「わたしいまめまいしたわ」 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館千代田区北の丸公園3-1
「わたしいまめまいしたわ - 現代美術にみる自己と他者 - 」
1/18-3/9



入場料が常設扱いであるのが全てを物語っているような気もします。竹橋の近代美術館で開催中の「わたしいまめまいしたわ」へ行ってきました。

タイトルの回文を見ると、さぞ怪し気な作品があるようにも思えてしまいますが、実際には真っ当な、半ば現代アートでは王道的(各国立美術館のコレクションにおいて。)とも言えるような作品が揃っていました。全体的にテーマと作品との齟齬と、構成自体にやや衒学的な嫌いがあるようにも見えましたが、とりあえずは宮島のカウンター、高嶺のビデオインスタレーション、日高の大作、または珍しい浜口の裸婦のデッサンなどを見られただけでも満足すべきなのかと思います。何か一点、それこそどこにあるのかすら未だに分かりもしない「わたしのこころ」に響く作品があれば、それはそれで良いのではないでしょうか。

と言うことで、まず見入ったのは、自画像から佐伯祐三、岸田劉生の対照的な二点の絵画と、浜口陽三のトルソー風の女性ヌードのデッサンでした。前者では、つばの広い帽子をかぶり、体を斜めに構えてもいる、どこか刹那的な佐伯の自画像と、マチエールにも構図にも堅牢で、その持ちうる魂の全てを絵にこめたような岸田のそれの差異が興味深く感じられます。また浜口の裸婦画では、女性を流麗なタッチで断片的に捉えた、そのふくよかで肉感的な姿に惹かれました。どこか羞恥心を見るようなモデルの表情も印象に残ります。



冬空に広がる大木を見事に描いた、日高理恵子の「樹を見上げて」(1993)は一推しの作品です。白んだ空に力強く這う木の幹や枝を、日本画の瑞々しい顔料を用いて美しく表しています。同コーナーにて紹介されていた、草間の「天上よりの啓示」(1989)に負けることのない存在感です。その空間を裂く様は、さながら狩野派の巨木を描いた屏風絵の迫力を見るかのようでした。またその存在感として言えば、舟越桂の「森に浮かぶスフィンクス」(2006)も特異です。近作によく見られる、シュールで性的な指向を思う神像が、まるでその場の主のようにして威圧的に構えています。鮮烈です。

高嶺格のビデオ・インスタレーション「God Bless America」(2002)は、強いて言えば「わたしいまめまいしたわ」、つまりは回文の意味に見合った作品と出来るのかもしれません。始まりも終わりもないようなとあるクレイ・アニメーション制作、またはその行為の組み込まれた完全なるあるがままの日常が、かのGod Bless Americaのメロディーにのってひたすら延々と軽妙なコマ送りで記録されています。ここでのわたしとは、作られているようで実は作らせている粘土の顔なのではないでしょうか。もはやその関係は逆転していました。



勝手なことを付け加えれば、この美術館の「わたし」なども粉砕すべく、東近美以外の各国立美術館のコレクションだけで構成しても良かったかもしれません。そうすれば全体を覆う、この何とも言い難い既視感だけはある程度解消したことでしょう。(実際、展示品の大部分を占めるのが同美術館の所蔵品です。)

明日、明後日までの開催です。
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