「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」

映画「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」の試写会に参加してきました。



「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」
http://www.finefilms.co.jp/hermitage/

ロシアはサンクトペテルブルクに位置し、年間360万名以上もの入館者が訪れるエルミタージュ美術館。フランスのルーヴル、アメリカのメトロポリタンと並んで、世界三大美術館の一つに数えられています。



エルミタージュの設立は1764年。エカテリーナ2世がドイツから買い取った美術コレクションが切っ掛けでした。以来、約250年です。現在では「美の百科事典」とも称される300万点ものコレクションを有しています。

しかしエルミタージュの歴史は常に平穏であったわけではありません。ボルシェビキの襲撃や、スターリンの台頭、そして第二次世界大戦におけるレニングラード包囲戦など、時に美術館の行く末が危ぶまれるような困難を乗り越えてきました。



そうしたエルミタージュの全貌を知ること出来るのが、映画「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」です。純然たるドキュメンタリーです。エルミタージュに関する人物、歴史、ないしコレクションを余すことなく見せてくれます。

まずは人物です。重要なのは同館ミハイル・ピオトロフスキーでした。館長は映画のガイド役と言って良いかもしれません。さらに学芸員ほかスタッフも登場。エルミタージュについて語りに語っています。

ピオトロフスキー館長の言葉から感じられるのはエルミタージュに対しての自信と誇りです。そもそも父のボリス・ピオトロフスキーも同館の館長を26年間務めていました。時にソビエト政府はコレクションを外国への贈答品にしようと企てたこともあったそうです。それに対しミハイル・ピオトロフスキーは抵抗。まさに美を守る活動に熱心に取り組みます。

2006年には辞職の危機にさらされました。切っ掛けは美術館内での盗難事件です。200点以上もの宝飾品などが紛失。多くは取り戻せましたが、結果的に犯人を特定出来ませんでした。



さらに館長が主導する現代美術家との協働も紹介。彫刻家のアントニー・ゴームリーも出演しています。これほど美術館の活動が言語化されたことはなかったかもしれません。

2つ目のポイントは歴史です。やはり印象深いのは世界大戦でした。第1次大戦では美術館の一部の冬宮が病院として使用。いよいよ戦火が迫ると収蔵品をモスクワへ移送する作業が始まります。ただし列車3台のうち1台は引き返すというアクシデントにも襲われました。さらに十月革命が勃発。ボルシェビキがエルミタージュを襲います。しかし当時の館長は冬宮に次ぐ扉を閉じたため、冬宮以外の襲撃は間逃れました。


第2次大戦ではサンクトペテルブルクがドイツ軍に狙われます。レニングラードが包囲戦です。美術館は襲撃を回避するため、再び美術品を疎開。今度はウラル山脈内でした。さらに避難後は学芸員と家族が冬宮の地下に移ります。飢餓や寒さも襲い掛かります。何とベルトの底を煮込んで食べたこともあったそうです。900日に及ぶ攻防戦で100人以上の職員がなくなりました。



そうした経緯を事細かに映像化しています。また革命のシーンではロシアの映画監督、エイゼンシュテインの「十月」のフィルムが使われていました。当時の状況をより臨場感のある形で知ることが出来ました。

最後がコレクションです。映画にはエルミタージュの誇る美術品が数多く登場します。時に近接でも撮影。高画質での拡大版も映されます。映像を通したエルミタージュ美術館展と呼んでも差し支えありません。

作品数は約40点です。ラファエロやレンブラント、カラヴァッジョなどのオールドマスターから、ルノワールやドガ、それにゴーギャンなどの印象派を超えて、フォーヴのマティスに、カンディンスキーやマレーヴィッチへと至ります。ちなみにソビエトでは近代美術が退廃的とされていたため、ゴーギャンやゴッホ、セザンヌやマティスまでもの作品の公開が禁止されていました。いわゆるポスト印象派以降の作品の展示が許されたのは、スターリンの死後、1956年になってからのことだそうです。

面白いのがレオナルドの「ブノワの聖母」でした。ロシア最後の皇帝のニコライ二世が購入します。ただしニコライ自身、美術に興味がなく、「最も高価」であるという理由で購入したそうです。またエカテリーナがどのようにコレクションを充実させたのかも重要です。ロシアの国力を誇示すべく、ヨーロッパ各地から積極的に美術品を収集します。ただエカテリーナも強い美術愛好家ではありませでした。どちらかというと、宝石の収集や美術館の建築事業に熱心に取り組んでいます。



エルミタージュの魅力を余すことなく伝える「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」。このスケールでの内部撮影が行われたのも史上初めてのことです。展示室などの表だけでなく、地下空間等々、一般には公開されていないエリアまでも捉えています。美術館の裏側にも迫っていました。

映画はエカテリーナの時代から現代までを丹念に追っていますが、証言、ないし映像の構成ともテンポが良く、中だるみすることがありません。気がつけば80分が過ぎていました。



「大エルミタージュ美術館展」@森アーツセンターギャラリー
http://hermitage2017.jp
3月18日(土)〜6月18日(日)

現在、六本木の森アーツセンターギャラリーでも「大エルミタージュ美術館展」が開催中です。日本にいながらエルミタージュを深く体験する絶好の機会です。あわせて楽しんでみてはいかがでしょうか。

「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」は4月29日(土)、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国で順次公開されます。

「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」@hermitage0429
原題:Hermitage Revealed
監督・脚本・製作:マージー・キンモンス
キャスト:ミハイル・ピオトロフスキー館長、建築家レム・コールハース、彫刻家アントニー・ゴームリー、トム・コンティ(声の出演)
製作年:2014年
製作国:イギリス
上映時間:83分
配給:ファインフィルム
公開日:4月29日(土)
映画館:ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開
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映画「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」

Bunkamuraル・シネマほか
「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」
1/17-



映画「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」の試写会に参加してきました。

1月17日(土)よりBunkamuraル・シネマほか、全国順次公開予定の映画、「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」。

舞台は言うまでもなくロンドンの中心部、トラファルガー広場に面した「ナショナル・ギャラリー」です。英国初の国立美術館として1824年に開館。現在ではルネサンスやフランドル絵画、それに印象派から近代絵画など2300点余のコレクションを有しています。

そのナショナル・ギャラリーの全貌に迫った映画です。監督は「第71回ヴェネチア国際映画祭」で栄誉金獅子賞を受賞したフレデリック・ワイズマン。構想段階を含めると30年越しの企画です。制作に際しても3ヶ月間にわたって美術館に潜入、取材を行いました。


© 2014 Gallery Film LLC and Ideale Audience. All Rights Reserved.

冒頭に映し出されるのは静まりかえった美術館内。すると遠くから物音が聞こえてきました。掃除機のうなり声です。開館前でしょうか。一般の観客が入り込めない開館前、その意味では館の裏側です。その姿を何ら包み隠すことなく見せています。


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開館です。ナショナル・ギャラリーは英国を代表する美術館、老若男女問わず、年間500万名もの人々が訪れます。観客らはさも感心したように頷きながら、ある時には怪訝そうに首をひねりながら、絵画の前で立ち止まり、または過ぎ去っていきます。その姿は千差万別です。中には疲れたように椅子に座り込む人もいます。絵画に同じ作品が一点とないのと同様、観客の絵に対するスタンスも一つとして同じものはありません。

ギャラリートークが始まりました。スタッフは身振り手振りを交えて熱心に絵について語り出します。実に雄弁です。冒頭であれほど静寂に包まれていた美術館は、いつしか観客の出す足音や物音、さらにはギャラリートークの声も巻き込み、大いに活気を帯びていきました。


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館の裏側へ潜り込んだワイズマン、会議室で館長と話し合うスタッフの様子までも捉えています。観客のニーズにどこまで寄りそうべきなのか、また外部のイベントにどれほど関わるべきなのかについて議論は沸騰。互いに遠慮はありません。喧々諤々、時に鋭く対立してぶつかり合います。


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一方で修復家たちの地道な活動も重要です。X線で作品調査をするスタッフや、額縁の制作家の活動を丹念に追いかけています。また展示室の設営、照明のスタッフも登場。ワークショップでしょうか。ヌードデッサンに取り組む人たちの姿も記録しています。


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映画においてナレーションは一切入らず、例えば登場する人物に対しての説明もありません。ただし彼ら彼女らはギャラリートークに会議しかり、いずれも何らかの「声」をあげています。それをワイズマンは驚くほど丁寧に拾い上げています。つまり我々見る側は「声」を聞くことで、美術館の置かれている状況を知ることが出来るわけです。

もちろんナショナル・ギャラリーの誇る名画群もじっくりと紹介しています。ファン・エイクやレオナルド、カラヴァッジョにベラスケスからルーベンス。「岩窟の聖母」しかり、誰もが知る作品も少なくありません。また美術館内で行われたピアノリサイタルやバレエのシーンも目を引きました。

ただしそれでもワイズマンの視点は美術館の中の人々に強く向けられていると言えるでしょう。清掃員、教育プログラムの講師、修復師、学芸員、ガイド、それに館長。主人公は美術館のスタッフ全員です。美術館の歴史や価値は何も作品のみが作り上げているわけではありません。


「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」特別試写会&トークセッション 12月23日(火・祝) 国立西洋美術館

試写会を終えた後は、馬渕明子氏(国立西洋美術館館長)、岩井希久子氏(絵画保存修復家)、寺島洋子氏(国立西洋美術館 教育普及室長)、新藤淳氏(国立西洋美術館 研究員)の4氏を迎えての簡単なトークセッションがありました。

うち興味深かったのが、馬渕館長が「この映画を見ると日本の美術館に何が足りないか分かる。」と述べられたことです。また新藤氏も「まず美術館の中にあれほど多様な『声』があるのに驚いた。」と話し、岩井氏も「ナショナル・ギャラリーは世界で初めて修復を体系化した美術館。そもそも日本の国公立美術館には修復部門がない。」との発言をされました。

つまり日本の立場から見ればナショナル・ギャラリーは色々な意味で恵まれた美術館とも言えるわけです。とすれば逆に映画を見ることで、日本の美術館の問題点や学ぶべき点も浮かび上がってきます。新藤氏の「日本の美術館はあれほど充実していない。我々も美術館をもっと良くするために議論をするべきだ。」という言葉も胸に響きました。

なおトークの詳細は映画の公式フェイスブックにまとまっています。そちらもあわせてご覧下さい。

ナショナル・ギャラリー 英国の至宝 | Facebookトークセッションレポート

上映は全3時間。映画としてやや長い部類ではあります。ただこの巨大な美術館の中にある多様な「声」を拾うのにはひょっとすると3時間ですら足りないのかもしれません。かつてこれほど美術館に正面から向き合った映画があったのでしょうか。まさにドキュメンタリーの極致ともいうべき作品でした。

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』予告編


映画「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」。1月17日(土)より東京・渋谷のBunkamura ル・シネマのほか、全国の映画館で上映されます。(劇場公開情報

「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」@treasuremovie
監督・編集・録音:フレデリック・ワイズマン
出演:ナショナル・ギャラリーのスタッフのほか、エドワード・ワトソン&リアン・ベンジャミン(英国ロイヤル・バレエ団)
原題:National Gallery
製作年:2014年
製作国:フランス・アメリカ合作(英語)
時間:181分
日本語字幕:金関いな
後援:英国政府観光庁
配給:セテラ・インターナショナル
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「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」 新宿ピカデリー

新宿ピカデリー
「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」
3/30~



新宿ピカデリーで上映中の「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」を見てきました。

NY在住のアートコレクター、ハーバード&ドロシー・ヴォーゲル夫妻。元郵便局員と図書館司書という一市民が築き上げたアメリカの現代美術コレクション。2008年には二人の軌跡を描いた映画「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」がヒット。あくまでも「給料」の範囲内でありながらも、自らの感性を頼りに、まさに気の赴くまま、好きな作品を見つけては購入していくハーブとドロシーの姿に多くの人が引きつけられました。

実は私自身、前作の劇場上映を知らず、後に評判を聞いて自宅でDVDを鑑賞。僅か1LDKのアパートへ所狭しと並ぶ膨大なコレクションに驚かされるとともに、ともかく二人が互いに信頼し合う様子、言わば固い絆によって結ばれた夫婦愛に心打たれたものでした。


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その続編でかつ完結編の「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」がいよいよ公開。今度こそは劇場で、と決意。クラウドファンデイングに参加しての鑑賞券も事前に用意し、早速、上映館の一つである新宿ピカデリーへ行ってきました。

今回のテーマを一言で表せば二人のコレクションの行方です。前作公開後にハーブとドロシーから、全米50州の美術館にコレクションを50点ずつ寄贈するという「50×50プロジェクト」が発表されました。全2500点にも及ぶコレクションをどのようにして全米の美術館に贈るのか。新作ではそのドキュメントが追っかけられます。

さてこの映画、二人のヒューマンドラマであるとともに、もう一つ重要な視点が。それが現代アートを取り巻く様々な状況が浮き彫りになっていることです。

例えば寄贈先のラスベガスの美術館が昨今の経済状況下で閉館してしまうというエピソード。またある美術館に至っては、いわゆる現代アートを収めるのが殆ど初めて。ともすると難解とされる二人のコレクションをどうやって見せるのか。学芸員が頭を悩まさせるシーンなども登場します。


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それにコレクターと作品、またアーティストと美術館が一つの線で繋がっているのもポイントです。ハーブとドロシーがプロジェクト進行のために、各地の美術館を訪ねるのはもちろん、長年のコレクションにおいて築かれた作家との交流も明らかになります。そしてアーティストたちがハーブ&ドロシー夫妻への思いを語るインタビューも充実。かのクリストはもちろん、夫妻に感謝の意を表しながらも、このプロジェクトに元々反対であったというアーティストも登場します。

また避けられないテーマがいわゆる老いについてです。既に報道でも知られた通り、残念ながらハーブさんはこのプロジェクトの最中、2012年に89歳で亡くなります。


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本作でもハーブさんは終始、車椅子に乗られ、痛めた足を気遣う様子も見られますが、ともかく驚いたのはハーブさんが殆ど話さなくなってしまったということです。

元気なドロシーさんはそうした状況ももろともせず、ハーブさんの車椅子を押し、夫をパーティーにも連れていき、また自宅での生活もこれまでとなるべく変わらないように振る舞います。お二人の大好きだった猫も一匹になりました。

しかしながら話さなくなってしまったとはいえ、ハーブさんがプロジェクトやコレクションに関心がなくなってしまったわけではないのは重要なところ。実際に美術館でプランを練る際、作品をどこに展示するかという点において、ハーブさんは俄かに饒舌となり、実に明晰な指示を出します。さも「自分のコレクションのことは自分が一番愛して知っているのだよ。」と言わんばかりに。

二人のコレクションはハーブさんの死により打ち切られました。

「アートの収集はやめることにした。夫との共同作業だったから、経緯を表して私の手で薄めたり変えたりしたくないの。コレクションは終わり。」byドロシー

とはいえ、映画は決して悲しみにくれたまま終わるわけでもありません。


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全米へ旅立ったコレクションはまさにヴォーゲル夫妻の意思。映画のラストで部屋を片付けるドロシーはどこかサッパリした表情。彼女はハーブ亡き後、新たな人生を歩み始めます。

この映画のメガホンをとった佐々木芽生監督と夫妻の間に厚い信頼があってからこそ実現した作品。そういえばご縁あって私もクラウドファンディングのキックオフパーティーに参加出来たのも良い思い出です。

アメリカのコレクター夫妻の新たな旅立ちを描いた「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」。いつかアメリカの地で二人のコレクションを見られればと思いました。

映画「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」予告編


公開映画館の情報は公式サイトをご確認下さい。是非!

「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」@herb_dorothy
監督・プロデューサー:佐々木芽生
出演:ハーバート&ドロシー・ボーゲル、リチャード・タトル、クリスト、ロバート・バリー、パット・ステア、マーク・コスタビ、チャールズ・クロフ、マーティン・ジョンソン他
提供・配給:(株)ファイン・ライン・メディア・ジャパン
配給協力:ADEX,Playtime 宣伝:Playtime
原題:Herb&Dorothy 50X50
作品情報:2013年/アメリカ/87分/デジタル/カラー/英語
上映情報:上映館一覧。3/30(土)から新宿ピカデリーほか全国公開中。
フェイスブックページ:http://www.facebook.com/Herb.and.Dorothy.jp
クラウドファンディング:http://motion-gallery.net/projects/herbanddorothy5050
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「コーカサスの虜」 ロシア・ソビエト映画祭2006 7/16

東京国立近代美術館フィルムセンター中央区京橋3-7-6
「コーカサスの虜」
(1995年/ロシア・カザフスタン/セルゲイ・ボドロフ監督)
ロシア・ソビエト映画祭2006(ロシア文化フェスティバル2006 IN JAPAN)



有楽町朝日ホールで「異国の肌」を見た後は、京橋の近代美術館フィルムセンターへ向かい、ロシア・ソビエト映画祭の「コーカサスの虜」を鑑賞しました。トルストイの小説を原作に、現代のチェチェン問題へ鋭く切り込んだ作品です。国家及び地域間の戦争や対立というシステムの中へ投げ込まれた人間が、どのように生きざるを得ないのかということを、コーカサス地方の大自然を背景にして淡々と、しかし重い課題を投げつけながら描いています。佳作でした。

ロシア人とチェチェン人という対立項がなければ、そして彼らが戦争中でなければ、決してワーニャやサーシャらとチェチェンの村人たちはいがみ合うことがなかったのでしょう。もちろん、ワーニャらが捕虜にされている間も、ジーナはともかく、その父であり、またこの捕虜計画の立案者でもあるアブドゥルにも、ワーニャらに個人的な憎しみがあるわけではありません。あくまでも戦争といった、大きな対立の中に憎悪が生まれてしまう。アブドゥルが最後のシーンでワーニャにした行為は、まさに人が人として本来なし得る優しさの表れです。しかしまたそのすぐ後に訪れるロシア軍の無慈悲な行動は、逆に軍隊として、そして戦争として当たり前の行為に過ぎないのでしょう。それにしても惨たらしい。ここには、戦争を語る際のキーワードに有りがちな、善と悪や、勝者と敗者もありません。あるのは、ただこの対立の中で翻弄される、ごく普通の感情を持った人間たちだけでした。



ワーニャ役のセルゲイ・ボドロフ(監督の息子だそうです。)の素朴な心情表現はもとより、いかにも職業軍人風の雰囲気でありながら、随所に人としての温かみを見せるサーシャ役のメンシコフの演技はとても心に残りました。ワーニャとサーシャは、同じロシア軍に所属しながらもいがみ合っている。それが徐々に捕虜生活の中で生まれた連帯感によって結びつけられます。しかしそれもつかの間の出来事に過ぎなかった。結局、彼らは永遠の別れを告げることなります。サーシャの結末は実に悲しいものです。しかし彼はその後にもワーニャを導いていく。サーシャが、彼らを見張ったムラットを簡単に殺めてしまうのもまた戦争であり、その報いとして受けるサーシャの最期もまた戦争の一コマである。ハリウッドばりの金のかかった派手なアクションもなく、むしろロシア民謡にのった簡潔で素朴なシーンばかりが続きますが、それが余計に彼らを取り巻く巨大な戦争の恐ろしさを伝えてきます。

それにしてもこの戦争は複雑です。アブドゥルは捕虜交換のため、ロシア軍司令官へ直接交渉するのにも驚かされますが、なんとワーニャの母とも面会します。絡み合った糸のような彼らの関係。チェチェン問題を単純化出来ない要因が垣間見られるようでした。

「コーカサスの虜/オレグ・メンシコフ」

ポドロフ監督の、「戦争を始めることは簡単だが、終わらせることは難しい。人を愛することより、殺すことの方が簡単なのだ。」という言葉が非常に重みを持って響いてくる作品です。DVDでも発売されていますが、これは是非おすすめしたいと思います。
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「異国の肌」 ドイツ映画祭2006 7/16

有楽町朝日ホール(千代田区有楽町2-5-1 マリオン11階)
「異国の肌」
(2005年/ドイツ/アンジェリーナ・マッカローネ監督)
ドイツ映画祭2006



昨年も一作品鑑賞したドイツ映画祭ですが、今年もまた行ってみることにしました。拝見したのは、現代ドイツを取り巻く難民問題、または同性愛をテーマとした「異国の肌」。半ばエンドレスに続いていく、主人公ファリバの辛い生き様に考えさせられる作品です。

あらすじは映画祭の公式HPをどうぞ。

ともかくファリバは生き抜く為に様々な犯罪を侵し続けます。イランからドイツへと逃れるため、入管で出会った男性の死を利用し、自身も男装した上で成り済まして入国する彼女。男性の遺体は彼女が手厚く葬るとは言え、あれではまさしく死体遺棄罪です。そして何とか工場での働く口を見つけ、男性として毎日の生活を何とか営んでいく。もちろん自身の身分を明かすことは決してありません。男としての彼女に身を寄せられた同僚のアンネも、初めは全く真相が掴めなかったことでしょう。結果、素性がバレた後も、何とか強制送還を逃れるために再び犯罪へと手を染めることになる。この強烈な生への意思の前には、健全なモラルなど何も役に立つことがありません。ファリバはもう命がけなのです。



同性愛については、ファリバが男として生きることにより、その焦点がむしろぼやけてしまっているようにも感じました。イランでは許されることのない同性愛が、ドイツではどうなっていくのか。恋に落ちたアンネ以外とは結局分かり合えることなく、まさに裏切り者として扱われていく。最後、イランへ送還されるシーンでアンネは再び「転換」しました。彼女はイランで恋をすることが出来るのか。答えはこの映画では明かされません。男装したことで、女性として女性を愛することの意味が薄れてしまったかもしれない。初めから女性としてアンネへぶつかっていくファリバが見たかったとも思いました。

ファリバの意思は強く伝わってくるものの、アンネを初めとした他の登場人物にやや弱さがあったように感じます。アンネがどのようにファリバを受け入れていったのか。その辺をもっと丹念に描ければ、なお良い映画になると思いました。
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「Divine Intervention」 アラブ映画祭2006 3/11

国際交流基金フォーラム(港区赤坂2-17-22 赤坂ツインタワー1F)
「Divine Intervention」
(2002年/仏=パレスチナ/エリア・スレイマン監督)
アラブ映画祭2006



「映画、アマデウス、アラブ映画祭」という拙いエントリでも紹介した、アラブ映画祭2006。先日、会期終了日に上映された「Divine Intervention」を見てきました。スレイマン監督自らが出演した、パレスチナの今をシリアスな笑いで描いた作品です。

ともかくまず、この映画の語り口に慣れるまでには相当の時間ががかりました。いわゆる分かり易いストーリーでパレスチナの現状を描くことは一切せず、あるのは一見下らないパレスチナの人々の日常だけ。それがプロット別に断片的になって淡々と描かれていきます。一応メインの流れは、おそらくスレイマン演じるパレスチナ人の男性の父子の物語と、スレイマンに絡む女性との謎の関係の二つでしょうか。それらが全編意味ありげに、しかしながらどこかコミカルに、ただし恐るべき弛緩した時間の中にてバラバラに描かれる。しかもスレイマンは殆どセリフを発しません。スレイマンと関係する女性も、最後はテロリストの暗喩のような存在に化け、目を覆わんばかりのB級アクションにて、パレスチナの暴力の現状が逆説的に示される。欠伸の出るようなシーンから、その奥に潜む、対立や支配の構図を抉り出す様子は圧巻とも言えますが、如何せん構成が散漫で、どうしても集中力が削がれてしまう。完成度としても非常に危ういラインにたっている作品かと思いました。

この映画で最も印象深いシーンは、スレイマンと彼女の逢い引きが執拗に繰り返される検問所の様子です。ここで二人は検問所の様子を無表情で傍観しながら、そこで起きる不条理な状況をただひたすら提示します。唯一美しいシーンであった、アラファトの似顔絵が描かれた風船が飛ぶ部分も、ここから彼らが飛ばしたものです。フワフワと検問所を超えて、ユダヤやイスラムの寺院をかすめながらエルサレム上空を飛ぶアラファトの似顔絵。その不気味な微笑みには、風船の下で起きている、まさに検問所のような不条理さを嘲笑うスレイマンの思いがこめられています。この映画の白眉がそこにありました。



単純に面白かったかどうかと問われれば、即座に「つまらない。」と答えてしまいそうな作品でしたが、簡単に駄作だと決めつけられないような、パレスチナをシニカルな笑いで見つめる目は見事です。スレイマンの無表情な顔(画像参照…。)が頭に焼き付く作品でした。
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「ホテル・ルワンダ」 シアターN渋谷 1/21

シアターN渋谷(渋谷区桜丘町24-4)
「ホテル・ルワンダ」
(2004年/南アフリカ=イギリス=イタリア/テリー・ジョージ監督)

ネット上の署名運動から上映にこぎつけたという話題の「ホテル・ルワンダ」を、渋谷の「シアターN」(旧ユーロ・スペース)で見てきました。期待を全く裏切ることのない、非常に希求力のある優れた作品です。これは是非おすすめします。

詳細なストーリーは公式HPを参照していただきたいのですが、この作品は、1994年にアフリカのルワンダで起きた恐るべき「ジェノサイド」(僅か三ヶ月強で100万人もの命が奪われた。)をテーマとしています。主人公は、首都キガリのベルギー系四つ星高級ホテル「ミル・コリン」にて支配人を勤めるポール。彼がフツ族とツチ族の対立という、植民地主義時代の遺物であり、今も大国のパワーゲームに翻弄されている苦い現実に巻き込まれます。ある日始まったツチ族への信じ難い「大虐殺」。その事実を目の当たりにしながら、必至に助けを求める人々を匿い、また生き存えさせていく日々が続きます。ルワンダに当時駐留していた国連平和維持軍も、その事件の残虐性を鑑みるとあまりにも無力でした。「我々は平和維持軍だ、仲裁はしない。」と無念にも述べるオリバー大佐の惨たらしい一言が、結果的に数十万人以上の犠牲者を生み出すことにもつながります。国際社会が派遣したのは、「白人」を助けるためだけに来たベルギー軍のみ。これ以降ポールを始めとしたルワンダ人は見捨てられて、狂気と憎悪の渦巻く血みどろの生存競争に否応無しに放り込まれるのです。「ミル・コリン」にて虐殺の模様を取材し、その一部をカメラにおさめた欧米人ジャーナリストのダグリッシュはポールにこう述べます。「世界の人々はあの映像を見て、『怖いね。』と言うだけでディナーを続ける。」当然ながらこのセリフは、まさに今この作品を見ている者全てに突きつけられるであろう真実の告発です。

民族間の対立を利用して統治してきた旧宗主国のベルギー、そしてルワンダ政府軍を後押しするフランス、さらには「ソマリアの失敗」から介入に及び腰となるアメリカを始めとした国際社会。複雑な要因の絡むこのジェノサイドは、後に主にフツ族の指導者が国際法廷によって裁かれることによって、一定の「ケリ」が付けられますが、この作品において悪者探しをしている暇は全くありません。「誰が正義で何が悪なのか。」という単純な対立項を軽く乗り越えて、あまりにも惨たらしいジェノサイドという敢然たる事実のみを、背筋が凍るほどの緊張感にて、間髪入れずに次から次へとぶつけてきます。「ツチ族はゴキブリだ。駆除せよ。」と叫ぶフツ族のプロパガンダラジオ局。それに呼応して、手にナタや銃を持ち殺戮の限りを尽くす者たち。無惨にも道路に転がり、また湖を埋め尽くす死体の数々。ポールは、何とか「ミル・コリン」に逃げて来た人々を助けようとして、政府軍幹部やフツ族民兵組織などに取り入り、あらゆる限りの手練手管を弄します。ここにはきれいごとはありません。彼は決して大衆を動かした偉大なヒーローではなく、ただ生きたい、そしてこれまで一緒に暮らして来た仲間を救いたいという一心で動き続けるのです。ツチ族でもある妻タチアナへの愛が、そのまま周囲の人々全てに行き渡って、何とか生き延びようと努力をする。破滅的な世界の中で、おびただしい数の死を与える者と、生へ執着心を剥き出しにした者との壮絶なぶつかり合い。ジェノサイドの残虐性と、それを殆ど野放しにした国際社会は当然ながら糾弾されなければなりませんが、ポールの生き様は、恐るべきあの圧倒的な残忍さの渦の中において、弱々しくも一筋の光明のように輝いています。もちろん、彼をそれこそ「救世主」のように崇めて、結果的に助かったことを「ハッピーエンド」として捉えるのはあまりにも盲目ですが、この作品にもし希望を見出すとすれば、まず極限の状況下において「生」を見つけたポールと、孤児を救い出す活動を懸命に続けた赤十字のアーチャーのような存在にあるのでしょう。

内戦の終結によってジェノサイドを間一髪で抜け出したポールたち。彼らを一時待っていたのは、暴力と破壊こそなけれども、非常に貧弱な難民キャンプでした。そこに群がる多くの人々。そして最も無力である小さな子供たち。彼ら彼女らは、一先ず眼前の悲劇こそ奇跡的に逃れられましたが、その先の未来に貧困を抜け出す生活はあるのでしょうか。エンドロールは、キャンプにて子供たちがルワンダ民謡を健気に歌うシーンです。それを見た時、これまで必至に堪えていた涙腺がとうとう緩んで、自らの無力を無責任にも涙で慰める他ありませんでした。この映画が見せる悲劇に終わりはありません。アフリカの今の、また世界で頻発する暴力に無関心ではいられないこと、そしてまさにそれを「怖いね。」だけで片付けてはならないこと。そしてこの世界、特にアフリカに真の「自決」が許されているのかということ。それらを考えると殆ど絶望的な気持ちにもさせられますが、ともかく一人でも多くの方に、ポールやアーチャー、そして必至に生きるルワンダの子供たちの姿を見て欲しい。心からそう思う作品でした。

*公開映画館数が少ない為なのか、(シアターNは非常にキャパシティも小さい。)会場は常に満員のようです。時間に余裕を持って早めに行くことをおすすめします。(あまりギリギリだと立ち見か、次回上映に廻されるようです。)
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「風と共に去りぬ」 ル テアトル銀座 1/7

ル テアトル銀座(中央区銀座)
「風と共に去りぬ」
(1939年/アメリカ/ヴィクター・フレミング監督)

映画史上不朽の名作とも呼ばれる「風と共に去りぬ」。そのデジタル・ニューマスター版が今、「ル テアトル銀座」にて公開されています。休憩を挟んで全4時間弱。重厚長大な大河、あるいはメロドラマにどっぷり浸かってきました。

あまりにも有名でかつ、語り尽くされた作品でもあるので、今更私がどうこう言うまでもありませんが、「タラのテーマ」を初めとしたプッチーニ風の甘美でゴージャスな調べにのる、愛に支配されたスカーレットの生き様。時にディケンズ風の冒険劇を交えた、アメリカ南北戦争を舞台とする大河ドラマの壮大さと、まるで「アンナ・カレーニナ」のようなあまりにも哀れな女性の悲劇。メロドラマが限りなく大きく脚色され、ニューマスターによって驚くほど鮮明となった南部の美しい映像と合わさります。これほどにダイナミックなメロドラマもありません。

スカーレットはあまりにも愛に生き過ぎ、また愛にすがり過ぎました。だからこそわがままで、まるでじゃじゃ馬のように振る舞って、ともかく愛を求めるのでしょう。アシュリーに抱いていた愛は、メラニーの死によって初めて幻想だと分かった。この映画で最も美しいシーンは、まるでマグダラのマリアのように描かれたメラニーの死です。スカーレットのアンチテーゼとしても描かれた彼女は、死ぬことによって、ようやくスカーレットに真の愛の姿を示します。しかしそれに気付いたスカーレットはもう遅かった。バトラーは最後までスカーレットを愛していたからこそ、彼女に試練を与えるかのように、自立を促します。スカーレットは、全ての源であるタラへ舞い戻って、本当の愛を獲得するための生活を始める。彼女の強い生への執念は、ようやくここで真の愛と交わるのかもしれません。

劇中でのスカーレットのわがままぶりには半ば呆れ果ててしまいますが、見終わってしばらく経ち、彼女の心の弱い部分に気がつくと、バトラーの彼女への想いが、メラニーの天使的な愛を上回るほどの、大きな慈愛に繋がっていたように見えてきます。アシュレーこそ全く軽薄です。(個人的にはかなり好きなキャラですが…。)彼女はスカーレットに何も示せなかった。しかしバトラーは違う。いくら成金的で、娼婦を囲った生活を送っていたとしても(むしろだからこそ。)愛の意味を知っていた。常にアイロニー的な人物描写が鼻につきますが、それは彼の人物の大きさを示さないための隠れ蓑だったのかもしれません。激しい情熱を見せながら、愛を妄信し過ぎたためにあまりにも哀れだったスカーレットと、軽佻浮薄で哀れなはずでありながらも、実は激しく真に人を愛すことを知っていたバトラー。最後になってようやく惨めさに気付いたスカーレットが、バトラーへの愛に目覚めたのも当然です。

南部の生活や、黒人奴隷の描かれ方などは、やや時代を感じさせるものもありましたが、4時間という上映時間の長さを感じさせない、濃密な愛の物語を楽しませてくれました。テアトル銀座では今月31日までの上映です。
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「この素晴らしき世界」 チェコ映画祭2005 9/4

東京都写真美術館(目黒区三田)
「この素晴らしき世界」
(2000年/チェコ/ヤン・フジェベイク監督)
9/4(チェコ映画祭2005)

今、東京都写真美術館のホールでは、チェコ共和国の愛知万博関連プログラムである「チェコ映画祭2005」が開催されています。先日の日曜日に、2000年に日本でも公開された「この素晴らしき世界」という作品を見てきました。

舞台はナチス占領下のチェコです。子供のできないヨゼフとマリエ夫婦、マリエに執拗に迫りながらも、夫婦を不気味に追い回すナチス党員のホルスト、それに収容所を逃げてヨゼフとマリエ夫妻にかくまわれたユダヤ人ダヴィトなどが、入れ代わり立ち代わり登場し、占領下の厳しい状況の中で、それぞれが必死に生き延びる様を描きます。実話をヒントにして仕上げられたというストーリーは、収容所から逃亡してきたダヴィトを、ナチス党員のホルストから隠すために思いついた夫妻の凄まじい奇策の成功によって、思いがけない方向へ進みますが、最後には戦争が終結し、妙に後味の悪いハッピーエンドを迎えます。

ともかく喜劇として見るべき作品だと思います。展開は途中まで、ナチス占領下のチェコの極限の状況を色濃く反映したような、かなりシリアスな雰囲気で進みますが、「とんでもないアイデアを思い付いた。」というある事件をきっかけに、突如ドタバタ劇的な、コミカルな視点が全面に押し出されます。と言っても、逆にそのコミカルさが、当時のチェコの状況の悲惨さを喚起させる面もあり、完全な喜劇として腹の底から笑うことは出来ないような様相も呈しています。シリアスさとコミカルさ。題材として戦争を取り上げた場合、喜劇的な要素を多く取り入れると、全くの娯楽映画と化す場合もありますが、この作品は決してそうでありません。笑いと恐怖の隣り合わせ。ある意味で非常に恐ろしい作品でしょう。

ヨセフとマリア、ダヴィトなどという登場人物の名からも推測される通り、この作品にはキリストの生誕を思わせる一種の鍵が隠されています。結果キリストは、映画の一番最後に誕生し、それが戦争の集結と、未来への期待に重なり合うのですが、その後のチェコの歴史を鑑みる時、それが決して救済とならないことを痛感させられます。

もう少しそれぞれの登場人物への掘り下げがあっても良く、特にホルストの描写に物足りなさを感じたのですが、アイロニー的な笑いと、その背後で垣間見せる作品自体の強いメッセージは、希有なバランス感覚で体現出来ていたと思いました。
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「海が満ちる時」 フランス映画祭2005 6/18

パシフィコ横浜会議センター(横浜市西区みなとみらい)
「海が満ちる時」
(2004年/フランス/ヨランド・モロー+ジム・ポルト監督)
6/18(フランス映画祭2005

パシフィコ横浜で開催されていた「フランス映画祭2005」で「海が満ちる時」を見てきました。

監督でもある主演のヨランド・モローが演じるのは、一人芝居を演じながら北フランス各地の小さな劇場を渡り歩く「旅芸人」イレーヌです。ラブストーリーということで、舞台をきっかけにして彼女に惚れ込んだドリスとの恋の過程が、ぎこちない印象で描かれていきます。彼女が移動用に使っていた自動車の故障の修理を手伝った彼との出会い。想い焦がれる彼の情熱的なアプローチ。彼に徐々に心を開くイレーヌの繊細な恋心。一時の別れやその後の破局…。展開は「お決まり的」な印象すら受ける程の古典的な恋愛劇が続いていきます。

この作品の最も優れた点は、言葉にならないような恋心を抱くイレーヌを、モローが細やかな表情で演じたことでしょう。「私のヒヨコちゃん。」として、ドリスと舞台へ上がった時に見せる彼女の微妙な立ち振る舞い。そしてその後に得る二人の幸せな時間。二人が結ばれていく過程は、移動中の「密室」である自動車の中や、何故か二人で忍び込んだ立ち入り禁止の海岸での「戯れ」などのシーンで切なく描かれます。イレーヌが砂浜で風を爽やかに受けながら、喜びに溢れた声で一人唄い出す場面が最も美しく感じました。

イレーヌが演じる一人芝居のシーンも頻繁に登場します。彼女の劇は観客の笑いを常に誘っていました。彼女の温かい心持ちは「劇中劇」からも伝わります。赤い仮面をかぶって舞台から観客を呼び上げ、客席と一体となって楽しさを分かち合う。実は私はその「笑い」や「楽しさ」を殆ど共有出来なかったのですが、雰囲気は十分に感じとれました。この辺の面白さを感じとれるか否かで、この映画への評価も大きく変わってくるかもしれません。

上演後は主演と監督を務めたモローが登場し、簡単な質疑応答と、作品中に使われた「歌」を即興で披露して下さいました。個人的には物足りなさを感じた作品だったのですが、ステージ上で優しく振る舞うモローの姿を見て、何やら納得させられました。フランスでは数々の名誉ある賞を受け取って、興行成績も良かったということなのですが、日本での配給はどうなるでしょうか。
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「9日目」 ドイツ映画祭2005 6/12

有楽町朝日ホール(千代田区有楽町)
「9日目」
(2004年/ドイツ/フォルカー・シュレンドルフ監督)
6/12(ドイツ映画祭2005

舞台はナチス占領下のルクセンブルク。有力な司祭であるアンリ・クライマーは、人種法批判など反ナチス的な行動をとったことにより、ミュンヘン郊外のダッハウの強制収容所へ入れられていました。欧州各地から連行された聖職者と共に暮らす過酷な毎日…。あまりにも非人間的な施設は、収容者を極限の状況へと誘います。当然ながら食料も満足に与えられません。時には無惨な死亡者をも生み出すのです。暗がりの中での無慈悲な収容所生活は、映画の冒頭から迫力のある描写で圧倒してきました。

突然、アンリは九日間の休暇を言い渡されます。彼は、愛する妹マリアや兄たちの住む家へ一時帰郷しますが、収容所の「仲間たち」のことを考えると、束の間の喜びすら味わおうとしません。そして、アンリの休暇命令には、十分過ぎる理由がありました。それは、ナチスの宗教政策に同意を求められながら拒み続けているルクセンブルクの司教を説得し、「転向」させる任務を言い渡されたのです。期限は九日間でした。勿論、達成出来ない場合は「相応の措置」が与えられます。ここから信仰と良心に苛まれながら仲間の処遇を心配するアンリと、彼に任務を果たさせるべく執拗に迫るナチス親衛隊のゲープハルトの戦いが始まります。

ゲープハルトは「第三帝国」の一歯車となってアンリと対峙します。アンリは司祭に「転向」を促すことは、キリストを裏切ったイスカリオテのユダになることだとして拒絶しますが、ゲープハルトにとってはユダさえも「反ユダヤ的行動」を示した人物として肯定され、むしろアンリにユダとなることを積極的に勧めます。また、ナチスとカトリック(法王庁を中心として。)の微妙な関係もアンリを悩まし、カトリック宗教界を取り巻く厳しい状況も、彼をある意味で「懐疑的」にさせます。しかしながら、彼の心の拠り所は、収容所の仲間たちと最愛の家族、それに反ナチス的信条でした。結論は明らかです。ゲープハルトの要求を厳しく拒絶し、「九日目」に再び収容所へと収監されていきます。

抑圧された信仰の元での絶望的な生活と、不気味な快活さすら見せるナチス側の動きの対立軸が、極めて生々しく描かれています。アンリが時折思い出す収容所生活の回想シーンが、彼を取り巻く状況の苦しさを巧みに表現していました。この作品は実話を元にして構成されたのだそうです。シュニトケの心を掻き乱すようなメロディーも映画の完成度を高めます。アンリやゲープハルトを始めとした人物の心理描写も、深く掘り下げられていました。

見る者一人一人に、決して単純化することを許さない「究極の選択」を迫まる作品です。今後、日本で公開される予定はないそうですが、深く考えさせられた映画でした。
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「ラミアの白い凧」 国際交流基金フォーラム アラブ映画祭2005 4/24

国際交流基金フォーラム(港区赤坂)
「ラミアの白い凧」
(2003年/レバノン/ランダ・シャハル・サッバーグ監督)
4/24(アラブ映画祭2005

こんにちは。

赤坂の国際交流基金フォーラムで「ラミアの白い凧」という映画を見てきました。4月14日から24日にかけて同フォーラムで開催された「アラブ映画祭2005」でのレバノンの作品です。国境線によって分断された村での悲劇的な愛を描いた佳作でした。

砂と岩が延々と広がるゴラン高原の村は、イスラエルとレバノンの国境線によって分断されています。そこがこの映画の舞台です。有刺鉄線と軍隊と地雷の存在が、村の自由な往来を阻害します。双方に取り残された親族や友人は、緩衝地帯越しに拡声器で連絡を取り合っています。にわかには信じがたい光景です。レバノン側に住む16歳の少女ラミアは、イスラムの掟なのか、ほぼ強制的に、村の長老会議によって、イスラエル側のもう一方の村に住む従兄のところへ嫁がされます。そして、この過程のやり取りももちろん拡声器によって行なわれますが、それをイスラエル側のとあるアラブ人兵士(問題を単純化出来ない要素がここにあります。)の若者が聞き、彼女に淡い恋心を寄せます。ラミアは結局、従兄である夫と反りが全く合わずに元々住んでいた村へ帰ります。しかしそこで先ほどの兵士と出会うことになるのです。二人の運命は一体どうなるのか…。結末は暗示的に「悲劇」として迎えられます。

この映画の最大の良さは、この村を取り巻く厳しい状況が、そこに住む逞しい人々の生活によって生々しく描かれていることです。「分断の悲劇」とは、残念ながら未だこの地上から消え去らない現実として存在していますが、その意味や背景を深く考えさせる要素をこの映画は持っています。ラミアは「分断の悲劇」の象徴として生き、最後には現実に押しつぶされるかのように消えて行きます。タイトルの「凧」とはラミアの意思なのかもしれません。糸の付いた「凧」は、あくまでもそれを揚げる人間によって拘束されています。しかし、糸がプッツリと切れると、凧は意思を持つように大空高く舞って自由を満喫すると同時に、すぐに地上へ落ち、動くことすら叶わなくなります。ラミアの恋も人生も、まさにそんな「凧」の生き様に近いものがあります。映画の冒頭には、村の子どもたちが地雷と有刺鉄線の近くで凧揚げを楽しそうにするシーンが登場しますが、その姿と「凧」としてのラミアが重なってくる時に、また悲しみが増すのではないかと思いました。

2月に「西ベイルート」を見た時にも書きましたが、今、レバノンやイスラエルをを取り巻く情勢は大きく動いています。ゴラン高原一帯は、歴史的にも紛争を繰り返してきた厳しい地域ではありますが、ラミアの悲劇を繰り返すことだけは何とか避けて欲しいと願うばかりです。
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「ソン・フレール -兄との約束- 」 ユーロスペース 3/22

ユーロスペース(渋谷区桜丘町)
「ソン・フレール -兄との約束- 」
(2003年/フランス/パトリス・シェロー監督)

こんにちは。

ユーロスペースで「ソン・フレール」を見てきました。「ニーベルングの指環」の演出でも有名なシェロー監督による、兄弟の深い関係を描いた話題作です。

構成は大変にシンプルです。二人の兄弟-トマとリュック-の関係が軸となって、愛や生き様、それに死生観などが描かれていきます。兄トマは、ある日突然血液の難病に冒されます。それまで彼と殆ど関係を築いてこなかった弟リュックは、「死」と否応無しに戦わなくてはいけないトマの闘病生活を通して、初めて兄と深い心の関係を持ちます。彼はそんな過程の中で自己の生活を見つめ直しながら、「死」や「生」の匂いを嗅ぎ、またそれへ立ち向かいます。トマとリュックの他には、二人に反目しつつも支え合う両親や恋人、それに、「病」を通して彼らと関係する医師が登場してくるだけです。

トマとリュックがブリュターニュの浜辺で、かつて船乗りだったというある老人と語る冒頭のシーンが印象的です。銀色になびく美しい波を眺めながら、ベンチに腰掛けて何気ない会話を交わします。「遭難した死体が揚がる場所は、大抵同じ浜辺だ。」老人のこの一言は、映画全体を支配する死の気配を予感させるものとして深く心に残ります。衝撃的で諦念的なラストシーンも、この冒頭のワンシーンがなければ深い意味を感じとることができません…。

余計な挿話を殆ど使わずに、ひたすら心の内面と死の気配を探っていく映画です。ですから、やや単調に感じられてしまう部分もあります。ただ、病身のトマの肉体へ至近距離で迫るカメラワークや、彼らを取り巻く生活の日常を映し出した生々しい光景は、この映画が持つ不思議な美しさを醸し出しているようにも思えます。手術の準備として、トマの全身の体毛を剃るシーンがありますが、それはとても執拗に体毛と肉体を捉えています。そこには、まるでトマの悲痛な叫びを想起させるような、極めて重々しい一コマが成り立っているようにも感じました。ここは、ある意味でこの映画の白眉とも言えるでしょう。

挿入歌が全編中に一曲しか出てきません。静寂と、それを打ち破るかのような人間の息づかいと生活の雑音が、全編に強く耳へ響きます。トマとリュックの心の中にはどんな音楽が流れているのでしょうか。彼らの内面はとても抑制的に描かれますが、極力音楽を使わないところにも、それと関係を持たせた何かがありそうです。

観賞後の余韻は強烈です。結末はここには書けませんが、大変な脱力感に襲われます。しかし、しばらくその余韻の中で映画を振り返れば、彼らの関係が決して絶望と無力によって終わってしまったのではないことが感じられます。トマとリュック。彼らは「病」の関係をある意味で乗り越えた後、一体どこへ向かうのでしょう…。観る者一人一人の心に突きつけられるようなこのような問いが、結末から生み出されているようにも思いました。
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国際交流基金フォーラム 「西ベイルート」 2/12

国際交流基金フォーラム(港区赤坂)
「西ベイルート」
(1998年/レバノン/ジアド・ドゥエイリ監督)
2/12(アラブ映画祭2005・プレイベント)

こんにちは。

先日の三連休の中日は、赤坂の交流基金フォーラムで映画を観てきました。「アラブ映画祭2005」のプレイベントとして上映された「西ベイルート」です。レバノン内戦下の日常を、子どもたちの生活を通して克明に描き出します。一般の映画館でも上映して欲しいと思うぐらい秀逸な作品でした。

ある日突然ベイルートが東西に分断されます。内戦の始まりです。少年たちは一つの街に国境線が引かれたという現実を突きつけられます。「西」在住の彼らは、「東」の学校へ行くことは叶いません。また、ひいきにしていたフィルムの現像店も「東」にある…。戦争は徐々に日常を蝕んでいきます。彼らの父や母はいつの間にか職を失い、生活のための物資も次第に欠乏してしまいます。一体どうなってしまうのでしょうか…。

少年たちは「戦争が日常」となっている毎日を、驚くほど逞しく生きていました。もちろん、学校へ通えないことや、自由に東西の往来ができないことを憂慮していないのではありません。一見、明るく行動する彼らの背後には、「死」が至近距離に迫っています。また、彼ら自身も敏感に「死の匂い」を嗅ぎ付けていたことでしょう。しかしながら、少年たちの好奇心は、危険極まりない分断線を超えて「東」の売春宿へ行ってしまうという驚くべき行動すら起こします。(これが信じられない方法でやり遂げます!)また、彼らの生活を取り巻く人々との人間味溢れる触れ合いや、大きな瞳が印象的な少女との甘い恋は、戦争が刻一刻と進む中でも、彼らの生活が決して止まらないことを印象づけます。

映画を通して見るベイルートの街はとても魅惑的です。少年たちがベイルートを自転車で駆け抜けるシーンには、暖かい日差しと柔らかい風を感じました。何故あんなに美しい街や大地を簡単に破壊してしまうのか。戯言以上の何ものでもありませんが、心の底からそう思いました。「日常としてある戦争」が、ある意味淡々と流れる日々。レバノンの少年の逞しい生活を見ると、逆説的に状況の厳しさが響いてきます。考えさせられました。

ところで、レバノンでは、つい先日、元首相が爆弾テロにて暗殺されるという痛ましい事件が起こりました。報道の完全な受け売りで申し訳ありませんが、今レバノンには、隣国のシリア軍が三万人以上(外務省HPから。)駐留しています。国連やアメリカによれば、それは「問題」であって、シリアは即時に撤退するべきだと主張しています。そして今回のテロは、そのシリアが関係しているとする見方があります…。真相は何処を探しても見つからないのかもしれません。ですが、決して「戦争のある日常」に戻って欲しくはない。惨劇が惨劇を生むことだけは避けて欲しい。この映画を観たことで、その思いが一層募りました。
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ユーロスペース 「ベルリン・フィルとこどもたち」 2/6

ユーロスペース(渋谷区桜丘町)
「ベルリン・フィルとこどもたち」
(2004年/ドイツ/トマス・グルベ+エンリケ・サンチェス・ランチ監督)
2/11まで

先日、lysanderさんのブログを読んで気になっていた「ベルリン・フィルと子どもたち」を観てきました。美しい余韻に浸ることのできる、素敵なドキュメンタリー映画です。

世界最高のオーケストラと、ベルリン在住の250名の子どもたち。何の接点もないような両者が一つとなって、素晴らしい芸術を作り上げていく。そこには、純粋な音楽の世界を離れた、このプロジェクトに参加した全ての人間の情熱が結集された「春の祭典」があります。各々の多様な価値観と生き様。それが一瞬間だけでも一つになると、誰もが驚くほどの力を生み出すようです。本番を終えた子どもたちの表情には、その驚異的な力を感じた人間だけが表せるような歓喜と、達成感の後の美しい清々しさを見て取ることが出来ました。

邦題よりも、原題の「RHYTHM IS IT!」の方がこの映画を適切に示しているようです。芸術は思想だけの産物でなく、身体が元来持つ力からも生み出される。そんな至極当然なことを、私はベルリンの子どもたちから学びました。もちろん、殆どの子どもたちは、嫌々ながらこのプロジェクトに参加した、もしくはさせられたのでしょう。「春の祭典」など耳障りな雑音とでも言いたげな子どもたち。不貞腐れた面倒くさそうな表情。もちろん、映画では描ききれなかった、きれいごとではない事情もあったに違いありません。しかし、子どもたちが全身を使ってエネルギーを獲得し放出していく様子。このプロジェクトへ懸けるラトルの意気込みはもちろんのこと、振付師のロイストンの個性は強烈です。愛することに徹底して取り組んできた人間は目が違うのでしょうか。温かさと厳しさの両方を持つ眼差し。彼の前では子どもたちも真剣にならざるを得ません。

先ほども書きましたが、このプロジェクトには、映画では登場しなかったような困難な出来事もあったのでしょう。また、一体感を得た後の感動には、時折、盲目的でしかない喜びを生む危険性もあります。ベルリン・フィルは、このプロジェクトを終えた後でも、すぐに再び芸術の力を触ることが出来る。しかし子どもたちはどうなってしまうのか。もしかしたら、また倦怠感を生むような毎日を送ってしまうのかもしれない。しかし、「春の祭典」の驚異的なリズムに乗ったという経験と記憶は、きっと彼らの意識と身体を変革させていくきっかけとなる。少なくとも私はそう信じたいと思います。

ところで、この映画は「文部科学省指定」とされていましたが、子どもたちだけでなく、大人たちこそが観るべき内容だと思いました。日常とは概してつまらないものの連続かもしれません。しかし、「映画の中の子どもたちが置かれている日常とは全然違う。」と自信を持って言えるような、アグレッシブな自己を持った大人がどれほどいるのでしょう。(もちろん、私も含めてですが。)そして、ロイストンのように、人生を懸けて子どもたちと接することがどれだけあるでしょうか。ちょっと話が脱線してきました。

ベルリン・フィルの演奏やリハーサルのシーンもかなり登場します。クラシックファンとしては、その点でもかなり見応えがありました。また、「春の祭典」の演奏は、この映画に合わせてCDがリリースされたようです。抜群のリズム感を持つラトルのことですから、きっと素晴らしい演奏だと思いますが、CDを聴いてその世界を少しでも共有できたら良いとも思いました。
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