自らの心の成長、まず真を見抜くチカラを鍛えよう
見ることは、知ること、感じること、受け入れることなど外界の様子をつかむという意味のほかに、目を通じてつながる周辺の要素から把握し、認識を深めること、という意味に使うことがある。決してそれらしい印象の輪郭をつなぐだけでなく、ひとつひとつを判断し関連付けて理解した結果をつないで行く仕組みであるだろう。つまり感覚による判断だけではなく、それなりの理性によって、そこに浮かび上がる印象やイメージのルールが働いているように思われてならない。それがいわゆる”身体知性”をなしているのではないか。
しかし、自動車など機械構成のパーツの集まりの結果ではないのが人体だろう。部品が決まり切った機能だけを担い、それが全体の成果につなぐという理解では成り立たない。たとえば映画に活躍する座頭市は、盲目ながら、なぜあんなに的確な太刀捌きが可能なのか。いえ、それは映画であるからと弁明するが、われわれは、映像などを通じて、見るからに人間離れした技量の持ち主の存在を沢山知っている。高齢ながら卓越した記録保持者、若年ながら大人顔負けという逸材などを見ていくと人間の理解を超える能力の持ち主たちもいる。
人の目を、その人が、その位置から外界を見るための道具やパーツと分けて考えない。考えても(あまり)意味や価値がなく、動かしようもなく動きようもない。誰にでも備わっている両足を、走るときのユニットなどとも意識していない。また、「考えなくてもよいような合理的な原理」によって構成されているのかもしれない。しかし、ここで必要なものは、全身で手に入れる快感であり、快楽である。人の目と連動して楽しめる心地よい響きやスペースともいえる。また、人が求める快い時間と経緯、その中に身をおくのも人の温もりなのだ。
知性を歌いながら、すべて論理にかなうストーリーが外見を飾り始めた。あるがままでいる美が無視され、美に定義にかなう素材集めが主題となっている。感動が方程式で語られ、半音が省略されて謳われる。それでもいい、構わない。歌いたい心が歌うなら突き進め。人から心を取り外すことはできない。見ることで、心を感じ心で対話する。言葉の前後に言葉がある。言う言葉、聞く言葉、見る言葉。すべてが自前の舞台で共演してこそ「心の言葉」になる。すべて自分の言葉になるよう、まず「見る」ことに精を出したい。 mitameya190107
見ることは、知ること、感じること、受け入れることなど外界の様子をつかむという意味のほかに、目を通じてつながる周辺の要素から把握し、認識を深めること、という意味に使うことがある。決してそれらしい印象の輪郭をつなぐだけでなく、ひとつひとつを判断し関連付けて理解した結果をつないで行く仕組みであるだろう。つまり感覚による判断だけではなく、それなりの理性によって、そこに浮かび上がる印象やイメージのルールが働いているように思われてならない。それがいわゆる”身体知性”をなしているのではないか。
しかし、自動車など機械構成のパーツの集まりの結果ではないのが人体だろう。部品が決まり切った機能だけを担い、それが全体の成果につなぐという理解では成り立たない。たとえば映画に活躍する座頭市は、盲目ながら、なぜあんなに的確な太刀捌きが可能なのか。いえ、それは映画であるからと弁明するが、われわれは、映像などを通じて、見るからに人間離れした技量の持ち主の存在を沢山知っている。高齢ながら卓越した記録保持者、若年ながら大人顔負けという逸材などを見ていくと人間の理解を超える能力の持ち主たちもいる。
人の目を、その人が、その位置から外界を見るための道具やパーツと分けて考えない。考えても(あまり)意味や価値がなく、動かしようもなく動きようもない。誰にでも備わっている両足を、走るときのユニットなどとも意識していない。また、「考えなくてもよいような合理的な原理」によって構成されているのかもしれない。しかし、ここで必要なものは、全身で手に入れる快感であり、快楽である。人の目と連動して楽しめる心地よい響きやスペースともいえる。また、人が求める快い時間と経緯、その中に身をおくのも人の温もりなのだ。
知性を歌いながら、すべて論理にかなうストーリーが外見を飾り始めた。あるがままでいる美が無視され、美に定義にかなう素材集めが主題となっている。感動が方程式で語られ、半音が省略されて謳われる。それでもいい、構わない。歌いたい心が歌うなら突き進め。人から心を取り外すことはできない。見ることで、心を感じ心で対話する。言葉の前後に言葉がある。言う言葉、聞く言葉、見る言葉。すべてが自前の舞台で共演してこそ「心の言葉」になる。すべて自分の言葉になるよう、まず「見る」ことに精を出したい。 mitameya190107