春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ニーハオ春庭中国日記「世界遺産高句麗遺跡」

2011-05-29 07:12:00 | 日記
2009/05/22
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(1)高麗

 中国の地名の名付け方についてお話ししてきました。名付けの方法のひとつが、山の南側と河の北側を「陽」とし、山の北側と河の南側を「陰」とする陰陽五行思想によることを学生の説明から知ることができました。

 さて、日本国内の地名について。
 かって友人が住んでいたのでたびたび訪れたことのある町、東京都狛江市。また、埼玉県に高麗川、高麗駅があり、関西には高麗寺、巨摩郡などがあり、山梨県や鹿児島県にも高麗、巨痲など、文字はそれぞれですが、「コマ」と呼ぶ地名が日本各地にあります。この「高麗(コマ)」は、古代の渡来人朝鮮半島の高麗(コウライ・コリョ・コリア)の子孫が集まって住んでいたと考えられています。高麗は、古代日本史のなかで特に朝鮮半島、中国との交流史に深い関わりを持つ地名です。

 古代史に興味を持つものにとって、高麗コーライときくと、高麗人参より先に思い浮かぶのは、高句麗です。高句麗第19代の王、好太王(広開土王)の事跡を記した「好太王石碑」が日本史の最初のところに写真が載っていたのを覚えている方も多いでしょう。

 石碑には、朝鮮半島の北を高句麗が領有し、南側には新羅、百済のほか、ヤマトの任那(みまな)が存在していたことが、立派な漢文で書かれています。この石碑の碑文は一時は捏造説もありましたが、最新の研究では、石碑に改竄などはなく、千数百年前に好太王の息子長寿王が建てた碑文そのままが保存されていることが立証されています。碑文研究も多くの進展を見ています。

 現在の朝鮮・韓国は、新羅や百済よりも高麗の流れを組む人々が多いと言われています。言語でも、現在の朝鮮語韓国語は、高麗語の系統だったであろうと想像されますが、新羅語も百済語も高麗語も記録が残されていないので、想像の域をでません。ハングルの話の中で申し上げたように、ハングル文字ができたのは14世紀のことで、古代朝鮮語をどう発音したかという記録がありません。朝鮮の文書はすべて漢文で書かれたためです。日本に置き換えて言うと、『日本書紀』だけが書かれて『古事記』はない、『懐風藻』だけが編纂されて『万葉集』はない、ということです。

 私は、教科書にある高句麗遺跡をみて、これらの遺跡群は朝鮮半島の北側、すなわち北朝鮮の中にあるのだと思いこんでいました。高句麗=朝鮮半島、と思ったので。

 しかし、今回、中国東北部のガイドブック「地球の歩き方」を見ていて、好太王石碑は鴨緑江(おうりょくこう・ヤールージャン)の西側、すなわち、中国吉林省集安市の中にあることに気づきました。

 好太王石碑の発見は、1880年。
 周囲の「高句麗遺跡群」とともに1961年に「中国重点文物保護単位」に指定されました。
 2005年にはユネスコの世界遺産にも指定されたため、集安市の観光資源として保存復元がはかられ、中国の観光地指定では「AAAA級」の指定となっています。

 私は、2007年に「中国世界遺産の旅(1)」として、孔子の故郷、曲阜市「三孔・孔子一族の墓所=孔林、孔子一族の広大な屋敷=孔府、孔子を祭る廟=孔廟」を見学しました。
 今回2009年は、古代高句麗の遺跡を訪ねて、集安市の旅、車中一泊二泊三日の旅をしてきました。
 
 集安市には、旧満州帝国時代に建設された朝鮮半島への通路があります。鉄道が平壌まで続き、鴨緑江を渡る鉄橋も日本人が関わって建設された近代建造物です。橋も鉄道も現役で中国朝鮮をつないでいます。
 集安は、古代史にとっても近代史にとっても見所のある町です。人口は23万人ほどでそれほど大きな町ではありませんが、隣接する通化市に、大きな漢方薬製造所やワイン工場があるため、町周辺の畑には葡萄や薬草などの換金作物が栽培されており、農村地帯も豊かに見えました。

 また、鴨緑江を隔てて、対岸に北朝鮮の市、満浦(まんぽ)市があるため、北朝鮮への出入り口のひとつとして、重要な交通要所となっています。
 鴨緑江の川辺には、大型望遠鏡を並べて、一回2元で北朝鮮側の川岸をのぞかせる「望遠鏡屋」がいて、けっこういい商売になっているようでした。私も望遠鏡をのぞき、北朝鮮の人々の暮らしをかいま見てきました。川辺での洗濯、畑を耕す人、自転車修理屋さんなどなど。

 旅の報告、(1)古代史遺跡。高句麗・好太王碑文と古墳群について、(2)近代史・満鉄の線路、ダム(3)現代史。北朝鮮・満浦市の人々について
の3つを中心にお知らせします。

<つづく>
07:07 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2009年05月23日


ニーハオ春庭「好太王石碑」
2009/05/23
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(2)好太王石碑

 1880年に、集安市郊外の畑で巨大な石碑が見つかりました。高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれています。第一面には、700年にわたり朝鮮半島を支配した高句麗(高麗コーライ、コリョ、コリア)の歴史、第二面には石碑の建立者である長寿王の父、第19代高句麗王好太王(こうたいおう・ハオタイワン)の事跡を刻んであります。好太王は、三国史には広開土王として記述された人物で、在位は391 - 412年。姓は高、諱は談徳。石碑を建立したのは、好太王の息子長寿王です。

 『三国史記』は、漢文で書かれ、朝鮮三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までが紀伝体で記されています。
 この石碑には、12世紀に編纂された朝鮮半島における最古の歴史書『三国史記』と重なりあう記述とそうでない部分があります。

 日本の大和朝廷が朝鮮半島に任那(みまな)と呼ばれた領土を所有していたことを裏付ける記述が好太王石碑に書かれていたため、日本が朝鮮半島に進出することを正当化するために、石碑の文面が改竄されたという論が出されたこともありましたが、現在の研究では、石碑が改竄されたというのは事実ではなく、石碑は長寿王が建立したそのままの文面であることが立証されています。

 「好太王が任那のヤマト軍と戦って勝利した」という記述により、『日本書紀』や『古事記』に書かれているヤマト朝廷の任那進出と撤退が裏付けられたのです。
 神功皇后が軍を率いて朝鮮半島へ渡ろうとしていた、などの日本書紀の記述が、伝説というだけではなく、歴史的事実を反映して書かれていることがわかります。

 好太王石碑は、風化によって文字が読みにくくなった箇所もあるので、現在は保存のためにガラス張りの建物で覆われています。何人かまとまると遺跡事務所のガイドが説明をします。ガイドの言葉のなかで、私に聞き取れたのは、「日本リーベン」だけでしたが、ガイドが話している程度のことは、旅行ガイドブックに書いてあるので、説明を聞いているより、一字一字の文字をなめるように眺めてきました。「なめるように」は勿論比喩で、実際になめたら、警備兵に叱られます。大切な文化遺産なので、ガラス張りの建物の中で写真を撮ることも禁止。写真は外からガラス越しに撮影するのみなので、文字については、記念館の拓本を撮影してきました。

 記念館には1880年に発見されたあとの石碑のようすを撮影した写真や、何種類かの拓本の写真があります。拓本は、日本の国立東京博物館にも数種類保存されているのですが、めったに公開されません。前回2004年の公開時には、見ることができませんでしたが、次回のチャンスには必ず見たいと思います。

 1600年前の古代に、島国日本と朝鮮半島と中国大陸を結んで、戦ったり交易したり朝貢したり、さまざまな交流がありました。
 高句麗20代の王、長寿王によって414年に建立されてから、石碑は1802の漢字によって古代事跡の記録を保存してきました。

 高麗王朝は668年に滅亡しました。唐と新羅の連合軍によってに滅ぼされたのです。その後、高麗の人々はヤマトに亡命してきました。ヤマト政権は高麗の人々を受け入れ、各地に「高麗」「巨痲」などの地名が残されました。高麗という姓の人々も各地にいます。

 高句麗遺跡の宮殿跡を見ていたとき、日本人の一行に出会いました。高麗恵子さんというスピリチュアル系芸術家とパートナーのスピリチュアル音楽家いだきしんさんの一行でした。高麗さんは、「先祖は高麗王族」とホームページのプロフィールに記しています。
 いだきしんさんによる即興音楽と高麗さんの即興の詩作朗読をコラボレートするというフージョンコンサートを開催していて、この高句麗遺跡のビデオを次のコンサートで映写しながら演奏や詩の朗読を行うというお話でした。

 高句麗遺跡の映像を背景にどんな芸術作品が演じられるのでしょうか。日本人ツアーなどがあまり行かない観光地で、それも平日金曜日という時間に、たまたま高句麗遺跡で出会ったというのも、好太王のお招きによる御縁だったでしょうか。

 私とほぼ同じラインナップで撮影されている集安旅行ブログをリンク。
http://4travel.jp/traveler/enyasu/album/10177985/

 こちらのブログの石碑写真は、どう考えても、禁止を無視して内部撮影したとしか思えない角度です。
http://4travel.jp/traveler/minagaki/album/10237553/

<つづく>
10:04 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2009年05月24日


ニーハオ春庭「通化から集安へ」
2009/05/24
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(3)通化から集安へ

 集安への移動は、夜行寝台車で。
 私の住む町から11時発の夜行寝台車に乗り込み、通化(tong hua)に朝の6時着。寝台車は4人部屋コンパートメントの「軟臥」という種類。ベッドひとつが110元(約1700円)。高いので、観光客や上層市民しか乗らない。出稼ぎ客や学生は硬座という座席。ちょっとお金がある人は「硬臥」6人部屋の寝台車。

 車掌が身分証の提示を求めに来ました。私はパスポートも持ってきたのですが、大学が発行した「工作証(職業証明書)」の提示だけでOKでした。相客は、瀋陽市から出張で旅行中という軍人さんでした。軍事大学を出て5年目というイケメンの若い士官。日本のオバハンがイケメンへの興味丸出しで、「あなたの階級は、軍人のなかでどのくらいの位置なのか」とか、ずけずけ聞くのに、ややとまどいながらも答えてくれました。中尉に相当する階級(たぶん)。結婚はまだだけど、恋人はいるそう。彼は朝4時に下車していきました。

 通化市は、市内人口50万人、周囲の農村地帯も合わせると237万人が住む吉林省で第4番目の都会です。吉林省最大の鋼鉄工業基地があり、採鉱・機械・冶金・電子・木材加工・製紙・酒造・紡績・製薬などの工場が建ち並ぶ新興工業都市で、経済力では第2位という。また、葡萄酒の産地としても有名で、通化ワインはこの40年の間に30ヶ国へ輸出される一大産業になりました。薬草や朝鮮人参の栽培基地としても有名で、郊外には葡萄畑や薬草畑が続いていました。

 通化から集安までは約116キロの道程で、バスで約2時間半かかりました。通化集安間には、旧・満鉄が敷設した鉄道路線があり、現在も稼働しています。乗ってみたくはありましたが、一日一便だけなので、通化駅前のバスターミナルから集安行きのバスに乗りました。24元。
 通化集安線は、集安から北朝鮮の満浦を経て平壌まで続いている国際路線です。日本人は、北朝鮮のビザがないから、満浦市の手前、すなわち集安までしか行けません。

 集安のバスターミナルに9時過ぎに着き、目の前の朝鮮料理屋で朝ご飯。タクシーでホテルへ。タクシーの運転手は良さそうな人で、観光客とわかると名刺をくれました。
 予約したホテルは、ガイドブックでは当地で一番由緒正しきホテルと書いてあった集安賓館というところですが、2階の部屋に上がるのにエレベーターはなし。町中には、もっと新しげなホテルも、安そうなホテルもありましたが、面倒なので移動もせず2泊。バスタブにちゃんとお湯がはれるホテルなら、私はそんな豪華な部屋じゃなくても十分満足です。
 観光客誘致に力を入れ始めたところなので、これから星つきホテルも建設されていくことでしょう。

 集安は日本の青森と同じくらいの緯度に位置し、鴨緑江の流れを隔て朝鮮と接する国境の街です。高句麗の都がおかれたのは今から1600年前のことで、好太王の息子長寿王が集安から平壌へ首都を移したのちも、8世紀に唐王朝に滅ぼされるまで夏の行宮として利用されていた古都でした。
 国内城、丸都山城、兎山貴族墓群、好太王石碑、将軍墳など、数々の高句麗遺跡が市内に集まっています。

 第10代山上王(197-227)がこの地に都を置いた209年から第20代長寿王(413-419)が平壌(ピョンヤン)へ遷都した427年までの200年間、王都として高句麗文化の最盛期を彩りました。平壌遷都後も別都として高句麗滅亡の668年までの約230年、計430年間繁栄を誇りました。

<つづく>
00:41 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2009年05月25日


ニーハオ春庭「鴨緑江観光」
2009/05/25
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(4)鴨緑江観光

 集安賓館の部屋に荷物を置いたあと、鴨緑江までタクシーで移動。小型車タクシーは初乗り3元(約50円)という安さですが、乗って数分もすれば畑地へ出てしまうような小さな町です。最初に乗ったタクシーがぼったくりで、ほんとうなら歩いても行ける距離を大回りして10元ふんだくりました。最初は距離感もないので、すなおに払いましたが、まあ、町中を見物して、鴨緑江の土手道を延々ドライブしたので、鴨緑江見物をしたと思えば腹も立たない。3倍の10元払ったといっても、150円だし。川岸の土手で降りました。

 鴨緑江の川縁には望遠鏡屋がいて、一回2元でのぞかせてくれます。対岸に、こぎれいな白壁の朝鮮民家が立ち並んでいます。2007年に延吉市の「朝鮮民俗園」へ行ったときの民家と同じ形、同じ雰囲気で、すぐに「これは、観光客に見せるための家であって、本当の民家ではないな」と、感じました。はたして望遠鏡屋も「ほんとに人が生活している家ではない」と、言ってました。
 鴨緑江観光をした日本人ツアーのブログなどに「北朝鮮の家を見た」と書かれているのは、ほとんどこの「こぎれいな見せ家」です。

 川岸のモーターボート屋で、鴨緑江観光の船に乗りました。一人15元。中国人のオッサンたちの一行にまぎれて切符を買う。『地球の歩き方』には、モーターボート15分で40元と出ていたのを思い出し、アハハ、地球の歩き方バックパッカー君、外人値段をぼられているよ、と、いささか得した気分。わたしゃ、15元ですんだ。しゃべらなきゃ外国人だとばれない。

 オッサンたち順にボートに乗り込み、前から座っていったので私は一番後ろの席になる。オッサンたちタバコをふかしているので、後ろの席じゃ、煙がくるじゃん、と思って、「前の席がいい」とわめいてみたら、オッサンが席を替わってくれました。謝謝。
 切符買ったあとなら、めちゃくちゃな発音でしゃべって、外人とばれてもいいもんね。

 鴨緑江の北朝鮮側をモーターボートはすっ飛ばしていきます。岸辺の道を歩いている人がはっきり見えます。川をへだてて、中国側の山は緑深いのに、朝鮮側の山は、はげ山。木は燃料として切り出されたり、木材輸出用にしてしまったあと、逃亡者監視のため、わざと木を植えずにはげ山のままにしてあるのだと聞きました。

 しかし、鴨緑江は、狭いところなら百メートルくらいしか川幅がなく、実際には川を渡って中国側へ抜け出ることはそんなに難しくない。中国側で、身分証もなく生活することが困難なことがわかっているから、こちら側にこないのであって、生活の手引きする者があるなら、皆川を渡る。
 中国では、学生証や工作証(職業証明証)などの身分証の携帯は全国民の義務であり、提示を求められたときには出さなければなりません。日本で、車の運転者にとって免許証不携帯が交通違反になるのと同じ感覚です。私の身分証には、「外専(外国人専門家)」と書かれています。

 朝鮮側対岸で、何人かのオモニたちがいたので、手をふりました。あちらも手を振ってくれたので「アンニョンハセヨー」と叫んでみましたが、モーターボートの音にかき消されて、オバサンたちに聞こえたかどうか。

 ホテルのすぐ側にある集安市博物館まで歩いて行ってみました。閉鎖中。川岸に建設中の新博物館への移転準備のためだったのだろうと思うのですが、建設中の博物館はまだ半分もできあがっていないのに、、、、。新博物館は、観光客誘致をはかってのことでしょうが、なかなか立派な建物でした。

<つづく>
06:52 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月26日


ニーハオ春庭「丸都山城遺跡群」
2009/05/26
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(5)丸都山城遺跡群

 鴨緑江観光のあとは、ホテルの北側に位置する丸都山城遺跡へ向かいました。このときのタクシーは女性運転手でよさそうな人だったので、2日目のタクシー・チャーターを頼みました。9時から2時間半で80元。その後は延長料金だという。百元としても、一日タクシーに乗って、1500円です。
 
 丸都山城(ガンドゥシャンジャン)は、高句麗王朝が築いた町を守る外壁です。中国語で「城」というのは、万里の長城を代表とする「町を守るための城壁」のことで、日本語の「城」が天守閣を持つような単独の建築物を指すのと異なり、長く延びた城壁のことを言います。「城内」というのは、城壁で囲まれた町の中のことであり、異民族の襲撃から安全に守られる暮らしができる地域が「城内」なのです。

 丸都山城には、見張り台や夏の行宮跡などの遺跡が点在しています。貴族の古墳も数多く存在していますが、ほとんどの古墳がまだ研究途上未発掘。ただし、ほとんどの古墳は盗掘されていて、中味はカラッポ。

 この丸都山城の宮殿あとで、高麗恵子&いだきしんというスピリチュアル系芸術家を見かけたことは、すでに書きました。(スピリチュアル系芸術家というのは、あえて言えば元Xジャパンのトシみたいな感じ?宗教とはちがうけれど、なんか宗教的な。コンサートに行って音楽聞くと不治の病いが治る、みたいな)

 丸都山城遺跡で雨が降り出したので、一度ホテルに戻りました。少し休憩してから、町の中心部へ。メインストリートも、10分タクシーで走れば終わってしまう規模ですが、なかなかにぎわっていました。夕食前ですが、「関東煮」と書かれたおでんのような串にさした食べ物を買ってほおばりました。昆布と、高野豆腐みたいな干豆腐(ガンドゥフ)と、海老シンジョみたいな蝦丸というのを指さしで買いました。2串で1元(15円)。日本のおでんと違うのは、唐辛子とか入っていて、ちょっと辛いこと。

 夜のメインイベントは、町の中心地にある高句麗演芸広場という劇場での観劇です。どんな内容か全然分からないまま、劇場へ行きました。なにせ、丸都山城遺跡で買った入場券は、1、好太王碑と好太王陵 2,将軍墳(好太王の息子長寿王の陵墓) 3,兎山貴族墓群 4、丸都山城 5,高句麗演芸広場 というのがセットになっている入場券で、遺跡ひとつひとつは30元の入場料ですから、バラ買いすれば150元になる計算で、割安っちゃ割安なんだけど。中国物価の感覚からすると百元(1500円)は高いものだから、内容にかかわらず、劇場もとにかく見ておいて、モトとらないと。と言っても、他に夜の娯楽といってもカラオケくらいしかない町なので、セットになっていなくても見るつもりだったんですよ。

 演芸劇場は、まあおまけみたいなもんですから、まったく期待せずに劇場の椅子にすわりました。500席くらいはありそうな中型の劇場ですが、お客はまばら。メーデー休暇のときなどは満席だったかもしれませんが、3連休後の週末の金曜日の夜ですから、お客が少ないのはわかるとして、500席にお客が20人くらいってのは、なんだかさびしい。出演者も気合いが入らないだろうと思っているうちに、場内暗くなって舞踊劇が始まりました。

<つづく>
00:49 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年05月27日


ニーハオ春庭「高句麗文化演芸広場」
2009/05/27
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(6)高句麗文化演芸広場

 上海辺玉寛芸術団という劇団による舞踊ショウ。高句麗の初代王の誕生伝説からはじまり、高句麗をイメージした舞踊が続きます。歴史の説明ナレーションはぜんぜん聞き取れませんが、電光掲示板に文字が出る。漢字文化圏のありがたさで内容はわかる。
 観客は20人ほどなのに、男性ダンサー20人強、女性ダンサー20人強が、実に見事なダンスを繰り広げました。まったく手抜きをせずにきちんと踊っていることは、ジャズダンス歴30年の私が見ればわかります。

 冬のシーン。男性ダンサーたちが、雪のなか狩りをするダンス、迫力ありました。春のシーン、男女デュオが恋物語を繰り広げます。クラシックバレエの基礎をきちんと訓練されているダンサーであることがわかります。基礎はクラシックバレエですが、そこは中国ですから、雑伎団のようなアクロバティックな動きが随所に入り、なかなか見応えがありました。少林寺や空手など武道をアレンジした高句麗武術のシーンでは、長い棒をうち割ったりのアクションもありました。

 高句麗のダンスショウと言っても、高句麗の文化でわかっているのは、古墳の壁画に残されている衣装くらいで、実際に高句麗でどんなふうな踊りがあったのかなんてことはわかりません。でも、高句麗をイメージした振り付け師の腕は、相当なものと見受けました。

 トップダンサーは男性ふたり。ひとりは今井翼似、ひとりは十代のころの東山紀之似で、ダンスの腕前は翼君のほうが上みたい。でも、私はヒガシに惚れました。ヒガシは初代王さまの役を踊り、実にカッコよかった。
 女性ダンサーもきれいな人がたくさんいましたが、とりあえず、女性ダンサーはどうでもいい。なんと言ってもヒガシくんです。

 たった20人の観客のために、こんなに力を入れて踊ってくれて、なんていいダンサーたちなんだ、と感激している内にフィナーレ。フィナーレの音楽が終わらないうち、観客がまだ出口にでていかないうちに、怒鳴り声が聞こえました。「だめだ、だめだ、なってない!もっと真面目にやれ!」芸術監督のダメだしが始まりました。
 そうか、ダンサーたちが手抜きせずに熱心に踊っていたのは、観客のためではなく、今日は芸術監督、舞台監督のダメ出し総見の日だったから?

 ダンサーたちは、この日の出来ぐあいで、役を入れ替えられたり、トップや准トップに昇格したり決まるんじゃないかしら。あんなに力をこめて踊っていたのは、自分自身のためだったのだと納得されました。
 私の場合。ジャズダンス練習のとき、発表会の前、練習が厳しくなったときなど、先生の視線がこっちに向かっているときはピシッと手足を伸ばし、ターンもフルでやりますが、先生の視線がはずれていると思ったときは、2回転ターンも1回転にしておくとか。まあ、私はシロートなのだから、これでいいんです。発表会、金取って見せる訳じゃない。

 監督は、男性ダンサーのひとりに、ジャズダンスではエアプレーンと呼ぶターンをやらせて、「そんなんじゃダメだ、百回繰り返して練習しろ」と怒っていました。エアプレーン、難しいんですよ。私から見たらじょうずにターンしているように見えましたが、監督は厳しい叱責をつづけます。

 もっとダメだしを見ていたかったのに、もぎりのおばちゃんが来て、もう出ていけって感じでせき立てる。「走吧ゾウバ=行きなさい」って言われて追い出された。ヒガシくん、また会いにくるからね。
 日本の劇場なら入り口の売店で売っている劇場パンフレットがあって、振り付け師や衣装デザイナー、ダンサーの名前が書いてあるんだけど、そのようなものは売っていなかった。くすん、ヒガシくんの名前もわからない。でも、君の顔を覚えていて、将来有名ダンサーになったら、「私は集安という田舎町で、この人の踊りを見たんだ」って、自慢するからね。

夕食は劇場前の蒙古族食堂へ。串焼き肉と野菜焼き。8時過ぎにはほとんどの店が閉店してしまう田舎町なので、蒙古族食堂もほとんどのメニューが「もうないよ、没有メイヨー」でした。
 
<つづく>
01:28 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年05月28日


ニーハオ春庭「高句麗の古墳と壁画」
2009/05/28
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(5)高句麗の古墳と壁画

 洞溝古墳群は、集安の洞溝河の河畔にある高句麗時代の古墳群です。総数で1万近くも遺跡あり、遺跡の中に町があると言ってもよい。
 古墳は、古い年代の石墓と新しい年代の土墓(4~6世紀)に分類され、石墓の代表的なものは、将軍墳(長寿王古墳)。

 土墓は、更に前期と後期に分類され、前期のものは貴族の生活を題材とした壁画が、後期のものは四神(青龍・白虎・朱雀・玄武・)が描かれている壁画が多い。後期の代表的なものは、五塚五号。高松塚古墳などに見られる四神像壁画との影響関係もこれからどんどん研究が進められていくことでしょう。

 好太王石碑のすぐ側に、地元の人に「将軍墳」と呼ばれた古墳があります。だれか偉そうな人のお墓のようだから、きっとショーグン様に違いないと長年呼ばれてきた古墳でしたが、調査によって、将軍ではなく、好太王の息子長寿王の墓であったこと、またその陪葬墳であることがわかりました。1600年の間に、墓の副葬品も遺体もとっくの昔に盗掘され、石の棺台だけが残されています。

 ただ、墓そのものは盗み出せないので、棺を収めた墓室の壁画や、重い大きな石をつか石室は残りました。華麗な壁画が残されています。現在は保存のために、観光客に公開されている壁画は兎山古墳群の中の5号墳の内部だけです。
 
 5号古墳の入り口から地下に降りていくと、空気がひんやり冷たくなります。ガイドさんが照らす懐中電灯に、石室内部の壁画が浮かび上がりました。

 壁画には、人類始祖の神様や農耕の神様が描かれています。青龍白虎などの形はよくわかります。玄武の亀、朱雀の赤い顔料も残っています。写真撮影は禁止ですが、ガイドは懐中電灯で照らすし、人の体温だって壁画に影響があるのではないかと心配です。高松塚古墳には黴が生えてしまったし。

 自分で見ておいて言うのも何ですが、観光客には模写を見せておけばよい。
 上野の国立博物館で玉虫厨子や国宝仏像のレプリカ展を見たとき、そうそう、研究者以外の観光客にはレプリカを見せたほうがいい、と思いました。貴重な本物は、失われたら二度と取り戻せないのだから。フランスのラスコー壁画などは、観光客用のレプリカ洞窟が作られています。それでいいのだと思います。

 兎山貴族古墳群の特徴は、1号から5号までが、一直線上に位置していることです。奈良県の飛鳥古墳群が、天武持統天皇陵や草壁王子陵などが一直線上に並べられ、王都を守る風水思想に基づいて築かれていたことを何かの本で読んだことがあるのですが、きっと高句麗の王族もさまざまな陰陽五行思想の影響を受けていたことでしょう。

 高句麗が唐朝に滅ぼされた668年とは、天武持統朝が、「飛鳥浄御原宮」を造営した時期とぴったり重なります。天智天皇天武天皇の母、斉明皇極天皇が道教や中国風水思想に深い関心を持っていたことはよく知られていますが、飛鳥奈良の都建設にあたっては、高句麗の大工などの技術者が活躍したことと思われます。

 古代、高句麗滅亡に伴って、たくさんの技術者がヤマト王朝へ亡命してきて、大和政権が強大化するのに一役かいました。飛鳥浄御原宮のころまでは、天皇が代替わりするごとに宮を新しく築くのが伝統であったのに、天武・持統朝の飛鳥浄御原宮からは数代に渡る固定した大きな宮家となりました。これは、高句麗から高い技術を持った大工が渡来してきたことを伺わせます。

<つづく>
06:50 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月29日


ニーハオ春庭「中国朝鮮国境大橋」
2009/05/29
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(6)中国朝鮮国境大橋

 古代に高句麗の技術者が日本へやってきたことと逆の流れが、近代史においてありました。日本の高い近代技術を持った人々が朝鮮半島や中国大陸に渡り、ダム、鉄道、橋などインフラ整備に貢献したのです。

 満州帝国建国という歴史上では「鬼っ子」のように扱われる時間のなかで、中国側からはほとんど紹介されていない、出来事があります。中国の近現代史で語られていることと語られないこと。日本軍が中国の一般人民を虐殺した平頂山事件現場などについては、博物館を作るなど詳しく史実を記録していますが、日本人が現在の中国の人々の生活に貢献した事実もある、ということは、ほとんど語られません。

 1930年代に日本人技術者によって建設された橋やダムは、現在も現役の設備として中国の人々の生活の役にたっています。しかし、中国側は日本人が建設したインフラであることは表に出さず、地元の人は昔からある中国人が作ったもの、と思っています。

 台湾の嘉南平野に建設された烏山頭ダムについて、下記URLに書きました。台湾の人々がこのダムを築いた八田與一を長年顕彰し、台湾に眠る八田夫妻の墓を守っていてくれることと比べると寂しい気もしますが、国の方針というのはそれぞれに違いがあり、仕方がないことなのでしょう。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijou0608ac.htm

 1930年代に開通したのが、旧満鉄敷設の通化平壌線です。通化から集安を経て、朝鮮の満浦(まんぽ)へ。満浦市から平壌まで路線は続きます。
 現在、日本人は集安から先に行くことができませんが、中国の人々は貿易のために行き来している国際路線です。

 この国際路線が鴨緑江を渡るために建設されたのが、国境大橋です。入場料20元かかるけれど、朝鮮との国境線が引かれているところまで入れるということなので、タクシーで橋のたもとまで行きました。軍が管理している出入り口で、入場券の発券を待つ間、売店で飲み物のペットボトルを買いました。このとき、つい日本語をしゃべってしまいました。

 入り口へ戻ると、さっきは「入場料は20元だ」と言っていた軍人さんが、こんどは「何人だ」と聞いてきました。こわいから正直に日本人と答えると、「外国人は橋の中に入れない」と、追い出されました。ペットボトルを買った売店の人が「あいつはガイジンだ」と、告げ口したのです。ああ、しゃべらなければよかった。
 2007年のときは圖們(ツーメン)市の橋の中央にある中国朝鮮の国境線をまたげたし、あのときは日本人同僚とふたりだったので、盛大に日本語をしゃべりまくっていたのに、何も言われなかった。2年の間に政治情勢が厳しくなったのか。この国境大橋の建設は日本人が関わっていたことが問題なのか。

 でも、橋の真ん中まで行って日本人であることがばれて拘留でもされたら大変でしたから、まあ、事前に入場を断られてよかったのかもしれません。橋は遠くから眺めました。
 この橋をどの技術者が設計し、どんな人々が鉄を運び石を築いて作り上げたのか、今となっては私に詳細はわからない。でも、こうしてこの橋はここに残り、中国と朝鮮半島をつないでいる。
 古代の仏像や寺も造った人の名が残ることは稀で、多くは無名の人の仕事とされますが、美しい塔や仏像は後世の人にも感銘を与えます。近代の鉄橋も無名の人が造り、現代の人の役にたっている、それでいいのかもしれません。

<つづく>
00:00 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月30日


ニーハオ春庭「旧満鉄の線路と満浦市」
2009/05/30
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(7)旧満鉄の線路と満浦市

 鴨緑江の川岸。中国の集安市と朝鮮の満浦市が両岸に向かい合っています。満浦は、朝鮮で七番目に大きい都市だということですが、小さな集安市の集落よりさらに小さい町です。川岸に見える工場は、銅の精錬所かと思うのですが、望遠鏡屋さんも何の工場か知らないようでした。
 町並みは割合にきれいで、ここも中国側からのぞかれていることを意識した「見せ町」という目的があるのでしょう。しかし、一般の観光客が行くモーターボートから見えた付あたりの「見せ家」と異なり、ぼろいところも見えます。

 人々が川岸で砧を打って洗濯しているようすも見えるし、子どもたちが遊んでいるようすもわかる。子供が自転車に乗って走っているようす。こぎれいな服を着ているし、やはりここは朝鮮のなかでも、「朝鮮の人民イルミンは中国の人民レンミンより良い暮らしをしている」と見せるための町だろうなあと思います。ほかの町や村で一般人民ピープルの子供が自転車に乗って走っているとは思えない。

 町の一角に自転車修理屋がいて、自転車を直しているようす、人々が何人かあつまっておしゃべりしているのかゲームをしているのか、のんびり休日を楽しんでいるようすもうかがえました。
 満浦市を見ている限りでは、餓死者も出たという貧困ぶりは感じられません。はげ山の中腹にはハングル文字の巨大な金日成をたたえるスローガンがかかげられ、川岸から手をふる人々は、主体(チュチェ)思想を守り、将軍様の指揮のもとに生きていく人生をおくるのだろうなあと思います。
 東北地方の各地にある朝鮮直営のレストランで、女子服務員が逃亡してしまうのは、「別の世界」を知ってしまったゆえであり、この満浦市の中で望遠鏡でのぞかれているだけの生活なら、自分たちの世界に満足しているのではないかと感じました。

 集安2日目、土曜日の夕方、集安の美容院で染髪とカット。50元(750円、日本の価格から比べれば激安ですが、シャンプーのゆすぎが不足したのでしょう、枕が黒くなりました)。なぜわざわざ集安でカットしたかというと。自分の町で暮らしていると、ちょっとでも時間があればパソコンに向かい、仕事のためにパワーポイント資料を作成する時間にあててしまう。集安にはホテルにインターネット設備もないし、パソコンに向かう時間がとれないので、まあ、その時間をヘアカットにあてた、という次第。

 そのほか、靴磨きとか、なかなか日本ではしないことをしてみました。
 朝、ひとりでぶらぶら歩き散歩をしていた途中でのこと。靴磨きは3元というのを2元に値切ってみたら、まけてくれました。1元15円安くしてみたところで、私の生活は変わるわけでなく、靴磨きのおっちゃんにとっては大きな1元だろうと思うのですが、何でも値切ってみるのが中国式なので。値切ったあとはちょっと心が痛んだのですが、たぶん、地元の客だったら、1足1元だったろうと思うので、ま、いいか。

 さて、2日目の夜の過ごし方は、、、、、。もう一度高句麗演芸広場へ行って、もう一度高句麗ダンスショウを見たのです。どんだけヒガシが気に入ったんだって。
 2日目は、他のダンサーには目もくれず、ひたすらヒガシくんだけ見ていました。写真もアップでとりました。
 土曜日夜なので、金曜日夜よりは客の入りがよくて、100人くらいは、入っていました。決め所では「好ハオッ」という掛け声もかかり、ダンサーたち、昨日と変わらずいっしょうけんめい踊っていました。
 
 フィナーレのあとは、やっぱり監督がダメ出しをしていました。なんだ、毎晩ダメだしがあるんじゃん。
 監督はこの演目を成功させ、上海とかの大きな町で上演するとか、全国巡演、テレビ出演するとか目論んでいるようでした。私が興行師なら、ヒガシくんを日本へ連れてきて踊らせるのに。

<つづく>
00:21 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2009年05月31日


ニーハオ春庭「涼水朝鮮族の村へ」
2009/05/31
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(8)涼水朝鮮族の村へ

  集安3日目、日曜日の朝の散歩。遺跡公園では、人々がチェンズをして遊んでいました。チェンズは、錘のついた羽を足で蹴る遊びです。紀元前5世紀の中国で始まったという「ティーチェンズ(Ti Jianzi)」羽根突きの羽を一回り大きくしたものを蹴鞠のように蹴り上げる。何人かが輪になって、羽を蹴ってパスしていき、下に落とさないように続けます。私も学校でやってみたことがありますが、上手に蹴り上げてラリーするのはなかなか難しい。

 市場を歩き、果物を買いました。生きた鶏、鳩も売られています。豚もそのまんま横たわっていましたので、写真をとりました。日本では豚を豚のまんま売っていることはないので。漢方薬売りの露台には、イタチのような動物のミイラも売っていました。どんな病気に効くのやら。

 朝散歩から帰ると雨が降り出しました。最初の金曜日に名刺をもらっていた運転手が誠実そうだったので、電話をかけてもらい、チャーターしました。涼水という集安から90分くらい車を走らせたところにある村まで行ってみるためです。市内は一日チャーターで百元が相場ですが、涼水は離れていてガソリン代がかかるので、半日で90元です。

 朝鮮族が住む郷村といっても、現在は満州族も朝鮮族も漢族とほとんど変わらぬ暮らしをするようになって、あまり独自の民俗などは残されていない、ということでしたが、せっかく朝鮮国境付近の町にきたのですし、朝鮮族居住区と地図に書かれている地域があるのですから、行ってみて悪くはない。雨の中広い遺跡群を歩くのも困難だし、ドライブというのはいいアイディアです。

 ときおり強い雨が降る中、最初は鴨緑江に沿って、それから山の中の七曲がりの道を通って、1時間強。10時すぎに涼水地区に着きました。なるほど、家々は、他の漢族の家と造りが変わっているわけでもなく、鴨緑江対岸の「見せ家」が伝統的な朝鮮式の形を見せていたのに比べれば、何の変哲もない村です。

 集安市生まれの運転手さん。現在奥さんは大連へ出稼ぎに行っています。働きながら日本語を学んでおり、今年7月28日に大連から大阪へ働きにいくことが決まっています。5月のメーデー連休のとき、大連まで奥さんに会いに行って、次に会うのは、大阪出発の直前。子供は中国に残して、奥さんだけが日本へ行きます。寂しいけれど、これから子供の教育費のことなど考えると、仕方のない選択だといいます。このあたりの朝鮮族の人はほとんどが韓国へ出稼ぎにいき、漢族の人はアメリカや日本へ出稼ぎに行くのが、金を稼ぐもっともいい方法なのです。あれこれと身の上話を聞きながら、タクシーは山道から集落に入っていき、涼水朝鮮族郷村に着きました。

 雨のなか、タクシーが止まったところは、バス停にでもあたるのか、道ばたの小さな家の前で、大きな袋を持った人が雨宿りしていました。どこへ行くのか聞いてみようかとタクシーを降りました。集安へ行くのか、通化へ行くのか。

 そしたら、運転手が、「この家には誰も住んでいないようだから、中をのぞいて見るかい」と言って、勝手にドアを開けました。小さな倒れそうな家です。
 誰も住んでいないどころではなく、おっちゃんがテレビを見ていたし、おばあさんがふとんをかぶって横になっていました。

 ニーハオ、アンニョンハセヨ。とりあえず挨拶をすると、おっちゃんは「入れ,
はいれ」と言う。雨宿りの人と思ったのかもしれません。

 朝鮮族の農家の暮らしを見てみたい、と運転手には言ってあったのですが、町ぐらしの運転手にも、知り合いの農家があるわけでなし、まあ、この家でいいかと、おっちゃんの言葉に甘えて上がり込みました。
 おっちゃんは、何のためにこの村に来たのかわからない、というふうでしたが、テレビを消して相手をしてくれました。この村に言葉が通じない人が来ることもないので、テレビより面白い見ものだったと思います。

<つづく>


2009/06/01
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(11)涼水朝鮮族・金希紅さんの家

 金さんの家は、6畳一間の居間と土間。金さんと年老いた母親のふたり暮らしです。
 市場で買った油桃という果物や、お菓子類をおみやげに渡しました。金さんは、自分の畑で作っているという落花生をふるまってくれました。おばあさんに挨拶しました。オモニは79歳です。若い頃朝鮮から中国側にきた人で、中国語はひとことも話せません。朝鮮語も方言が強いのか、私にはひとことも理解できない言葉でした。私のカタコトの挨拶はわかってくれたのだけれど「ナヌン、イルボニムイムニダ」と、言ってもよくわかってもらえませんでした。

 たぶん、私の発音が悪かったのだと思います。韓国語を習ったとき激音濃音という発音ができずに挫折したので。と、いうふうにでも思わないと。
 もしかして日本人にひどい目にあったという記憶があって、日本人という言葉に嫌な気分をもったのかもしれないとも思ったのですが、いやがっている感じはありませんでした。

 おっちゃんは、金希紅さんという名です。足が悪いので、畑に出ることができず、79歳のオモニがひとりで畑仕事をしているのだ、と涙ぐみながら語っていました。政府からの障害者年金は、ごくわずかで、たぶん涼水の郷村の中でももっとも貧しい家だったろうと思います。でもそこは朝鮮族の家なので、どんなに貧しくても雨の肌寒い日にはオンドルをたいて、ビニールカーペットが敷いてある6畳間ほどの部屋のなかは暖かい。家は、この6畳ほどの広さの部屋と、同じくらいの広さの土間のみ。家具はテレビと布団がしまってある押入箪笥のみ。土間には台所の設備がなかったので、煮炊きは裏口から外に出て行うのでしょう。

 金希紅さんは、「生まれてはじめて日本人を見た」と言っていました。そうだろなあ。涼水朝鮮族郷村に、韓国人が稀に来ることがあるかもしれないけれど、日本人が来ることとはビジネスでも観光でも考えられない。
 金さんは、韓国の旗とハングル文字が描かれたTシャツの上に古いジャケットを羽織っていました。昨年の北京オリンピックの際、参加各国の旗がプリントされたTシャツが売られたので、このあたりでは韓国の旗が出回ったのだろうと思います。

 貧しい暮らしかもしれませんが、顔つきはキリッとしていて誇りを失わない人のようにお見受けいたしました。

 オモニと金さんと私の3人で写真をとってもらいました。住所を聞く口実ができたので、紙に住所を書いてもらい、写真を送る約束をしました。
 金さんにとっては、初めて出あった日本人との記念写真。私にとっては、いきなり知らない中国朝鮮族の家を訪問して、いやがられもせず、お話ししてもらった記念の写真です。
 
 集安は、高句麗の遺跡がすばらしい土地でしたが、私にとっては、金さんの家訪問は、どんなツアーにもできない特別な体験になったということで、いちばん貴重な思い出になりました。

 集安旅行、楽しかったです。車中1泊、2泊3日でおみやげ代も含めて3000元(約45000円)かかりました。日本のツアー旅行から見ればなんということない出費ですが、私にすれば現地給料一ヶ月分です。ちょいと贅沢して命の洗濯した気分。
 鴨緑江の水は、私には温かかったです。

<おわり>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする