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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 657 期待のルーキー ①

2020年10月14日 | 1977 年 


新春・・そろそろあちこちで自主トレの便りも聞かれる。4月のペナントレース開幕を目指して春が動き始めた。なかでも期待に胸を膨らませているのは昨年入団したルーキーたちだ。酒井(ヤクルト)はじめ多士済々のニュースターの横顔を紹介してみよう。

おとなしい怪物:酒井圭一(海星高➡ヤクルト・18歳・187㌢・80㌔)
" サッシー " 騒動で一躍有名になったが、つい1年前まで中央球界では無名だっただけにやはり現代版シンデレラボーイだ。ちょうど1年前のセンバツ大会の選考で海星高は四国地区の増枠のあおりで落選の憂き目に。この時とある某球団の九州担当スカウトは「これでいい。甲子園に出場されたら名前を知られて契約金が高騰してしまう」と胸を撫で下ろした。九州大会で酒井と対戦した柳川商の選手は「確かに球は速かったけどコントロールは酷くて未完の大器って感じ」と評したくらいで、酒井に注目する球団は多くなかった。

あれから1年。契約金は手取りで三千万円、松園オーナーの地元・長崎で長崎県知事や財界人を招いての激励パーティ、背番号はエースナンバーの「18」。更に東京での入団発表では同時に夕食会も行うなどすっかりオフの主役となった。玄界灘に浮かぶ壱岐島出身の少年が恵まれた体を武器に長崎に出、そして東京へという現代版出世物語だ。

性格は無口で引っ込み思案。1対1で話をしていても相手から目を逸らすような感じで、離島の朴訥な若者そのものといった感じだ。夏の甲子園大会でも宿舎でのマスコミ取材は酒井本人だけでなく間に監督や野球部関係者を介して行われた。同じ人気者の原選手(東海大相模)は都会の現代っ子らしく明るくハキハキと取材陣と自由に応対していたのと比べると酒井の純情っぷりが微笑ましかった。「1日でも早く一軍に上がって投げてみたい(酒井)」と決して勝ちたいと言わないところがいかにも酒井らしい。

【 215試合・6勝12敗4S・防御率 5.08 】


酒井よりも速い自信:都裕次郎(堅田高➡中日・18歳・180㌢・74㌔)
「僕は中学生の頃から江夏さんを参考にしてきました。今の江夏さんが速い球を投げなくなったのを見るのはツライですね」と話す都投手は琵琶湖の西岸、滋賀県大津市にある堅田高でノビノビと野球を楽しんできた。イガグリ頭できかん気そうだが実際の都はおとなしく物静かな青年だ。名前の裕次郎は父親が大ファンだった石原裕次郎さんから頂戴したとか。「天真爛漫を絵に描いたような子なので、その辺を上手く成長させれば2~3年で一軍へ上れるのではないか」と野球部関係者は言う。

一般的に一流と評される高校生投手は投球回数と奪三振数はほぼ同じくらい。だが都はそれを上回る奪三振数で速球は誰にも負けない自負がある。「酒井君(海星高⇒ヤクルト)が速いと評判だったので甲子園球場のバックネット裏に行って自分の目で確かめました。まぁ僕の方が速いですね(都)」とライバル心もチラリ。かつて池永投手(下関商➡西鉄)が自分の眼力を信じてプロ球団を値踏みして入団する球団を選んだエピソードを彷彿させる。

【 243試合・48勝36敗10S・防御率 3.73 】


大学出ではトップだ:斎藤明雄(大阪商大➡大洋・22歳・182㌢・72㌔)
愛称はローマ神話に出てくる酒の神の " バッカス " である。身体もヒョロッとしていて軽口も多く、いかにも関西人といった感じの斎藤投手だが色浅黒く銀ぶちのメガネをかけていて、一見野球選手というより俳優の有島一郎さんのようだ。しかし野球の実力は折り紙つき。昭和50・51年と続けて大学選手権の決勝まで勝ち上がった。関西六大学リーグでの成績は通算31勝で山口投手(関大➡阪急)、森口投手(近大➡南海)に肩を並べる。

セ・リーグ志望でヤクルト・酒井投手、中日・都投手に次いで三番目に大洋に指名された時は「ノンプロ・大学組ではトップだ。大洋は好きな球団、プロでやりたい」と早々にプロ入り宣言。陽の当たる関東勢の駒大・森投手、日大・佐藤投手には並々ならぬ対抗意識を持っている。花岡高時代には甲子園大会に出場しているが、投手ではなく外野手だった。投手に転向したのは大学入学後なので肩も消耗しておらず少々の連投には耐えられる。投手不足の大洋では先発ローテーション入りは間違いない。

【 601試合・128勝125敗133S・防御率 3.52 】


プロ入り初志貫徹:藤城和明(新日鉄広畑➡巨人・20歳・180㌢・80㌔)
人間の運なんてどんなところで変わるか分からない。それまで " 第三の男 " だった藤城投手が都市対抗戦という檜舞台でベールを脱いだのはエースと準エースが相次いで故障したせいだった。「もうどうにでもなれ。運を天に任すしかない」と開き直った新日鉄広畑の三村監督の決断がニューヒーローを誕生させた。監督の不安をよそに藤城はあれよあれよという間に相手打線を抑えて勝利投手となった。しかもその年の大会には本格派といわれる投手が不在で、藤城は一躍プロ球団から注目される存在となった。

エースの堀内投手も29歳となり次世代へのバトンタッチは遠からず必要になるが、次期エースの期待があった加藤投手は肋膜炎を発症し来季のフル活動は無理。細腕小林投手も今季同様の活躍は保証されておらず新たな即戦力投手が必要になる。実は新日鉄広畑としては現状の藤城では一軍で活躍するのには力不足だから、もう1年待ってプロ入りした方が良いと進言したが「どの球団に指名されてもプロへ行くつもりでした(藤城)」と心は既に長嶋巨人の一員である。

【 101試合・14勝19敗・防御率 4.51 】


奥尻島のヒーロー:佐藤義則(日本大学➡阪急・22歳・181㌢・80㌔)
北海道奥尻島。その場所を直ぐに分かる人は多くはないだろう。民謡の " 江差追分 " で有名な江差から船で1時間余りの日本海に浮かぶ島である。酒井(ヤクルト)が西端壱岐島なら佐藤は東端奥尻島が生んだヒーローだ。佐藤は奥尻島で中学まで過ごし、高校は函館有斗高に進学した。甲子園には出場できなかったが日大に入学してから徐々に頭角を現した。2年生の時に日米大学野球の日本代表に選ばれ好投している。3年生では韓国で開催されたアジア野球大会にエースとして参加。4年生では再び日米大学野球に出場した。

性格は淡泊。日大打線は弱く好投しても報われないケースが多々あったが、愚痴ひとつこぼさず辛抱強く黙々と投げ抜いて通算22勝をあげた。阪急との入団交渉もピッチング同様に淡々と進めて、契約金三千万円・年俸三百万円で合意した。この金額はドラフト1位としては標準だが当初はセ・リーグ志望だっただけに入団に難色を示せばもう少し金額はアップしたのでは、という声が周囲から聞こえてくる。ただ本人は「プロは入団してからが勝負。ガンガン勝って給料を上げて契約金の分も取り返す」と意欲的だ。

【 501試合・165勝137敗48S・防御率 3.97 】

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