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ぽかぽか春庭「信長からの手紙」

2015-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20150315
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート(3)信長からの手紙

 3月11日、息子といっしょに永青文庫へ出かけました。永青文庫は、細川家伝来の美術品歴史資料などの保管研究と展示を行っています。

 今回は、「信長からの手紙」59通を全点公開という展示です。目玉は、信長自筆の手紙、本物が展示されているというので、見に行ったのです。

 詳しいことは何も言ってくれないのですが、誕生日のプレゼントの要望がこのところ「信長公記」とか「兼見卿記」とか、織豊政権に関わる本が多かったので、息子の博士論文は、「室町末期・戦国の武士政権論」というあたりのことになるらしい。

 「兼見卿記」とは、織豊期に武士政権と朝廷の間の伝達役を果たしていた吉田兼見の日記です。吉田兼見の従兄弟が細川幽斎。出家前は細川藤孝。藤孝は織田信長と同年の生まれです。
 どうして出家したかというと、信長を本能寺で討った明智光秀に「こっちの仲間になれ」と言われると困るから、出家することによって「いやあ、私はもう俗人ではないので、僧として暮らすため、お味方出来ません」と、拒むため。藤孝の息子細川忠興ヨメの玉(洗礼名ガラシャ)の実父が明智光秀ですから、光秀としては親戚と思っていたことでしょう。当然味方すると思った藤孝に逃げられたこと、光秀敗北の第一歩でした。秀吉は光秀に与しなかったことを大いに評価して領地を与えています。

 藤孝は信長と足利義昭をじっくり見比べて信長につくことを決め、光秀と秀吉を見比べて、光秀には与しないことを決めた。機を見るに敏。
 各地から必要な情報を収集し、自分が得するであろう方を的確に選ぶ能力に長けていた、ということ。これは、戦国期の武将にあっては必須の能力でした。

 翻刻されている信長文書の本は持っている息子ですが、自筆の手紙、本物が見られるとあっては、これは見ておかなくては、ということになりました。
 しかし2月中、息子は古文書翻刻のアルバイトが忙しくて見に来ることができませんでした。ようやく見に来た3月、会期は後期となっており、展示替えによって信長自筆書はレプリカの展示で、本物を見ることはできませんでした。

 信長が発給した手紙、右筆(文書作成の秘書)が書いた文書が各地に残されています。その中でも、肥後熊本の大名、細川家では、初代細川藤孝二代忠興を継いだ三代忠利が、熱心に収集した結果、他家には例がないほど多数の信長文書、秀吉文書などが残され、現在では熊本大学図書館に多数の戦国期文書が保管されています。

 息子は右筆によって書かれた信長朱印状黒印状の文書を熱心に見つめていて「ここにずっといたい」というのですが、残念ながら4:30で閉館。5時閉館と思ってゆっくりめに家を出てきたので、見学時間が息子にとっては足りませんでした。

 書かれている文字は、私にはまったく読めません。信長自筆の手紙、レプリカですが、闊達で勇壮なのびのびした性質が出ているように感じました。ほう、これが織田信長が自分自身で書いた文字なのか、と見ているだけでなんだか感激でした。

織田信長自筆の手紙、細川忠興宛感状


 信長自筆の手紙は、解説によれば、細川忠興15歳の初陣のおり、見事な活躍をした若者を大いに誉める内容なのだそうです。側近がわざわざ「この書は信長様みずからがしたためた」という添え状を書き残しており、自筆と証明されたのだそうです。

 信長に気に入られた忠興は、信長たってのすすめにより、明智光秀の娘を娶ることになります。しかし、細川藤孝は、時勢を見極め、ヨメの実家明智家を見捨て、格下だった秀吉側につくことで、一家の命運を支えました。
 それ以前に、藤孝は、もともとの主人である足利家を捨てて信長につくことで家運をひらき、関ヶ原では家康側の東軍につき、明治には伯爵家として残ったのですから、時流を見て動向をきめる才能に富む家系だったのでしょう。

永青文庫から見た旧細川侯爵邸(現・和敬塾本館)


 さてさて、先祖代々時流にはまったくのることもなかった我が家。うちの息子もまったくもって、流れにのれないひとりです。
 息子。今年はいよいよ後期博士課程3年目です。順調にいっていれば、博士論文提出の年ですが、少しも順調でないので「今年は提出できないんじゃないかな」と、弱気なことを言っています。

 息子が去年年末から取り組んでいたアルバイト。江戸時代の地方古文書を翻刻(手書き写真版の古文書を活字におこす作業)です。地方の名主さんとか商人などが残した日誌類で、解読されていない文書を翻刻する地道な作業。
 全部仕上げてナンボの請負仕事で、翻刻注文を出した研究所から間にいくつもの仲介人を通しての下請けの下請け、という立場なのですが、馬鹿のつくまじめ男の息子、一字一句をもおろそかにできない性質で、崩し字辞典に出ていない文字の解読に丸一日かかる。
 「そんなに一字一句正確でなくても、発注元は全体がおおよそわかることをのぞんでいるんじゃないかしらねぇ」と、言っても聞く耳持たない。

 地方の名主さんクラスや地方商人クラスは、変体仮名や漢字の崩し字を、自己流に崩している文書が多く、息子が持っている「崩し字辞典」などでは解読できない文字が多い。辞書に出てこない形があり前後の文脈がついていない文字だと、一日かけても解読出来ないことがあるのです。人別帳(戸籍簿)の人名をにらんで一日すぎる、そんな春休みをすごして、ようやくできあがった文書を提出。

 「これじゃ、時給換算にすると時給10円にもならないじゃないの」と、言ってみましたが、「いや、完全に解読出来たわけじゃないので、アルバイト料なんかもらえないよ」と言う。性格とはいえ、もっと気楽にやっていかないと、とうてい論文も仕上がらないだろうと、案じています。まあ、不出来な博士論文を無理矢理提出してしまった母を見習わなくてもよいのですが。

 人付き合いの苦手な息子、大学院を修了したとしても、教師をするのも難しいみたい。学芸員資格を生かして博物館に勤めたらどうか、というのも、実習をやったときに「夏休みの博物館学習にやってきた小学生に、勾玉作りを指導する」というお子様相手をさせられて、「博物館につとめるのもできない」と、本人が言う。
 息子に向いているのではないか、と私が勝手に思っていた、「どこかの研究所の地下1階あたりの古文書収蔵庫に、一日こもって解読を続ける」という仕事も、これも、能率上がらずクビになるだろう、と今回の翻刻アルバイトでわかりました。

 永青文庫の行き帰り、椿山荘の庭を通り抜けました。ほんとうは、椿山荘のカフェでお茶くらいおごろうかと思っていたのですが、この日椿山荘で私立高校卒業式の謝恩会が開かれており、謝恩会お開き後のお母様グループが、カフェラウンジにわんさかとお茶していました。
 それで、椿山荘は、花盛りの河津桜をながめて通り抜けただけ。

椿山荘の河津桜


江戸川公園の河津桜


 帰りは江戸川橋から神楽坂経由で飯田橋まで歩きました。

 私は河津桜見て、息子は信長の手紙見て、いい時間を過ごせたので、今日も一日、いい日でした。

<つづく>
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