2012/07/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論
今日は七夕です。1872(明治5)年、旧暦12月3日を、新暦の1873(明治6)年1月1日として以来、7月7日は、梅雨時真っ最中。織り姫は彦星に会うことができません。
しかし、JRの駅や留学生センターに飾られている竹飾り笹飾りに、短冊に書かれた願い事がびっしり結びつけられているのを見ると、「願いを託したい」「祈りたい」という気持ちは、こうもたくさん文字となって表現されているのだと、改めて感じます。
私の一番の願いは、むろん我が身の健康、家族の幸福ですが、今年は、同じくらい強く「原発完全停止」を願わずにはいられません。「経済が上向きにならなければ、日本はどうしようもないでしょう。あなたは節電できますか、電気をつかわずに生活できますか」という脅しはさんざん聞かされましたが、さまざまな科学的実証からみて、原発を使わなくても生活でき、経済も向上する方法が、シロートの私にも分かってきました。
夜、見えない星に向かって、祈りましょう。
七夕は、「技芸上達、書道の上達、文章の上達」を願う日でもあります。春庭も文章上達を願って、ことばの勉強を続けます。
「明治の語彙シリーズ」シェークスピアから翻訳された「じゃじゃ馬馴らし」について、「常の夜にも似ぬ7月6日」に書きました。(ちなみに、ゆうべの夕食はサラダではなく、麻婆豆腐でした)。
さて、次は、「山本夏彦に学ぶ明治の語彙」です。
インテリア雑誌『室内』の編集長にして「歯に衣着せぬ」随筆を数多く残した山本夏彦(1915-2002)。大正に生まれ平成を10年生きてなくなった。
生まれは大正であるけれど、その文学的な素養は明治の語彙によって培われました。夏彦の父は、明治前半の文学者、山本露葉。夏彦が中学生のとき、父死去。父親の死後、中学生夏彦は、父・山本露葉の残したノートや蔵書を熟読する中で、明治の文学を吸収しました。
大正生まれではあっても、その語彙、文体感覚は明治前半の主要な書き言葉であった文語文を基礎としています。山本自身は現代書き言葉(近代口語文)で文章をつづりましたが、日本語表現としては、「文語文」を支持しました。
『完本文語文』2003は、冒頭「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」からはじまり、全編、日本語と日本語言語文化への思いを書き込んでいます。最終章は「明治の語彙」。
最初の章に「応接にいとまがない」の「応接」、「不肖の弟子」の「不肖」を、自社の社員に「わかるか」と聞いたら、彼らは「初耳だ」と答えた、というエピソードが書かれています。いつごろの話とも書いていないのですが、「文語文」の初出は93年文藝春秋なので、このエピソードの社員は、70年代の生まれくらいかと思われます。
70年代生まれには、「応接にいとまもない」も「不肖の弟子」も、「知らないことば」になっているのか、と、70年代には「花の20代」になっていた私としては驚きもするけれど、まあ、さもありなん。しかし、私とて大正生まれの山本翁に比べれば、ずいぶんと語彙に乏しいことだろうと思って、「完本文語文」の中に、私の使わない語彙がどれほど出てくるか、チェックしてみました。意味はわかるが、私は使ったことがない語、意味も読み方も知らなかった語、両方をメモしておきます。
文春文庫
意味はわかるけれど、自分では使わない語彙、言語学の用語でいうと、「理解語彙ではあっても使用語彙ではない語」です。
読み方も意味もわからない「非理解語彙」については、意味を書いておきます。書いておかないと、そのとき「へぇ、そういう読み方なのか」「そういう意味なのか」と思っても、すぐに忘れるから。いや、書いておいても忘れることが多いのだけれど。
以下、山本翁没後1年の2003年に出た文庫本『完本文語文』の中のページを示します。なんだ、日本語教師のくせに、こんな語も知らんのか、と思われるかもしれませんが、「知らぬは一時の恥」ですから、恥ずかしげもなく、「私は、こんな語、知らんかったシリーズ」開陳です。
<意味を知らなかった語彙>
p33「人みな七竅あり」七竅(しちきょう=七つの穴)と、読み方も意味も書いてあったから理解できたけれど、知らない語でした。
p53「朝菌は晦朔を知らず」漢文は高校でならった世代ですが、漢文教師がいやでいやで、できる限りさぼったので、「荘子」にもうとい。
朝生えて晩には枯れるきのこ「朝菌」は、「晦朔」を知らない。「晦朔」とは、晦日(みそか)と朔日(ついたち)のこと。朝菌は晦日(みそか・つごもり)も朔日(ついたち)も知らない。すなわち、限られた境遇にある者は、広大な世界を理解できないことのたとえ。また、寿命の短いこと、はかないことのたとえ。
p114「阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽确(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日」
中島敦『李陵』の冒頭部分です。
山本夏彦が「騎都尉とは何か、磽确とは何か知らなくても文はリズムがあれば分かるのである」と書いているように、改めて読みなおすと、知らない語がごろごろと磽确のごとく広がっている。
「こうかく」という読み方なんぞは知らなかったが、「磽确たる丘陵地帯」という字面を見れば、丘にひろがった尖った石や岩が目に浮かぶ。これは、漢字の見た目で意味を想起できる力による。
意味を知らなくても、高校生の私もまた李陵の文体に恍惚となった一人です。それなのに、漢文を学ぶ気にはさっぱりならなかった。だから、今でも漢語に弱い。
p222「報条」=広告文のこと。江戸時代から明治初期にかけて用いられた言葉。「引き札」は時代劇などでもときどき聞いていた語でしたが、「報条」は、知りませんでした。
p226ラテエrate(eにアクサン) 落伍した芸術家のこと。
森鴎外が翻訳した『埋木うもれぎ』の末尾に出てくる「モンマルトルのラテエとて痴(おろか)なる翁」という中のラテエを、「埋木」を父の遺品の本として読みふけった山本夏彦も知らず、後年、ようやく意味がわかった、と書いています。私も当然、この「文語文」を読むまで、ラテエなる外来語を見聞きしたことはなかった。
『埋木うもれぎ』は、ボヘミア系ドイツ人、ユダヤ系女流作家オシップ・シュービンOssip Shubin(本名アロイジア・キルシュナーAloisia Kirschner )が書いた『Die Geschichte eines Genies(ある天才の物語)』を、鴎外が訳したもの。
著者オシップ・シューピンは、「忘れられてしまった作家」のひとりです。金持ちのユダヤ家庭の出身ですから、シューピン自身は、生涯、落剥したことなどなかったでしょうが、今となっては、現代のドイツ語文化圏で、もはやだれも読まない作家です。日本では、鴎外大先生が訳したことにより、「埋木」についての論文もときたま大学紀要などに載ります。
それにしても、鴎外が、なぜrateを「落剥芸術家」などにせず、「ラテエ」と外来語のままカタカナ語として訳したのか、わかりません。
p236「駒光(くこう)なんぞ駛(は)するが如きや」
永井荷風の「書かでもの記」からの引用。
『書かでもの記』は、
「身をせめて深く懺悔(ざんげ)するといふにもあらず、唯臆面(おくめん)もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称(とな)へて文を売り酒沽(か)ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地(つきじ)へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり」
と、始まります。その文語文の「四」に「駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」の一文があります。
「秋暑(しゅうしょ)の一日(いちにち)物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用箪笥の抽斗(ひきだし)なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」
上田敏が書いた手紙を見つけた、という内容です。
山本は文語文「先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」と、その現代書き言葉訳、口語文「先生が亡くなって三年たった。今年の命日もまたすぎた。月日のたつのは何と早いことだろう」を並べてみせ、文語文の「日本語の美」が勝っている、と結論しています。
私は、言文一致以後の現代書き言葉(口語文)で育ちましたから、文語文の味わいはわかるけれど、山本夏彦が、口語文に比べて、文語文の「日本語の美」が勝っている、と主張してやまないのとは、また感覚が異なっています。
現代口語書き言葉でも十分に「日本語の美」は表現できると思います。ただ、こう言ってしまえない自分がいます。
なぜなら、それじゃ、現代JK口語(女子高校生や大学生が仲間同士で語り合う口語)も、将来には「当然の現代口語」となって、「私たちにはこのしゃべりかたが美しいし、文章も、この口語で書きたい」という主張がなされたとき、それを美しいとは感じないであろうことがわかっているからです。
では、永井荷風の「書かでもの記」を、未来口語翻訳してみましょう。
「つうか、うちらのボディ、なにげにイクスキューズしちゃうってゆーか、はずいのパネェけど、やっぱ、テキトー書いて、キャリアっぽいこととかさぁ、チューボーんときのこととか?ウリやっちゃてクスリとかって買うのになれたかんね。(略)つうか、めんどい。もう、書くことねーし。
現代文(近代書き言葉)を良しとするにやぶさかではない。が、JK口語のたぐいを「美しい日本語」と感じるようになるまで、百年はかかる。あ、そうそう、そのころ私は生きていないんだから、何を持って「言語にとって美となにか」と感じるかは、彼らの感性にまかせるしかない。
山本夏彦の「文語文礼賛」について、明日も続きます。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論
今日は七夕です。1872(明治5)年、旧暦12月3日を、新暦の1873(明治6)年1月1日として以来、7月7日は、梅雨時真っ最中。織り姫は彦星に会うことができません。
しかし、JRの駅や留学生センターに飾られている竹飾り笹飾りに、短冊に書かれた願い事がびっしり結びつけられているのを見ると、「願いを託したい」「祈りたい」という気持ちは、こうもたくさん文字となって表現されているのだと、改めて感じます。
私の一番の願いは、むろん我が身の健康、家族の幸福ですが、今年は、同じくらい強く「原発完全停止」を願わずにはいられません。「経済が上向きにならなければ、日本はどうしようもないでしょう。あなたは節電できますか、電気をつかわずに生活できますか」という脅しはさんざん聞かされましたが、さまざまな科学的実証からみて、原発を使わなくても生活でき、経済も向上する方法が、シロートの私にも分かってきました。
夜、見えない星に向かって、祈りましょう。
七夕は、「技芸上達、書道の上達、文章の上達」を願う日でもあります。春庭も文章上達を願って、ことばの勉強を続けます。
「明治の語彙シリーズ」シェークスピアから翻訳された「じゃじゃ馬馴らし」について、「常の夜にも似ぬ7月6日」に書きました。(ちなみに、ゆうべの夕食はサラダではなく、麻婆豆腐でした)。
さて、次は、「山本夏彦に学ぶ明治の語彙」です。
インテリア雑誌『室内』の編集長にして「歯に衣着せぬ」随筆を数多く残した山本夏彦(1915-2002)。大正に生まれ平成を10年生きてなくなった。
生まれは大正であるけれど、その文学的な素養は明治の語彙によって培われました。夏彦の父は、明治前半の文学者、山本露葉。夏彦が中学生のとき、父死去。父親の死後、中学生夏彦は、父・山本露葉の残したノートや蔵書を熟読する中で、明治の文学を吸収しました。
大正生まれではあっても、その語彙、文体感覚は明治前半の主要な書き言葉であった文語文を基礎としています。山本自身は現代書き言葉(近代口語文)で文章をつづりましたが、日本語表現としては、「文語文」を支持しました。
『完本文語文』2003は、冒頭「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」からはじまり、全編、日本語と日本語言語文化への思いを書き込んでいます。最終章は「明治の語彙」。
最初の章に「応接にいとまがない」の「応接」、「不肖の弟子」の「不肖」を、自社の社員に「わかるか」と聞いたら、彼らは「初耳だ」と答えた、というエピソードが書かれています。いつごろの話とも書いていないのですが、「文語文」の初出は93年文藝春秋なので、このエピソードの社員は、70年代の生まれくらいかと思われます。
70年代生まれには、「応接にいとまもない」も「不肖の弟子」も、「知らないことば」になっているのか、と、70年代には「花の20代」になっていた私としては驚きもするけれど、まあ、さもありなん。しかし、私とて大正生まれの山本翁に比べれば、ずいぶんと語彙に乏しいことだろうと思って、「完本文語文」の中に、私の使わない語彙がどれほど出てくるか、チェックしてみました。意味はわかるが、私は使ったことがない語、意味も読み方も知らなかった語、両方をメモしておきます。

意味はわかるけれど、自分では使わない語彙、言語学の用語でいうと、「理解語彙ではあっても使用語彙ではない語」です。
読み方も意味もわからない「非理解語彙」については、意味を書いておきます。書いておかないと、そのとき「へぇ、そういう読み方なのか」「そういう意味なのか」と思っても、すぐに忘れるから。いや、書いておいても忘れることが多いのだけれど。
以下、山本翁没後1年の2003年に出た文庫本『完本文語文』の中のページを示します。なんだ、日本語教師のくせに、こんな語も知らんのか、と思われるかもしれませんが、「知らぬは一時の恥」ですから、恥ずかしげもなく、「私は、こんな語、知らんかったシリーズ」開陳です。
<意味を知らなかった語彙>
p33「人みな七竅あり」七竅(しちきょう=七つの穴)と、読み方も意味も書いてあったから理解できたけれど、知らない語でした。
p53「朝菌は晦朔を知らず」漢文は高校でならった世代ですが、漢文教師がいやでいやで、できる限りさぼったので、「荘子」にもうとい。
朝生えて晩には枯れるきのこ「朝菌」は、「晦朔」を知らない。「晦朔」とは、晦日(みそか)と朔日(ついたち)のこと。朝菌は晦日(みそか・つごもり)も朔日(ついたち)も知らない。すなわち、限られた境遇にある者は、広大な世界を理解できないことのたとえ。また、寿命の短いこと、はかないことのたとえ。
p114「阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽确(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日」
中島敦『李陵』の冒頭部分です。
山本夏彦が「騎都尉とは何か、磽确とは何か知らなくても文はリズムがあれば分かるのである」と書いているように、改めて読みなおすと、知らない語がごろごろと磽确のごとく広がっている。
「こうかく」という読み方なんぞは知らなかったが、「磽确たる丘陵地帯」という字面を見れば、丘にひろがった尖った石や岩が目に浮かぶ。これは、漢字の見た目で意味を想起できる力による。
意味を知らなくても、高校生の私もまた李陵の文体に恍惚となった一人です。それなのに、漢文を学ぶ気にはさっぱりならなかった。だから、今でも漢語に弱い。
p222「報条」=広告文のこと。江戸時代から明治初期にかけて用いられた言葉。「引き札」は時代劇などでもときどき聞いていた語でしたが、「報条」は、知りませんでした。
p226ラテエrate(eにアクサン) 落伍した芸術家のこと。
森鴎外が翻訳した『埋木うもれぎ』の末尾に出てくる「モンマルトルのラテエとて痴(おろか)なる翁」という中のラテエを、「埋木」を父の遺品の本として読みふけった山本夏彦も知らず、後年、ようやく意味がわかった、と書いています。私も当然、この「文語文」を読むまで、ラテエなる外来語を見聞きしたことはなかった。
『埋木うもれぎ』は、ボヘミア系ドイツ人、ユダヤ系女流作家オシップ・シュービンOssip Shubin(本名アロイジア・キルシュナーAloisia Kirschner )が書いた『Die Geschichte eines Genies(ある天才の物語)』を、鴎外が訳したもの。
著者オシップ・シューピンは、「忘れられてしまった作家」のひとりです。金持ちのユダヤ家庭の出身ですから、シューピン自身は、生涯、落剥したことなどなかったでしょうが、今となっては、現代のドイツ語文化圏で、もはやだれも読まない作家です。日本では、鴎外大先生が訳したことにより、「埋木」についての論文もときたま大学紀要などに載ります。
それにしても、鴎外が、なぜrateを「落剥芸術家」などにせず、「ラテエ」と外来語のままカタカナ語として訳したのか、わかりません。
p236「駒光(くこう)なんぞ駛(は)するが如きや」
永井荷風の「書かでもの記」からの引用。
『書かでもの記』は、
「身をせめて深く懺悔(ざんげ)するといふにもあらず、唯臆面(おくめん)もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称(とな)へて文を売り酒沽(か)ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地(つきじ)へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり」
と、始まります。その文語文の「四」に「駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」の一文があります。
「秋暑(しゅうしょ)の一日(いちにち)物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用箪笥の抽斗(ひきだし)なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」
上田敏が書いた手紙を見つけた、という内容です。
山本は文語文「先生逝きて既に三年今年の忌日(きじつ)もまた過ぎたり。駒光(くこう)何ぞ駛(は)するが如きや」と、その現代書き言葉訳、口語文「先生が亡くなって三年たった。今年の命日もまたすぎた。月日のたつのは何と早いことだろう」を並べてみせ、文語文の「日本語の美」が勝っている、と結論しています。
私は、言文一致以後の現代書き言葉(口語文)で育ちましたから、文語文の味わいはわかるけれど、山本夏彦が、口語文に比べて、文語文の「日本語の美」が勝っている、と主張してやまないのとは、また感覚が異なっています。
現代口語書き言葉でも十分に「日本語の美」は表現できると思います。ただ、こう言ってしまえない自分がいます。
なぜなら、それじゃ、現代JK口語(女子高校生や大学生が仲間同士で語り合う口語)も、将来には「当然の現代口語」となって、「私たちにはこのしゃべりかたが美しいし、文章も、この口語で書きたい」という主張がなされたとき、それを美しいとは感じないであろうことがわかっているからです。
では、永井荷風の「書かでもの記」を、未来口語翻訳してみましょう。
「つうか、うちらのボディ、なにげにイクスキューズしちゃうってゆーか、はずいのパネェけど、やっぱ、テキトー書いて、キャリアっぽいこととかさぁ、チューボーんときのこととか?ウリやっちゃてクスリとかって買うのになれたかんね。(略)つうか、めんどい。もう、書くことねーし。
現代文(近代書き言葉)を良しとするにやぶさかではない。が、JK口語のたぐいを「美しい日本語」と感じるようになるまで、百年はかかる。あ、そうそう、そのころ私は生きていないんだから、何を持って「言語にとって美となにか」と感じるかは、彼らの感性にまかせるしかない。
山本夏彦の「文語文礼賛」について、明日も続きます。
<つづく>
医療界は封建時代を引きずっている世界です。
先日、職場で「猿飛佐助のように」と言うと、「誰?」と言われました。
三十代半ばかな?
先週は、叔父の家でアルバムを見せて貰いました。
台湾時代のくちこ家です。
アルバムは、大正時代からありました。
その中の字、とても達筆でした。
祖父がとてもハンサムで、ちょっと得意になったくちこでした。
いつもながら支離滅裂で・・・
茶目っ気を狙ったものですが、そう捉えずに「まったく、そのとおりだ」と思っているかも、、、という自分も70年代生まれ。
そんなとーちゃんまで、都知事のように反原発の動きをヒステリーという。(都知事は、センチメントといったのか)
叔父の葬儀で帰省した際、酒呑みながら話した一大テーマです。
とーちゃんは技術者の視点から「多少の犠牲はあってっも、研究そのものを潰すべきではない」という主張なんですが、自分は、最初の対処法がおがくずとか新聞紙というのに口があんぐりした、フランケンシュタインじゃないけど、自分の手に負えないものは使う資格がないんじゃないか・・・と真面目にいったのに、とーちゃん笑いながら「そういうのも大事だけど、、、」と、あんまり聞いていない感じでした。
次には、その言葉が「口語」であると言うことを恐れました
これが口語にはならないと信じたいですね。
母校の先生に頼まれて父が「候文」で手紙を書いていたのを、
ふと思い出しました。(高校の授業用)
巻紙に筆。美しいと思いました。
私には書けません。
『白い巨塔』で、医学の世界のドロドロを知り、『梅チャン先生』を見て、女医さんたち、こんな甘いモンじゃなかったろうに、と思い、草薙の『36歳で医者になった僕』は、音だけ聞いていて画面は見なかったのだけれど、ともかく、明治以来、お医者様の権威はゆるぐことなく、現代まできましたねぇ。医者がえらくて、看護師はその「召使い」であるがごとき院内勢力図も変わりなし。総婦長くらいなら、医者と対抗できるのでしょうけれど。
その用語も、私、「御待史」「御机下」なんてことは使ったことなく、医療界以外で、この宛名を使っている業界があるのかどうか、知りたいところです。
目上には「御待史」、同輩には「御机下」っていう使い分けもあるらしいですが、今までの人生で医者に手紙出したことないから、使ったことありませんでした。
台湾でのお祖父さまのハンサムっぷり、そうか、かずこさんの美貌のルーツであるとおもうと、ぜひ、写真をコピーして「しろつめくさ」で見せていただきたく存じます。
古い家族写真などを、「人類共有の財産」として収集するNPOなども出来ているみたいです。家族にとっては「なつかしいご先祖」の写真も、人類にとっての、大切な「歴史の記憶」になるのですね。
「多少の犠牲はあってっも、研究そのものを潰すべきではない」と言い切るためには、「いつでも、その犠牲者になる覚悟ができている」という確固たる信念がなければ、口にできないことばだと思うからです。
「今、医学の進歩のために、人体実験をおこなわなければならない。研究のために、10人の人体実験治験者が必要だ。7人は犠牲を厭わない人が見つかり、すでに、実験結果によって死亡しております。あと3人、どうしても必要なので、つきましては、オタクの大将、すなわち將様とその不肖の息子、デキのいい姉貴、3人を人体実験に差し出して下さい」と、頼まれたら、「ええ、もちろん、多少の犠牲はあってっも、研究そのものを潰すべきではない」と言い切れる。
えらい!
たとえば、ラジウムの研究によってノーベル賞を得たマリー・キューリーは、自ら白血病となって死去しました。それくらいは、人類の進歩に必要だと、マリーは覚悟できた人なのでしょう。えらい。
私は、ヤワな人間なので、とてもそんな「犠牲者」になる勇気はありません。そして、「私と我が不肖の息子と娘を犠牲として差し出します」という覚悟ができないかぎり、「進歩や発展に多少の犠牲は必要」とは、言えないのです。へなちょこ人間です。
「自分は、人類の進歩のために死ぬ覚悟ができている」と思っている人に、何を言っても聞く耳持たぬと思うので、次の帰省のおりには、もう原発は話題にしないほうが、父と息子の心の平安のためには上策かと存じます。
そのかわり、新薬の治験に、人体実験が必要で、死亡率は99%だけれど、ぜひ、医学の研究のための「多少の犠牲」が必要だということを話題にしてください。
パパ上の確固たる覚悟を尊重する息子としては当然「父の意志を尊重して」「とうちゃん、この治験に参加したほうがいい」と、お勧めください。
そうか、不肖のむすこであるゆえ、父の意志は尊重しないのですね。
わが家の不肖の息子は、これから戦国史研究会にでかけると言うので、「母は風呂に入りたいから、風呂を洗って湯をはってから行け」と命じたところ、ふくれっつらをしております。
まあ、どこの不肖の息子も、親にとっては宝物。
どんなに不肖であろうと、心の中ではおおいなる「最愛の息子」なのです。
人様から見て、「あんなのをかわいいと思ってドースル」と笑われることは、覚悟。とはいえ、パパ上の覚悟に比べれば、やわなもんです。
大学生に言わせると、「先生のギャル語は古い」ってことになり、現実のギャル語会話はもっとすんごいことになっているんじゃないかと想像しています。
一般的な文章を今流行の話し方に変換する遊びは、橋本治の『桃尻語訳 枕草子』以来、何度となくさまざまなバージョンが出ています。
今回芥川賞候補になった舞城王太郎の『阿修羅ガール』も、イマドキの女子高生の語り口を文体に採用して話題になりました。
冒頭は、
「減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。返せ。」
「気持ちよくねえよ。いくねえよ。声なんか出ねえよ。出てもおめえに聞かせる声なんてねぇんだよ。入れて欲しくねぇんだよ。おめえのチビチンポなんて入れて欲しくもなんともねぇんだよ」と、続きます。
いーですねぇ、このはっちゃけぶり。とは言え、阿修羅ガールは2003年の作ですから、10年前の女子高校生ですから、2012年のJK口語がどのようになっているか、最新JK口語文学を読んでみたいものです。
さて、ナタリーさんが、
>これが口語にはならないと信じたいですね。
と、おっしゃる気持ちはわかりますが、私は、すでに口語になっているしゃべり方を採用したのであって、50年後には、これが通常のしゃべり方になっているだろうと思います。
現在の私たちのしゃべり方は、「江戸期、山の手口語」に各種とりまぜた「近代言文一致口語」によってしゃべることになっていますが、平安時代の清少納言に言わせれば、どんでもない低レベルの日本語であり、「こんなしゃべり方をするなんて、世も末」と、怒りまくるにちがいない。
近代文章語(今、私が読み書きしている日本語)は、あと50年は、文章世界では「書き言葉」として命脈を保つことでしょう。そして、50年たつうちには、新たな「言文一致」運動がはじまり、100年後には、上記の「ギャル後文章」が「正しく美しい日本語」とされるのです。
では、阿修羅ガール語を、もうちょっと紹介します。三島由紀夫賞を受けた、舞城の出世作です。春庭の「いいかげんなギャル語訳」とちがって、ちゃんと文学賞を受けたギャル語ですので。
<<私の素早い応戦にもマキが怯んだ様子はちっともなかったが、剣道とテニスで鍛えた私のムチムチの右足のスーパーキックがわりと効いたらしくて「いってーなこのビッチ~」とか言って足をさすってて、私はすかさず「うっせーなおめーに何の関係があんだよ!」と言いながら私はマキの頭を上からぐいと押さえ込んで体重乗せて屈ませてそこに右の膝を思い切り上げてうつぶせたマキの顔にガツン!と当てた。》
会話の部分「いってー なにこのビッチ」「うっせーな、おめーに何の関係があんだよ」というのが、10年前の女子高校生会話だったわけです。
2012年の、ギャル語をのちほど紹介したいと思います。
《細くて背が高くてモデル体型で歩き方もカッコ良くてなんかいろんな事務所からスカウトされるのがウザくて原宿とか青山とか歩きたくない美人のマキは鼻血を流してトイレの入口で足を開いて体育座りしていてもなんだか映画の一シーンみたいにハマってる。》
《私は黙った携帯を取って着信残ってたの消してからトートん中入れて、ブラつけてTシャツ替えてジーンズ穿いて髪まとめてクリップで留めて眼鏡かけて前髪下ろし眉毛隠してリップだけ塗ってトート持って外に出た。》
~~~~~~~~~~~~~
「いってーなこのビッチ~」「うっせーなおめーに何の関係があんだよ」という部分が10年前の女子高校生口語であります。
のちほど、2012年最新版の女子高校生口語を紹介します。
「阿修羅ガール」は読んだんです。
ちゃんと読めました。
「仲間内言葉」そんな理解だったのです。
あの言葉で「あの年代のあの年ごろ」を活写したものと。
私は「しゃべり言葉」=「口語」ではないと思っていました。
「口語」と言う言葉の使い方が間違っていました。
「これが普通の話し言葉にならないと信じたい」
です。これでよろしいでしょうか・・
お返事を読んでいて、若い方たちとの接点がないことを実感しました。
この話し方を実際に耳にしたことがありません。
2012年最新版、楽しみです。
ちんぷんかんぷん・・・かもしれません。