グローバルネイチャークラブのガイド日記

グローバルネイチャークラブ(旧グローバルスポーツクラブ)のガイド仲間が観察した伊豆大島の自然の情報を中心にお届けします。

へい・へい

2019年07月01日 | 歴史・文化
以前西谷さんのブログで『南部のブロック塀には酸化した溶岩の欠片が入っている』と有った。調べてみたが、故意に入れた訳ではなさそうでしたが、詳しいことは分からなかった。昭和の終わりごろには南部でブロックを製作している所も有り(北部にも有った)目にした塀がどちらのブロックを使用したかもわからなかった。

我が家にもブロックが有って

殆どは行ってはいないようですが、少し入っています

でも、たくさん入っているブロックも有ります


ブロック塀の上のパーツ(ここは何と呼ぶのでしょう)
透かしはどの様に作るのでしょうか?


場所によっては 部位分傷んでいる様でした(あ!私の家では無かった)



これなら赤い100%?

土手はブロックでは無く石積みですね

少し角のある石をきれいにコンクリートで穴埋めしてあります

コンクリートで補修していても

長年経つと やはり壊れてしまいます


石積みそのまま

長い年月経つと周りの土が雨風に晒されて減って行ってしまう

小石を入れて補修

でも、すき間は~ そ~っと覗くと

ほらね、誰かがいたりするのね(びっくりの大物もいるから注意も必要)

海から運んできたまあるい石の壁も有ります

こんな素敵な道ですが

手前側の石積みの上部が少し外側に出てしまっているので崩れる可能性が有りそうなのです。

この丸い石の塀はマイマイとキセル貝に愛されていました


こんな小さなキセル貝初めて見ました

コンクリートをなめに来たのでしょうか?それとも、ここについている苔を食べに来たのでしょうか?

少し前に参加して教えてもらった“トカゲつり”ここでやって見たいな~ でも、ミルワームはあまり使いたくない(やだ!)ミルワームの代替品を考えたい私です(しま)
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差木地村の夜明け〜藤内ものがたり〜

2019年06月30日 | 歴史・文化
昨年末から約4か月間に及んで行われたジオガイド養成講座の中で、島内6つの地区の方から、地域ごとの暮らしや歴史を聞く機会がありました。

その中で印象深かったのが、命がけで差木地村(さしきじむら)のために働いた“藤内さん”の物語でした。

その藤内さんのことが、絵本になりました!

とても素敵な本なので、印刷製本した差木地のOさんの承諾を得て、内容のごくごく一部を紹介します。(今日の前半の写真は絵本より)

今からおよそ180年ぐらい前(?)、伊豆大島は5つの村に分かれていました。
今の一周道路はなかったので隣の村に行くにも一苦労。
それぞれ別々の村として暮らしていました。

村には、船を持ち、漁をしたり、大島でできたものを船で江戸に運んだりする「浦方」と呼ばれる2つの村と、山の木で薪を作ったり、海水から塩を作ったりする「山方」と呼ばれる3つの村がありました。(西暦1800年に波浮が開港し浦方は3つになりました)

「山方」は船を持つことが禁じられ、島の外の人々との付き合いがなかったため、読み書きもできず、朝から晩まで山や畑で働いて、イモや、アワ、ヒエなどを食べて暮らしていました。

さらに三原山の噴火による降灰の凶作が続き、天保の大飢饉(1833年〜1839年)では、差木地村で20数人の餓死者も出るほどでした。

船を持つことが禁じられていたので、海に出て魚をとることもできなかったのです。
当時は、にいしま村(今の元町)が全島を支配する決まりになっていました。

藤内さんは「自分たちも船を持ち、自分たちのことは自分たちで決め、取った魚や薪などを自分たちで売りに行ったら、暮らしは楽になるだろう」と考えました。そこで同じ思いを持っていた人たちを誘い、幕府に訴えることにしたのです。

その頃、秋広平六さんという人が、津波で外海と繋がった噴火口を人力で港に変え、飢えのない村(波浮村)を作っていました。

藤内さんたちは海岸や山の獣道を何キロも歩き、平六さんから文字を習って訴状を書きました。

訴状は30通にも及んだそうです。

代官所への訴状が効果がなかったため、藤内さんたちは上京し、当時の老中水野忠邦に「かご訴え」をして捕まります。

その頃は幕府に手紙を出して訴えるだけでも牢屋に入れられる時代。
大名などの乗るかごの前に出て訴えることは大きな罪で、その場で斬り殺されることにもなりかねない行為だったようです。

藤内さん達の手鎖の刑(手錠をしたまま自宅謹慎)は3ヶ月、入牢の刑は2ヶ月に及びました。

でもついに、命がけの訴えが実を結び1841年に回船1そう、漁船3そうが「食料を確保するため」という条件付きで認められました。

これら一連の事件は「藤内事件(塩辛船事件)」と呼ばれているそうです。

差木地村に続き、残り2つの「山方」の村も行動を起こし、1848年についに6つの村の立場が平等となったのだそうです。

絵本を読んで「今の伊豆大島の「あたりまえ」の暮らしは、こうやって昔の人々の勇気ある行動の上に、作られてきたものだったのだなぁと思い、感動しました。

絵本は差木地小学校の子どもたちが調べたことを元に担任の先生が描いた紙芝居を、Oさんが印刷製本した非売品ですが、町の図書館や元町の藤井工房という喫茶店で読むことができます。

機会があれば、美味しいコーヒーを飲みながら、島の昔の暮らしに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

ところで、絵本を読んで興味を持ったので、先日差木地に藤内さんたちの記念碑とお墓を見に行ってきました。

漁港のそばに、名前が刻まれた碑がありました。

背景の物語を知ったことで、碑の存在が、ぐんと身近になりました。

お墓は林浦寺(リンポジ)にありました。

お墓を探していたら、素晴らしいタイミングで住職さんと出会い、案内してもらいました。

そして住職さんはなんと、5年前の土砂災害の後に私のツアーに参加してくれた方でした!(ジオガイド養成講座でも時々お見かけしました)

ジオパークをきっかけに、様々なことがつながっていくことを、改めて「楽しいなぁ〜」と思いました。

(かな)
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去年の今頃は

2019年02月15日 | 歴史・文化
2日前、「伊豆大島の酪農業」及び「伊豆大島の農業」と題して、ジオガイド講座が行われました。

どちらも興味深い内容で、後日改めてまとめたいくらいなのですが、
本題より少し(かなり?)はずれて、個人的にめちゃくちゃ気になったったのが、、、

当時の酪農の様子の写真資料をみて、牛より(失礼!)端っこに写ってる屋根に釘付け👀
これ茅葺き屋根じゃない??


皇太子殿下(当時)のいらした時のレセプションパーティーの時に、
牛を前にして踊ったという、どんなに牛が大事に思われていたかを示す写真を見てまた、
後ろのこれ、茅葺き屋根?だよねぇ??
と静かにテンションが上がっておりました(後日写真をよく見たら違う気もしてきました)



そう、去年のちょうど今頃は、為朝神社の茅葺き屋根改修のための素材集めとして
茅刈りしまくりの日々だったのです。
茅葺き屋根プロジェクトの話



↑去年の様子

カヤは大島ではススキのことなのですが、カルデラ内の様子を見るとわかるように、
下界でもススキヶ原をそのままにしておくと、やがて樹木が侵食していって林になっていきます。
もう茅葺き屋根のためにカヤを刈ることもなくなった今、
なぜ大島にススキヶ原=茅場が残されていたかというと、農家の方が肥料にするために毎年茅を刈る、
つまり茅場を維持してくれていたからなのです。

講座では、カヤを集めてある場所の写真も紹介されました↓

去年の茅刈りでは、農家さんのご好意で、肥料用の茅場を何ヶ所か提供していただきました。
感謝です。

為朝神社は、もちろん大島に数々残された為朝伝説の中心地としての文化的価値がありますが、
大島の中で今や唯一残された茅葺き屋根という価値もあります。
という事で、ちょいと久しぶりに為朝さんに会いに行ってきました。


ホテル赤門さんの敷地内にありますが、
去年の暮れあたりに周りの木を大幅に伐採され、ホテルに向かう道からもかなり見えやすくなりました。
目立つ!という利点だけでなく、
屋根の上に木がかからないと、葉に集まって大粒になった雨粒が落ちない、
ということは、水が奥まで滲みにくい=傷みにくくなります。
雨の後なのでちょっと雨のシミができてますが💦
でも内側には滲みてませんでした。
また風通しが良くなるのも、乾きやすく良いことです。

昔の家屋は囲炉裏があるので、日々屋根が燻されて水分も飛ぶし虫も避けられる、
しかし神社の屋根はなかなかできないので朽ちるスピードも速くなる、
と聞いていたので、これで少しでももつかな〜とホッとしました。

あとはカラスが巣作りのためにカヤを引っこ抜いちゃうという話も聞いていましたが、、、
カラスも近くにいましたが、とりあえず今のところは外観は全く変わっていませんでした!

小道を挟んだ向こう側には河津桜が咲き誇っていました。
ちょうど茅葺き屋根もフレームインしてくれた!



2015年時点で大島の農家さんは約150戸だそうです。(5年ごとに調査するそう)
時代により酪農をメインにしたり、様々な要因から衰退したのちはキヌサヤ全盛期、
からのまた衰退そして花卉メインへ、花の中でも安定して作れて売れるものの模索、、、
農業従事者は天候や害獣だけでなく、常に変わり続ける市場の影響をモロに受ける
大変な仕事なんだな〜と思いました。
しかし新規就農者も少しずつ増えているそうです。
大島の農業がずっと豊かに続いていきますように!(あい)
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島 春の口福

2019年01月28日 | 歴史・文化

椿が咲いたら春?


黄水仙も春っぽい

大島は椿祭りが始まると観光シーズンになり、観光バスが一番活躍する季節です
私も今日から“椿プラザ”に出ています。踊りを踊ったり着付けのお手伝いをしたり勿論椿や山のお話しなどもしたりしています(詳しくは過去のブログを検索ください)

島の春の楽しみは“ふきのとう”

今咲いているのは早い!

洗って刻んで炒めて

私は“蕗味噌”を作るのを常としています。友人の中には蕗味噌を冷凍して季節外れの時期に食べるといいます。私はそのまま食べ、無くなったら来年の楽しみに我慢します

“ツワブキ”も有って(生えて居る所は過去のブログをご覧ください)

作るのは筋を取るのが面倒


水に晒したらひと段落。この後水切りして炒めて味付けします

でも、

指先が・・・


こんなに成ってしまう!翌日踊りに行く時には要注意です(出もやってしまいました しっかりと洗いましたが、爪の中は黒かった)


島に嫁いできて今まで出会うことが無かった食材を自分で摘んできて作れてしまう、なんて素敵なことでしょう。自然に感謝(しま)
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ハンバノリ

2019年01月14日 | 歴史・文化
冬の季節風が吹くこの時期に昔から冬の食べ物が有ります

“ハンバノリ”です
本来なら磯へ行ってどの様に岩についているか写真を撮るべきなのですが、割愛させていただきます(なぜ?)

私は料理をします

成って居る所(根っこのような物、岩もついていたりして硬い)を取り洗います

一番似ているようなものは わかめのような感じでしょうか?


加熱するとすぐに色が変わります


炒め続け、綺麗な緑色が少し茶色に代わると出来上がり(この間に味付けをします。味醂・醤油等)


硬さや味付けの味見をして はい、出来上がりました


浅草海苔のように木枠に入れ乾燥させ炙って食べる方法も有りますし、ハンバを入れた炊き込みご飯や炒めたハンバをご飯に混ぜ込んだ調理方法も有ります。天ぷら・和え物などにも活用しています。
島の昔からの食べ物ですが、伊豆半島や房総の方からも話を聞きます。
しかし、近年は温暖化の為かハンバノリが磯につかなくなったようで人にとっては暖かな冬は過ごしやすいのですが、寒くなくては出来ないもの 昔ながらの懐かしい味が少なくなってしまうのは残念です.
島から出た子供達に食べさせたら『懐かしい』と言ってくれるでしょうか?(しま)
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作ります・作りました

2018年11月26日 | 歴史・文化
片足を作って見たが、やはり形がいびつですね。初めから上手くは行かないのは自分では予定通り(折紙を教えている時の経験です)


半分やっと鼻緒を付け終わりました

終わりまではもう少し かな?

不格好な草履ですが、買ったわけでは無く売るわけではないので問題はない
さて、無事に履くことは出来るのでしょうか?(出来る!)


もう一つ作ります(草履ではありませんよ)
“勾玉”です
文化財ウィークの一環で広報にて募集が有りました
少し前に勾玉の絡んだファンタジー小説を読んでいたので興味がそそられたのでしょうか?

材料はすべて揃えていただきました


もう粗く切って有る“滑石”を型に合わせて削ります


平らな面が無くなるように表面も削ります


細かなサンドペーパーで細かく丁寧に磨き、さらに細かなペーパーで水を付けて磨きます
出来上がりは

こんなのです。 時間が2時間だったのでもっとよく磨きたかったので帰ったらもう少し頑張りたいと思っています

大島でも縄文時代の遺跡が出ていますが島でも作っていたのでしょうか?同じようなことを時代を超えてやっていたかもしれないと思うと面白い。勿論素材等は全然違うであろうし2時間で簡単に作れるものではないのですが。
勾玉は縄文時代から弥生・古墳時代の3000年くらい作られていたそうですが、何に使ったかは はっきり分からないとの事、長い時代なので使い道も変化した可能性もあるとの事でした。
勾玉を通して少しだけ古代に思いをはせた日でした(しま)
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今は布で草履作り

2018年11月19日 | 歴史・文化
さ~て 今日は布草履作り、なのですが、勿論初めてではないのですが10年か20年前か?それも半分(藁で)と右と左の大きさが違うもの そして、作り始めと鼻緒付けと最後は自分ではやらなかったと言う程度(きわめて作ったとは言えない)

まず、紐をかけて

沢山の紐を掛けてしごいて


あ!あれ ここまで来るのが(見ていてもさっぱり)


紐かけて


ここから先は分かるのですが 


こ!ここが難しい

紐を掛けて


紐かけて(またかよ)


何度見ても初めの所がなかなか覚えられない
おっとその前に私の土台布を作らなければ

この布で作ろうと思いま


幅に裂いて


折りたたむのだそうです(師匠のは中表にして端を縫い表に返すと言う大変な物です)

講習会途中で私は次の予定が有り 一足先に帰ることに(完成を見ないままのブログです)
この続きは来週のブログに 果たして両足出来るのでしょうか?怪しいものです(自分で言わないの!)

ここで草履の話(勿論大島で聞いた話)
今90歳ぐらいの方の話  娘のころ弟に翌日履く草履が無いので作ってと夜頼まれたので急いで作るのが面倒だったと聞いた(え~作るの?エライね)
あれ?それって何で作ったのかな(件の人は今、引っ越してしまったので聞けませんでしたが)何人かに質問したら 『陸稲の藁が有ったよ』との事でした。カヤとも思った私でしたがカヤでは脆くて使えないとのことでした。でもカヤの芯で炭俵などを編んで居たよとの事 自然なもので色々な物を作った昔の人はエコな生活だとつくづく思ってしまう
今、藁草履は室内で使用すると藁の切れ端が落ちて使えないのですが、磯へ行く人には滑らないので重宝するそうです。が藁の調達が大変(通販で入手出来るそうです)

では、明日しっかり作りたいと思います(しま)
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盆踊りで見つけたもの

2018年07月27日 | 歴史・文化
実はあまり知られてないような気がしますが、
大島は盆踊りがとっても盛んです。

大島はお盆が旧暦なので、2週間ほど前をピークとして、
8月初旬までのちょうどこの時期、
立て続けに各地区あちこちで行なわれます。

老いも若きも丸くなって踊る一体感。
特に若い人が目立ちます。

大島は濃厚な踊り文化が息づいていることを実感します。
私もうろ覚えでちょろっと参加するのですが、何しろ曲数も振り付けも多くて…
みんな小さいころから肌に染みついているんだろうなぁ。
うーん来年こそは覚えて目いっぱい踊りたい!

地区それぞれ特色があって面白いのですが、
個人的に特におススメなのが泉津の盆踊り。

こじんまりとした場所に低く、めいっぱい提灯が飾られている雰囲気に圧倒されます。




さすが、「日忌様」など独特の風習の残る地区。
幽玄の世界に誘われます。

今年は提灯をじっくり見てみたら、びっくりの発見がありました。
提灯って、寄付者の名前が書いてあるものだと思っていたのですが、
「水神様」の提灯が!


水神様が寄付するとは考えにくく笑
主催者の意図なのでしょうか、それとも匿名で寄付したい人がこの名前でとお願いしたのか、
色々想像してますが、どちらにしても素敵です。
(真相のほど知ってる方は教えてくださいませ。)

水に苦労することの多かった大島で、豊かな水源を有した泉津の地区は本当に恵まれています。
水神様への感謝の想いはリアルなものだったろうと想像されます。
私も泉津の水を普段の飲み水に使わせてもらっています。
改めて感謝の気持ちで手を合わせました。

注意してみていくと、他にも「行者窟」「大六天」などの提灯がありました。

「泉津小学校」というのも。

失われたものへの想いを昇華させる役目も果たしているのかも。
盆踊り本来の役目って、そういうことかも知れない、と思いました。


個人的に、極めつけはこれ。「大葉夜叉五倍子(オオバヤシャブシ)」


ジオ関係者の仕業?!
普段ジオツアーで、荒地が森林になっていく過程で
オオバヤシャブシが大きな役割を果たしていることを説明するたびに
尊敬の念を覚えるのですが、
ついに神格化された?!と思いました。

泉津に住むジオ関係者の方にも聞いたところ、
昔から薪や炭として、人々に身近な存在だそうで、
ハンノキとみんな呼んでいるので、正式名称への啓蒙の意味もあるかもね、
と言っていました。
なるほど~・・・やっぱりジオ関係者??笑

しかし漢字で書くと超カッコいいですね。

暮らしている人にとって身近かどうかはわかりませんが、
火山の火に焼かれた大地から最初に芽を出し土を作る
「八丈虎杖」(ハチジョウイタドリ)も敬愛していますので、
来年はぜひお願いしたいです。
関係者のみなさま、どうでしょう?笑
(あい)

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六地蔵尊の参道を行く

2018年05月12日 | 歴史・文化
先週、三原山まで続く旧登山道を紹介しましたが、
旧登山道を行く

途中の六地蔵尊に直接向かう道が気になって、行ってきました。


御神火スカイライン上、
見晴らしのいい景色のすぐ先に


カーブミラーがあり


その奥に入口があります。


道らしき道はすぐに途絶え、地滑りの爪跡が。
ロープが張ってあったので、それを頼りに行きました
(帰りに撮ったので方向は逆)


すぐにまた山道になり、
ほどなく六地蔵尊(と線刻石仏)が現れました。
(ここから下photo by Lin)




今回は落ち着いてゆったり過ごしたので、
一人一人のお顔の違いなどまでじっくり拝見することができました。

深い慈愛を感じさせる神々しいお顔


裏のカーブ具合とノミの跡が美しい


看板は足が折れて傾いています


昭和一けたの時代に、
まだマグマの見えていた火孔に身を投げる人の続出した数年間がありました。
六地蔵尊はそれらの霊を慰めるとともに、若者が多かったため、
若者の健やかな成長を願って建立されました。


けっこう有名な話のようで、今日も観光客の方が
「東海汽船に乗るときに名前と住所を書くのは、その時身元確認の為に始めたからだよ」
とツレに話しているのを小耳にはさみました。(本当かい?!)

ともかくも古い話です。
もう魂もとっくに成仏している事でしょう。
こういう事は、あんまりわざわざいう事ではないのかもしれませんが、
変な怪談話まがいに話されるよりも、オープンに、
むしろ道を整備して、お地蔵さんに逢いに行けるようにできたらいいのかもと思いました。
(この静かな雰囲気が保たれてほしいとも思うけど)
お地蔵さんや、建立者の想いから
「命を人生を大事にしよう」
というメッセージを強く受け取りました。
(あい)

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旧登山道をゆく

2018年05月04日 | 歴史・文化
ジオ研臨時企画「旧登山道を登ってみよう!」
に参加しました。
前から気になっていた道。企画をありがとうございます!!

友人とその飼い犬Dちゃんも参加
昔は馬と人が行き交っていた、と聞きます。
犬は通っていたかな…?


このようなルートを行きます。


御神火スカイライン上の脇から入って、すぐにジャングルです。
昭和初期には脇に沢山お茶屋さんが並んでいた、と聞きますが、面影はありません…



国土調 までは読めます。


道が残っているところと、
土砂が崩れたり木が覆いかぶさったりして、道じゃなくなっているところを
交互に通りながら進みます。
石垣が出てきたり、たまに人間の気配の跡を感じながら。

突如標識が現れました


六地蔵尊です。
きれいな状態で残っていてびっくりしました!
人が来なくなってもひっそりと佇み、自然の中で人々の安寧を祈うその姿、
そして今でも訪れきれいにしている人の存在が感じられて感動しました。



さあ引き続き山道を歩きます。

天皇陛下がいらした時に、
この場所で馬?籠??から降り立った記念碑、とのこと。
軍国主義の時代。建立の名義が日本軍になっています。



突然景色が開けました


石畳になっている跡が見えます。



また藪道へ

途中、大きいお茶屋があったからかな?と思われる
大きい穴や、コンクリの四角い水たまり?などがありました

相変わらず屋根など建物跡は見えず。
ま、きれいに撤去した終わった?と考えれば、いい事なんですが。
運び出しも大変そうです。

最後の方になったら、コンクリの道に


ついに


出た!立出禁止とは書いてないのでセーフ



帰りに海の精の社長Tさんのご厚意で
ふもとの工場の食堂で、自社のアシタバ麺や漬物、手料理などいただきました!
本当においしかったです。
Tさんのおじい様の時代、まさにこの登山道でお茶屋さんを営んでいたそうで、
食堂の躯体は、なんと当時のお茶屋さんのまま!だそうです。


藤井工房さんから、検証のための資料をお借りして。
まだまだ分からないことが多いようです。


最近発売された「伊豆大島文学・紀行集 小説編」
に付属の昔の地図にも、お茶屋さんの名前が載っています


みんなでご飯の後、あーだこーだ言いながら楽しい時間を過ごしました。
ありがとうございました!(あい)
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