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ぽかぽか春庭「文語文、南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)」

2012-07-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/07/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(4)文語文「南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)」


 では、次に、『完本文語文』の中に出てくる、「意味はわかるけれど、自分では使ったことがない語」すなわち、理解語彙であるが、使用語彙ではない語のリストアップです。

p35「威権堂々」 威風堂々なら使用言語です。行進曲で覚えたので。しかし、「威権堂々」は、意味はわかるが、使ったことはない。

p66「高風を欣慕する」文語文の香り高き高風を欣慕するにやぶさかではないが、今後、日本語の書き言葉として文語文が学校教育で復活することはないでしょう。
 谷崎潤一郎が小学生のとき書いて「優秀」と誉められた作文を読んだことがありますが、完全な文語文でした。

p146「見ずてん」芸者などが金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶこと。また、そういう芸者。意味は知っていたけれど、使ったことはない。

p93「寸心言いつくさず
 唐代の詩人、銭起(せんき710年?‐780年?)の五言絶句『逢侠者(侠者に逢う)』からの故事成語。ああ、やはり漢文漢詩に弱い。
<逢侠者>
燕趙哀歌士  燕趙(えんちょう) 悲歌(ひか)の士
相逢劇孟家  相逢う 劇孟(げきもう)の家
寸心言不尽  寸心(すんしん) 言い尽くさざるに
前路日将斜  前路 日 将(まさ)に斜めならんとす

 
p140「言語は南蛮鴃舌(げきぜつ)である
 「鴃舌」はもずの鳴く声。また、もずが鳴き合うように騒ぎ合って、意味が分からないことのたとえ。南蛮鴃舌は、南方地方の人の話言葉は、モズの鳴き声のようで、意味がわからない、という北方の人が南方人を馬鹿にした表現。

p257「今は只、廃檐朽桷塊然(はいぜんきゅうかくかいぜん)と堆を成して~」二葉亭四迷が訳した、ゴーゴリ『むかしの人』の一節。岩波の二葉亭四迷全集第一巻「翻訳」に所収。山本翁は、父の遺品たる『二葉亭四迷全集』によって、漢語を覚えていったと書いています。以下は、二葉亭の「むかしの人」で、山本夏彦が覚えたという漢語の数々。

p258「村荘の露台に座して、園に対し、膏雨(こうう)盛んに樹木を打って、雨水の滴り落つること觱沸(ひつぶつ)として泉の湧くが如く、四肢倦怠(だる)く、睡思を催す折りしもあれ、林間に長虹微(ほの)見えてぼかした様な七彩の穹窿(きうりう)半ば崩れて天の一方を彩るとき(以下略)」
 山本翁は、この二葉亭の「むかしの人」によって、「觱沸(ひつぶつ)」という語を覚えた、と書いているが、私なぞ、、「觱沸(ひつぶつ)」はもちろんのこと、膏雨(こうう)も穹窿(きゅうりゅう)も、漢字を見て、かろうじて意味は推測できるものの、この語を覚えた、ということはできない。明日は、觱沸をみて、さて、なんて読むんだっけと首を傾ける。
 
p268「刺を通ずる
 刺とは、名刺のこと。名刺を差し出して、相手と通じあうことを「刺を通ずる」というのですが、だいたい、私なぞ、「刺」だけで「名刺」の意味であることを、つい最近まで知らなかった。ちなみに、「刺を還す」とは、面会者が差し出した名刺を受け取らず、面会を拒絶することを言います。

p68「社稷を憂える しゃしょくをうれえる
 広辞苑>「.〔礼記(祭儀〕昔の中国で、建国のとき、天子・諸侯が壇を設けて祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。.〔論語(先臣)〕国家。朝廷。

 イマドキ「社稷を憂える」と聞くと、言っている人はウヨかエセ政治家か、と感じてしまいます。ウヨさんたち、ラウドスピーカーで「元慰安婦のおばあさんたちを撮影した写真展が新宿コニカサロンで開かれることは、国辱であ~る!」なんて言って、「シャショクをうれえる」ことやってないで、日本語そのものが滅びるかもしれないことを憂えなさいって。

p30「その妙、世界に冠絶す
  日本語(近代口語)そのものが冠絶してしまうのも、時間の問題となってきました。

 以上のように、『完本文語文』の中にある、春庭が「まったく意味も読み方もしらなかった語」「意味はわかるが使ったことがない語」のリストアップでした。
 『完本文語文』は、文語文の「格調高く美しき日本語」を褒め称えるための文章ですから、漢詩文の中にでてくるような漢語が多くて、春庭にはさっぱりわからない語句が多かったのは当然と言えましょう。

 次回は、近代口語(今の私たちのしゃべり方)が滅びる寸前、というお話。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「山本夏彦の『完本文語文』」

2012-07-08 12:00:00 | エッセイ、コラム
2012/07/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(3)山本夏彦の『完本文語文』

 山本夏彦の『完本文語文』に出てくる語彙で、春庭の使用語彙でも理解語彙でもなかった語のリスト。続き。

p270「操觚者そうこしゃ
 文筆に従事する人。文筆家・編集者・記者など。操觚家。ジャーナリスト。
 「觚」は四角い木札。古代中国でこれに文字を書いたところから、觚を操る人とは、詩文を作り文筆に従事する人を言う。山本翁の解説では「文章家」

p275「質は天(けいてん)七宝の柱
 芥川龍之介が泉鏡花全集の推薦文を書いた。その一節にいわく。
 「試みに先生等身の著作を以て 仏蘭西羅曼 ( フランスロマン ) 主義の諸大家に比せんか、質は 天七宝の柱、メリメエの巧を凌駕す 可 ( ベ ) く、量は抜地無憂の樹、バルザツクの大に 肩随 ( けんずゐ ) す可し

  手持ちの漢和を調べてみました。角川『漢和辞典1989』と大修館『現代漢和1996』には、この敬の下に手を書く「」という文字の記載がない。
 小学館『現代漢語例解辞典』には、「ケイ、ささげる」という読み方と、「ささげる、あげる」という字義のみで、熟語は掲載されていない。

 三省堂『全訳漢辞海2004』に、「上に向かって支える。かかげる」「手に持つ」という意味のほか、用例が出てくる。「八柱天高明之位列(八つの柱が天を高く支える)張説『姚崇碑』

 「天七宝」という熟語は、どこにも載っていません。
 慶応生まれの夏目漱石は漢詩文を読めるし自分でも漢詩を書いた。ところが、明治生まれの芥川の世代になると漢詩文は読めるが、自作はしなかった、と言われています。(実際は、漢詩くらい書いたのでしょうけれど、発表するほどのレベルには達しなかったのかもしれません)
 昭和生まれの春庭になると、もはや漢詩文は、書き下し文に現代語訳をつけてもらわないと意味わからず、白文なんぞ見せられても、ちんぷんかんぷんです。

 芥川は、いったいどこで「天七宝」という語を目にしたのでしょうか。
 泉鏡花を誉めるにあたって、適切なことばを探したのでしょうけれど、平成の今では、漢和辞書でさえ、この「天」という語を載せていないことがわかりました。ゆえに、浅学非才ぽかぽか春庭ごときが知らなくても、当然の語ではありますが、明治人の漢文力は、ほんとうにすごい。

p278「近来罕(ま)れな款語(かんご)の連続だったと、辰野(隆)は述懐している
 款語とは、款話に同じ。うちとけて話しあうこと。親しく語り合うこと。
 私、款のつく熟語は落款、定款、約款しか知りませんでした。はい、「款語」、はじめて見ました。

 言文一致、口語文以後、私たちは漢詩文、漢文脈、漢語というのを少しずつ捨て去ってきたのですが、山本夏彦が「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」と、嘆いても、この遺産を受け継がなかった私たちの世代のあとでは、漢文脈、文語文というのは、「埋もれた宝」になる一方なのでしょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「山本夏彦の文語文礼賛論」

2012-07-07 12:00:00 | エッセイ、コラム
2012/07/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論

 今日は七夕です。1872(明治5)年、旧暦12月3日を、新暦の1873(明治6)年1月1日として以来、7月7日は、梅雨時真っ最中。織り姫は彦星に会うことができません。
 しかし、JRの駅や留学生センターに飾られている竹飾り笹飾りに、短冊に書かれた願い事がびっしり結びつけられているのを見ると、「願いを託したい」「祈りたい」という気持ちは、こうもたくさん文字となって表現されているのだと、改めて感じます。

 私の一番の願いは、むろん我が身の健康、家族の幸福ですが、今年は、同じくらい強く「原発完全停止」を願わずにはいられません。「経済が上向きにならなければ、日本はどうしようもないでしょう。あなたは節電できますか、電気をつかわずに生活できますか」という脅しはさんざん聞かされましたが、さまざまな科学的実証からみて、原発を使わなくても生活でき、経済も向上する方法が、シロートの私にも分かってきました。
 夜、見えない星に向かって、祈りましょう。

 七夕は、「技芸上達、書道の上達、文章の上達」を願う日でもあります。春庭も文章上達を願って、ことばの勉強を続けます。
 「明治の語彙シリーズ」シェークスピアから翻訳された「じゃじゃ馬馴らし」について、「常の夜にも似ぬ7月6日」に書きました。(ちなみに、ゆうべの夕食はサラダではなく、麻婆豆腐でした)。
 さて、次は、「山本夏彦に学ぶ明治の語彙」です。

 インテリア雑誌『室内』の編集長にして「歯に衣着せぬ」随筆を数多く残した山本夏彦(1915-2002)。大正に生まれ平成を10年生きてなくなった。
 生まれは大正であるけれど、その文学的な素養は明治の語彙によって培われました。夏彦の父は、明治前半の文学者、山本露葉。夏彦が中学生のとき、父死去。父親の死後、中学生夏彦は、父・山本露葉の残したノートや蔵書を熟読する中で、明治の文学を吸収しました。
 大正生まれではあっても、その語彙、文体感覚は明治前半の主要な書き言葉であった文語文を基礎としています。山本自身は現代書き言葉(近代口語文)で文章をつづりましたが、日本語表現としては、「文語文」を支持しました。

 『完本文語文』2003は、冒頭「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」からはじまり、全編、日本語と日本語言語文化への思いを書き込んでいます。最終章は「明治の語彙」。
 最初の章に「応接にいとまがない」の「応接」、「不肖の弟子」の「不肖」を、自社の社員に「わかるか」と聞いたら、彼らは「初耳だ」と答えた、というエピソードが書かれています。いつごろの話とも書いていないのですが、「文語文」の初出は93年文藝春秋なので、このエピソードの社員は、70年代の生まれくらいかと思われます。

 70年代生まれには、「応接にいとまもない」も「不肖の弟子」も、「知らないことば」になっているのか、と、70年代には「花の20代」になっていた私としては驚きもするけれど、まあ、さもありなん。しかし、私とて大正生まれの山本翁に比べれば、ずいぶんと語彙に乏しいことだろうと思って、「完本文語文」の中に、私の使わない語彙がどれほど出てくるか、チェックしてみました。意味はわかるが、私は使ったことがない語、意味も読み方も知らなかった語、両方をメモしておきます。
文春文庫

 意味はわかるけれど、自分では使わない語彙、言語学の用語でいうと、「理解語彙ではあっても使用語彙ではない語」です。
 読み方も意味もわからない「非理解語彙」については、意味を書いておきます。書いておかないと、そのとき「へぇ、そういう読み方なのか」「そういう意味なのか」と思っても、すぐに忘れるから。いや、書いておいても忘れることが多いのだけれど。

 以下、山本翁没後1年の2003年に出た文庫本『完本文語文』の中のページを示します。なんだ、日本語教師のくせに、こんな語も知らんのか、と思われるかもしれませんが、「知らぬは一時の恥」ですから、恥ずかしげもなく、「私は、こんな語、知らんかったシリーズ」開陳です。

<意味を知らなかった語彙>
p33「人みな七竅あり」七竅(しちきょう=七つの穴)と、読み方も意味も書いてあったから理解できたけれど、知らない語でした。

p53「朝菌は晦朔を知らず」漢文は高校でならった世代ですが、漢文教師がいやでいやで、できる限りさぼったので、「荘子」にもうとい。
 朝生えて晩には枯れるきのこ「朝菌」は、「晦朔」を知らない。「晦朔」とは、晦日(みそか)と朔日(ついたち)のこと。朝菌は晦日(みそか・つごもり)も朔日(ついたち)も知らない。すなわち、限られた境遇にある者は、広大な世界を理解できないことのたとえ。また、寿命の短いこと、はかないことのたとえ。

p114「阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽确(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日
 中島敦『李陵』の冒頭部分です。
 山本夏彦が「騎都尉とは何か、磽确とは何か知らなくても文はリズムがあれば分かるのである」と書いているように、改めて読みなおすと、知らない語がごろごろと磽确のごとく広がっている。
 「こうかく」という読み方なんぞは知らなかったが、「磽确たる丘陵地帯」という字面を見れば、丘にひろがった尖った石や岩が目に浮かぶ。これは、漢字の見た目で意味を想起できる力による。
 意味を知らなくても、高校生の私もまた李陵の文体に恍惚となった一人です。それなのに、漢文を学ぶ気にはさっぱりならなかった。だから、今でも漢語に弱い。

p222「報条」=広告文のこと。江戸時代から明治初期にかけて用いられた言葉。「引き札」は時代劇などでもときどき聞いていた語でしたが、「報条」は、知りませんでした。

p226ラテエrate(eにアクサン) 落伍した芸術家のこと。
 森鴎外が翻訳した『埋木うもれぎ』の末尾に出てくる「モンマルトルのラテエとて痴(おろか)なる翁」という中のラテエを、「埋木」を父の遺品の本として読みふけった山本夏彦も知らず、後年、ようやく意味がわかった、と書いています。私も当然、この「文語文」を読むまで、ラテエなる外来語を見聞きしたことはなかった。

 『埋木うもれぎ』は、ボヘミア系ドイツ人、ユダヤ系女流作家オシップ・シュービンOssip Shubin(本名アロイジア・キルシュナーAloisia Kirschner )が書いた『Die Geschichte eines Genies(ある天才の物語)』を、鴎外が訳したもの。
 著者オシップ・シューピンは、「忘れられてしまった作家」のひとりです。金持ちのユダヤ家庭の出身ですから、シューピン自身は、生涯、落剥したことなどなかったでしょうが、今となっては、現代のドイツ語文化圏で、もはやだれも読まない作家です。日本では、鴎外大先生が訳したことにより、「埋木」についての論文もときたま大学紀要などに載ります。
 それにしても、鴎外が、なぜrateを「落剥芸術家」などにせず、「ラテエ」と外来語のままカタカナ語として訳したのか、わかりません。

p236「駒光(くこう)なんぞ駛(は)するが如きや
 永井荷風の「書かでもの記」からの引用。

 『書かでもの記』は、
 「身をせめて深く懺悔(ざんげ)するといふにもあらず、唯臆面(おくめん)もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称(とな)へて文を売り酒沽(か)ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地(つきじ)へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり
と、始まります。その文語文の「四」に「駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」の一文があります。
 「秋暑(しゅうしょ)の一日(いちにち)物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用箪笥の抽斗(ひきだし)なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや

 上田敏が書いた手紙を見つけた、という内容です。
 山本は文語文「先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」と、その現代書き言葉訳、口語文「先生が亡くなって三年たった。今年の命日もまたすぎた。月日のたつのは何と早いことだろう」を並べてみせ、文語文の「日本語の美」が勝っている、と結論しています。

 私は、言文一致以後の現代書き言葉(口語文)で育ちましたから、文語文の味わいはわかるけれど、山本夏彦が、口語文に比べて、文語文の「日本語の美」が勝っている、と主張してやまないのとは、また感覚が異なっています。
 現代口語書き言葉でも十分に「日本語の美」は表現できると思います。ただ、こう言ってしまえない自分がいます。
 なぜなら、それじゃ、現代JK口語(女子高校生や大学生が仲間同士で語り合う口語)も、将来には「当然の現代口語」となって、「私たちにはこのしゃべりかたが美しいし、文章も、この口語で書きたい」という主張がなされたとき、それを美しいとは感じないであろうことがわかっているからです。

 では、永井荷風の「書かでもの記」を、未来口語翻訳してみましょう。
 つうか、うちらのボディ、なにげにイクスキューズしちゃうってゆーか、はずいのパネェけど、やっぱ、テキトー書いて、キャリアっぽいこととかさぁ、チューボーんときのこととか?ウリやっちゃてクスリとかって買うのになれたかんね。(略)つうか、めんどい。もう、書くことねーし。

 現代文(近代書き言葉)を良しとするにやぶさかではない。が、JK口語のたぐいを「美しい日本語」と感じるようになるまで、百年はかかる。あ、そうそう、そのころ私は生きていないんだから、何を持って「言語にとって美となにか」と感じるかは、彼らの感性にまかせるしかない。

 山本夏彦の「文語文礼賛」について、明日も続きます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「じゃじゃ馬」

2012-07-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/07/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(1)シェークスピアのじゃじゃ馬

朗読劇「じゃじゃ馬馴らし」を観劇したアコさんからきいた、シェークスピア蘊蓄。「じゃじゃ馬ならし」の「馬」について。
 原題は、『The Taming of the Shrew』で、the Shrewとは、トガリネズミ、ジネズミのこと。馬じゃありません。英国で、とがり鼠の類は、キーキーとやかましく泣きわめき騒ぎ立てるので、そのたぐいの女性のことをshrewと呼ぶのだとか。
 へぇ!原題について調べてみようと思ったことがなく、アコさんに聞いてはじめて知りました。
 『The Taming of the Shrew』を直訳すれば「ガミガミ女の飼い慣らし方」となる。

 調べてみると、川ねずみは、「Japanese water shrew」という英語になっている。ジャコウネズミ(麝香鼠)は、「Asian house shrew」

 『じゃじゃ馬馴らし』が初めて翻訳された明治時代には、「じゃじゃ馬」ということばはすでに存在していました。

 古語辞典(岩波と三省堂)を調べてみたところ、岩波には「じゃじゃ馬」の項目が記載されており、三省堂例解古語辞典(1980)にはこの項目の記載がありませんでした。

<岩波古語辞典>
・「じゃじゃ」落ち着かず騒がしい物音の形容。ざわざわ。出典「虫がざわざわと鳴く<ロドリゲス大文典」
・「邪邪」足踏みをして、無理わがままを言ってねだること。出典「邪邪を吐きちらし<玉滴隠見」
・「じゃじゃ馬」(跳跳馬・邪邪馬)はね暴れる馬、荒馬、悍馬。出典「蛇じゃとて邪邪馬荒るる春野かな<難波草」
 「じゃじゃ」の「足踏みして無理わがままを言ってねだる」は、現代語では、「駄々=子どもが甘えて、言うことをきかないこと、駄々をこねる、駄々っ子」として出ています。(岩波国語辞典)

 現代でも、悔しがって地面を踏みつけることを「地団駄を踏む」と言います。「地だんだ」の「だんだ」は、「駄々」の転訛。駄々の語源は「鑪(たたら)を踏む」から来ている説があります。
 「地駄々じだだ」は「地踏鞴じたたら」で、「たたら」とは、鍛冶仕事や鉄の精錬のために、足で踏んで風を送る 『ふいご』 のこと。「じたんだを踏む」は「じゃじゃ踏む」とも言いました。
 
 出典からみると、「じゃじゃ」は、室町時代には「やかましく落ち着かない様子」を表していることがわかり、「じゃじゃ馬」は、江戸時代には「悍馬、荒馬」の意味で用いられていたことがわかりました。

 元々「じゃじゃ馬」は、悍馬を指して言う言葉でしたが、坪内逍遙が『The Taming of the Shrew』を『じゃじゃ馬馴らし』と翻訳して以後、「じゃじゃ馬」は「おてんば」と並んで、明治時代の、「元気のよすぎる」女性を指すことばとして定着しました。今では「じゃじゃ馬」は、男性を表すときには使わないことばになったので、PC(ポリティカル・コレクトネス(political correctness)を進める方々には、好まれない言葉であるかもしれません。
 
 ちなみに、シェークスピアの『テンペストThe Tempest』は、坪内逍遙の初訳では『颱風』でした。現代、上演される際は「あらし」「嵐」という題が多いようです。『テンペスト』というカタカナ語での本も出ています。(「ちくま文庫版シェークスピア全集」など)

ちくま文庫「じゃじゃ馬馴らし」

 では、ことのついでに、坪内逍遙訳の「ロミオとヂュリエット」より、名高いバルコニーのシーン。ジュリエットがロミオの名を呼ぶシーンです。

ヂュリ おゝ、ロミオ、ロミオ! 何故、卿(おまへ)はロミオぢゃ! 父御(てゝご)をも、自身の名をも棄てゝしまや。それが否(いや)ならば、せめても予(わし)の戀人ぢゃと誓言(せいごん)して下され。すれば、予(わし)ゃ最早(もう)カピューレットではない。
ロミオ (傍を向きて)もっと聞かうか? すぐ物を言はうか?
ヂュリ 名前だけが予(わし)の敵(かたき)ぢゃ。モンタギューでなうても立派な卿(おまへ)。モンタギューが何ぢゃ! 手でも、足でも、腕(かひな)でも、面(かほ)でも無い、人の身に附いた物ではない。おゝ、何か他(ほか)の名前にしや。名が何ぢゃ? 薔薇の花は、他の名で呼んでも、同じやうに善い香(か)がする。ロミオとても其通(そのとほ)り、ロミオでなうても、名は棄てゝも、其(その)持前の、いみじい、貴い徳は殘らう。……ロミオどの、おのが有(もの)でもない名を棄てゝ、其代(そのかは)りに、予(わし)の身をも、心をも取って下され。


 語尾の「~じゃ」という結び方、「名をも棄てゝしまや」という言い方が、歌舞伎の奥女中のようなもの言いになっているほか、ジュリエットの台詞で、現代に比べて、意味が通らない、という点はありません。女性の自称が「わし」であること、父親が「ててご」になっていること、現代なら「誓ってください」となるところが「誓言(せいごん)してくだされ」になっているほかは、現代に耳で聞いて意味がわからない、ということはありません。目で読んでみて、やはり明治の台詞だなあと感じます。バラは他の名に変えてもバラの香りがするのですが、日本語は明治の台詞に変えると「明治のかほり」になります。

<つづく>
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ぽかぽか春庭ブックスタンド2012年3月~6月「栞子さん」

2012-07-04 00:00:01 | 読書・本・ログ
ラトゥール「読書」

2012/07/04
ぽかぽか春庭ブックスタンド>2012年3月~6月のブックスタンド(2)栞子さん

 私はベストセラーというのを、売れてる最中に読んだことがない。ベストセラーになる前に知って読むか、はやりが終わって100円本になってから読むってことはあるけれど。
 その、めったにない、売れているのに買ってしまった本が、文庫ベストテンのうち、4位になった三上延『ビブリア古書堂の事件手帖1、2』 (メディアワークス文庫)

 図書館への「新刊書予約受付」にちょっと出遅れてしまった。「予約者がすでに100人もいる」とレファレンス係に聞いて「あら~、そんなにいるんじゃ、借りられるのは、ずっと先になりそうですね」と言いました。そしたら、係員は「文庫本なんだから、早く読みたいなら、自分で買えば?」と、言いました。ムカっときました。確かに、文庫1冊580円、1巻2巻を同時に買っても、千円ちょっとの値段です。区の職員として年収ウン百万円を得ている「安定した公務員」から見れば、千円の本代をケチっているように見えたのは仕方がないことなのでしょう。でも、それって、区の公務員である図書館員が言うべきことば?

 図書館員のなかには、本好きもいますけれど、それはパートタイムの職員のことが多い。区の公務員が図書館に配属される職員は、定期異動でくるくる変わる。レファレンスの椅子に座っていたのは、「こんな図書館の仕事を早く卒業して、区役所の出世コースへ戻りたい」という顔をしたおっさんでした。千円の本を買うのに、今夜のオカズ代との兼ね合いを考えるオバハンは、いじましくみえたことでしょう。
 1巻2巻を買って、新刊をひとりで読むのはもったいないから、娘と息子にも「読め」と強制しました。ははは、やっぱりイジマしいな、私。
                黒田清輝「読書」

 ナンシー関は、没後10年。39歳での死は、なんとしても惜しかった。ほとんどのコラム集は読んできたけれど、没後の編集というのもあるので、ブックオフなどで、目についたら、買う。私は百円本しか買わないけれど、娘は300円のも買ってくるので、私とは違う種類を買ってくる。「読んじゃったから、あげる」と、娘からまわってくる。それで、読んでみると、編集をちょっと違えただけのものも多い。たとえば、『何を根拠に』は、以前読んだ角川文庫の『何様のつもり』で読んだのと重なっている。しかし、2度読んでも面白い。笑える。批評コラムというのは、こういう批評精神を言うのだ、と、笑いながら思う。
浅井忠「読書」
 米原万里も早世した。おもしろさはナンシー関とは異なるけれど、笑いながら読む。幸田文の『雀の手帖』、文庫が出たのは1997年だが、初出は、1959年の新聞連載。皇太子ご成婚(現・天皇と皇后)への祝意などが書き綴られており、それこそ「三丁目の夕陽」時代の東京の雰囲気が濃い。文章のうまさは抜群だけれど、明治の語彙を露伴からたたき込まれた人の文の中に、私の知らない語を見つけるのが楽しい。
マリーローランサン「読書」

 林望は、書誌学専門家をやめてから、源氏物語の新訳を出したり、文学づいていることは知っていたけれど、小説も出していたこと知らなかった。絵画をモチーフにした作品、なかなかよかった。
                     コロー「読書」

 辺見庸の『記憶と沈黙』は、新たに「辺見庸コレクション」と再編集されたもので、ほとんどは前に読んだものだったけれど、68歳の身にいくつもの病気を抱えて、それでも書かずにはいない魂の迫力を感じる。好き!
                        フラゴナール「読書」 
 秋山豊寛『原発難民日記』、被災者の生の声。日本人で最初に宇宙を見た元ジャーナリスト、今、農民の秋山さん。めぐまれた立場にいることは承知で、原発汚染地域から逐われた農民の闘いを伝えています。

 磯貝勝太郎『司馬遼太郎の幻想ロマン』、この新書を読むと、司馬の『ペルシャの幻術師』などを読み返したくなった。書評というのは、そうあるべき。読んでいない人には、ぜひ読まなくちゃ、と思わせ、読んだ人には「もう一度読みたい」と思わせる。
ゴッホ「読書」

 雑誌掲載時には記録せず、単行本文庫本で読んだものだけを記録しておく方針だけれど、吉井磨弥『ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ』@市川森一『バースデーカード』は、この先、単行本になるかどうかわからないから、ちょっとメモ。出稿先の講師室においてあったのを、仕事が終わってからちょこっと読んだ。
 柄谷行人『日本精神分析』も、最初に雑誌に掲載されたときコピーをとって読み、なんどか必要があって再読してきたのだけれど、単行本になってから雑誌に載っていなかった部分も含めて読んでいなかったので、今回やっと全体を読むことができた。

 この春休みから夏休み前までの読書、そうたくさんは読む時間がとれなかった。車内読書が唯一の読書タイムなのに、電車爆睡ってのが多かったから。それにしても、電車内で文庫を広げている人がまだまだいます。しかし、向かい側の座席、7人中5人はケータイでメールやネットゲーム。この前は、隣の人、アイパッドで株価をチェックしていました。私は当分、車中では電子ブックではなく、百円文庫を広げることにします。数ページ読むと寝てしまうことが多いけれど。

 夏休み中は、電車に乗らない分、読書時間が減る傾向にあるけれど、ツンドク本が山積みになっている。山高きが故に貴からず。


<おわり>
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ぽかぽか春庭ブックスタンド2012年3月~6月

2012-07-03 00:00:01 | 読書・本・ログ
黒田清輝

2012/07/03
ぽかぽか春庭ブックスタンド>2012年3月~6月のブックスタンド(1)上半期ベストセラー

 7月2日の授業で、文型「~かもしれない」を導入しました。欠席者について「Aさんは、病気かもしれません。病気ではないかも知れません」という文を出席者に提示しました。真実は、どうやら、「病気ではない」というほうらしい。というのも、他のクラスでも欠席者が何人かいて、理由は「サッカーのスペインvsイタリア戦を見ていて、徹夜し、寝るのが明け方になった。結局起きられなくて、欠席」だったようです。

 まあ、留学生活、そんなに勉強勉強ばかりでなく、たまにはサッカー中継に夢中で日本語の授業を忘れる、という日もあっていいかなとは思いますが。
 私は、何かに夢中になってテレビ中継を見ていて徹夜して、翌日起きられなかった、というのは今まであまり経験してこなかった。
 眠いほうが優先で、「明日のスポーツニュースで結果を見ればいいや」と寝てしまう。
 寝床では、「入眠剤」として、「数ページも読まないうちに眠くなる本」を読むことにしています。今の入眠剤は、分厚い『日本の古代 14 ことばと文字』さて、650ページの大部、寝る前に数ページずつ読んで、いつ読み終わることでしょう。なにせ、すぐ寝られるので。


出講先の図書館の壁。ツタが北海道の形になっていて、面白かったので、ぱちり。2012年6月

 2012年度の上半期書籍売上げランキングが発表されたということを、私の「本仲間」ホークさんのブログで知りました。
 売れた本ベストテンのうち、ダイエット&美容本が5冊。買ったことないし、これからもダイエット本のお世話になることはないでしょう。読んでも実行しないから、買ってもムダ。古本屋100円本だとしても買わない。

 みんなが買って読むような本をお勧めするのはおこがましいけれど、そこは本屋さん、「いい本なのに、まだみんなは知らないから」という理由で「本屋大賞」を始めたのだろうと思ったら、少しずつそれも変わっていって、要するに「売れそうな本を選ぶ」という方向になってきたみたい。三浦しをん『舟を編む』は、小説部門の2位。
 2012年の本屋大賞『舟を編む』は、私の好きな「辞書作り」がテーマだから、昨年秋に単行本が出てすぐくらいに、ジュンク堂で半分だけ座り読みしました。それで、「この内容ならすぐに売れて、すぐに文庫化するだろうから、文庫になるまで待つ本」に決めました。まだ文庫になっていないけど。

 新書ベストテンのうち、昨年秋に買った瀧本哲史『武器としての決断思考』、さっくり読んであまりピンとこないうちにベストセラーになってしまったから、もう一度読み直すのは、ずっと後のことになるでしょう。要するに、ディベートによって思考を鍛えるってことを言いたいみたい。筆者が実践している授業でのディベート方法を、広く世に問いたいというのは、わかるけれど、大学での授業方法としてディベートのやり方をさぐってきた者にとっては、「う~ん、これだけかい」という気分が残ってしまう作り方。

 2012年1月&2月の読書メモはこちらに。
 http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/ec112708305153096b4228d948dbc1af

 2012年3~6月の読書メモ(再読、再再読を含む)
読んだ順番は、順不同にて。
@は図書館本 ¥は定価で買った本 ・は、ほとんどBookoffの100円本、定価の半額本。
☆☆☆☆☆これを読まずに死ぬのは惜しい!あなたも絶対読むべきだ 
☆☆☆☆いい本です。あなたの趣味がどうあれ、お勧め  
☆☆☆私は読んでよかったけど、あなたの趣味は知らんので。 
☆☆お暇なときのお供にどうぞ 
☆他に読む本ないとき、読んで損はない 
無☆読まなくとも人生、大過なく生きてける

<日本語・日本語言語文化関連>
¥牲川波都季『戦後日本語教育学とナショナリズム』くろしお出版2012☆☆☆
・近藤安月子『日本語学入門』研究社2008☆☆☆
・中山和芳『ミカドの外交儀礼』朝日新聞社2007☆☆☆
@中尾央・三中信宏『文化系統学への招待』勁草書房2012☆☆
@柄谷行人『日本精神分析』文藝春秋2002☆☆☆☆
@柄谷行人『近代文学の終り』インスクリプト2005☆☆☆☆
@菅聡子『時代と女と樋口一葉』NHKライブラリー1999☆☆☆

<評論・エッセイ、その他>
@辺見庸『記憶と沈黙』毎日新聞社2007☆☆☆☆
@磯貝勝太郎『司馬遼太郎の幻想ロマン』☆☆☆
・秋山豊寛『原発難民日記』岩波ブックレット2011☆☆☆
・佐々木忠次『闘うバレエ』文春文庫2009☆☆☆
・山本夏彦『完本文語文』文春文庫2003☆☆☆☆
・米原万里『旅行者の朝食』2004☆☆☆☆
・ナンシー関『何を根拠に』角川文庫2007☆☆☆☆
・ナンシー関『何をかいわんや』角川文庫2006☆☆☆☆
・幸田文『雀の手帖』新潮文庫1997☆☆☆
・開高健『人とその世界』中公文庫1990☆☆☆☆

<小説・戯曲・ノンフィクション>
・林望『小説集 絵の中の物語』集英社文庫2006☆☆☆
・三島由紀夫『サド侯爵夫人』新潮文庫1984☆☆☆
・吉井磨弥『ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ』(2011文学界新人賞)☆☆
@市川森一『バースデーカード』1977東芝日曜劇場シナリオ「月刊ドラマ2012年5月号」☆☆
¥三上延『ビブリア古書堂の事件手帖1&2』メディアワークス2011

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ぽかぽか春庭2012年6月目次

2012-07-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012年6月目次


06/02 ぽかぽか春庭十二単日記>東京スカイショウ、日・月・空・虹(1)ダブルレインボー
06/03 東京スカイショウ、日・月・空・虹(2)木洩れ日の金環
06/05 東京スカイショウ、日・月・空・虹(3)ふたたびの空へ

06/16 ぽかぽか春庭十二単日記>つゆに咲く花(1)つゆくさ
06/17 つゆに咲く花(2)薔薇アイスクリーム
06/19 つゆに咲く花(3)新種!ベルサイユのばら
06/20 つゆに咲く花(4)薔薇の名前
06/22 つゆに咲く花(5)薔薇を刺す
06/23 つゆに咲く花(6)菖蒲、園芸勝負
06/24 つゆに咲く花(7)女子会、いずれ菖蒲か杜若
06/26 つゆに咲く花(8)あぢさゐ紫陽花アジサイ
06/27 つゆに咲く花(9)あぢさゐの歌集
06/29 つゆに咲く花(10)蓮のうてな
06/30 つゆに咲く花(11)おしゃべりな花たち
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