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ぽかぽか春庭「君たちはどう生きるか」

2024-02-13 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240209
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2023シネマ拾遺(2)君たちはどう生きるか

 2023年末、舞浜イクスピアリシアターで見た映画の1本は、公開時から見たいと思っていた「君たちはどう生きるか」。
 公開時にすぐに映画館にかけつけたハヤオファンとはちがい、宣伝なし予告編なしの鈴木プロデューサー術中にはまるのは釈然としないという気持ちがあり、ロードショー公開のうちは見守るだけにしておこうと思ったのです。

 が、娘がイクスピアリシアターの前売り券を2枚くれました。前売り券を買っていたのに忘れていたそうです。12月31日まで有効の券。無駄にしてなるものかと、30日に見にいきました。最初にウィッシュを見て、上映室を移動。15分の待ち時間ですぐに「君たちはどう生きるか」が始まりました。飯田橋ギンレイでは続けて2本立てを見てきたので、続けて2本見るのは慣れています。

 「君たちはどう生きるか」は、宮崎駿の前作2013「風立ちぬ」から10年目の作品。引退撤回しての新作制作発表ののち、ハヤオ鈴木プロデューサーコンビは「予告編なし宣伝なし」を貫きました。タイトルとポスター1枚以外の情報はファンに与えられず、さまざまな憶測や期待を生みました。
 公開されるや絶賛と酷評「わからん」派の賛否両論。レビューもさまざまにネットを賑やかにしましたが、先入観なしに見たいと思い、解説やら感想やらを無視して3か月。以下、ネタバレがあります。

 見終わってから監督インタビューや鈴木Pインタビューは読みましたが、基本、私の感想は私のものだと思うので、スズキPはタイのカンヤダさんと仲良くしてりゃいい、と思うばかり(カンヤダ関係ないですね。私がゴシップ好きなだけ)。

 映像に圧倒されました。冒頭の空襲シーン、「風立ちぬ」にも空襲シーンがありましたが、さらに迫力を増して圧巻でした。こんなふうに言うと絶対に反感を買うのだけれど、炎、美しい。炎の中には無数の焼死体もあるのはわかっていても、生きているような炎です。

 母親が入院中の病院が空襲により被災。最後の姿を確認できないまま母を失った主人公眞人(まひと) は、父の軍需工場疎開にあわせて田舎の母の実家へ疎開します。
  宮崎駿自身が飛行機部品工場経営の父のもとで育ったことから、まひとはハヤオ少年であり、本作を「自伝的作品」とする解釈もあると思いますが、まひとはハヤオ少年その人ではなく、ハヤオがこうありたかった少年だろうと思います。

 ハヤオ少年の一族は、数千人の従業員が働く宮崎航空興学を経営していました。父はこの会社の役員を務めています。ハヤオは裕福な一家の4人兄弟の二男として1941年に生まれ、東京から家族とともに宇都宮に疎開。ハヤオ少年が疎開した宇都宮は海のない土地だから、まひとの疎開先の風景とは異なっていたと思いますが、幼児期から小学校3年生まで田舎で育ったことは、ハヤオ少年の精神形成になんらかの思いを残したことはあると思います。宇都宮空襲には4歳で遭遇。まひとは中学生として疎開先の中学校に入っているから、ハヤオ少年より疎開年齢が上です。田舎への目も、まひとのほうが成長した目で見ていたでしょう。まひとは敗戦後、家族一緒に疎開先に別れを告げます。一方ハヤオ少年は敗戦後5年間栃木県にいて、1950年小学校3年生のとき東京に戻ります。学習院大学を卒業後東映動画に入社。 

 まひとは疎開後、「青鷺屋敷」と呼ばれる古屋敷の中に建つ洋館で暮らすようになります。父の再婚相手、母とそっくりの叔母夏子と、青鷺屋敷に暮らす老女たち。まひとは夏子にも転校した中学校にもなじめない。現実社会からの疎外。母と叔母は同じでではないはずなのに、「かあさんと顔がそっくりだろ」と言って叔母夏子を新しい妻とする父への違和感があり、洋館の中で孤独にすごします。母の面影は、母が残したであろう『君たちはどう生きるか』という本の中にたどるしかありません。
 青サギの中の謎の男とともに少女の姿の母に出会い、まひとは不思議な世界を冒険します。母の叔父(まひとの大叔父)に「あとつぎに」と望まれます
が、まひとは現実世界に戻ってくる。

 まひとが経巡る冒険世界につぎつぎに現れる人食いインコや「わらわら」という白い不思議生き物、さまざまな解釈を呼び起こすらしいけれど、私はただその姿と動きを楽しみ、不思議世界の大崩壊を見守りました。


 鈴木プロデューサーの解釈では、大叔父は宮崎駿にとっての高畑勲なのだということですが、自分の跡継ぎを託そうとする大叔父を拒否して現実世界に戻るまひとは、先人の作り上げた世界から出て自分自身がこれから構築していくべき現実世界へ戻る。最初はなじめなかった夏子と夏子が生んだ弟とともに、もとの暮らしにもどるところで映画は終わります。

 青鷺屋敷の婆さん達のひとりのキリコ。まひとの母が少女の姿で現れる世界ではキリコも威勢のいい若い漁師。キリコとともに乗る舟は、大荒れの海を走って行くし、大叔父の住む世界のガラガラと崩壊していく階段とか、本来なら「死」を含む嵐の海や崩れる階段なのに、なぜか生命エネルギーにあふれているように感じる。まひとは死の世界から戻ってきたのですが、負の石で自らのあたまを殴るような中学生が、静かな思いのエネルギーを得た少年になって、家族とともに疎開先をあとにする。

 この映画を見た人も、生きるエネルギーを注入されて帰るのか、ガラガラと崩れる世界とともに崩壊していくのかわからないけれど、私はこのアニメ映画の映像で元気になりました。
 見終わると、冒頭の空襲の劫火も、あの燃えさかる大火の描写も命の燃えさかりに思えてきます。ストーリーの中では、まひとの母親が入院している病院が火のなかにあるということはわかってくるけれど。すべてが燃え尽きる世界、すべてが崩れ去る世界。そのあとにどんな世界が残るのか残らないのか。てなこと言うと、すぐ「人が大勢死んでいるのかもしれない空襲のシーンで、命の燃え盛さかりとか、ふざけたこと言うな」という反感をかうことはわかっている。だけれど。あの冒頭、映画がおわってくるりと反転すると劫火が生のエネルギーに見えてしまったのは、私にそう思わせた映像のあまりに生き生きした炎の描写だったから。文句ある人はスタジオジブリへ。あるいは「壊す人」のイメージを中途半端に残していて、破壊と創造の繰り返しが輪廻転生であると思い残している昭和な感性が悪い。

 イクスピアリのシネマ開始時間など調べていかなかった。うまく2本立てを続けて見るには待ち時間があったのに、昼前に舞浜について、7時すぎに帰宅するまで、自宅で作ったコーヒーの入ったペットボトル一本。ちょいおなかもすいてきたけれど、何も食べずに帰りました「お金ないから食べ物も買えないダイエット」大晦日まで有効でした。体重は減ったけれど、栄養が偏っている気がする。

<おわり>
コメント (2)
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