20180320
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(11)澤地久枝講演会
3月17日土曜日、東京早稲田のAVACOチャペルで開催された澤地久枝トークショウに行ってきました。14:00~16:30
友人A子さんが申し込みをしてくださり、私はひょいと足を運んだだけ。
澤地さんは、1930年9月3日生まれ87歳。
私にとって、生き方のお手本のひとりと思って作品を読んできた作家のひとりです。戦争に反対する信念を貫き、何度もの心臓手術を乗り越えて、現在も毎月3日には、首相官邸前に立ち、憲法改悪反対、戦争へ向かおうとする政権への違和を表明しています。
澤地久枝講演会
私は、『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)をまだ読んでいないのですが、講演会があると聞き、澤地さんから見れば20歳も若いのに、ぐうたらぐうたらと生きている自分にカツを入れるべく、出かけました。
澤地さんは、私の最初の大学の先輩にあたり、講演会の申し込みをしてくださったA子さんは、2度目の大学の同窓生です。
A子さんとの出会いもブログを介してのものでしたが、息子さんが8歳小学生だったときからのおつきあいも、もう息子さんが大学を卒業する年になりました。互いに仕事を持つ母親ですから、15年の間そう頻繁に会えたわけではないのですが、半年に1度ずつくらい会って、シングルマザー準シングルマザーの愚痴も言い合えることが子育ての励みにもなってきました。
市川房枝、石牟礼道子、澤地久枝、など、好きな女性が共通している、すなわちめざす女性像がいっしょ、というところも気が合う理由の一つでしょう。
市川房枝も石牟礼道子もすでになく、澤地さんも87歳という年齢を考えると、少しでもそのお声に触れておきたいと思うので、今回のお誘いはありがたかったです。
トークショウの会場は教会の礼拝所なので、椅子に座れたのは200人ほど。入れなかった人は別室で同時中継のモニターを見る、ということでした。私とA子さんは、ギリギリに会場に入り、すでに椅子席が埋まった状態でしたが、4人掛けの教会椅子に3人で座っているところを係の人が「4人ずつお詰めあわせください」と言ってくれたので、一番前の席に座ることができました。
澤地さんがいちばんよく見える席。ギリギリに会場についたのに、得しちゃいました。お得はもうひとつあって、入り口で新書本『14歳満州開拓村からの帰還』を買うことができました。私の次の人で「完売で~す」
なぜ、会場で本を買うことにしたかというと、もしかしたらサインもらえるかもと思ったから。狙いはぴったり。
満席の会場
澤地久枝は、14歳のとき、満州吉林で敗戦を迎えます。聖戦と信じ日本の勝利を疑わずに「食べるものがなくても我慢するのが正しい皇国の子供」と思って育ちました。周囲の子供はつぎつぎに栄養失調で死んでいく。久枝の弟や妹も病気になり、自身もしょう紅熱にかかり生死をさまよいます。
ソ連軍が侵攻してくると、軍関係者は「皇国を守る」どころか、いち早く満州開拓民や満州在住日本人を見捨てて逃亡し、残された女子供に危機が迫りました。
難民としてさまようなか、澤地に大きな恐怖が襲い掛かりました。
澤地久枝が70年間口にできなかった、ソ連兵によってレイプされかかった記憶。「消したい消したい、忘れたい」と封印してきたことを85歳になっての著作ではじめて公にしました。命がけで娘を守っれくれた母もない今、このことを記憶しているたった一人の人になって、やはりこの事実を伝えずには死ねないと思ったのです。
『1972年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです』
サーベルを突き付けて娘に襲い掛かろうとする兵士に、命がけで抵抗した母の姿。頭では忘れようとしていたのに、体は恐怖が残っており、PTSDによって恐怖心でいっぱいになったと澤地久枝は告白しています。
今回のトークショウでも、この時よみがえった恐怖について語られていました。
いつまで戦争のうらみつらみを言い立てているんだ、いつまで加害者を攻め続けるんだ、と、被害者に対して批判する一団もいます。でも、その人々は、被害を受けた側にとっては、70年たっても、その恐怖が蘇ってしまうということを真に想像したことはあるでしょうか。
父や母の戦争体験を聞いて育った私の世代「戦争を知らないこどもたち」も、すでに70歳前後となった今、もっと若い世代は「美しい国を守ろう」と声高く叫ぶ人々に違和感すら感じなくなっているみたいです。
「悪者が核開発しているのに、へいわ平和とバカのひとつ覚えで唱える馬鹿ども」と、平和を語る人に四方から罵声が飛びます。澤地久枝もそういう罵声を浴びてきました。それでも、毎月3日(3日は澤地の誕生日)に、澤地は首相官邸前に立ちます。
力強いことばで講演する澤地久枝さん
澤地は、今年88歳になります。心臓手術を4度も行ってきた満身創痍の身体です。それが、14時開始の講演を15時50分まで、途中休憩なしに話し続けました。火のような強いことばで、現政権のモリトモ問題のごまかしや原発処理のごまかしを弾劾し、ジャーナリストとして誠実に仕事をした本田靖春(ほんだやすはる1933-2004)や原寿雄(はらとしお1925-2017)を紹介しました。
私は本田の著作は読んだことありましたが、原の著作は読んでいなかったので、機会があれば読もうと思います。原が「ジャーナリズムの存在意義は権力監視」と言ったことば。権力者の御用新聞のような現在のジャーナリズム横行をどんな思いで空から眺めているのでしょうか。
15分間の休憩時間、「14歳」にサインをしてもらえるというので、ささっと前へ。一番前の席でしたから、並んだのも2番という間のよさ。サインしてもらった上に、並んで写真をとってもらいました。私のあと「写真撮影はご遠慮ください」ということになったので、写真とってもらったのは、1番に並んだ人と2番の私だけ。
ミーハー行為を恥ずかしがらずに敢行できたのも、年取るにつれてずうずうしさが増してきたおかげ。澤地先生ありがとうございました。おかげさまで「先生のあとをおいかけていくぞ」の決意もより強くなりました。
春庭はミーハー丸出しのアホ面ですが、サインをしてくださった澤地さんとのツーショットうれしかったです。
(このページの澤地さんの肖像権について、許可なしの写真掲載ですから、引用は固くお断りいたします。また、肖像権について不許可になった場合、削除いたします)
3月17日は白木蓮が満開になりました。
国会を欺く文書の提出にものらりくらりと「官僚が勝手にやったこと」とうそぶく政権に、擁護のツィッターやジャーナリズムも出ている昨今。
澤地さんのことば、そして日に輝いて咲く白木蓮に力づけられた思いの一日になりました。
春の気持ちは盛り上がりました。
<おわり>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(11)澤地久枝講演会
3月17日土曜日、東京早稲田のAVACOチャペルで開催された澤地久枝トークショウに行ってきました。14:00~16:30
友人A子さんが申し込みをしてくださり、私はひょいと足を運んだだけ。
澤地さんは、1930年9月3日生まれ87歳。
私にとって、生き方のお手本のひとりと思って作品を読んできた作家のひとりです。戦争に反対する信念を貫き、何度もの心臓手術を乗り越えて、現在も毎月3日には、首相官邸前に立ち、憲法改悪反対、戦争へ向かおうとする政権への違和を表明しています。
澤地久枝講演会
私は、『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)をまだ読んでいないのですが、講演会があると聞き、澤地さんから見れば20歳も若いのに、ぐうたらぐうたらと生きている自分にカツを入れるべく、出かけました。
澤地さんは、私の最初の大学の先輩にあたり、講演会の申し込みをしてくださったA子さんは、2度目の大学の同窓生です。
A子さんとの出会いもブログを介してのものでしたが、息子さんが8歳小学生だったときからのおつきあいも、もう息子さんが大学を卒業する年になりました。互いに仕事を持つ母親ですから、15年の間そう頻繁に会えたわけではないのですが、半年に1度ずつくらい会って、シングルマザー準シングルマザーの愚痴も言い合えることが子育ての励みにもなってきました。
市川房枝、石牟礼道子、澤地久枝、など、好きな女性が共通している、すなわちめざす女性像がいっしょ、というところも気が合う理由の一つでしょう。
市川房枝も石牟礼道子もすでになく、澤地さんも87歳という年齢を考えると、少しでもそのお声に触れておきたいと思うので、今回のお誘いはありがたかったです。
トークショウの会場は教会の礼拝所なので、椅子に座れたのは200人ほど。入れなかった人は別室で同時中継のモニターを見る、ということでした。私とA子さんは、ギリギリに会場に入り、すでに椅子席が埋まった状態でしたが、4人掛けの教会椅子に3人で座っているところを係の人が「4人ずつお詰めあわせください」と言ってくれたので、一番前の席に座ることができました。
澤地さんがいちばんよく見える席。ギリギリに会場についたのに、得しちゃいました。お得はもうひとつあって、入り口で新書本『14歳満州開拓村からの帰還』を買うことができました。私の次の人で「完売で~す」
なぜ、会場で本を買うことにしたかというと、もしかしたらサインもらえるかもと思ったから。狙いはぴったり。
満席の会場
澤地久枝は、14歳のとき、満州吉林で敗戦を迎えます。聖戦と信じ日本の勝利を疑わずに「食べるものがなくても我慢するのが正しい皇国の子供」と思って育ちました。周囲の子供はつぎつぎに栄養失調で死んでいく。久枝の弟や妹も病気になり、自身もしょう紅熱にかかり生死をさまよいます。
ソ連軍が侵攻してくると、軍関係者は「皇国を守る」どころか、いち早く満州開拓民や満州在住日本人を見捨てて逃亡し、残された女子供に危機が迫りました。
難民としてさまようなか、澤地に大きな恐怖が襲い掛かりました。
澤地久枝が70年間口にできなかった、ソ連兵によってレイプされかかった記憶。「消したい消したい、忘れたい」と封印してきたことを85歳になっての著作ではじめて公にしました。命がけで娘を守っれくれた母もない今、このことを記憶しているたった一人の人になって、やはりこの事実を伝えずには死ねないと思ったのです。
『1972年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです』
サーベルを突き付けて娘に襲い掛かろうとする兵士に、命がけで抵抗した母の姿。頭では忘れようとしていたのに、体は恐怖が残っており、PTSDによって恐怖心でいっぱいになったと澤地久枝は告白しています。
今回のトークショウでも、この時よみがえった恐怖について語られていました。
いつまで戦争のうらみつらみを言い立てているんだ、いつまで加害者を攻め続けるんだ、と、被害者に対して批判する一団もいます。でも、その人々は、被害を受けた側にとっては、70年たっても、その恐怖が蘇ってしまうということを真に想像したことはあるでしょうか。
父や母の戦争体験を聞いて育った私の世代「戦争を知らないこどもたち」も、すでに70歳前後となった今、もっと若い世代は「美しい国を守ろう」と声高く叫ぶ人々に違和感すら感じなくなっているみたいです。
「悪者が核開発しているのに、へいわ平和とバカのひとつ覚えで唱える馬鹿ども」と、平和を語る人に四方から罵声が飛びます。澤地久枝もそういう罵声を浴びてきました。それでも、毎月3日(3日は澤地の誕生日)に、澤地は首相官邸前に立ちます。
力強いことばで講演する澤地久枝さん
澤地は、今年88歳になります。心臓手術を4度も行ってきた満身創痍の身体です。それが、14時開始の講演を15時50分まで、途中休憩なしに話し続けました。火のような強いことばで、現政権のモリトモ問題のごまかしや原発処理のごまかしを弾劾し、ジャーナリストとして誠実に仕事をした本田靖春(ほんだやすはる1933-2004)や原寿雄(はらとしお1925-2017)を紹介しました。
私は本田の著作は読んだことありましたが、原の著作は読んでいなかったので、機会があれば読もうと思います。原が「ジャーナリズムの存在意義は権力監視」と言ったことば。権力者の御用新聞のような現在のジャーナリズム横行をどんな思いで空から眺めているのでしょうか。
15分間の休憩時間、「14歳」にサインをしてもらえるというので、ささっと前へ。一番前の席でしたから、並んだのも2番という間のよさ。サインしてもらった上に、並んで写真をとってもらいました。私のあと「写真撮影はご遠慮ください」ということになったので、写真とってもらったのは、1番に並んだ人と2番の私だけ。
ミーハー行為を恥ずかしがらずに敢行できたのも、年取るにつれてずうずうしさが増してきたおかげ。澤地先生ありがとうございました。おかげさまで「先生のあとをおいかけていくぞ」の決意もより強くなりました。
春庭はミーハー丸出しのアホ面ですが、サインをしてくださった澤地さんとのツーショットうれしかったです。
(このページの澤地さんの肖像権について、許可なしの写真掲載ですから、引用は固くお断りいたします。また、肖像権について不許可になった場合、削除いたします)
3月17日は白木蓮が満開になりました。
国会を欺く文書の提出にものらりくらりと「官僚が勝手にやったこと」とうそぶく政権に、擁護のツィッターやジャーナリズムも出ている昨今。
澤地さんのことば、そして日に輝いて咲く白木蓮に力づけられた思いの一日になりました。
春の気持ちは盛り上がりました。
<おわり>
・・・・公演は聞けなくとも せめて『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』は読んでおかなくちゃの朝になりました^^
古希はまもなくになりましたが、傘寿はまだ先かなと思っている間にあっという間でしょうね。還暦など遠い先と思っていたのに、あっという間に還暦でそれからあっという間に古希ですから。
澤地久枝さん、ことし米寿です。さすがに、以前テレビインタビューなどでお見かけしたころに比べると、背中も丸くなっていましたけれど、舌鋒は相変わらずで、何よりも2時間近く休憩なしに話し続けるので、聞いているこちらが、「主催者は途中休憩をいれるべきでは」と、案じてしまいました。1時間50分しゃべったあとの休憩時間15分の間に、希望者に著者サインをしてくださった。私もサインしてもらって言うのもなんですが、すごいエネルギーです。
「14歳」は、弟さんのお孫さんが14歳になったので、戦争体験を語り継ぐつもりで執筆した本なのに、肝心の弟孫さんからは「ぼくは読まない」と、宣言されてしまったとか。いまどきの中学生なんでしょうけれど、いつかは大伯母さんからの語り継ぐことばを受け取ってほしいです。
新書版なので、手に重くもないので、おすすめです。