2月10日(月)に「魅力ある観光地の再建に向けて」というジオパークフォーラムが開かれました。参加者数は30数名。私も「災害後のガイドとお客様」というテーマで15分ほど話しをしました。

今日は、1991年雲仙普賢岳の火砕流災害の復興の中心にいた杉本伸一氏(島原半島ジオパーク、雲仙岳災害記念館)の講演を中心に、報告したいと思います。(内容については、コーディネーターとして参加されていた時事通信の中川和之氏のメモを、参考にさせてもらいました。)
雲仙の災害と、被災後の状況
災害前までの雲仙は、避暑、新婚旅行、修学旅行などの目的で、何もしなくても観光客が来た時代があった。
その後、噴火。44人がなくなり、2500棟が被災した。火砕流が起きてからは観光客がまったく来なくなり、農水産物、商工関係、すべてがダメージを受けた。
災害前後の観光客は半島全体で半減。人口も大幅に減った。
噴火は5年続いて、大変な状況になった。
修学旅行は11万5千人が4千人に減り、今も当時の2割ぐらいにしか戻っていない。
復興
自治体が立てていた計画に、地域の人たちも一緒に計画を立てた。キャッチフレーズは「前よりもっとすてきな町に、前よりもっと豊かな町に」その中で、災害記念館(がまだすドーム)を02年7月にオープンした。目的は災害の教訓を後世に伝えることと、支援に感謝の気持ちを表すこと。「がまだす」は「がんばる」の方言。
土石流で埋まった家屋(3棟は大きなドームをかぶせて)、火砕流で焼けた校舎、壊れた消防団の車などをそのまま保存した。これは地域の住民たちが、保存しようというところから始まった。
災害当初はボランティアが土砂をとって、次の土石流でまた積るということを繰り返したが、ここまで埋まると人力では出来ない。地域の人から「ここを買い上げてもらい住宅の再建をしたい」という要望がでた。一部分は、道の駅で雇用創出をする。外れたところは、保存公園にする。
買い上げてくれと言った人も保存公園にするとなると、人の目にさらすのはイヤだと反対する人も出た。被災者の人と行政がいろいろ話し合いをしながら「土石流がどんなものかを全国の人に見てもらって、防災につなげる施設だ」と言うことで最終的には納得をしてもらった。
小学校も砂防指定地の中、ダムで取り壊すことになっていたが、地域の人がどうしても残して欲しいと言うことで最終的には保存することになった。災害遺構という本物に触れる、どんなシアターも本物には勝てない。
“かさ上げ”から町づくりへ
土石流で何もなくなったところを6mかさ上げして、まったく新しい町を作った。
かさ上げ事業の地域の復興リーダーたちが砂防事業後、「まちづくりの推進協議会」を立ち上げた。
ジオパークへ
火山の恵み、災害の防備、噴火の歴史などをキーポイントにフィールドミュージアムという野外博物館作りに取り組んだ。住民ワークショップで、コース作りや、ボランティアガイドの養成講座、火山学習クラブなどの活動を続けてきた。
その中で、2007年に島原で火山都市国際会議を開いた。人口5万の都市で、この国際会議をやるのは、大変だった。東京や大阪、長崎のようなことは出来ない。島原でしか出来ないような国際会議にしよう。地域も職員も総動員。参加者が600人、係わった人が述べで5700人、幼稚園児からお年寄りまで、いろんな人にお手伝いをいただいた。
1週間の会議が終わり、すごくフレンドリーな会議だったという評価を受けた。住民、地域が、久しぶりに燃えた。「次、何するんですか?」とみんなが言う。
そこにあったのがジオパークだった。災害で官民が一緒になって復興に取り組んだ。研究者、行政、市民、ボランティアが連携して国際会議を成功させた。さらにそれを生かしてやっていこうというのがジオパークだった。
他地域との連携
2000年に三宅と有珠で噴火があった時、自分たちの教訓を伝えるために、被災地にでかけた。私もその一員で避難所を回って話をしてきた。それがきっかけで被災3地域で、火山市民ネットを立ち上げた。中越の地震、東北の震災、霧島の噴火などのたびに、NPOメンバーが出かけていって、地元と協調していろんなことに当たっている。ジオパークのメンバーもそういう人たちが入っている。
被災前、私は雲仙とはまったく種類が違う大島の火山に魅力を感じていた。割れ目噴火のところも歩いて、地球を感じるところだという印象だった。今回の災害後にも3回大島に来た。自然はいい面だけではなく災害ももたらす。雲仙は火砕流の怖さを知らないでああいう目に遭った。大島では予想できない雨で、多くの人が亡くなった。これをどう生かすかが、ここの役目だろうと思う。
“復興ツーリズム“という言葉があるが、伝えたいのは、災害という物事もあるが、実は“思い”。被災地だからこそ、伝えられることがある。忘れられないことがあるはず。忘れたくない人がいるはず。
私は根底には、そういう思いでジオパークやガイドをしている。
杉本さんには質問にも答えていただきました。
質問・災害遺構を残すときに地元の人の話で進んだと言うが、そのきっかけは何だったのか?
何か心のよりどころが欲しいという思いがあったのではないか。そこに生活していたという“何か”を残したいという思いがあって、地域の人の声が出てきたのだろう。
質問・予想外があり得る中で、6mのかさ上げで皆さんは安心して住めているのか?
新たに作った川の堤防と同じ高さに合わせただけ。

次の災害で、安全かどうかは言えない。

去年の6月に、図上訓練をした。どういう危険性があるのか。大雨が来たら両方川にはさまれているので、取り残される。だから、予想されたときは安全なところに逃げようという意見が大方をしめた。
最後に、杉本さんの言葉で、最も印象に残ったものは…
「災害は年月が経つと忘れられてしまい、その地域だけで伝えていくのは難しい。他の地域とも協力しながら、みんなで伝えていくことが必要だと思うようになった。」という言葉でした。
確かに災害が次々に起こる日本だから、他地域の災害から学ぶことで記憶を新しくして、伝えていくことができるのかもしれません。
この言葉が様々なご自分の体験から語られていることを、スゴイと思いました。
(カナ)

今日は、1991年雲仙普賢岳の火砕流災害の復興の中心にいた杉本伸一氏(島原半島ジオパーク、雲仙岳災害記念館)の講演を中心に、報告したいと思います。(内容については、コーディネーターとして参加されていた時事通信の中川和之氏のメモを、参考にさせてもらいました。)
雲仙の災害と、被災後の状況
災害前までの雲仙は、避暑、新婚旅行、修学旅行などの目的で、何もしなくても観光客が来た時代があった。
その後、噴火。44人がなくなり、2500棟が被災した。火砕流が起きてからは観光客がまったく来なくなり、農水産物、商工関係、すべてがダメージを受けた。
災害前後の観光客は半島全体で半減。人口も大幅に減った。
噴火は5年続いて、大変な状況になった。
修学旅行は11万5千人が4千人に減り、今も当時の2割ぐらいにしか戻っていない。
復興
自治体が立てていた計画に、地域の人たちも一緒に計画を立てた。キャッチフレーズは「前よりもっとすてきな町に、前よりもっと豊かな町に」その中で、災害記念館(がまだすドーム)を02年7月にオープンした。目的は災害の教訓を後世に伝えることと、支援に感謝の気持ちを表すこと。「がまだす」は「がんばる」の方言。
土石流で埋まった家屋(3棟は大きなドームをかぶせて)、火砕流で焼けた校舎、壊れた消防団の車などをそのまま保存した。これは地域の住民たちが、保存しようというところから始まった。
災害当初はボランティアが土砂をとって、次の土石流でまた積るということを繰り返したが、ここまで埋まると人力では出来ない。地域の人から「ここを買い上げてもらい住宅の再建をしたい」という要望がでた。一部分は、道の駅で雇用創出をする。外れたところは、保存公園にする。
買い上げてくれと言った人も保存公園にするとなると、人の目にさらすのはイヤだと反対する人も出た。被災者の人と行政がいろいろ話し合いをしながら「土石流がどんなものかを全国の人に見てもらって、防災につなげる施設だ」と言うことで最終的には納得をしてもらった。
小学校も砂防指定地の中、ダムで取り壊すことになっていたが、地域の人がどうしても残して欲しいと言うことで最終的には保存することになった。災害遺構という本物に触れる、どんなシアターも本物には勝てない。
“かさ上げ”から町づくりへ
土石流で何もなくなったところを6mかさ上げして、まったく新しい町を作った。
かさ上げ事業の地域の復興リーダーたちが砂防事業後、「まちづくりの推進協議会」を立ち上げた。
ジオパークへ
火山の恵み、災害の防備、噴火の歴史などをキーポイントにフィールドミュージアムという野外博物館作りに取り組んだ。住民ワークショップで、コース作りや、ボランティアガイドの養成講座、火山学習クラブなどの活動を続けてきた。
その中で、2007年に島原で火山都市国際会議を開いた。人口5万の都市で、この国際会議をやるのは、大変だった。東京や大阪、長崎のようなことは出来ない。島原でしか出来ないような国際会議にしよう。地域も職員も総動員。参加者が600人、係わった人が述べで5700人、幼稚園児からお年寄りまで、いろんな人にお手伝いをいただいた。
1週間の会議が終わり、すごくフレンドリーな会議だったという評価を受けた。住民、地域が、久しぶりに燃えた。「次、何するんですか?」とみんなが言う。
そこにあったのがジオパークだった。災害で官民が一緒になって復興に取り組んだ。研究者、行政、市民、ボランティアが連携して国際会議を成功させた。さらにそれを生かしてやっていこうというのがジオパークだった。
他地域との連携
2000年に三宅と有珠で噴火があった時、自分たちの教訓を伝えるために、被災地にでかけた。私もその一員で避難所を回って話をしてきた。それがきっかけで被災3地域で、火山市民ネットを立ち上げた。中越の地震、東北の震災、霧島の噴火などのたびに、NPOメンバーが出かけていって、地元と協調していろんなことに当たっている。ジオパークのメンバーもそういう人たちが入っている。
被災前、私は雲仙とはまったく種類が違う大島の火山に魅力を感じていた。割れ目噴火のところも歩いて、地球を感じるところだという印象だった。今回の災害後にも3回大島に来た。自然はいい面だけではなく災害ももたらす。雲仙は火砕流の怖さを知らないでああいう目に遭った。大島では予想できない雨で、多くの人が亡くなった。これをどう生かすかが、ここの役目だろうと思う。
“復興ツーリズム“という言葉があるが、伝えたいのは、災害という物事もあるが、実は“思い”。被災地だからこそ、伝えられることがある。忘れられないことがあるはず。忘れたくない人がいるはず。
私は根底には、そういう思いでジオパークやガイドをしている。
杉本さんには質問にも答えていただきました。
質問・災害遺構を残すときに地元の人の話で進んだと言うが、そのきっかけは何だったのか?
何か心のよりどころが欲しいという思いがあったのではないか。そこに生活していたという“何か”を残したいという思いがあって、地域の人の声が出てきたのだろう。
質問・予想外があり得る中で、6mのかさ上げで皆さんは安心して住めているのか?
新たに作った川の堤防と同じ高さに合わせただけ。

次の災害で、安全かどうかは言えない。

去年の6月に、図上訓練をした。どういう危険性があるのか。大雨が来たら両方川にはさまれているので、取り残される。だから、予想されたときは安全なところに逃げようという意見が大方をしめた。
最後に、杉本さんの言葉で、最も印象に残ったものは…
「災害は年月が経つと忘れられてしまい、その地域だけで伝えていくのは難しい。他の地域とも協力しながら、みんなで伝えていくことが必要だと思うようになった。」という言葉でした。
確かに災害が次々に起こる日本だから、他地域の災害から学ぶことで記憶を新しくして、伝えていくことができるのかもしれません。
この言葉が様々なご自分の体験から語られていることを、スゴイと思いました。
(カナ)