「現代美術をどう見るか」 「李禹煥 余白の芸術」展レクチャー 横浜美術館 9/23

横浜美術館レクチャーホール(横浜市西区みなとみらい)
アーティトが語る1 「現代美術をどう見るか」
9/23 15:00~16:30
講師 李禹煥氏

「李禹煥 余白の芸術」展の関連事業である、李本人による「現代美術をどう見るか」というレクチャーです。場所は、もちろん展覧会の会場である横浜美術館のレクチャーホール。客席はほぼ満席です。随分と活況を呈していました。

内容は、西洋美術史の批判的概観から、現代美術へのつながりと問題点を、自作の引用を交えながら簡潔に述べていくものです。李は全く原稿を読まずに、殆ど一気呵成に話を進めていましたが、時には冗談を交えながら会場を笑いに誘います。質疑応答を含め、講演時間は約一時間半。氏が持つ美術への厳しい眼差しや、制作の根底にある意欲も垣間見ることが出来る、有意義な講演会でした。早速ですが、以下、いつもの通りレクチャーの内容をまとめてみます。


現代美術がはらむ問題

・「現代美術」は「現在進行形」
  価値が定まらない。
  現代美術は果たして「美術」であるのか。
  専門的な領域において「それらしいこと」をしているが、確信的な理論は不在。
  一部のエリート的な層だけが「分かったふり」をしている側面
   →特定の層の驕り=ジャーナリズムとの結託
  大方の一般的な反応は「わけが分からない。」
   →正直な反応であり、また見方でもある。(自作についても良く言われること。)
 ↓
 何故現代美術は「意味不明」なものなのか?
  =西洋美術史から考えてみる。


西洋美術史の流れと現代美術

・美術の根源としての「古代」
  神々の時代
   封建的・宗教的なものの絶対的地位にある者の優位性
   →大勢はそれに無条件に従う。
     モノ(美術)を見る目を持っているか否かは問題外

・信仰の「中世」
  信仰のための美術=聖書の題材に基づく絵画など。
  教会の強い権威
   →権威による一般大衆への「啓蒙」としての美術(半ば相互了解的に。)

・観念的な「近代」
  封建社会から産業社会へ
   人間とモノの拡散(大陸から大陸へ。)=時間と空間の世界的短縮
   都市化・産業化による生活の変化
   イデオロギーの登場→後の帝国主義へ。
   神よりも人間が優位=ヒューマニズムの誕生
  ↓
  産業社会は美術にも多大な影響を及ぼす。
   絵や彫刻の世界的展開
   受け手としての「ブルジョワ」が誕生
   絵画の主題は神から人間へ。
  
  帝国主義・植民地主義時代
   一つの考えが普遍的な力を持って世界を覆う=観念の優位
   ある意味で閉ざされた共同体
    →絵の主題も次第に内面的なものへと移る。
  ↓
  抽象画の誕生
   特定の人間による特定の人間のための芸術世界=「芸術家による芸術家のための」
   閉鎖的な空間と外部性の欠如=芸術家の頭の中で構成(コンポジションなど。)
   分かる人にしか分からない美術→「芸術は難解」というイメージ
    →ピカソやマティスは、ジャーナリズム等によって「解説」されることで初めて理解され得る。
     
・混迷の現代
  第二次世界大戦以降
   芸術家による閉鎖的な空間と、特定の層による知の独占の崩壊
   植民地主義とは異なったグローバリゼーションによる異文化の混合
   主人のいない大衆の完成=多様な人々の寄り合い
   特定のイデオロギーの力の喪失   
  ↓
  多種多様な考えが可能となった現代美術へ
   閉じられた空間(キャンバスや彫刻)からの解放=素材も多様化
   モノを作ることよりも、モノを寄り合わせた「新たな場」を作る。
   芸術家の内面の露出だけではなく、外との関わり合いを重視=「作品の外部性」と「外との対話」


「関係項」(李禹煥の彫刻作品)から考える現代美術

・鉄板と石の組み合わせ
  石:長い年月を経て生まれて来た=自然
  鉄板:石の成分を加工して作られる=産業社会に生きる者としての自覚
   →兄弟でもあり親子。対立的には捉えない。

・作品における質感と構成
  極めて重い石から重量感を削ぐ。
  薄い鉄板を紙のように置いてみる。
  鉄板を合わせる際は、なるべく支え合い、寄り添うかのように並べる。=自主性を持たせない。
  石は少し起こすように置く。=石に動きを与える。

・作品から何が見えるのか
  モノ同士の反発や融合
  寄り添ったり離れたりの繰り返し=流動性
 ↓
 「これ」と言った美的解釈や特定の意味を提示しない=「一種の実験」
  フォルムや色など、近代美術の重要な構成要素を超越させる。
  作品外部の空気を作品へ作用させたい=作品の境界を曖昧に。
  「何だろうこれは。」という、見る者の素朴な問いを呼び込む。


現代美術の曖昧さと無限の可能性

・現代美術の表現
  作品の意味をあえて提示しない。
  素朴な疑問点をそのままさらけ出す。
  美術の仕組みからの解放=日常性への回帰
  バーチャル(映像等)な世界へも進出=身体性を切り離す。

・現代美術を超えて(問題点とともに)
  美術の枠を崩すことによる混乱
  「高度な精神世界」が体現されているのか、そうでないのか。
  モノを介在させない美術の問題
 ↓
 誰も分からない美術の行く末

以上です。現代美術がはらむ問題やその意義と、それに関連する氏の自作へこめる思い。「ようやく最近になって、元来やりたかったことが出来るようになった。」とも仰られましたが、まさに「余白」とその周囲が主人公である展覧会と、今回のレクチャーを合わせて見聞きすると、氏の近作での、ある意味で「過激な表現」に納得させられます。如何でしょうか。

「余白の芸術展」の関連事業としては、11月13日に、李禹煥と菅木志雄氏による「もの派とその時代」というディスカッションが予定されています。こちらも出来れば聞いてみる予定です。

*8/28に開催された、美術館学芸員柏木智雄氏による、「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」のレクチャーの記録はこちらへ。「その1」「その2」
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「所蔵作品展 沈黙の声」 東京国立近代美術館 9/24

東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
「所蔵作品展 沈黙の声」
7/26~10/2

東京国立近代美術館の常設展示室の一角(2階ギャラリー4)では、今「沈黙の声」という小企画展を開催しています。遠藤利克、ビル・ヴィオラ、キムスージャの三名による企画展。小さくともキラリと光る良質な展覧会です。

展示作品はそれぞれ各一点ずつ、計三点(遠藤以外はビデオ・アート。)のみの出展となっていますが、どれもタイトルの「沈黙の声」の通り、極めて静寂な雰囲気を漂わすものばかりです。それぞれが独特のスタイルで、見る者を静寂と瞑想へと誘う。非常にゆったりとした時間が流れています。

遠藤の「欲動 -近代・身体- 」(1997年)は、横2メートル、縦1メートルはあろうかという、浴槽のような形をしたゴム製の大きな作品です。中には水が数センチほど張られていて、底部から吸い取られ壁面から流れ落ちるように、循環の工夫がなされています。展示室の中でドーンと構える圧倒的で寡黙な「浴槽」。近づくとゴム製の壁を滴り落ちる微かな水音が聞こえます。タイトルは幾分抽象的ですが、作品自体はとても素朴です。一つのものとしての重みを強く感じさせます。

「喧噪の中で佇む沈黙の人」とでも表現出来そうな作品は、キムスージャのビデオ・アート「針の女」(2000~2001年)です。長い後ろ髪が印象的なキム本人が、メキシコシティ、カイロ、ラゴス、ロンドンの各街頭に立ち、それに反応する群衆の様子をビデオにおさめます。どの街でもキムは全く同じポーズで微動だにせず、人の流れを遮る形で立つので、殆どの人々は何らかの反応を示しますが、それが街によってかなり異なるのです。足早な人たちが行き交うロンドンでは、キムをチラッと横目で見やるだけの人が多いのですが、ラゴスでは「これは一体なんだ?」と言わんばかりに人だかりとなって、キムを幾重にも取り囲みます。一方、メキシコシティとカイロの反応はやや複雑です。全く無視して通り過ぎる人々から、元々視界に入っていないかのように振る舞う人々、または、ジロジロと見つめながら、今にもキムへ話しかけようとする人々など、非常に多種多様です。ややパフォーマンス・アート的な雰囲気ではありますが、あくまでも主人公は、異世界から来たような素振りで各街頭に立つ、キム自身の沈黙の姿です。その気丈な後ろ姿に何を見出すのか。その辺も問われるように思います。

最後のビル・ヴィオラの「追憶の五重奏」(2000年)は、最もこの展覧会の主題に近い作品だと思います。15分ほどのビデオに登場するのは男女計5名。極限のスローモーションで、苦しみや哀しみ、それに驚きや喜びなど、人のありとあらゆる感情を表現します。もちろん、この作品も全くの無音で静かですが、5名の収まる構図はどこかバロック絵画のようにも見え、それが静謐感をさらに倍加させます。また、各々が必死に無言で何かを表現しようとする様子は、見ていると随分と滑稽にも映りますが、常に今にも声が発せられそうな気分になります。これがまさに「沈黙の声」なのかもしれません。

近代美術館で嗅ぐ現代美術の香り。次の日曜日までの開催です。
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「アジアのキュビズム」 東京国立近代美術館 9/24

東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
「アジアのキュビズム -境界なき対話- 」
8/9~10/2

アジアにおけるキュビズムの受容と展開を概観する展覧会です。アジア11ヶ国から集まった約120点の作品が、キュビズムというキーワードの元に展示されています。

まるでアジア全域を台風のように駆け抜けていった「キュビズム」。それ自体はピカソやブラックなどによって生み出された一つの美術様式であり、また運動でもありますが、アジアの諸地域の文化や風俗、またはそれぞれに元来あった美術の潮流と混ざり合うと、これまでにない新たな芸術表現を生み出していきます。そういう意味でキュビズムは、アジアにおいても実に普遍的ではありますが、あくまでも「アジアとしてのそれ」だったかもしれません。両者は、決して対立的に存在するわけではないものの、きわどいラインで一致しているようでもあり、またそうでないようにも思えます。やや曖昧な関係です。

20世紀初頭のヨーロッパにおいて誕生したキュビズムは、あまり時間差を置くことなくアジアへとやって来ます。そしてそれは、常に西洋を向いていた日本と、西欧化の渦に飲み込まれつつあった日中戦争以前の中国に、最も早く展開されることになりました。また、韓国も、日本の植民地支配下において比較的早い時期にキュビズムを受容します。(もちろん、本格的な展開は植民地の解放後です。)一方、タイやマレーシアなどの東南アジアや、インド、スリランカは、主に第二次大戦終了後の展開です。それに中国も、キュビズム受容の早さに反して、日本の侵略における国土の荒廃、またはそれ以降の内戦や、共産党支配のイデオロギー的な抑圧によって、キュビズムはかなり長い間地下に潜ります。自由な展開が可能となったのは最近のことです。

会場は「キュビズムと近代性」や「身体」など、4つのテーマに分かれて構成され、アジアにおけるキュビズムの展開に理解が深まるよう工夫されています。この中では、最も「身体」のセクションに、西洋のキュビズムを思わせるような、幾何学的で厳格な構成感を見せる作品が多く並びます。ここにキュビズムの持つ普遍性が最も表されていたとも言えるでしょうか。また、その反面、各地域の土着の匂いが感じられるような、ある意味でまさにアジア的な、「アジアの土着的キュビズム」とも言える展開が見られるのは、4番目の「キュビズムと国土」です。そしてこのセクションが、この展覧会の核心的な部分になっていたようです。とても面白く見ることが出来ました。

半ば使い回された「キュビズム」という言葉に、アジアと地域を被せるだけで、一つ一つの作品が斬新に見えてきます。これと言った作品がなかったのも事実でしたが、切り口の非常に優れた展覧会だったと思いました。
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「大巻伸嗣 ECHOES INFINITY」 資生堂ギャラリー 9/24

資生堂ギャラリー(中央区銀座)
「大巻伸嗣 ECHOES INFINITY」
8/23~9/25(会期終了)

先日まで資生堂ギャラリーにて開催されていた大巻伸嗣の個展です。会期末に見てきました。

ギャラリーは資生堂のビル地下一階にあり、そこへは狭い階段で降りていくわけですが、階段を一歩一歩降りる過程において、既に作品から生み出された「場」が始まっています。真っ白な天井と壁に覆われたギャラリーの空間は、蛍光灯の明るい光の元に美しく輝いていますが、その上下は白い幕で分割され、床に配されたカラフルな顔料による花々がうっすらと浮き上がります。上から見ると、白い幕は、雲か深い霧のようにも見え、下へ向かって歩くと、まるで飛行機でゆっくりと雲海を下降していくかのような気持ちにさせられます。

そして地上に降り立つと、まさにそこは一面の花畑です。鮮やかな顔料によって描かれた花々は、所狭しと床の全てを覆い尽くしていますが、その顔料は、これまでの入場者によって磨り減らされ、そしてぼやけています。何度もその顔料を塗り直すというワークショップによって、花畑は幾度も再生されたそうですが、さすがにこの日は最終日前日ということもあってか、顔料は限りなく拡散していました。しかしそこには、実際の花のような生死のリアリティーがある上に、見る人による痕跡、つまり花々を踏みつけて鑑賞した人々の記録が残っているわけです。

会場奥には、厚い透明のアクリル板によって覆われた、半ば保護された形とも言える花々が、制作当初のままに残されていました。アクリル板の透明さが花の上に重なると、水面に花が漂っているかのように見えます。また、蛍光灯の明かりにも強く反射します。一層光り輝いていたとも言えるでしょう。真っ白の空間の中に敷きつめられたカラフルな花々。シンプルな作りでありながらも、非常に魅力的な場所になっていたと思います。

大巻氏の作品は、2003年にトーキョーワンダーサイトでの「アウト・オブ・ザ・ブルー展」において、「Liminal air」という、これまた白を基調とした作品を見た記憶があります。全く異なる作品ではありますが、会場の白さは、あの当時の作品の雰囲気も思い起こさせました。
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李禹煥 「関係項」(4種) 横浜美術館「余白の芸術」にて

横浜美術館での「余白の芸術」展に合わせて制作された、李禹煥の彫刻作品「関係項」が4種、美術館前庭にて展示されています。

「関係項 6者会議」(2005年) 正面玄関中央

一辺2メートル程度の鉄板が6層に重ねられ、それを6つの石で囲みます。


鉄板部分を少しアップ。番号が印字されています。


手前は「6者会議」。奥に見える作品は「鉄の壁」です。横20メートル、高さ3メートル近くはあるでしょうか。

「関係項 鉄の壁」(2005年) 正面左

作品の正面を斜めから。鉄板の前に置かれた石は巨大です。


作品の裏から。正面と同じように石が置かれています。また、鉄板の上にも2つの石が置かれています。


鉄板の端は池に少し飛び出していました。池側の端は口が開いていますが、反対側は閉じています。


縦方向に。巨大です。遮られます。


石が上へと持ち上げられています。不思議と重みが感じられません。

「関係項 暗示」(2005年) 正面右

作品正面から。薄い鉄板と石。最近の作風を思わせます。


少し角度を変えてみました。鉄板の一端が上へ曲がっています。


緩やかなカーブを描く鉄板の端。

「関係項 見えるものと見えないもの」(2005年)

素材は鉄板2枚と石2つ。写真では、石が一つしか見当たりませんが、もう一つの石は地中に埋まっているわけです。

相変わらずの拙い写真ですが、横浜美術館の前には今、このような李の彫刻が置かれています。写真を撮られている方もおられましたが、殆どの方はいわゆる「作品」としては見ていないようで、一時は、子供たちが「6者会議」の岩の上にまたがって遊んでいました。もちろん、「お手を触れないで下さい。」との注意書きがありますが、無理もないことですし、おそらく李本人も咎めないかと思います。

「余白の芸術」展は、昨日23日に見てきました。また、当日は、李による「現代美術をどう見るか」というレクチャーにも参加してきましたので、そのレポートと展覧会の感想を、また後日にアップしたいと思います。(最後の、「関係項 見えるものと見えないもの」の写真は、11月に追加しました。)
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散歩の達人10月号 「神保町回游」

「大人のための首都圏散策マガジン」と銘打たれた月刊誌の「散歩の達人」ですが、今月号は、古本好きにはたまらない神保町の特集でした。

言うまでもなく神保町は日本一の古本街として有名なので、他の雑誌でも特集されているのを見かけますが、この「散歩の達人」でも、この街ならではの老舗古本店から、至る所に点在するB級グルメ的(?)な飲食店、それに何故か古本街に付きもの個性的な喫茶店までくまなく紹介されていました。文庫川村、東京堂書店、ササキレコード、またはまんてんにキッチン南海、そしてさぼうるにミロンガ…。私のお気に入りの店が一部なかったのが残念ですが、どこも神保町でしかあり得ないような店ばかりです。

記事を読んで驚いたのは、最近、北沢書店の一階に、あのブックオフの出店話があったということです。ちなみに今、北沢書店は、10月の全面リニュアールのために一時休店していますが、店舗一階には、出版社の割引価格本を販売するという「ブックハウス神保町」の開店が11月に予定されています。神保町エリア全体の古本店は、近年も増加傾向にあるということで、確かに裏路地などには面白く洒落た店を良く見かけるのですが、どうも靖国通り沿いの古本店はなかなか厳しいようで、実際に歩いてみても、空き地や他の業態の店が目立ちます。以前、神保町からやや離れた小川町に、ブックマーケットという、ブックオフのような古本チェーン店があったのですが、それは数年前に閉店しました。神保町にブックオフが誕生したらどうなるのか。同じ古本を扱っていながら、古本街にある店とは全く異なる売り方をするわけですから、相当の軋轢も生まれそうです。

「神保町本で男磨き」というコーナーに、「フルホン顔」なるものがあります。何でもそれは、
1.度の強いメガネを掛け
2.顔の皺が深く
3.知識人風情
4.隠居中年
5.小金持ち
6.自分本位
7.目つき鋭く
8.運動不足
9.家庭不和
10.活字依存症
ということだそうです。これに当てはまると晴れて「フルホン顔」に認定されるのかは知りませんが、私は一応、まだ中年にはなっていないつもりなので、4は当てはまらないのと、小金すらないので5も違うとは思うのですが、6から8、それに10は当てはまるかもしれません…。古本好きの方、如何でしょうか。

今年も10月28日から11月3日まで、恒例の「神田古本まつり」が予定されています。私も特に何かを買うわけでもないのですが、また今年も散歩がてら出向いてみようかと思います。
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新国立劇場 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 9/17

新国立劇場 2005/2006シーズン
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

指揮 シュテファン・アントン・レック
演出 ベルント・ヴァイクル
キャスト
 ハンス・ザックス ペーター・ウェーバー
 ファイト・ポーグナー ハンス・チャマー
 クンツ・フォーゲルゲザング 大野光彦
 コンラート・ナハティガル 峰茂樹
 ジクストゥス・ベックメッサー マーティン・ガントナー
 フリッツ・コートナー 米谷毅彦
 バルタザール・ツォルン 成田勝美
 ウルリヒ・アイスリンガー 望月哲也
 アウグスティン・モーザー 高橋淳
 ヘルマン・オルテル 長谷川顯
 ハンス・シュヴァルツ 晴雅彦
 ハンス・フォルツ 大澤建
 ヴァルター・フォン・シュトルツィング リチャード・ブルナー
 ダーヴィット 吉田浩之
 エーファ アニヤ・ハルテロス
 マグダレーネ 小山由美
 夜警 志村文彦
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団

2005/9/17 16:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階

新国立劇場の新シーズンのオープニング公演である、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いてきました。

この日の公演で最も素晴らしかったのは、最近、公演を重ねる毎にメキメキと力を上げているようにも思える、新国立劇場合唱団の力強く甘美な歌声です。このオペラでは、いわゆる見せ場に殆ど合唱が絡んでいて、それがワーグナー一流の大きなうねりを伴う壮大な劇を生み出していくのですが、新国立劇場合唱団は、時にはグイグイと押し出すように力強く、またある時には控えめ囁くように、極めて幅広い表現力でもって、それを実現していたと思います。劇中の最大の見せ場でもある第三幕での歌合戦においても、オーケストラと歌手を引っ張るかのように、大きく逞しく盛り上げていきます。見事としか言いようがありません。

歌手では、相変わらず役作りの上手いポーグナーのチャマーと、柔らかく伸びやかな歌声が魅力的なダーヴィットの吉田浩之が一際目立っていました。もちろん、主役であるザックスのウェーバーやヴァルターのブルナーも、長丁場を最後まで健闘していたかと思いますが、この二人の前には幾分存在感が希薄だったかもしれません。また、エーファのハルテロスは、強い意志を感じさせるようなやや硬めの声質で、ホールいっぱいに響きわたる歌唱も圧巻だったのですが、この公演における彼女の位置付けとやや相容れない気もして、若干の違和感も感じました。

東フィルは大健闘です。弦のしなやかさと、木管の軽やかな響き。この公演への強い意気込みが感じられます。さすがに金管こそ最後の方は厳しいかとは思いましたが、全体としては高い水準だったのではないでしょうか。また、レックの指揮は、思わぬ箇所で、やや作為的な表情を音楽に求める傾向があり、前奏曲を含め、特にオーケストラのみの部分で物足りなさを感じたのも事実でしたが、歌わせる部分はゆったりとしたテンポでじっくり聴かせてくれます。もう一歩、全体でも、大きな音楽の流れに任せるような、深い呼吸感のある指揮であればとも思いました。

演出は、歌手としてこのオペラを知り尽くしているというヴァイクルによるものでしたが、彼はこのオペラを、人情味溢れた喜劇として、非常に明確に位置付けています。ですから、劇からは、既存の権威への告発を伴う芸術への賛美とでも言うような、思想的メッセージが極力除かれていました。ザックスとエーファ、それにヴァルターは、半ば三角関係的な恋愛劇として描かれ、ペッグメッサーも完全に道化として、愛くるしささえ感じられるほどお茶目な役回りです。これはまるでロッシーニの歌劇でも見ているような雰囲気です。もちろん、このような喜劇的要素は、このマイスタージンガーという長大な作品の持つ一側面ではありますが、やはりこの流れに沿うと、第三幕最後におけるザックスへの賛美と、その反面とも言えるペッグメッサーへの嘲笑が、あまりにも唐突に、そしてあまりにも不憫に感じられてしまいます。この演出では、当然ながらその点を全く隠すことなく表現していましたが、何か違和感が拭えないのも事実でした。

少なくとも明快なコンセプトを見せていた演出に対して、それをステージ上で体現する舞台装置は、残念ながらあまり良いものとは思えません。ニュルンベルクの街を描いた箱形の装置は、美感にも乏しく、また、第三幕を除けば、ステージを埋め尽くすかのように窮屈に置かれています。もちろん、その分、歌手の声はホールへと良く通ることにはなるのですが、視覚的には、音楽の持つ壮大さを、半ばかき消すかように見えてしまうのです。また、登場人物の細かい所作は、かなり丁寧に描かれていましたが、群衆が登場して来るとやや散漫になってしまうのも気になりました。もう少し配慮があればとも思わせます。

ワーグナーの中でも特に好きな作品だけあって、最初から最後まで楽しみながら聴くことができましたが、今回の舞台を見て改めて、この作品特有の難しさのようなものを感じました。ただ、音楽的にはかなり良い出来かと思います。機会があればもう一日見に行きたいです。
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「石川九楊の世界展」 三越日本橋本店ギャラリー 9/19

三越日本橋本店新館7階ギャラリー(中央区日本橋室町)
「石川九楊の世界展 -書業55年還暦記念- 」
9/13~9/19(会期終了)

先日まで日本橋の三越で開催されていた、書家の石川九楊氏の個展です。私は書について知識がなく、当然ながら、この方の作品を見たのも今回が初めてでしたが、誤解を怖れずに敢えて言えば、氏の書業はもはや「書」の領域を超越しているようです。言い換えれば「言霊に根ざした抽象画」とでも表現出来そうな、いわゆる現代美術として捉え得る内容だったとも思います。極めて独創的です。一般的な書のイメージは完全に吹き飛んでいます。

展覧会は、比較的初期の作品から、近作のシリーズまで、石川氏の書業を幅広く紹介する内容となっていましたが、その中でも圧巻なのは、「歎異妙」や「源氏物語」などの、一見しただけでは到底文字とは判別出来ない、ある意味で、書を無限大に超えた世界観が実現されたような作品群です。もちろん、書においては、文字自体の意味が重要であって、当然ながら、石川氏も、あくまで書家として文字を書き続けているのかと思いますが、結果として表現された画面は、もはや完全に抽象的な世界です。形として見える書を見た(読んだ)時、そこに何を見出すのか。見る者に多くのイメージが委ねられています。

書の元となった現代詩や古典文学の意味や情景は、作品としての書へ投影されているようにも見えます。残念ながら、現代詩は、タイトルのみが注釈として明記されているだけなので、その内容は殆ど分かりませんが、源氏物語などの古典文学では、場面毎の情景描写、例えば侘しさや哀しさなどが、作品の書からも感じられるのです。ただ、石川氏の自作の詩には、原典としての意味が全く記載されていなく、氏本人の意向によれば、あくまでも書そのものから意味を汲み取って欲しいということだそうです。ですから、その意向を鑑みた場合、形としてのイメージと、既知としての原典のイメージを組み合わせることは、もしかしたら拙い「見方」だったのかもしれません。

2001年9月11日に発生した、いわゆる「アメリカ同時多発テロ事件」以降、氏はズバリ「9.11」と題された作品群を制作しています。そこでは、一目で世界貿易センタービルと分かるような形をした円筒形の建物が、細い線(これはもちろん「書」であるわけですが。)に取り巻かれながら、崩れさっていく光景が描かれています。ビルの周囲を囲むように、上から下へと、強い筆圧で描かれた曲線は、氏の近作でも見られる表現ですが、この「9.11」の作品にかかると、当時、ビルの崩落する様を生々しく捉えたテレビ映像と重なり合って、崩落の瞬間の煙や瓦礫にも見えてきます。そこからは、この事件によって亡くなった方々への哀悼の意が感じられるとともに、9.11以降の世界秩序への批判も読み取ることが出来そうです。

石川氏の、書に立脚しながらも全くその範疇にとらわれない自由な表現は、文字の解体を伴うような、既存の書への強い批判精神が感じられます。書のイメージを壊しつつも、非常に説得力のある方法で独自の世界観を構築している。これは稀有な方だと思いました。
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「百花繚乱」 山種美術館 9/19

山種美術館(千代田区三番町)
「百花繚乱 -咲き競う花々- 」
8/27~10/2

今、山種美術館で開催中の「百花繚乱」展です。これは、文字通り「花」にスポットを当てた展覧会ということで、同美術館のコレクションの近代日本画から、「花」にまつわる作品が約50点ほど展示されています。

展示作品の中では、最も古いものである酒井抱一の「秋草」(江戸時代)は、花をつけた線の細い秋草が、優雅な曲線を描きながら、まるで風に靡くように配されている美しい作品です。いつものことながら、酒井の繊細な筆の描写力と、動きと安定感を両立させる構図の妙に感銘させられますが、思わずため息すらもれそうな、詩的な美しさを持つ作品でもあります。

酒井と同じ江戸期の作品では、鈴木其一の「四季花鳥図」も見応えがありました。この作品は、屏風の左右に異なる季節が描かれていますが、左側の「秋」が特に素晴らしく、右下の池のそばに佇む二羽の水鳥の可愛らしさと、それを覆うように大きく盛りだす生き生きとした草花の描写は、非常に高い完成度を見せてつけています。

今回の展示でも目立っていたのは、7点の作品が展示されていた奥村土牛ですが、その中では「水蓮」(昭和30年)が最も魅力的に映りました。水の張られた器には、赤い水蓮が二つ浮かんでいますが、器には金魚の泳ぐ様も描かれていて、まるで蓮と金魚が、同じ水の中に、上と下とで同居しているような趣きです。水に浮かぶ蓮のしっとりとした赤色と、陶器に描かれている鮮やかな金色を帯びた金魚。質感と色の違いによる表現の対比も見事でした。

出会えば出会うほど、いつもその魅力に強く惹かれる速水御舟は、今回、「白芙蓉」(昭和9年)と「黒牡丹」(昭和9年)の二点が展示されています。中でも「黒牡丹」は、一枚一枚の黒い花びらが瑞々しく描かれていて、牡丹の花の重みをも感じさせる美しい作品です。また、花の重みに対して描かれた、茎と葉の淡く柔らかい表現も魅力的でした。花びらに描かれた黒いにじみが、こうも高い質感をもたらすとは、それこそ流石としか言いようがありません。

近代日本画で表現された「花」への愛情。花を通り越した、自然への優しい眼差しも感じられる展覧会です。10月2日まで開催されています。
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今週の「R25的ブックレビュー」

首都圏ではすっかりお馴染みになったフリーペーパーの「R25」ですが、今週号のブックレビューのコーナーには、芸術関係の書籍についての、非常に手軽な紹介記事が掲載されていました。

タイトルは「若者よ、芸術はそんなに恐くない」ということで、いつものR25的な決め台詞が並んでいるのですが、「そんなに」という副詞が、随分と控えめな印象をタイトルに与えています。さて、ここで紹介されている本は、新書など、手軽に読めるものを中心とした6冊で、中には赤瀬川原平氏の「名画読本」(光文社知恵の森文庫)や、森村泰昌氏の「踏みはずす美術史」(講談社現代新書)など、名著とも言える作品も混じっていました。6冊とも全て読まれたか、あるいは知っているという方も多いのかとは思いますが、この中では2~3冊しか手に取ったことのない私にとっては、なかなか有難い記事です。

美術系の内容を持つ新書は、最近随分と頻繁に出版されているようで、特に建築を取り上げたものは、書店でも良く目に付きます。このブックレビューにて紹介されていた本の一つに、美術出版社の「東京アートガイド&マップ」という本がありますが、これはなかなかカジュアルな感じで美術館などを紹介していて、何かと重宝します。コアなファンにとっては物足りないものもありそうですが、一つ、こういう形で美術館の情報をまとめたハンドブックがあるのも何かと便利です。

「R25的ブックレビュー」は、もちろん同誌のWEBサイトでも閲覧可能です。何かと忙しそうなこの世代ですが、一体どれだけの方がこの本を手に取って、実際に美術館へ駆け出すのでしょうか。少しでも美術への関心が広がればと、勝手に願うばかりです。
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「収蔵品展 難波田史男」 東京オペラシティアートギャラリー 9/11

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿)
「東京オペラシティアートギャラリー収蔵品展 難波田史男」
7/15~9/25

「難波田龍起展」に合わせた収蔵品展では、龍起の次男として生まれ、32歳の若さで亡くなった史男の作品が紹介されています。以前、彼の回顧展を東京ステーションギャラリーで見て以来、その世界に惹かれた私にとっては、久々に史男の作品をまとめて鑑賞出来る貴重な機会となりました。

展覧会は、史男の画業の中心となった水彩画、約100点ほどで構成されていますが、時系列に並べられたそれら一連の作品からは、彼の作風の変化を読み取ることが出来るのではないでしょうか。もちろん、どれも細い線によって描かれた、半ば「愛くるしい物語絵巻」とも言えそうな雰囲気を持っていますが、そこに見られる色や水彩のにじみ、または画面構成の変化は、不思議と史男の死へ向かうにつれて、陰鬱に、そして儚くなっていくのです。この変化を、史男自身の心情の変遷と関係付けて見るのはあまりにも安易ですが、まるで32歳で事故死という惨い結末を迎えた彼の人生を、どこか予兆しているかのようにも思えます。「死への軌跡」が描かれている。彼の作品からはいつも、涙を誘われるような、非常に感傷的な気持ちにさせられます。

比較的初期の作品では、登場する事物が、明るい色で生き生きと表現されていて、ダイナミックな構図の元に描かれています。幼い頃に心に抱くような、ユートピア的な、空想上の楽しい街の賑わい。そんなことも連想させるでしょう。しかしそれは、後年へ向かうにつれて徐々に薄暗くなり、最後にはまるで戦禍の果てのように、全てが崩れ去っていくのです。水彩やペンのにじみは、画面に色の多様性をもたらしますが、灰色の面や黒い線が多くなってくると、それも何やら破滅的な雰囲気となって、物悲しさを感じさせます。当初輝いていた生き生きとした事物は、いつの間にか死に絶えてしまったか、あるいは非常に苦しんでいる姿にも見えます。

彼の作品としては比較的珍しい油彩画も何点か展示されていました。こちらは重厚感のある質感で、後期の水彩画に見せたような脆さとは無縁ですが、色や形の気配は何処か幾分哀愁を帯びていて、決して明るい作品とは言えません。また、水彩画よりも、形態の動きに面白さがあるようにも思えます。興味深い作品ばかりです。

パンフレットによれば、彼の作品には「一貫して流れる物語性や詩情」があり、それは「幼い頃からの文学への関心によるもの」と言えるのだそうです。確かに夢想的ともとれるような詩的な題材と、アニメーション的な可愛らしい動きを交差させた画面からは、あくまでも非現実的な、遠い世界の幻想や物語を呼び起こさせるような力があると思います。それが、見る者自身の過去への郷愁や追憶になるのかは分かりませんが、作品には、それぞれの生の過程を自省させるような、強いエネルギーが内包されているようにも感じました。
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「難波田龍起展」 東京オペラシティアートギャラリー 9/11

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿)
「生誕100年記念 難波田龍起展 -その人と芸術- 」
7/15~9/25

今年生誕100周年を迎えた難波田龍起の回顧展です。初期の印象派風の作品から、1950年代以降のいわゆる抽象画まで、その制作の全貌を概観出来る、なかなか充実した展覧会です。

抽象的な作品を志す以前の難波田は、いわゆる具象画を精力的に描き続けていました。この展覧会では、その時期の作品を、「詩人から画家へ」(1927年まで)と、「古代への憧憬」(1928~1950年)という二つのセクションで紹介していましたが、その中では、断然後者、つまり「古代への憧憬」の方が印象に残ります。まるでギリシャやローマの彫刻のような、荒々しくも端正な造形による被写体は、どれも質感が高く、また、油彩絵具の丁寧な塗りは、この後に見られる抽象画の大作をも連想させます。彼は、古代ギリシャへの郷愁を強く抱いていたそうですが、これらの作品に、彼の理想郷が体現されていたのかもしれません。

三番目のセクションである「模索の時代」(1951~54年)に入ると、難波田の作風は抽象画へと傾き始めますが、この後の「生命の戦慄」(1955~1972年)では、線と面の交差や、鋭角的なフォルムの連なりなど、アンフォンメルの影響を受けたともされる彼独自のスタイルが花開いていきます。「青の詩」では、青を基調としながらも灰色を帯びたカンヴァスに、細く黒い線が踊るように動きを持って描かれています。構図は当然ながら抽象的で、形としてとても躍動感がありますが、しばらく見ていると、心の襞に寄り添うかように、作品が優しく語りかけてくるような気持ちにさせられて、無機質さとは遥かに遠い世界を見せてきます。また、この作品よりもさらに伸びやかな雰囲気を見せる「青い夜」では、赤や黄色が仄かに照っている青くて暗いカンヴァス上に、白と黒の細い線が半ば跳ね回り飛び回っています。まるでカンディンスキーの作品に、どこか水墨画の持つ幽玄さを加えたような気配です。

その後は「死と再生」(1974~1996年)と題された、最も表現力に優れた作品群を生み出した時期に入ります。「西方浄土2」という作品では、「青い夜」で見せたような躍動感は息を潜めますが、その分、線や形は、幾何学的にパズルのように組み合わって安定感を持ち、深い充足感をもたらします。色もさらに複雑で深淵な表現となり、幾重にも塗られた油彩には重みを感じさせます。「古代への憧憬」で見せたような、丁寧な油彩表現への若干の回帰とも言えそうです。

モネの「睡蓮」に触発されて描いたという大作「生の記録」シリーズ。横長の大きな作品が二点、展示室の正面を贅沢に飾って、その左右にはこれまた大きな油彩画が配されています。中央には観賞用の椅子も置かれていますが、そこに座ってこれらの作品を眺めると、生命を育む水や火の動き、またはもっと大きな宇宙や星の連鎖などを想像させます。線は限りなく面的になり、面も無限大に広がって、カンヴァス全体を支配します。色彩は一層温かくて柔らかくなり、見る者を包み込むかのように展示室を照らし出します。圧倒的な生命力と、その息吹を感じさせる作品です。

最後の「描けなくなるまで描こう」(1997年)には、難波田が入院生活を送っていた時に制作された「病床日誌」という作品群が展示されています。全てスケッチブックにカラーのサインペンで描かれた作品で、青や赤などの色彩が、画面を所狭しと埋め尽くしている様が見て取れます。サインペンということで、さすがに質感は高くありませんが、少し遠目で見ると、色と色との淡い混じり合いや、面や線の絶え間ない交差によって生まれた画面に、さらなる生命が誕生しているような強い意思を感じさせます。

難波田龍起というと、「生命の戦慄」にも見られたような、アンフォルメル的な作品のイメージがあったのですが、この展覧会を見ることで、その先入観は打ち破られました。ゆったりとした動きのある画面と、そこから発せられる強い存在感。儚さや脆さとは無縁とも言える、極めて強固な生命の意思がありました。今月25日までの開催です。
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「高木紗恵子展」 東京オペラシティアートギャラリー 9/11

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿)
「project N 高木紗恵子」
7/15~9/25

「難波田龍起展」と同時開催中の、オペラシティ財団が若手作家を取り上げるシリーズ「project N」。今回は1980年生まれという高木紗恵子さんの、鮮やかなアクリル画が展示されています。

カンヴァスにアクリル絵具をふんだんにのせた作品は、まるでメルヘンの世界の絵本のようです。描かれたシカや植物などには殆ど輪郭線がなく、絵具の鮮やかな色によってのみ象られています。絵具は、構図を丁寧に決めながら丁寧に置かれたというより、もっと自由にカンヴァスへ引き延ばされながら置かれたような気配を見せていますが、結果としての作品はどれも非常に美しく、絵具から発せられるピンクや白の光の乱反射が、展示空間を優しく包み込んでいます。パンフレットによれば、アクリル絵具は、「1回以上塗らない、のせない」という考えの元で使われているようで、確かに全体としては何やら平べったい印象も受けますが、不思議と作品自体は、池や湖の水面のざわめきのような、柔らかく繊細な表情を見せています。また、キリンやシカ、それに色とりどりの花々など、高木さんの描かれたものへの優しい眼差しも感じさせます。

一番最後に展示されたビデオは、アクリル絵画のアニメーションに、UAのボーカルが心地よく流れる作品です。アクリル絵具の質感はどことなくヴァーチャルな雰囲気を見せているのですが、このビデオでは、まるでその気配が実際に体現されているかのようです。こちらもとても面白い作品かと思います。

作品は「祝福された空間」という言葉でも説明されていましたが、夏の真昼の強い光線の元に投げ込まれた時のような、輝かしさと眩しさ、またはその光を受けることによる充足感を得ることが出来ます。見応え十分でした。
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「ローリー・アンダーソン『時間の記録』」 ICC 9/11

NTTインターコミュニケーション・センター(新宿区西新宿)
「ローリー・アンダーソン『時間の記録』」
7/22~10/2

パフォーマンス・アートの第一人者というローリー・アンダーソン(1947年~)の、日本初となった回顧展です。大変失礼ながら、私は彼女の名をこれまで全く存じ上げなかったのですが、音や映像、それに言語などの多様なジャンルをミックスさせながら、パフォーマンスとして作品を提示する試みは、どれも素直に楽しめるものばかりです。もちろん会場は、いわゆる体験型の展示がメインとなって構成されています。

この展覧会に触れる前は、タイトルの「時間の記録」と、パフォーマンス・アートというジャンルがあまり結びつかなかったのですが、単にパフォーマンス・アートを行う彼女の制作の経過を、そのまま「時間の記録」として捉えて良いのかと思います。また、アンダーソンの試みや思考自体は、幾分奇想天外的な雰囲気をたたえていますが、結果として出てくる作品はかなり取っ付きやすく、ある意味で分かりやすくなっています。それこそ、まさに理論を超えた「パフォーマンス」がそこにあるのでしょうか。

彼女がミュージシャンとして活躍している面もあるので、音に創意工夫を加えたような作品が目立ちました。「つむじ風」(1996年)や、「ハンドフォン・テーブル」(1978年)などは特に印象に残ります。思わぬ場所から思わぬ方向に聞こえてくる音。感性をくすぐられるような作品です。シンプルな題材を用いながらも、発想豊かな意外性を見せる。彼女の他の作品にも通じる要素です。視覚には捉えられないという音の当たり前の特性を、半ばトリック的に見せた面白さがありました。

体験型の作品の他には、彼女が別の場所で試みたもののコンセプトを示した図版なども展示されています。一つ一つの作品を体験していくだけでは、何故か彼女の制作の全貌になかなか近付いてきません。ですから、見ていてややもどかしさを感じる部分もあったのですが、これらコンセプトの展示がその辺を補ってくれました。

展示はかなり親切です。音や映像を駆使したパフォーマンス・アート。ICCならではの良質な展覧会と言えそうです。
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第36回サントリー音楽賞受賞記念コンサート「西村朗」 9/10

第36回サントリー音楽賞受賞記念コンサート「西村朗」

雅楽「夢幻の光」
室内交響楽第3番「メタモルフォーシス」
ピアノ協奏曲「シャーマン」

雅楽 伶楽舎
舞 霊友会雅楽部
ピアノ 高橋アキ
指揮 本名徹次
管弦楽 東京シンフォニエッタ

2005/9/10 15:00 サントリーホール大ホール

第36回(2004年度)サントリー音楽賞の栄誉に輝いた、現代作曲家の西村朗氏の受賞記念コンサートを聴いてきました。

ところで、私は西村氏の音楽に、CDでも一度も接したことがないので、今回が初めての「西村体験」となったわけですが、近作の雅楽「夢幻の光」やピアノ協奏曲「シャーマン」など、氏の多彩な音楽の表現は、全く飽きることがありません。静謐さと無骨さの狭間に大きく揺れる、刺激的でかつ穏やかな音楽の波に、いつの間にか飲み込まれたようです。これほど緊張感を持って音楽に接したのは久々でした。

一曲目は伶楽舎による雅楽「夢幻の光」でした。この曲は、全50分程度の三部構成で、第三楽章には今回の公演のために用意されたという、霊友会雅楽部による舞いが付けられています。そしてもちろん演奏は雅楽の団体ということで、これまた私がこれまで体験したことのない笙(しょう)や篳篥(ひちりき)、それに龍笛(りゅうてき)などの楽器が、全く想像もつかない音で鳴り響きます。特に第一楽章は、西村氏によれば「蒼穹」(蒼空、蒼天の意味。yahoo辞書より。)ということで、まるでオルガンのようにたっぷりと響く笙の音が、ゆったりとした息遣いで壮大な音の大伽藍を形成し、そこへ龍笛がその伽藍を上へ上へと飛翔してゆくかのように鳴り渡ります。非常にシンプルな構成でありながら、笙と龍笛の組み合わせが、ホールの空間を無限に広げるように、圧倒的な音の一大世界を組み立てます。雅楽の持つ表現の奥深さ。これほどまでとは思いませんでした。

第三楽章の「海」では、優雅な舞いが、まるで音と空気を程よく混ぜ合わせるかのようなゆったりした所作で披露されました。音楽はここで太鼓やりんなどによって、半ばリズミカルに、一層の厚みを増していきます。りんは、時の経過を淡々と知らせるかのように、美しく規則的に響きますが、その打つ鳴らす様の何と優雅なこと…。この部分は、氏によれば「命のざわめき」というイメージが付いていますが、りんと太鼓はまさに生命の息吹でしょうか。静謐な舞いの所作と、雅楽器の自然な息遣い。現代音楽というジャンルを超越した場がそこに体現されていたようにも思いました。

一曲目の雅楽があまりにも心に残ったもので、その後の二曲は、大変失礼ながら深く印象に残らなかったのですが、ピアノ独奏に高橋アキを迎えてのピアノ協奏曲「シャーマン」は、ピアノという楽器の持つ音の繊細さを、オーケストラが器用に演出していた美しい曲だと思いました。ハープのようにざわめくヴァイオリンや、龍笛のような音を発する管楽器などは、指揮の本名の元に、薄い音の層が一枚一枚積み重ねられたかのような音塊を生み出します。時折、「人々をトランスへと導く」(パンフレットから。)という大きな叫び。シャーマンはピアノであるとも説明されていましたが、オーケストラ全体に強固な魂が取り憑いています。ピアノによる刹那的な主題が何度も回帰してはまた過ぎ去る様子。ふと「輪廻転生」という言葉が頭を横切りました。また、ピアノは揺さぶられながら生を模索している。そんな風にも聴こえました。

10月の伶楽舎の公演では、武満徹の雅楽の大作が演奏されるそうです。同じく10月に予定された、現代音楽をリーズナブルに聴くことの出来るサントリー音楽財団の「作曲家の個展 松平頼暁」と合わせて、是非聴きに行こうかと思います。
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