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病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

自らの心の成長、まず真を見抜くチカラを鍛えよう

2019-01-07 17:18:16 | はとはあと最新情報
自らの心の成長、まず真を見抜くチカラを鍛えよう

見ることは、知ること、感じること、受け入れることなど外界の様子をつかむという意味のほかに、目を通じてつながる周辺の要素から把握し、認識を深めること、という意味に使うことがある。決してそれらしい印象の輪郭をつなぐだけでなく、ひとつひとつを判断し関連付けて理解した結果をつないで行く仕組みであるだろう。つまり感覚による判断だけではなく、それなりの理性によって、そこに浮かび上がる印象やイメージのルールが働いているように思われてならない。それがいわゆる”身体知性”をなしているのではないか。

しかし、自動車など機械構成のパーツの集まりの結果ではないのが人体だろう。部品が決まり切った機能だけを担い、それが全体の成果につなぐという理解では成り立たない。たとえば映画に活躍する座頭市は、盲目ながら、なぜあんなに的確な太刀捌きが可能なのか。いえ、それは映画であるからと弁明するが、われわれは、映像などを通じて、見るからに人間離れした技量の持ち主の存在を沢山知っている。高齢ながら卓越した記録保持者、若年ながら大人顔負けという逸材などを見ていくと人間の理解を超える能力の持ち主たちもいる。

人の目を、その人が、その位置から外界を見るための道具やパーツと分けて考えない。考えても(あまり)意味や価値がなく、動かしようもなく動きようもない。誰にでも備わっている両足を、走るときのユニットなどとも意識していない。また、「考えなくてもよいような合理的な原理」によって構成されているのかもしれない。しかし、ここで必要なものは、全身で手に入れる快感であり、快楽である。人の目と連動して楽しめる心地よい響きやスペースともいえる。また、人が求める快い時間と経緯、その中に身をおくのも人の温もりなのだ。

知性を歌いながら、すべて論理にかなうストーリーが外見を飾り始めた。あるがままでいる美が無視され、美に定義にかなう素材集めが主題となっている。感動が方程式で語られ、半音が省略されて謳われる。それでもいい、構わない。歌いたい心が歌うなら突き進め。人から心を取り外すことはできない。見ることで、心を感じ心で対話する。言葉の前後に言葉がある。言う言葉、聞く言葉、見る言葉。すべてが自前の舞台で共演してこそ「心の言葉」になる。すべて自分の言葉になるよう、まず「見る」ことに精を出したい。 mitameya190107

「問題」とは何か? その構造に気づくことから始まる

2019-01-01 16:30:14 | はとはあと最新情報
「問題」とは何か?その構造に気づくことから始まる

何かにつけて「問題」が多いという世界といえば、最悪の危機的状況のようなイメージをともなうが、それは本当だろうか?「問題のある現状」とは、実は誠に正直で健全な姿であると言えないだろうか。問題の輪郭や解決の糸口が「見えている」ことは、そうでない場合に比べ、社会にとっても歓迎するべき状況ともいえることが多いのだ。問題とは「目標(あるべき姿)」に対して、「現状(実際の姿)」とのギャップとして現れる姿であり、状況悪化への傾向シグナルが見えてこそ「問題視」すべきという学説がある。

問題構造学入門(ダイヤモンド社)を著された佐藤充一先生は、「問題」は、「現状」と「目標(あるべき姿)」のギャップのことと定義されている。日常の感覚で把握できるギャップもあるが、論理的な分析や研究の力が必要になることもある。問題は意識されでこそ真の問題として認識される。少なくとも「問題」は、すでに問題点が意識され、その解決へのスタートラインにあるという現実の次元である。解決への距離感覚は、そうでない場合よりも安心な印象として嵌り混まないことが重要であると定義されているのだ。

つまり「問題」が意識すらされないでいる状況こそが、その潜在性によって社会により大きなダメージを与えることになる。突然の地震のように、直近の情報が得られないような場合は手の打ちようがないのである。例えば薄暗い道路の一角に人が躓く可能性があるような突起(凹凸)物があった場合、それが「危険である」と意識され、問題視されはじめた状況以降が「問題」であり、だれからも意識されていない状況下では、それは「問題」といえず、そのまま「問題なし」という無関心が継続してしまうのである。

また、こうした問題提起は、どのような職能や立場から発するのかによっても変化する。つまり「明確な目標」と「正しい認識」がどうなのかによって変わることもある。なにかと社会のあり方に関心をもって対応することが、住みやすく働きやすい社会を持続させる。社会の関心を高めるには、関係者はもちろん、小さな変化を「よく見る」こと。よく察知する努力が欠かせない。「問題」とは本来、悪性というわけではなく、周辺の関係者の「見える」立位置によって「見え方」が変化する。そのことを問題解決などに意識したい。mitameya190101


2019謹賀新年
みなさま、明けましておめでとうございます。
いつも、ブログ「はとはあと」をお読みいただきありがとうございます。
今年もよりユニークな視点からの「見方・見え方・見た目」のチカラについて表現できれば最高です。
ご意見ご要望などありましたら、何なりとお気軽にお声がけをお願いいたします。
sishida@j-his.jp

見た目が花のように心を開いてくれる

2018-12-09 11:44:13 | はとはあと最新情報
見た目が花のように心を開いてくれる

ユダヤの諺のなかに、「目が見えないよりも、心が見えない方が恐ろしい」という格言があるという。このままでは、少しわかりにくいが、目が見えないとは、見えている状況が掴みきれないことであり、心が見えないとは、相手が何を考えているのか読みきれない。だからそれが恐怖であるということではないだろうか。そこに確証がある場合は、対応の仕方もあるが、その動きを予測できないと油断できないといっている。

どのような仕事でも、リスクや成果に対応しようとするとき、何が飛び出すのかわからず、対応ができないのではコトを前に進めにくくなるのは当然である。しかし、その対象を把握できたから、その対応が成果を上げるとは限らないだろう。通常、見えないよりも見えている方がより多様な対策が可能であるが、見方という価値観を間違うと失敗や成果を失うことにもつながりかねない。

そこで「見る目」のチカラが要求されるが、「見た目」というものは、誰もが使えるマニュアルにはなりにくい。直感とか経験的尺度による読みの鋭さが取り仕切ることになる。では、相手の「心を読む」には、どうすればいいのか。また、「心を読む」などの動きは、相手に不快感を与えないのだろうか。まず当たり前のことだが、心掛けるのは、感情をもった“人間“であるということ。

不愉快な言動に注意することはもちろん、双方に共通するテーマを見つけて双方の間に置いてみることだろう。それを踏み台に視点と焦点を合わせるようにし、見るべき対象を共有できれば成功である。見えたものと心が一致すれば上出来といえる。ただこんなことをシコシコとやるようでは覚束ない。日頃から人に対して関心を高め、愛情をもって前向きに接することで、人は花のように心を開いてくれると「信じる」ことが第一である。mitameya181209


友愛記念病院の広報最新事例を教材としたHIS研修ご案内
<病院広報の全容を把握するPL実践(3単位)認定講座>ご案内

・日時:12月15日(土)午後1時30分〜午後5時30分
・会場:京都YWCA 本館103号室
・講料:非会員12,960円 HIS会員8,640円
・定員:10名(先着順)
・主な講師:石田章一ほか
詳しくは、電話075-741-8219・またはinfo-his@j-his.jp宛にご要望いただければ対応します。
(申込締切:12月12日)


「見た目」は、幸運の引戸につながっている

2018-11-30 16:02:36 | はとはあと最新情報
「見た目」は、幸運の引戸につながっている

見る目はその目前の「目線」や「眼差し」ともいい、見つめる先、目の先のことをいう。そこには人間の興味や関心、ときには恐怖や陶酔がある。美しいと感じたことはその印象として、その刺激の具合によって脳に伝わり認知されて蓄えられる。その刺激を受け取り焼き付けられた印象は、その後の刺激を評価・選択する基礎となる。また一旦焼きついた印象は固定化され、余程でないかぎり妥協はなく、処理できないまま頑固に既存を護り抜こうとするのだ。このようしてできる認識の階層は奥深くにあり、ますます積み上げられていく。

このため見たという経験は、その後その人の行動を何かと規定していく。幼児の見る印象は、従来の印象の上に積み上げられ、その人体独特の行動や性格として、さらにそれが他者から認知されていく。もとろん音は耳から、味や嗅い、そして皮膚による手触り感も同時に重層的に合成されていくのだろう。しかしそれらが一時の感覚であるのに対して、「見た目」だけは外観に光がともなう限り連続して刺激を受けることが可能な感覚といえる。人はまさしく「見た目」という外界と往来して生きているということができる。

外界を見てきた経験データとその蓄積・構成により、意識の中に配置された判断基準がまた新たな経験データを積み上げながら何かに向かって成長する。しかしながら、他者と同様の性質を目指しているわけではない。むしろ他者にない性質や価値を歓迎し、その本質が他にない特性を求め、また独自の居場所を求めながら共存しようとしているように思える。その方が大局の座から見て合理的であり、自己にとっても有益であると考えるからだろう。人間の見た目にはもともと、そうした公の目が備わっているのではないか。

まさしく人の目は、クルマのヘッドライトのイメージがあると言える。暗闇の続く夜であっても、過去に蓄えた各種のデータを駆使して、行く先をくまなく照らすことで安全を確保して進む。見えないものを見るチカラを付けることが行動する価値であり、それが生きる力となる。見えないものを見るとは、生きてきた成果や価値を受け取ることである。こうした運勢や能力を見つけるには、対象となるモノをよく見ることに加え、いわゆる「いいもの」を見ることに尽きる。言葉に尽くせない「見た目」は、幸運の引戸につながっている。


友愛記念病院の広報最新事例を教材としたHIS研修ご案内
<病院広報の全容を把握するPL実践(3単位)認定講座>ご案内

・日時:12月15日(土)午後1時30分〜午後5時30分
・会場:京都YWCA 本館103号室
・講料:非会員12,960円 HIS会員8,640円
・定員:10名(先着順)
・主な講師:石田章一ほかPL認定メンバー
詳しくは、電話075-741-8219・またはinfo-his@j-his.jp宛にご要望いただければ対応します。
(申込締切:12月12日)


「尊い寺は門から見える」よりナラティブな理解を

2018-11-25 16:09:13 | はとはあと最新情報
「尊い寺は門から見える」よりナラティブな理解を

人が生きて行く上で、偶然の直感は有難いものである。頭の中がなんとなく落ち着きのないときに、「こんな情報、いかが?」とばかりに呼びかけがある。この呼びかけが、具体性をもって急接近して、大変ありがたい知恵やヒントを提供してくれることがある。多くは悩みの解決に困っているとやってくるから、大助かりである。「そうそう、そうなんだ。それで行こう!」と元気がでてきて嬉しくなる。しかしこの恩恵に浴するには条件がある。それはある程度、考え続け、なんとかしなければという強い気持ちが継続していることである。

「尊い寺は門から見える」というのも直感に訴えようとしている。門の外は端正に行き届いて手が入っている。門を潜って尋ねなくても、中には立派な仏殿があり、尊敬に見合う僧たちが修行している。それは門の前に立ったときの直感で理解できるだろうということ。日常を見渡しても、さしたる根拠や論理が存在しないし、確認など何もしないのに、行動が決定されていくことは忍び難いことである。身体に蓄積された認識データが反応して判断すると理解できる。世の全てに検証が必要となれば、生命も社会も崩壊するしかなくなるだろう。

人は大いに「感覚」で行動する存在である。感性を鍛えて自らを可能なかぎり自由で自発的な行動の保証が求められる。企業やビシネスではシビアな行動と成果管理により、そこに至る組織やプロセスの質などということが経済の仕組みの上から欠かせないという現状がある。それは致し方ない側面ともいえるが、その切り分けがすべて明確だとは言えないために、却ってマイナスの状況を引き起こしてしまう。人間は「心身」をセンターに抱く存在であることを最優先した仕組みが社会を動かすようにならないか、かなりの難題かもしれないが。

筆者らが運営している日本HIS研究センター(京都市)では、医療施設のヒトにまつわるHospitality(あなたの視点)・Identity(わたしの視点)・System(みんなの視点)として見ることで、ヒトが協働した成果を観察していく仕組みを模索している。例えば以前から問題視されている医療関係者の働き方実態、医療福祉への住民の意識・知識・リテラシーにおいても、客観性を求めるあまり納得のいく現状把握が見えにくいことが多い。こうした点では、よりナラティブな資料づくりで理解することが必要だと思っているが、さてどうだろう。

病院経営にも、企業の方法論や感覚が幅を利かしてきている。まず中心は、医療サービスを受けるために来院するヒトの位置付けである。この人々を顧客と位置付けることでスッキリしようとする思考があるが、ここから考え直すことが急がれる。顧客の実際は、料金を払う立場から「主体的に商品選択が可能」という人々のことである。まともな医療を考えない医療者はいないはずだ。未だに「お客様」の求めに応じようとする。医療はゲームでななく、双方、社会性に立った協働の立場が求められている。「尊い寺は門から見える」のである。