのは、自分が今、生きていることの証である。当然、気分良く過ごせる時もあるが、なんだか悔しい思いや何もないのに悲しい時もある。それらの理由もはっきりしないのに、いつの間にか気分は変わっていく。もちろん明確に、その思いはどんなところから来たのか、分かっていることは多い気がするが、何も理由がわからないまま、様々な感情が出入りする。自分に感情があるなど、てっきり忘れてしまって、有頂天になっていることもある。生きているというのは、いい加減なもののようだ。

何のためにこの世に生まれて、何をして、何のために死んでいくのか、しっかりとした認識可能な説明、それは求めればあるにはあるが、実感的ではなく哲学的な話に流れてしまう。だがそれは、生まれて死ぬまでの現世を主体とした見える物語である。何のため?を問う人間社会の価値観ではないのか。むしろそれらは、「夢」であり「ロマン」という、現世のおっさんが宣う理論であるだけでなく、多くの偉人が教えてくれている。目の前に見えた現実を歓迎するような根性と自由があれば、この世の幸せは自分のものとなるはず。

それだけに、日々世界を感動的に捉える能力を鍛え上げることそのことが、生きることと念じなければならない。まずは、今見えている真実を見極めることが重要である。なかでも見えているのは、言葉に包まれた概念なのか、言葉の印象が構成するイメージなのか、どのような尺度で測るのがいいのか、といったことだが、ひとことで言えば、自分なりの感性と哲学でいいのではないか。楽しむ心根もあっていいだろう。できれば、生き生きと反応することで、周りを引き摺り込むような技もあっていいのだ。

そのような意味で、それぞれの「自分が見るもの」、「見えるものの質」は、みんなが生きていく社会において欠かすことのできない条件ともいえる。現状に対して無気力、無関心を振り返り、見過ごして通り過ごすのではなく、まずは自分の目に見えるものに前向きな姿勢をとり、見えるものを自分の経験から優れものへと変えていく。その前向きな積み重ねと人への印象が、その後の自身の身体感覚を鍛え上げるという。いい人生、いい生き方のために、人にとっていいものを「見る」努力を意識することで生きたいものである。mitameya181115




「何が見えるのか」で違ってくるクオリティライフ

2018-11-10 17:16:12 | はとはあと最新情報
「何が見えるのか」で違ってくるクオリティライフ

自分であることだけは確かである。現れるままに受け入れてしまう印象と陰の欠片が、何かにつけて体内を通り抜けていく。今いる所とは別の空間にいるような気分でもある。人はほとんど知識としてしか知ることのない酸素や栄養を摂り込んで生きていると教えられてきた。実はそれだけでない。自らの成長・維持に合わせるように、外見の変容を自在に摂り込み、活用して生命を養っている。そこには人たらしめる「精神」という存在がある。食や栄養だけでは生命は維持できない。理想を掲げることで心身は構築されていくように思う。

私たちの身体は、「見えたもの」を相手に常に呟いている。自身にとって、あるいは身体の各機能にとって好ましい組み合わせなのかどうか、見えるものから発生する印象とその背景にあるイメージについて検証を欠かせないのだ。いつも馴染みにしているコーヒーショップ、オーダーを受けに来るいつもの女性は見当たらず、外国人らしい女性が代わりにサービスにお出ましになった。ただそれだけのこと、表向きなんの変わりもないとするのが我々の観念だが、その場に一瞬立ち込めたイメージの破片は言葉にならずに散乱する。

それが人体にとってどのように「見える」か、また信号化されるのかは、理解の上でとりわけ重要である。自在のあり様や変幻の流動によって、養われる身体や精神もあるが、見ることが主題でないとしても、そこに付随してくるさまざまな印象、非言語としてのバーバルがもつ多くの語彙と意味を読み解かねばならない。当然、身体は力づく一辺倒の機械ではない。むしろ、そのような感覚能力・性能は、われわれの想像をはるかに超えるものに違いない。他者に見られた笑顔を瞬時に判断し、人の思いや願いを分析・理解できてしまう。

私たちは、人のことを「人間」とも言ってきた。人の「間」がまさしく人間なのである。人の間を往来し、思いや価値を表すために「言語」が配置された。言ってみればこの間にこ人の意味であり価値であると言える。この間の言葉と意味を交わすことが人間である。言語には言葉というシステムやルールもない「非言語」でのやりとりによって、様々なコミュニケーションが可能になる。その認識の原点は、「見ること」「見えること」という人間の感受性である。「何がそこに見えるのか」、そのことによって伝わる質と生の意味が違ってくる。
mitameya181110

目で「よく見る」文化で質を上げる医療

2018-11-04 16:58:22 | はとはあと最新情報
目で「よく見る」文化で質を上げる医療

情報の大半は人の目を通して伝えられるという。人の会話は、話し言葉のやりとりで成り立つように理解されるが、こちらにおいても、実は声という音だけではなく、身振りや顔の表情、会話が行われる場や環境が伝える諸々の意味や暗示がモノをいう場合が日常的にあるし、それが意図して行う場合もあれば、双方が気づかない間に、その意味が特定されている場合もある。「目は口ほどにものを言う」との言葉もあるが、「目は耳ほどにコトを聞く」ということもある。人のコミュニケーションは互いの目を通して行われているといえるのだ。

つまり病院広報においても、そこに記された情報の意味もさることながら、相互の目が捉える「印象」によって伝えられる内容は認識されてしまうことをよく理解しておくことが重要である。真新しく質の高い設計やデザインの病棟であっても、地域住民や出入りの関係者、利用者など外部の目で見てどうか、視覚理論から見て、運用上で理念を伝える仕組みが活かされているかどうかという理解がほしい。いちいち言葉で伝えなくても、いまある病棟が「視覚言語」として常時理念を発信する。それが病院のあるべき姿であってほしい。

従来、日本人は「情緒」という心理的環境を重視し、大切にしたコミュニケーションに配慮してきたはずである。説明しなくても共感することで、その心象を理解し共有してきたところがある。これらは必ずしも確証のある、合理的な理解ではないかもしれないが、それなりの成果も上げてきた日も時もある。思いやりや配慮は、暮らしやまちづくりなど至るところで創出されていきた感性であり文化でもある。そのすべての出発点は、モノを見る目、愛も合理性をも含めた統合の目、つまり人間的な価値判断の文化といえないだろうか。

医療施設・現場は、このような価値観と組織文化を盛り上げることが求められている(と思う)。専門性とは距離もあるが、だからこそ連携や組織化に理解を示すことが必要になる。考え抜かれたはずの建造物に、配慮なくベタベタとその場かぎりの見づらく読みくい文字群には耐え難いものがある。アンケートやご意見箱では汲み上がることのない病院文化をなんとかしたい。それができないなら、地域のヘルスリテラシーなど夢のまた夢だろう。これには、成員の目を鍛えるしかない。海と向き合わないとサカナは獲れないのと同じである。

方法はひとつ、「いいモノを見る」である。目を肥やすのだから当然である。安物を務めて見ないこと。デザイナーの駆け出しでアートに七転八倒の私に、先生は同様のことを言って励ましてくれた。「いいモノを見なさい」。それを見分けるには、自らが身体を張って向き合う以外にない。医療の質も同じではないのか。いい医療や病院もいい目線の前にしか育たない。つまらない時間を過ごしている暇はないのだ。その上で多様な価値観とも向き合えば、内的パワーは縦横に広がり視界は大きく開けていく。良くなるには「目を鍛える」である。mitameya181104






第22回全国病院広報研究大会 in KYOTOを振り返って

2018-11-01 17:14:19 | はとはあと最新情報
HISフォーラム 2018
第22回全国病院広報研究大会 in KYOTOを振り返って

10月27日、感慨の色深い“秋の京都”でのHISフォーラム2018、「ヘルスリテラシーと健康社会」をテーマとした「全国病院広報研究大会 in KYOTO」が終了しました。病院広報日本一のBHI賞の獲得のため、一次審査をパスした10事例(各8分)が発表、会場は熱気に包まれました。結果は、「ヘルスリテラシー向上の鍵は、診療情報の共有にあった」をプレゼンした友愛記念病院(茨城県古河市)が最優秀(BHI)賞に選ばれました。それぞれの診療情報をいつでも、どこでもスマホで見て管理する健康システム導入の話題でした・

もともとHISフォーラムは、1997年から2000年まで京都リサーチパークを舞台に、病院が発行する広報誌のコンクールや癒しの環境デザイン交流会としてスタートしました。その後、山口大学など各地での開催が要望されると同時に、最優秀賞を獲得した医療機関が、次年度の開催主幹となるルールが出来上がりました。気がつけば今回の22回目の病院広報研究大会であったのです。この間に登場した数々の病院広報事例は多数にのぼりますが、今回の発表レベルは、以前とは比べものにならないほど高まっています。

いいかえれば、多様な病院広報であり経営戦略としての認識による広報戦略としての事例が中心でした。「なりたい病院」や「なるべき施設」を譜う仕組みとして考えられるようになってきたのです。広報はある意味で「カタチの見えない価値」であり、みんなの気持ちの厚みがつくる共有資源、文化であるということができます。思い思いの願いや頑張りが、ひとつひとつ実現するところに遣りがいが生れるものです。そのような健康意識の共有こそ、医療や福祉の、真のあり方にも波及する思考といえないでしょうか

しかし、それらが成果に結びつき、本物の文化に高まるには、まだまだ多くの心の技による試行錯誤を経なければなりません。まずは、広報による情報交流の意義を共有し、誰もの健康と感動の場づくりに努める必要があるのです。健康社会の先導役としての創造的な情報発信、それこそが隣人から期待される病院づくりであるはずです。単なる数字上の成果だけではなく、結果が地域のヘルスリテラシーという誇りや笑顔につながってこそ、実りの秋となるのでしょう。今年初めて京都開催が今後の新しい病院文化に繋がることを祈ります。
mitameya 20181101


お知らせ: 第198回 HIS広報プランナー(PL)認定講座

日 時:11月17日(土)午後1時30分〜5時30分
会 場:京都YMCA・2階研修室 地下鉄烏丸線丸太町下車5分
主なテーマ:組織活動における戦略的コミュニケーションの基本理解について
講 師:石田章一 日本HIS研究センター代表
詳しくは、HISサイトwww.j-his.jpでご覧ください。

特に今回は、医療・介護などの現場のあるべきコミュニケーションと
その現実的な問題についてコメントします。


言葉に優しく、その働きに労いの眼差しを

2018-10-19 17:08:21 | はとはあと最新情報
言葉に優しく、その働きに労いの眼差しを

いつも何の考えもなく使っている「言葉」には、意味や概念だけでなく、反射的に置き換えられる「見える世界」を変えることで、さまざまな印象のバリエーションに繋ぐことができる。言葉の伝える意味は、決して一定ではないことは日常のコミュニケーションによっても理解することができる。しかしながら、それだけ変幻自在の言葉であったとしても、常々の表現に、それほど大きな揺れは感じないのだが、一旦それを疑ったり、鬱陶しいと思たりすると、頭の中は混乱して大騒ぎになることもある。人知れずする、身体の悩みである。

たとえば「卵」という言葉。平凡には、我々が食卓に上がる鶏の玉子が前列に並び、なんの違和感もなく暮らしの中に溶け込んでいる。だからこそ玉子であるが、これが「煮抜き」という理解が強制されたりすると、もう少しリアルな印象が増してしまい、卵や玉子の認識でいる相手には、多少でもギャップという腫れ物ができてギクシャクするのかも知れない。人との心の距離感は、そんな健気な痛みから生まれてくるようで、言葉についての印象や自覚も、常々揺れ動いているように思が、それも人間的成長であるのかも知れない。

自分が認識している言葉の印象と他者が認識している印象は、大きく違うのだが、人はその違いを堪えているに違いない。その違いの場に出会いそうになると、手近な階段を見つけて駆け下りるように避けていくのではないか。適切な言葉を使うと、相互の理解が進み、共感のある関係が生まれるというが、ほんとうだろうか。言葉がもっている印象という身体的理解やその背景となる環境に一定の共通性がなければ、同じような相似形の理解や共感というは難しいのではないか。そもそも手にもとれない印象を比較できるのだろうか。

言葉は想像以上に大切である。何気なく口に出した一言が、相手を傷つけ自分を錯乱させてしまう。言葉自体にも変質の跡が残ったのか、以後あまり見た形跡もなく、使いたくもないこともある。沢山の言葉を知ることも必要だが、その意味で主張する意味合いや価値観を我が身に引き寄せておけないものか。言葉に優しく、働きに労いの眼差しを注げるようになれば、表情はより豊かになれるのではないか。言葉を我が子のように抱き上げ、優しくアヤしながら話しかければ、心の平安がどこまでも広がり、隣人の笑顔が近くまできて囁くのだ。mitameya 181019


10月27日のHISフォーラムでは参加者審査を実施します。常々、広報の視点で仕事をする大学関係者らを審査員に
審査をお願いしてきましたが、医療の現場で広報に関わっている参加者との間に、どのような差があるか、
それを見てみようという会場外プログラムです。
締め切りまであと5日、お早めの思い仕込みをお願いします。

病院広報の精神は「鐘鼓(ショウコ)」、「鐘を鳴らそう、鼓を打とう」です。
昔の人は、こういって魂の村起しをしたと言います。
それがショウコに、BHI最優秀賞には、「鐘の鳴る木」を、BHIデザイン賞には、「連結太鼓」を送ります。