20180717
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>終活映画(3)おみおくりの作法Still life
さまざまな生と死。
九州四国中国近畿までの、大雨の被害で亡くなった200人もの方々、お悔み申し上げます。今だ安否のわからない行方不明の方々、ご無事を祈ります。
大雨の少し前からニュースでは「歴史的な大雨が予想されます。土砂災害が懸念されています」と繰り返されていました。私が予報を受けたとしても、目の前で川が氾濫したり家に土砂が流れ込むまでは、避難を考えなかったかもしれません。
生と死、人生は予想のつかないことが次々に起こります。
オウム教祖と幹部の死刑執行にも、23年前の事件を反芻して、気持ちが沈みました。ナチスのガス室担当者も、オウムのサリンを製造し噴霧した信者も、ひとりの人に思考をゆだねてしまい、トップの言いなりになってしまった。これを「自分とは関係ない、特異な人々のこと」と思うなら、必ずこの事件は繰り返されてしまうと思います。自分たちが正義だと思い込まされれば、殺人さえも正義。私たちの思考は、いとも簡単にオウムと同じ構造になります。75年前の日本全体がそうだったこと、みな忘れようとしていますが。
できることなら、自分の生と自分の死は、自分自身によってよりよいものにしたい、そんな願いも、はかない望みなのかもしれません。
2015年に見た「おみおくりの作法Still life(ウベルト・パゾリーニ監督)」ですが、ヤンゴン赴任のドタバタがあったので、鑑賞メモも残さなかった映画。
「終活映画」のくくりで思い出しました。とても心にしみる映画で、人の生と死について、深い印象が残りました。
原題のStill lifeとは、絵画では「静物画」のこと。英語では「まだ生きているものを描く」という意味になり、やがて枯れたり腐ったりする生き物を描くことです。果物の絵だったり花瓶の中の花だったり。フランス語だと「Nature morte 死にゆく自然物」。
Still lifeもNature morteも、やがては死にゆく生き物の姿を描くこと、すべての命あるものは平等に死を迎えることを、描き出していきます。
ジョン・メイ(エディ・マーサン)は44歳で独身。役所務めを22年続けてきた、風采の上がらない小男です。ロンドン市ケニントン地区の民生係。
几帳面な性格は、毎日の暮らしの中でも変わりません。机の上のものが曲がっておかれていたら、さっとまっすぐに置きなおすようすからも、律儀にささやかに生きてきたことがわかるジョン。仕事が終われば、毎晩りんごと缶詰の魚と食パンと紅茶でひとりきりの夕食。1年中同じ。
食卓の食パンと紅茶。一幅の静物画です。
以下、ネタバレあらすじ紹介です。
彼の仕事は、孤独死した人の後始末。役所としては事務的に処理してほしいのですが、几帳面なジョンは、ひとりひとりを尊び、丁寧に葬儀を行います。
ジョンは、故人の貴重品をまとめ、書類を作り記録します。葬儀を手配し、家族親戚をはじめ友人・知人も見つからない場合は、ジョンがたったひとりの会葬者。遺品から生前の故人を推察してジョン・メイが弔辞原稿を書き、葬儀を執り行う神父に代読してもらいます。役所にとっては、そんな丁寧な葬儀は費用の無駄です。葬儀が終わると「案件終了」。ジョンは、個人の遺品の写真をアルバムに貼っておきます。
アルバム整理中のジョン
地方行政の財政悪化で、役所は人員整理を実施。もともと「費用対効果」の悪い仕事とみなされてきたジョンの仕事はやり玉にあがります。
ジョンの上司は、孤独死した身寄りのない人の葬儀は無駄、さっさと火葬して、遺灰はそこらの墓地の片隅にぶちまけておけばよい、と割り切っているので、ジョンの「余計な仕事」が気に入りません。ジョンは最後の仕事を終えたら解雇されることになりました。
ジョンの最後の「おみおくり」は、ジョンの向かいの家で孤独死したビリー・ストーク。
近所に住んでいても、言葉を交わすこともなかったビリー。ジョンは、ビリーの生涯をあきらかにして見送りたいと願います。ジョンは、ビリーの生涯をたどって、イギリス中を旅して、ビリーと関わった人と出会います。
墓地を歩くジョン
残されたアルバムから、ビリーにかかわった人々がわかっていき、孤独なアル中と思われていたビリーの生涯があきらかにされていきます。アル中になったのは、パラシュート部隊として従軍した戦争の悲惨な記憶からの逃走でした。アルコールに逃げるしかなかったビリーは、勤め先のパン工場でもいざこざをおこし、刑務所に収容されてしまいます。幼い娘とも音信不通に。
ジョンはビリーの娘ケリーにたどりつきました。が、ケリーは、子供時代のつらい思い出から、ビリーの引き取りを拒否します。ジョンは自分のために購入してあった墓地を、ビリーの埋葬に使うことにしました。
ケリーは、ジョンの調査によってビリーの真実の姿に気づき、ジョンの手配した葬儀を受け入れます。そして、ジョンに「葬儀が終わったらお茶でも」と、お礼のことばをかけます。
ジョンがイギリス中で探したため、ビリーの葬儀には、ビリーにかかわった人々が大勢参列することになりました。パラシュート部隊の仲間、パン工場の同僚など。
ビリーの葬儀の隣で、2階建てバスにはねられた孤独な男の葬儀も行われていました。毎日りんごと缶詰の魚を食べ、律儀に役所の仕事をしたのに、解雇された孤独な男の葬儀。
参列者がだれもいないと思われた葬列でしたが、観客の目には、見えない参列者たちが見えてきます。
観客も、「この人の葬儀に加わらなければ」という思いになるラストシーンでした。
ジョン・メイがアルバムに張り付けていった孤独死した人々の一枚一枚の残された写真。
律儀で誠実な男の仕事。身よりも友達もいない孤独な人。いかにも安月給らしい人の、狭い部屋。
でも、彼が過ごした日々は、私たちの心に残り、だれもが、ひとりひとりの貴重な一生を送っているのだと伝えてくれました。
お金持ちが残された時間に「やり残したことを全部やる」という終活も、よいものなのでしょうが、それ以上に、ささやかな庶民の生涯に残された写真が、私の心にしみました。
終活。
私の終活は、今日一日を後悔なく過ごすことかな。
今日も一日働いて、生ビール一杯。これって終活?
(ほんとは、毎日後悔ばかりですけれど)
<おわり>