「スイス・スピリッツ」 Bunkamura ザ・ミュージアム 3/25

Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷区道玄坂2-24-1)
「スイス・スピリッツ -山に魅せられた画家たち- 」
3/4-4/9

まさか現代アートまで展示されているとは思いもよりませんでした。スイスの山、アルプスをテーマに、近代絵画からコンテンポラリーまでを幅広くカバーします。なかなか意欲的な展覧会です。



ともかく、絵画の並ぶ中盤までの流れとポップ・アート以降の展示では趣きが大分異なりますが、まずはオーソドックスに、画家がいつ頃アルプスを描き始めたのかという所から展覧会は始まります。それによるとアルプスが身近な対象として意識され出したのは18世紀頃。それまで遠景ばかりが描かれていた山々が、科学の隆盛と共に研究や探索の対象となっていく。科学者らに同行して山へ入った画家たちが、記録として間近で山を描き始めるようになるのです。意外な接点でした。



ここではその先駆者として活躍したヴォルフの作品がズラリと並びます。ベタッと塗られた油絵具にて、ゴツゴツとした岩山を表現した油彩も悪くはありませんが、水彩の方がより魅力的に映りました。中でも洞窟越しにアルプスを眺めた「シュタンス近くのドラゴン洞窟」(1775頃)が美しい作品です。陽の光に当たった洞窟の岩肌が、黄色をはじめとする明るい色調でまとめられています。洞窟から見える湖や村の遠景も構図として面白いのですが、左端にて写生をしている帽子を被った画家の姿がより印象的です。ひんやりとした洞窟の中の空気すら伝わってくるような作品でした。



1848年のスイス連邦の成立に伴って、アルプスは国家統合の象徴的地位を占めるようになります。それに重なるのが絵画では古典主義からロマン派の時期です。ここでもいくつか興味深い作品が展示されていましたが、カラムの「ルツェルン湖」(1854-57)はなかなか魅力的でした。赤茶けた岩山と波がうねるルツェルン湖。沖に一艘の小舟が出ていることが分かります。手前で砕ける波の表現はどこかクルーベのよう。砂を飲み込みながら濁っている湖の姿が印象に残りました。

初期モダニズム絵画を紹介したセクション(第3章「1900年前後初期モダニズムにおける山岳風景」)では、ホドラー、ジャコメッティ、セガンティーニらの描くアルプスの光景が光ります。この展覧会で最も華やかな一角です。



アルプスの光景が光に包まれて輝いている二点、セガンティーニの「アルプスの真昼」(1891)と、ジロンの「ラヴェイの農民と風景」(1885)は実に鮮やかな色彩美で目を楽しませてくれる作品です。(画像は「ラヴェイの農民と風景」。「アルプスの真昼」は一番上にアップしたパンフレットに掲載されている作品です。)光眩しい川辺にて二人の男女が手をつないでいる「ラヴェイ」。大きな鎌と重たそうな女性の荷物が農民の労働をイメージさせますが、その二人の様子はどこか恋仲のようにも見えます。また荒々しいタッチにて点描画のようにまとめ上げた「アルプスの真昼」は、同じく農民と思われる女性が描かれていますが、こちらは一人で日向にて眩しそうに帽子のつばへ手をかけています。そして頭上に広がる真っ青な空。透き通ったその空気は、天に近い山の高さを巧みに伝えてきます。油彩と言うよりもパステル画のような味わいもまた興味深いところです。



第4章(「色と色彩の解放」)には、クレー(2点)やイッテン(1点)の興味深い作品がいくつか並んでいました。まるで塗り絵のように色彩が分割されている「入り江の汽船」(1937)。クレー晩年の作品です。芝色の山と水色の入り江。そこに一隻の汽船が左から入って来ています。またもう一点の「贋の岩」(1927)は、線と面が交錯する幾何学的な構図にて、閉塞感の漂う洞穴が描かれた作品でした。重たく崩れそうな岩。深い闇の奥。画像が手元にないのが残念ですが、私はこちらの作品により惹かれました。

キルヒナーら表現主義作家の作品が並ぶコーナーを超えると、一気にポップアートやコンテンポラリーの世界へと進みます。もちろんここでの絵画は、あくまで表現の一形態に過ぎません。空の木枠を壁に引っかけて、その掛かる様子が山に見えるというレーツの「これだってニーセン山」(1978)など、下らなさ満点の作品もありますが、真っ当な写真(?)にて山へ迫った作品もいくつか展示されています。とは言えやはり何でもありの現代アートです。展示室中央にドーンと置かれた巨大な岩石(もちろん作品!)や、ただのボロ切れなどをキャンバスに閉じ込めて山に似せかけた作品(スーター「絵画」)などは、思わずここが品の良い(?)あのBunkamuraだということを忘れさせるようなインパクトがあります。ちなみに私がこのコーナーで最も惹かれたのは、一番最後の暗室に展示されていたシュタイナーとレンツリンガーによる「山崩れ」(2005)というオブジェです。真っ赤な宝石の如く輝いている、まるで氷河のような結晶の山。それが溶け出すかのように水の音を立てながら崩れています。そして素材はなんとライトの破片と固体化された膨張溶液。そう言えば至る所にプラスチックのライトが突き刺さっていました。チープな素材を使いながらもなかなか美感があります。最後を飾るのに相応しい作品かもしれません。

「アルプスが描かれたキレイな絵がたくさんあるのだろう。」などと思って出向くと良い意味で期待を裏切られます。ちょっぴり刺激的な展覧会です。次の日曜までの開催です。
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「宮島達男展 『FRAGILE』」 SCAI 3/25

SCAI THE BATHHOUSE(台東区谷中6-1-23)
「宮島達男展 『FRAGILE』」
3/3-4/8

谷中のSCAIにて開催されている宮島達夫の個展です。展示作品はあまり多くありませんが、新たな境地を拓いたような新作の立体カウンターと、水を使った美しいオブジェが場を飾ります。もちろんいつもながらの平面作品も健在でした。

立体的に組み合わされたカウンター作品は、手前の展示室に1点、さらに奥の広い展示室に3点配されています。タイトルは「Counter Fragile」(2005-2006)。まさにFragile、モロく不十分に組み合わせれたカウンターです。また、この作品に合わせて開発されたというLEDはとても小さく、1~9の数字がどれも極めてゆっくりと数を刻んでいます。LED同士を繋げる素材はセラミックの細いワイヤーでしょうか。ワイヤーが蜘蛛の巣のように張り巡らされながらカウンターを支えています。そして支持体は透明なアクリル板。そこからカウンターが浮き出すようにぼんやりと点滅している。その集合体は特に何かを象っているわけではないそうですが、向かって一番右にあった作品は、遠目からだと金魚のようにも見えました。幾何学的な形にて、整然と数を刻みながらもカオスを見せる平面作品とは、また異なった味わいがあります。不定形な形が生む危うさ。カウンターを頼りなく支えるワイヤーにはあまり美感がありません。これにはやや戸惑いました。

その一方で、脆いカウンターの束を、水を使ったオブジェへと転換させた「C.F.Bubble in the water T-1」は非常に美しい作品です。一言でいうならば、これはまさに水中花。小さなカウンターが水の中で健気に咲き誇っています。細く弱々しい支持体もここでは水の浮力を借りたのか、まさに植物の茎のようにして伸びやかにLEDの花を支えます。そして時折ブクブクと沸き出してくる泡。その泡によって花が揺れてまた美しさを増していく。思わず欲しくなる作品でした。(手が出ないのに言っております…。)

小さな窓越しに設置された「Counter Window」(2003)は、半透明の磨りガラスの上にカウンターが時を刻む作品です。その色、形はともに、大きさこそ異なりますが六本木ヒルズにある作品(「Counter Void」)と似ています。こんな小窓が自宅にあったらと思うと…。既視感のある作品ではありますが、このサイズにはなかなか惹かれました。

4月8日までの開催です。お花見の季節の谷中散策にも打ってつけの展覧会です。
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「鬼頭健吾+田幡浩一」 トーキョーワンダーサイト渋谷 3/25

トーキョーワンダーサイト渋谷(渋谷区神南1-19-8)
「TEAM04+05 鬼頭健吾+田幡浩一」
3/17-4/12

渋谷のトーキョーワンダーサイトで開催中の、鬼頭健吾と田幡浩一のグループ展です。鬼頭健吾の展覧会と言えば、先日までギャラリー小柳で開催されていたロバート・プラットとの二人展を思い出しますが、今回は田幡とのコンビにてまた美しいインスタレーションを見せてくれました。



真っ白な展示スペースを見渡してまず目につくのは、appleのiMacにそっくりなモニターを使った田幡のビデオ・インスタレーションです。全部で4点。どれも細い線や小さな数字がブルブルと震えているアニメーションが映し出されています。この中では何と言っても一番右のモニターの作品が魅力的です。小さな線が三本。当然ながら何が変わることを期待して画面へ見入っていると…、突如モゾモゾっと動いて線がある物に変身します。(あとは見てのお楽しみ!)とにかく小さくて可愛らしい作品です。



小さな螺旋階段を上がった二階部分には鬼頭のインスタレーションが展開されています。タイトルは「the structure of color」(2006)。パッと見るとカラフルな細い棒のような線が浮いて、それが何本も連なりながら空間を埋め尽くしているようにも見えますが、目を近づけると意外な素材で作られていることが分かります。(この素材も現地でお確かめ下さい!?)小柳の個展では素材のフラフープが比較的分かり易い形で提示されていましたが、今回はその姿からすぐに想像のつかない素材と言えるかもしれません。無数のカラフルな直線の浮遊。サイバー空間、神経回路、未来都市…。色々なイメージが頭に浮かんできます。ありふれた素材から生まれた驚きの美。作品自体の魅力はもとより、ちょっとした見せ方の工夫によって素材の質感を大きく変化させてしまう、鬼頭のその創造力には脱帽させられます。

入場料は無料です。渋谷で手軽に楽しめる美しいインスタレーション。来月12日までの開催です。
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芸術新潮4月号 「藤田嗣治の真実」

拙ブログで「芸術新潮」を取り上げるのは二度目のことですが、今月号は表紙絵を見てすぐ購入しました。メイン特集は「藤田嗣治の真実」。いよいよ今日から始まった東京国立近代美術館の「藤田嗣治展」に合わせた企画です。

芸術新潮 04月号 [雑誌]


新潮社


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藤田の特集は全80ページほどです。図版掲載が何かと難しいとも聞く藤田の作品ですが、今回だけはいつもの芸術新潮の通り、カラー図版や写真がふんだんに使われています。(藤田の図版がこれだけ掲載された雑誌も珍しい?)構成は7章立て。藤田の生涯を簡単に追いながら、その画業に迫まっていく内容でした。

どの記事もなかなか簡潔に良くまとめられているのですが、特に彼の作品のキーワードでもある「乳白色の肌」(1章「白い裸身」、7章「超絶技巧の秘密」)や「猫」(3章「猫たちの劇場」)については、かなり分かり易く解説されています。また、彼が最晩年に建てた通称シャペル・フジタ(正式名称ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ礼拝堂)は、実に鮮やかな写真入りにて紹介されていました。これで現地へ行かないと見ることの出来ないフレスコ画も確認出来ます。(6章「聖母礼讃」)彼の宗教画に興味のある私にとっては大変に嬉しいところでした。

雑誌では、一般的な藤田のイメージ(それこそ乳白色の裸女などですが。)とは異なった作品もいくつか紹介されています。その中では彼がシュルレアリスムに取り組んだものや、南米旅行で手がけた風俗画などが印象深い作品でした。(2章「万国風俗図鑑」)また、今回の回顧展ではさすがに展示されませんが、驚異的なスピードで描かれたという彼の最大の作品「秋田の行事」も、写真入りで簡単に触れられています。(4章「群像表現との闘い」)一面的ではない、藤田の全てを捉えようとする姿勢。藤田と日本美術界の関係のような、諸説も分かれる問題点についての突っ込んだ議論はさすがにありませんが、そこまで求めるのは高望みかもしれません。ともかく分かり易くまとまっています。

藤田は、作品よりもその生涯に何かと「曰く」が語られる作家でありますが、私が彼の作品に出会った(つまり意識して見始めた。)のは、そんな「曰く」を少しも知らない今から2、3年前のことでした。初めはブリヂストンの常設展や、その他の名画展で見た乳白色に美しさを感じていたのですが、ある時東京国立近代美術館の常設に展示されていた一枚の戦争画を見てから、その作品の凄みはもとより、決して「乳白色の画家」だけではない、多様な表現を手がけたその幅広い才能に驚かされます。ただし作品は当然ながら断片的にしか見たことがありません。ですから今回の回顧展が非常に待ち遠しかったわけです。

藤田嗣治「異邦人」の生涯


講談社


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藤田を取り巻く様々な言説については、今年1月に講談社文庫から改版された「藤田嗣治 異邦人の生涯」(近藤史人 講談社)を参照するのが一般的でしょう。「日本と喧嘩別れをしてフランスへ渡った藤田。」というような安易な藤田像を改め、丹念にその生涯をひも解きながら、彼と関わりのあった人物との交流を通して、近寄り難い奇異な芸術家でもまた異端者でもない、まさに等身大の人間味ある藤田の姿を詳らかにする試み。文庫版になり手軽にもなりました。この回顧展を機会に手に取ってみても良いかもしれません。私が一読したところでは、特に戦争画へ向かった藤田へ対する著者の解釈が新鮮でした。この行に著者の藤田への強い愛情がこめられています。良書です。

*藤田関連ではもう一点、ごく最近に「藤田嗣治 パリからの恋文」(湯原かの子著 新潮社)という本も発売されたようですが、こちらはまだ未読です。出来れば近いうちに読んでみたいと思います。

4月号を読んで藤田展への期待がさらに高まってきました。混雑しないうちに早めに行きたいものです。
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「VOCA展 2006」 上野の森美術館 3/25

上野の森美術館(台東区上野公園1-2)
「VOCA展 2006」
3/15-30



毎年定期的に開催されていたことは知っていたのですが、実際に出向いたのは今回が初めてです。上野公園の一分、二分咲きの桜を横目にしながら、上野の森美術館のVOCA展へ足を運んできました。



出品作品は全て40歳未満の作家の平面作品に限るという、かなりコンセプトの絞られた展覧会ですが、これまでに私が美術館やギャラリーで拝見した作家の作品がいくつか展示されていたのは嬉しいところです。佳作賞を受賞した高木紗恵子。以前オペラシティーで開催された「project N」の展示でも印象深かったのですが、今回出品作の鮮やかなアクリル画「Untitled」も、まさに春を思わせるような華やかな画面で楽しませてくれました。咲き誇る花と木々の響宴。爽やかで美しいイメージが、瑞々しいアクリルのタッチで伸びやかに広がります。所々でキラリと光っているウレタン樹脂も魅力的です。また遠近感のない、全てを平面に閉じ込めたような画風も個性的でした。



既知の作家と言えば、つい先日までギャラリー小柳にて二人展を開催していた鬼頭健吾とロバート・プラットも充実した作品を展示しています。小柳ではフラフープのインスタレーションが見事だった鬼頭健吾。もちろん今回は平面で勝負です。ガラスビーズやアクリルが所狭しと鏡のボードを覆っている「cosmic dust」。白いビーズがまるで雪のように降り積もり、そこにまさにフラフープの曲線をイメージさせるような糸状に縺れたピンク、青などの線が重なります。また小柳での個展では今ひとつ魅力が伝わってこなかったプラットも、今回出品作の「Rendezvous」は非常に素晴らしい作品かと思いました。画面中央を軸にして形成される上下二つの幻想世界。雪の舞う木々に囲まれた湖面上には、馬が何頭も気持ちよさそうに疾走しています。そして一番上の木目調の紋様からは鹿の駆ける円柱がいくつか突き出していて、それらがまるでメリーゴーランドのように回転している。白、黒、ミントの色彩が何層にも重なって生まれる錯視的な立体感。小さくシャボン玉のように浮いた円の中には、スノーマンのような可愛らしいクマがこちらを向いていました。これは一押しにしたい作品です。

これまで未知だった作家の作品にも、当然ながらいくつも見応えのあるものが並んでいます。まずは藤本英明の「Thermoscape」でしょうか。赤から朱色へ移り行く美しいグラデーション。それが真っ直ぐ伸びた地平線によって二分割され、横に広大な草原地帯が広がります。その一番手前にてこちらをジッと見つめる一頭の牛。この広々とした空間にポツンと寂しそうに佇んでいます。また画面全体を覆った横方向の線は、まるでテレビの走査線のようにも見え、作品に不思議な映像効果をもたらします。果てしなく広がる荒涼とした大地に立つ者。その時受けるであろう孤独感。牛の前からなかなか立ち去ることが出来ませんでした。

厚く塗られた油彩絵具と屏風のように折り曲げられたパネルが、作品に巧みな立体感を与えている花澤洋太の「もり」も印象的です。白、さらには限りなく白に近い青や黄色の色彩。それらが四角形の痕跡を残りながら、分厚くベタベタと塗られている。波打つパネルと、ボリューム感のある盛り上がった油彩絵具が、まるで作品を壁画か工芸作品のように見せてきます。同じく工芸作品のような味わいがあった青木克世の「鏡よ鏡」と合わせて、平面のカテゴリーにギリギリおさまったような表現も興味深いところでした。(その他では、浜田涼による写真を絵画のように見せた作品や、流麻二果のコラージュなども印象に残りました。)

今の上野のアートシーンを飾る、ロダンやプラド展の濃厚な味わいとはまた異なった、フレッシュでちょっぴり刺激のある展覧会です。今月30日までの開催です。
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さらに「運命」を楽しんで…。 ティーレマンとウィーンフィル。

18時まで「運命の力」を楽しんだ後は、そのまま続けて「ヨーロッパ・クラシック・ライブ」を聴いてみました…。と言いたいところですが、なんせオペラは3時間の長丁場。いくらFMと言えども少し聴き疲れてしまったのも事実なので、食事を挟んで再度FMに耳を傾けてみることにしました。演奏はティーレマンとウィーンフィル。曲は超有名な「運命」。現地からの生放送です。

ヨーロッパ・クラシック・ライブ NHK-FM(3/26 18:00~)

曲 ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調

指揮 クリスティアン・ティーレマン
演奏 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

収録:ウィーン楽友協会から生放送

ラジオのスイッチをつけたら、ちょうどメインの「運命」が始まるところ…。指揮のティーレマンと言えば、まさに21世紀の音楽界へ君臨せんとばかりに、指揮の王道を歩む若き「巨匠」。殆ど彼を聴き込んだことのない私の勝手な思い込みでは、力感迸るたくましい造形美とねっとりとした官能美を備えつつ、音楽の巨大な大伽藍を作り上げるイメージがあるのですが、この「運命」を聴くと、そんなティーレマン像はあくまでも一面でしかないことに大いに気付かされます。むしろ妙に個性的な表現、つまりオーケストラへ細工を加えるかのようにして音楽に意外性を与える点の方が興味深く感じられました。激しく揺れる弦の中から、突如奇声が上がったかのように浮かぶ木管群。思わず椅子から仰け反ってしまいそうなほどのアゴーギク。特に、第二楽章での情感豊かで地に這うようなオーケストラの唸り。いくら「運命」と言えども、シンフォニーという抽象的な音楽とは思えないような激しいドラマが、極めて奔放な表現で実現されている。ウィーン訛りのアーノンクールの音楽を、最大限にロマン主義的に拡大した音楽。そんな印象も受けました。また解説の諸石さんも仰っていましたが、彼の音楽に、作品の面白さを分からせるようなドラマチックな劇場性があるとすれば、そこには聞き手がすんなりと入り込める余地が残されているのかもしれません。一つ一つのフレーズから多様な情景が浮かんでくる、まさに衒学的な講釈にならない、実に良い意味で分かり易い音楽なのかとも思いました。



劇場的と言えば、ティーレマンは今年のバイロイトでリングを振ることが予定されています。しばらく前にリリースされた「トリスタンとイゾルデ」は未聴なのですが、この濃厚かつ個性溢れる音楽がリングにどう作用するのでしょう。既にバイロイトの指揮台にも立っていて、その演奏にも高い評価が与えられているティーレマンですが、そちらにも注目したいと思いました。(と思っていたら4月には「パルジファル」もリリースされるとのこと。個人的にはマイスタージンガーがピッタリかと思うのですが…。)
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再度「運命の力」! ルイージとバイエルン国立歌劇場のライブ録音

今日はイマイチ体調が冴えないので自宅でゆっくりと過ごしているのですが、先ほどまで、NHK-FMにて新国立劇場の公演に合わすかのような録音が放送されていました。2005年6月にバイエルン国立歌劇場で収録された、ヴェルディの「運命の力」です。

海外クラシックコンサート NHK-FM(3/26 15:00~)

曲 ヴェルディ 歌劇「運命の力」

指揮 ファビオ・ルイージ
演奏 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
キャスト
 カストラーヴァ侯爵 スティーヴン・ヒュームズ
 レオノーラ ヴィオレタ・ウルマナ
 ドン・カルロ マーク・デラヴァン
 ドン・アルヴァーロ フランコ・ファリーナ
 レチオシルラ ダグマル・ペツコヴァー
 グァルディアーノ クルト・モル
 フラ・メリトーネ フランツ・ヨーゼフ・カペルマン 他
合唱 バイエルン国立歌劇場合唱団

収録:ドイツ・バイエルン国立歌劇場 2005/6/28

指揮はこれまた偶然なのか、新国立劇場の次回公演でお目見え予定のルイージでした。演奏された版は、やはりスカラ座改訂版。キャストはさすがに強力です。



ルイージと言うと新進気鋭の実力派指揮者などと専ら紹介され、特に最近はマーラーのCDでも注目されていたようですが、私は彼の演奏でいわゆるオケものを聴いたことがなく、もっぱら「アロルド」や「ウィリアム・テル」などで楽しんでいます。彼は美しいカンタービレを靡かせて音楽を大きな力を与えながら、縦の線でもキレイに揃えることが出来る。言い換えれば、(漠然とした言葉で恐縮ですが。)音楽を伸縮自在に器用に変化させられる、イタリアオペラ的なダイナミズムにもピッタリな方だと思います。例えば今回の「運命の力」でも、第三幕の「ラタプラン」での処理が実に上手い。ダンスのシーンの前に一回山場を作るかのように盛り上げて、一気呵成に攻めたかと思いきや、その後はあくまでも抑制的にリズムを刻みます。もちろんそれでいてやはり最後はアップデンポ。滑稽な踊りに緩急の妙が加わり、俄然このシーンに生気が与えられるのです。また重唱やアリアでも、時に強引に歌手を引っ張っておきながら、いきなり力を抜くかのようにストンと音楽を流す。(第4幕のメリトーネのシーンでの音楽の目まぐるしい変化!)さらには時折音楽を壊すかのようにど迫力なシーンを作り上げるのも興味深いところです。(カルロとアルヴァーロの決闘の二重唱の恐ろしさ!)音楽押しの一辺倒だけではない、全く息苦しくならないふくよかでダイナミックな音楽。このような放送を聴いていると、次回の「カヴァレリア&道化師」が本当楽しみになってきました。

ビックネームも揃う強力なキャストは、グァルディアーノのモルやレオノーラのウルマナ、それにアルヴァーロのファリーナがさすがに立派でした。(モルの神父は実に説教臭くて、この役にピッタリかもしれません。)ただ、ややカルロ役デラヴァンの声には好き嫌いが分かれるかもしれません。鼻にかかったような歌唱がややマイナスポイントでした。またレチオシルラのペツコヴァーも少し硬かったように思います。もう少し突き抜けてくるような力が欲しいとも感じました。

バイエルンの歌劇場のオーケストラは、このオペラに軽やかなメロディーを刻むようなことはせず、あくまでも暗鬱な憎悪劇としてまとめ上げます。それでも時々ルイージにあおり立てられるのか、半ば暴力的に劇を進めたりもしていました。(幕切れの焦燥感!)ただし暴力的と言っても、金管が殺伐とした雰囲気になることはありません。この辺は地力でしょうか。聴いていて安心出来ます。

NHK-FMではこの放送に引き続いて、「ヨーロッパ・クラシック・ライブ」(さ、最終回!?)と題した、ティーレマンとウィーンフィルの生放送が予定されています。そちらも出来ればまた聴いてみるつもりです。
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「ヘレン・ファン・ミーネ」 ギャラリー小柳 3/25

ギャラリー小柳(中央区銀座1-7-5 小柳ビル8階)
「ヘレン・ファン・ミーネ -A Sense of You, Created by Me- 」
3/16-4/20

オランダ人アーティスト、ヘレン・ファン・ミーネの写真展です。また始まったばかりの展覧会ですが、今日、偶然ギャラリーの近くを通りかかったのでぶらりと足を伸ばしてみました。主にロシアや東欧で撮影された、ポートレートのような人物写真がいくつか並んでいます。

タイトルは「Untitled」。被写体の殆どは、思春期以降の若い男女や、同じく若々しい妊婦などです。一見何気ない構図にておさめられた少女たち。何故か皆、目をそらすかのようにあらぬ方向を見つめています。そしてその眼差しはどこか哀愁を帯びている。強固な意思を発露していません。また大方の作品は一人で寂しそうに写っているのですが、時には二人で寄り添うかのように写し出されています。純粋と不純の間にあるような彼ら。その内面のドラマを穿り出そうとして覗き込んでいる自分。見る者と見られる者との緩い緊張感。結局、彼らはなかなか心を露にしてくれませんでした。羞恥心にて包み隠された脆い個体。どこかノスタルジックなイメージも湧いてきます。妊婦が腹をさらけ出しながら木漏れ日の差し込む森にて立っている作品や、深い青のカーテンをバックに彼方の方向を見つめる女性の作品が特に印象的でした。

この個展との連動企画と言うことで、トーキョーワンダーサイト渋谷でもミーネの展覧会が開催されています。そちらのタイトルは「Tokyo Girls」。ズバリ東京の少女を撮った作品です。機会があればまた出向いてみたいとも思いました。来月20日までの開催です。
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新国立劇場 「運命の力」 3/21

新国立劇場 2005/2006シーズン
ヴェルディ「運命の力」

指揮 井上道義
演出 エミリオ・サージ
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京交響楽団
キャスト
 レオノーラ アンナ・シャファジンスカヤ
 ドン・アルヴァーロ ロバート・ディーン・スミス
 ドン・カルロ クリストファー・ロバートソン
 プレツィオジッラ 坂本朱
 グァルディアーノ神父 ユルキ・コルホーネン
 フラ・メリトーネ 晴雅彦
 カラトラーヴァ侯爵 妻屋秀和 他

2006/3/21 15:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階

新国立劇場で公演中の「運命の力」を聴いてきました。幕切れでの悲劇性が幾分和らげられ、また全般的に音楽のスケールが増したスカラ座改訂版での上演です。



まず目立っていたのは主役歌手陣の好調ぶりです。レオノーラのシャファジンスカヤは非常に強力。初めの方こそ表現がやや硬めで、やや絶叫一辺倒にも聴こえてしまいましたが、幕が進むにつれ細かいニュアンスに富んで、ピアノ方向にも配慮が増していきます。アルヴァーロに見守られながら死を迎える幕切れでは、情緒感たっぷりの美しい歌唱でホール全体を涙に誘います。グッと引き込まれました。

兄のカルロ役ロバートソンもはまり役です。彼は以前、新国立劇場でアルマヴィーヴァ伯爵を歌っていますが、それとは打って変わった復讐に燃えるカルロの狂気を、迫力に満ちた演技と歌唱で巧みに表現します。低く伸びる太めの声質と、役柄にもピッタリなその威圧感のある風貌は、まるでリングのファフナーのような凄みすら与えます。特に、執拗にアルヴァーロへ決闘を迫る第四幕の二重唱は圧巻です。また、その他アルヴァーロのスミスと、神父のコルホーネンも十分に務めを果たしていました。冷ややかな表情で復讐劇を見つめていた神父の姿は実に印象的です。もちろん歌もバッチリでした。

この暗い悲劇にてブッファのような役回りを見せるプレツィオジッラとメリトーネでは、圧倒的に後者の晴雅彦の方が光っていました。修道院の厳格な戒律を打つ破るかのように、ただ一人道化として振る舞うメリトーネは、テノールのように伸びる高音を聴かせながら、この重たいオペラに一種の清涼感すら与える晴の歌唱がピッタリです。マイスタージンガーではあまり印象に残らなかった彼でしたが、演出の都合かややオーバーアクション気味の演技も加わって、その存在感を見事にアピールしていました。(一方のプレツィオジッラの坂本はかなり厳しい出来かと感じました。もう少し強さがないと「ラタプラン」のシーンが映えません。)

指揮は「ラ・ボエーム」以来この劇場に登場した井上道義です。もっとリズミカルな線の細い音楽でヴェルディを処理してくれるのかと思いきや、意外にもゆったりとした重厚な色彩にて音楽をまとめていきます。普通はさらっと流してしまうようなアリアの最後の和音にまで神経が通っている。その全力の指揮ぶりには大いに拍手を送りたいところですが、全体的にはやや腰が重過ぎたようにも感じました。特にアリア、重唱部分で、ベタッと地に這いつくばる音の塊のようにリズムが硬直したのは残念です。ただし合唱部分の沸き立つリズム感や、遅めのテンポにて丁寧に聴かせた序曲は見事かと思います。あえて言えば、井上の芸風は、ヴェルディよりもヴェリズモ以降プッチーニ辺りの、もっと美しいカンタービレを靡かせることの出来る作品の方が合っていたのかもしれません。また、井上の棒に終始喰らいついていた東京交響楽団も、無味乾燥な音に驚かされた金管をのぞけば概ね好調でした。(木管が素晴らしい!)



エミリオ・サージの演出は、基本的に歌手の邪魔をしないオーソドックスなものでした。赤い紗幕や箱形の装置を使って、決してスムーズとは言えないものの、嫌みを感じさせずに劇をまとめます。ただ、人物の衣装や群衆の動きなどには美感が乏しかったかもしれません。照明を器用に使って登場人物の心理を描き分けていたのは良かったのですが、装置を含め、もう一歩劇へ踏み込むような工夫があればとも思いました。

私は「運命の力」を初めて舞台で拝見したのですが、映像ではなく実際に劇に接しても、やはりストーリーや音楽についてギクシャクした部分を感じてしまいます。劇としては初演版の組み立ての方が面白いかと思うのですが、この上演で改めて改訂版を見ると、やはり音楽が、特に第四幕を中心にして充実しているようです。(ただし、序曲はどうしてもスッキリとした初演版の方が好きです。改訂版の序曲はあまりにも華々し過ぎます。)レオノーラ、アルヴァーロ、カルロの三者の暗鬱な恋愛憎悪劇と、プレツィオジッラとメリトーネのブッファ的な明るい対比の妙。とは言え、第三幕の「ラタプラン」のシーンはどうしても蛇足に見えてしまう。(その滑稽な音楽とダンスには思わずニヤリとさせられるのですが…。)第二幕の一場にて真のカルロの姿を見抜くプレツィオジッラは、何故第三幕では本筋に絡まないで踊るだけなのか。また、これは改訂版の問題かと思いますが、幕切れの筋立ては初演版の方がハッキリと通ります。(ヴェルディ自身は納得しかなかったそうですが。)愛するレオノーラを、彼女の実の兄に刺されて失うという最悪の結末を迎えながら、それでもなお生きる意思を示すアルヴァーロ。そこに何の希望を見出せば、また救済を与えれば良いのでしょう。豪快に神を呪って飛び降り自殺する方が、神を超えた恐るべき「運命の力」に翻弄される人間たちの哀れさを示すことにもなる。そんな気もしました。

やや長さを感じさせる部分こそあるものの、歌手を中心に聴き応えのある公演です。次シーズンに早くも再演が予定されている公演ですが、そちらは初演版で聴きたいとも思いました。(無理な話ですが…。)
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「project N 小林浩」 東京オペラシティアートギャラリー 3/21

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿3-20-2)
「project N 24 小林浩」
1/14-3/26

見応え満点の収蔵品展に続く「project N」では、小林浩の手がける、一見可愛らしいぬいぐるみのアクリル画が待ち構えていました。ぬいぐるみにたちに囲まれたコリドールもまた一興。いつものことながら、この「project N」のセンスの良い展示には目を見張らされます。

小林がぬいぐるみをモチーフにして制作し始めたのは最近のことだそうですが、もはやそのスタイルは一つの独創的な画風として確立しています。ぬいぐるみたちが真っ白な空間に投げ出される様子を、セピア色のアクリル絵具で丹念に塗り固めていく。絵具がまるで地図の等高線のように何層にも重なって、白いキャンバスに留められている。表面はタイルのように鮮やかに光っています。表現としては当然ながら絵と言うことなので平面作品かと思いますが、ぬいぐるみの舞った空間とそれを象るアクリル表現はともに立体的です。投げ出されたぬいぐるみがスローモーションで動いている。その一瞬間を切り取った画面。映像作品のような雰囲気も持ち合わせています。



白い箱か部屋の中に、まるで無重力状態のように舞っているぬいぐるみたち。「デッド・ヒート」(2005)ではそのぬいぐるみの可愛らしさよりも、投げ出されてぐちゃぐちゃになり、またそれぞれがぶつかり合いながら為す術もなくただ漂うぬいぐるみの、どこか無為になったやるせなさを感じさせます。そしてぬいぐるみたちが床で寝ている「春眠」(2005)も、一見スヤスヤと眠るぬいぐるみの様子が描かれながら、やはり折重なって窮屈に這いつくばっているようにも見える。これらは捨てられたぬいぐるみたち、つまりは死んでしまったぬいぐるみなのかも知れません。初めに「一見可愛らしいぬいぐるみ。」とも書きましたが、それだけで終らない、まさに人間に無慈悲に扱われているぬいぐるみの、または動物たちの虚しさを表現しているようにも見えました。



好みの次元の話ではありますが、細部でのアクリルの処理はややアバウトです。もう少し、パッと見た時に得られる印象のように、リアリティーのある線の方が美しいのかとも思いました。これも収蔵品展と同様におすすめしたい展覧会です。
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「収蔵品展020 抽象の世界」 東京オペラシティアートギャラリー 3/21

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿3-20-2)
「収蔵品展020 抽象の世界-色・かたち・空間」
1/14-3/26

昨日はメインの企画展についてあまり好意的でない感想を書いてしまいましたが、常設展示にあたる収蔵品展は、どれも飛びきり上質な作品ばかりで見応え満点でした。さらっと見終えた企画展の数倍はじっくりと見ていたでしょうか。このギャラリーの所蔵する抽象画ばかりが約80点ほど並んだ展覧会です。ボリュームも満点です。



入ってすぐの展示室に並んでいた大きな油彩の抽象画にはあまり惹かれなかったのですが、その先の細い廊下に展示されていた平野充の小さな油彩画はどれも絶品でした。ペン画を思わせるような精緻なタッチに、水彩のように柔らかく浮かび上がる黒い色彩。暗がりの画面には、光のカーテンのような白い帯がひらひらと舞っています。まるで、つい一ヶ月ほど前に見たオラファー・エリアソンの「影の光」が、紙の上にて小さくまとまって実現したような味わいです。特に作品番号27の「無題」(1985)は、その光にクレーを思わせる美しい赤い色彩が加わります。また作品番号28番の「無題」(1999)も、まるでしとしとと雨が降っているように上から下へと線が垂れていて、それがどこか涙のイメージとも重なり合います。刹那的です。初めて見知った方でしたが、もっとまとめて拝見したいとも思いました。

昨年の大回顧展が記憶に新しい難波田龍起は4点展示されています。油彩にエナメルで描かれた「青い夜」(1966)。青く広がった奥深い空間に交錯する無数の白い線。その一本一本の線は、まるで体内を駆け巡る神経のようで、感情の交差が激しく起っている有様にも見えてきます。とても心を揺さぶられる作品です。また、数年前の東京国立近代美術館での回顧展で感銘した野見山暁治も2点出ていました。この中では「夏の終わり」(1985)が印象深い作品でしょうか。くすんだ草色や水色が、揺らぎながらせめぎ合い、そして広がっていく。決して大きな作品ではありませんが、キャンバスを超えていくような無限の広がりを感じる作品です。その他、赤い油彩が激しく飛び散っている堂本尚郎の「絵画」(1961)や、黄ばんだ紙にインクが染み渡って、まるで画面にぽっかりと穴が開いてしまっているようにも見えた榎倉康二の「干渉(飛散)No.3」(1998)なども、それぞれかつて開催された回顧展(『堂本尚郎展 世田谷美術館』/『榎倉康二展/東京都現代美術館』)の記憶を呼び起こさせながら、改めてその魅力に触れることの出来る作品でした。

一見書のようにも見える艾沢詳子のコラグラフ作品(5点)も、なかなか味わい深い作品です。和紙に真っ黒な墨が滲んでいるようにも見える大きな染み。それが白い紙と相互に影響し合って一個の画面を作り上げる。その得体の知れない黒い物体は、時に夜空から見下ろした街の明かりや、または龍が力強く昇っているような光景にも見えてきます。美感にも優れた作品でした。



最後は、拙ブログでもお馴染みの(?)李禹煥が2点待ち構えていました。作品は有名な「線より」(1976)と、もっと最近のシリーズ作品である「風と共に」(1989)です。そしてここでは「風と共に」の方を挙げてみましょう。横浜美術館の回顧展でも出ていなかったような激しいタッチの画面。点が風に煽られて飛び交い、竜巻に巻き込まれたかのようにグルグルと回転している。点の乱舞が、大風に煽られて行き場を失った鳥たちの錯乱にも見えます。これほどに荒々しい「風と共に」は初めて見ました。ここに静謐さはありません。

その他青木野枝の「水冠」シリーズや、大竹伸朗の「夢」、または郭仁植の彩墨画などに惹かれました。アートギャラリーの収蔵品展はいつも大変に充実していますが、今回はその中でも最上と言って良いほどの内容かと思いました。これは素晴らしい。是非おすすめします。
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「アートと話す・アートを話す」 東京オペラシティアートギャラリー 3/21

東京オペラシティアートギャラリー(新宿区西新宿3-20-2)
「アートと話す・アートを話す」
1/14-3/26

「伝統や常識にとらわれない新しい表現を収集の核」(パンフレットより。)とする、ダイムラー・クライスラーのアートコレクション。日頃、現代美術を積極的に紹介しているこのギャラリーの展覧会の中でも、特にコンテンポラリーチックな雰囲気の漂う、それら古典的な脱アート型の作品にて構成された展覧会です。バウハウスからの現代アートをカジュアルな感覚で楽しめる優れた企画ではありますが、如何せんこの手の作品は波長が合わないとかなり厳しいもの…。なかなか魅力を感じる作品に出会えません。教育プログラム等も多数用意されて、主催者側の意欲は大いに買いたいのですが、個人的には大好きな現代アートからつまらなさも感じてしまった展覧会となりました。



と、このようにいきなり偉そうな愚痴ばかり並べ立ててしまいましたが、それでもやはり惹かれる作品が何点かあるものです。まず初めの展示室では、バウマイスターの「ピンクの上のモルタル」(1953)がおすすめでしょうか。まるでミロを思わせるようなコラージュ作品ですが、赤や青などの色彩の塊が、まるで巨人や小人、それに奇妙な動物たちに変身して、広い原っぱで遊んでいるように見える可愛らしい作品です。また、くすんだ赤に、同じく赤の鮮やかなテンペラが塗り重ねられたガイガーの「指数記号」(1960)も、まるで夕焼けようなグラデーションと、少しだけロスコを思わせるような奥行き感が印象的でした。

2つ目の展示室では、エームの2点の「無題」(1960)が気になります。真四角の白と黒の二枚のキャンバスに、まるでアスファルトを塗り固めたような黒い樹脂がボツボツと重なる。画面が照明に写り込み、ややテカリを見せていたのも美しかったのですが、作品が二枚とも天井付近で展示されていて、近づくことが叶いません。質感をしっかりと確認出来なかったのが残念でした。

3つ目の展示室では、川村での大個展が懐かしいライマンの作品(「無題」1969)がお出迎えです。四隅にテープの剥がれた跡の残された真っ白なキャンバス。近づいて見ると絵具の柔らかく丸みを帯びたタッチを確認出来ますが、幾分塗りは平面的で、タッチが傷のようにも見えてきます。もう少し肉厚の作品の方が私は好みですが、ここでライマンに出会えるとは思いませんでした。



パッと見て美しいと思えた唯一の作品は、100本の香水瓶がズラリと並んだフルーリーの「オーラ・ソーマ」(2002)です。高さ10センチもない小さな瓶の中に、赤やオレンジなどカラフルな色が二層に分離して入っています。(水と油に色をつけたのでしょう。)そしてその一つ一つが下からの照明に当たってキラキラと光る。ただそれだけの作品ですが、全体の調和のとれた美しさと、それぞれに個性(それを身につける人も連想させる。)を感じさせるような香水の響宴は悪くありません。とりあえずは一押しにしたい作品です。

いわゆる古典的な絵画で気を吐いていたのは、エントランスに展示されているシュレンマーの二点のドローイングです。その中では「頭部とコップ」(1923)という油彩画が印象的でした。隣に展示されていたトレーシング・ペーパーの大きな作品よりも良く描けています。目立たない作品ですがおすすめです。

会場受付では、小学生低学年、高学年、それに中学生以上に区分されたワークブックが、それぞれ無料にて貸し出されています。もちろんそれらはミュージアムショップで購入することも出来ますが、今日が最終回であったギャラリー・クルーズに参加すれば無料で配布されたのだそうです。私は参加しなかったのですが、まさに「難解」な現代アートを、至れり尽くせりの配慮にで「分かり易く」提示する試みと言うことでしょうか。(ワークブックの中には、「これはどう見えるのだろう?」などの文言が並びます。)作品がやや雑然と並んでいて、展示構成にもう少し工夫があればとも思いますが、ただ見せるだけに終らない、美術館の意欲は感じる展覧会でした。26日までの開催です。(これらの作品を見て、どれほどの方が現代アートに面白さを感じるのかが知りたいところではありますが…。)
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「ロダンとカリエール」 国立西洋美術館 3/19

国立西洋美術館(台東区上野公園7-7)
「ロダンとカリエール -世紀末に生きた創造者たちの手と精神- 」
3/7-6/4

良き交流関係にあったロダン(1840-1917)とカリエール(1849-1906)。この二名の芸術家における表現の方向性や根底の思想、感覚などを、主に作品を通して比較、概観する展覧会です。展示作品の質はもとより、構成にも優れています。会期の初めだからなのか会場は幾分閑散としていましたが、一人でも多くの方に見て欲しいと思うような充実した企画でした。



西美の常設展で常日頃ロダンを目にしながら、なかなかその魅力が掴めなかった私ですが、彼がカリエールと深い交流を持っていたことも初見でした。またカリエールも、昨年の都美でのプーシキン展にて殆ど初めて見知った画家です。この二人がどのように交流を深めていったのか。それを私のような素人にも分かり易く見せてくれたのが、この展覧会の実質的な開始部分でもある二番目のセクション「ロダンとカリエールの直接の交流」でした。たくさんの子どもたちに囲まれたカリエールと、彫刻に見入るロダンを捉えた二枚の写真。その間から、彫刻と絵画の豊かなコラボレーションが始まります。

このセクションにて特に目を見張らされた作品は、ロダンの「イリス」(1895)でした。驚くほど大胆なポーズをとった躍動感溢れる彫像。正面から見ると大股を広げているような格好にも見えますが、視点を斜めの方向へ移すと、まるで陸上選手がハードルを飛んでいるかのような姿にも見えます。右足が右腕にくっ付くほどに振り切れている。隆々とした肉体もどこか荒々しい。構図としてはそれほど美しいとは思えませんが、半ば奇異な感も受けるその獣のような姿には驚かされました。

カリエールの作品では、「鋳造家」(1900)と「モデルよる習作(または『彫刻』)」(1904)が気になります。「鋳造家」は、まさに鋳造家が金属を炉に溶かしている様子を捉えているのか、まるで炎と格闘するかのような力強い職人の姿が印象的でした。ちなみにこの作品はリトグラフとのことですが、画面に目を近づけると、まるで引っ掻き傷か綿のような細かい線が無数に束ねられて、対象が象られていることが分かります。細い線が束になり、それが波打つかのようにして流れ出していく。カリエールのどこか流麗な作風は、この線の見事な使い方からも鑑みることが出来ます。

「モデルによる習作」は、モデルを前にした作家が彫刻を制作する様子が描かれている作品です。やや青みがかった黒に朧げに浮かび上がる彫像家と彫像、そしてそのモデル。モデルを丹念に伺っている作家の目には、その人の創造力を表すかのような豊かな生命力が秘められています。目にたたえられた不思議な力。これは他のカリエールの作品にも通じるように思いましたが、彼の描く人物の目には、その人となりを示すような慈愛や意思が強くこめられています。ただ幻想的で美しいだけではない。時にカリエールの作品に大きな愛を感じるのは、この生命感漲った眼差しによるものかもしれません。

さて、三番目の「ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像」では、彼らが手がけた同一人物の肖像が、ともに彫刻と絵画においてどう追求されたという点に視座が置かれています。二人の表現の差異や共通点を、同じモデルを通してみること。この展覧会の中では最も分かり易く、また楽しめるセクションです。

シャープな顔立ちにキキリと引き締まった口元が印象的な、カリエールの「アンリ・ロシュフォールの肖像」(1896以前)。カリエールが描いた人物画の中では比較的クッキリと輪郭が浮き上がってくる作品ですが、それを見た後に、隣で展示されているロダンの同名の胸像(「アンリ・ロシュフォールの胸像」)を眺めると、ともに甲乙付け難いその魅力に惹かれてしまいます。ロダンの胸像では、カリエールの肖像にあったカッコ良さが、威圧感のある堂々とした風貌に転化されていますが、鋭かったはずの目は不思議ともの静かな雰囲気に変わって、深い憂いすら感じられます。ここでキャプションにもあった、「ロダンにとって肖像をつくるということは、与えられた顔の中に永遠性を求めること。」という詩人リルケの言葉を思い出しました。カリエールの作品が、どこか今にも儚く消え去りそうな一期一会的な魅力があるのに対し、ロダンは、その人物の息吹をブロンズに託して、永遠に消え去らない魂へと変化させる。ロダンの作品に見られる不変的な意思は、ナーバスなカリエールの作品と重なることでさらに高まる。もちろんそれとは逆に、カリエールの少し危ういノスタルジックな美しい魅力を高めることにもなっている。そのようにも感じました。

 

4番目の「ロダンとカリエールにおける象徴主義」では、カリエールの美しい作品が贅沢に並んでいます。特に「母性」(1892)、「母の接吻」(1898)、「愛情」(1905)は必見です。大きな愛に包み込まれる母と娘。母が娘を胸に抱きかかえて愛を注ぎます。そして「愛情」に見られる母の慈愛に満ちた瞳。娘の接吻を頬に受けながら、目を細めてその温もりを確かめています。また右手は、娘の腕を取るかのようにしっかりと娘を握っている。「母の接吻」における娘の表情にも、大きな慈愛を受け取った時の幸福感を見て取ることが出来ました。握りしめられた両手と抱きしめられた体。そして愛と平安に浸った瞳。全てがもはや失われてしまったような家族愛を表現しています。感傷的な美しさがここにありました。



最後の「ロダンとカリエールを結ぶ糸」では、眩しいくらい美しいロダンの「『瞑想』と呼ばれる『内なる声』」(1897)に痺れました。ギリシャ彫刻を思わせるような端正な裸女。線は丸みを帯びていて、どこか肉感的な味わいも持っています。そして首を捻るようにして腕に耳を傾けているその顔。まさに自身の「内なる声」を聞いているのでしょうか。大きな目は静かに閉じられている。心臓の鼓動が聴こえているはずです。この作品の隣に、ほぼ同じポーズの「瞑想」(1896-1897)が展示されていましたが、こちらには太い両腕が付いていました。しかし「内なる声」にはそのような雑物はない。そして腕がないことが、この作品に稀有な美しさをもたらしている。ミロのヴィーナスにも両腕がありませんが、その美しさにも匹敵するとも言いたい作品です。初めにロダンの魅力が掴めないとも書きましたが、この大傑作を前にした時は体が震えました。

長々と書いてしまいましたが、展覧会で提示されていた「象徴派」や「トルソー」など、二人をつなぎ合わせるキーワードはやや消化不良気味でもあったので、日を改めてもう一度見に行きたいと思います。見知らぬ二人が出会うことでさらに高まる魅力。もう地味だとは言わせない、ロダンとカリエールの美しさを存分に楽しむことの展覧会です。6月4日までの開催です。

*関連エントリ
 「ロダンとカリエール 特別鑑賞会 講演会」 4/4
 「ロダン、カリエールと同時代の文化、社会」(講演会) 4/15
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「桜さくらサクラ・2006」 山種美術館 3/18

山種美術館(千代田区三番町2)
「桜さくらサクラ・2006」
3/11-5/7

どちらかと言えば桜よりも梅の方が好みなのですが、少し早めのお花見と言うことで、今年8回目を数えた春の山種美術館恒例企画、「桜さくらサクラ」展へ行ってきました。



会場にてまず待っていたのは、まさに内と外をつなぐような作品、石田武の近作「千鳥ケ淵」(2005)でした。名所千鳥ヶ淵の桜が、お堀の深みと巧みに重ね合わせてぼんやりと浮かび上がる。お掘りには淡い緑色の水が一面にたたえられています。枝がお堀の上から覆っている構図も美しい。間もなく訪れるであろう春の千鳥ヶ淵を予感させる作品です。お堀の緑色と桜色のコントラストが目に焼き付きました。



山種の常連でもある古径と御舟は、それぞれ3点と5点展示されています。その中での私の一押しは、御舟の「春の宵」(1934)です。細い月のかかる闇夜に佇む一木の桜。白い花をたくさん付けた枝は、大きく手を伸ばすかのように空へと向います。そしてひらひらと舞う軽やかな花びら。仄かに照らし出す月明かりが、束の間の花の生命に別れを告げています。散り際の美学が昇華した姿。ため息が出るほどに脆くて美しい桜が描かれています。



この日最も華やかな桜を楽しませてくれたのは、奥村土牛の「醍醐」(1972)でした。土牛ならではの瑞々しい顔料が、桜の木の太い幹と、咲き誇るピンク色の花びら、そして背景の白壁の全てを包み込みます。満開の桜はたっぷりと重く、まるで画面から飛び出してくるかのように木にしがみついています。そして下へ目を転じると一面の花びらの絨毯。まるで点描画のように一枚一枚が丁寧に表現されていました。色と匂いに溶けてしまうような、甘い桜の世界が夢のように描かれた作品です。



ところで初めに桜よりも梅の方が好みだとも書きましたが、会場には一点だけ梅の作品が展示されていました。それが上村松篁の「日本の花・日本の鳥」から「日本の花」(1970)の一部分です。屏風にくり抜かれた扇形の画面。そこに紅白の梅が対になって描かれています。空間を埋め尽くさない、余白ある梅の味わい。一輪一輪が健気に咲く様子。この素朴な風情が魅力的です。

会期終盤の4月28日からは、大倉集古館所蔵の大観の名作「夜桜」(1929)が公開されます。桜もとうに散って、躑躅の咲く頃の展示となりますが、こちらも時間をつくって拝見したいと思いました。5月7日までの開催です。
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「阪田清子 『Tokyo Flowers』他」 トーキョーワンダーサイト 3/18

トーキョーワンダーサイト(文京区本郷2-4-16)
「Emerging Artist Support Program 2005 vol.5」
3/4-19

実は昨年11月から定点観測している、トーキョーワンダーサイトの「Emerging Artist Support Program」シリーズです。2005年度の最終回となったこの第5回目には、阪田清子、能丸督之など4名の若手作家が集いました。



パッと見て美しいと思うインスタレーションで楽しませてくれたのは、阪田清子の「Tokyo Flowers」です。暗室に咲き誇る真っ白な花。素材は和紙、大きさは縦横30センチほどでしょうか。まるで折り紙で出来たような巨大な造花が、床に16点ほど並んでいます。そしてそれぞれの花の上からは強いスポットライトが当てられている。結果生まれた影の部分には、日常の東京捉えた写真が潜んでいる仕掛けです。新宿の雑踏や浅草雷門(?)など、お馴染みの東京の光景が、まるで影絵のように花の下で写し出されています。花のクオリティー自体はそんなに優れていると思わなかったのですが、清潔感溢れる真っ白い花と、ダークな影絵による東京の対比が興味深く、なかなか見せ方に優れていると感じました。ちなみに作品自体の質感の点では、入口すぐ横の壁に飾られていた花のオブジェが見事です。こちらは清潔感どころかくすんだ色合いで、形もややグロテスク。花の中には小さな肖像写真がいくつも織り込まれていました。そしてそれらはどこか懐かしい。先ほどの東京の風景と同様に、何か郷愁を感じさせる作品です。花を追っかけながら自身の追憶を呼び覚ましているような印象も受けました。



小田部慶子の「願い出で」という油彩画のシリーズも印象的な作品でした。11点の宗教画のようなドローイングが、まるで祭壇を飾るかのように配されています。正面中央に大きく掲げられた「思い出」(2006)。大きなリンゴを手にしたアダムとイブが、タイムスリップした現代のビルや生活の間に立っています。二人によって大きく分けられた世界。左手が生、右手が死の世界でしょうか。右下にてうずくまっている女性の姿が記憶に残ります。彼女は十字架にかけられていたのか、足には釘が刺さり、体からは血がしたたり落ちている。象徴派を思わせるような作品です。

「Emerging Artist Support Program」の2006年度版は、来月1日からまた改めて始まります。公募展トーキョーワンダーウォールの入選者からセレクトされる、若手作家の今を楽しめる展覧会。私が出向く時だけなのか、会場はいつもガラガラなのですが、(今日は誰もいませんでした…。)4月からもまた追っかけてみるつもりです。
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