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#290 風雲録 ④…幻のトレード

2013年10月02日 | 1982 年 



前述の「小山⇔山内」トレードのように狙い通りに事が運ぶのは稀で、多くが実現しないのが主力級のトレードだ。青木が手掛けてお流れとなった数多くのトレード話の中には「天皇・金田」と「速球王・小松」絡みもあった。前述した田宮謙次郎選手を獲得した頃から青木は大毎を常勝球団にするべく秘策を練っていた。打線の中心には田宮を据える事ができた。次なる課題は投手陣の強化だがその為にはプライドが高く、へそ曲がりの人種が多い投手達をまとめる人間が必要となる。当時の球界でそれだけの人物となると金田正一(国鉄)の他を置いていないと考え獲得に動いた。

阪神から獲得した田宮選手同様に金田投手も移籍が可能な「10年選手」の資格を得ていた。青木は金田が国鉄というチームに飽き足らない思いを抱いている事は人づてに聞いていた。だがいきなり国鉄に接触するのは相手を刺激し過ぎると考えた青木は親しいA新聞社の記者を使って地馴らしを始めた。A新聞社の社長が大毎・永田オーナーと親しかった事もあって協力を約束してくれ、記者は特ダネを狙って精力的に動いた。「金田投手の気持ちは大毎入りに動いている」など日々刻々に報告が入り、やがて「あと一歩です。ほぼ決まりです」との吉報が記者からもたらされた。しかしここで思いもよらぬ事態が起きた。A新聞社の社長が社内クーデターで退陣に追い込まれてしまい、仲介していた記者も交渉からの撤退を余儀なくされて金田の大毎入りは立ち消えとなってしまった。

金田の大毎入りは幻となったが青木と金田との友好的な関係は青木が太平洋クラブライオンズに移った後も続いた。記憶にも新しいロッテと太平洋との遺恨試合にもこの二人が絡んでいる。平和台球場での乱闘騒ぎをきっかけに両チームには遺恨が芽生えたのだが、それはある種「意図的」に仕組まれたものであったのだ。博多を走る電車内に乱闘シーンを用いた中吊りポスターを貼って騒動を煽ったりしたのも青木のアイデアであった。勿論、裏ではロッテ・金田監督とも連絡を取り合い写真使用の許可を得て、両球団了承の下「遺恨試合」を演出していた。子供じゃあるまいし大人が本気で喧嘩などしない。車内ポスターの件は「やり過ぎ」と世間からお叱りを受けたが観客動員策としては大成功だった。

ライオンズに移った青木はしばしば二軍の試合にも足を運んだ。そこで目にしたのがプロ入り2年目の宇野内野手と新人の小松投手だった。久々に見る将来有望な素材と判断して2人の獲得を目指した。かつてライオンズと中日との間には基満男内野手と藤波行雄外野手との交換トレードが一度は成立したものの藤波選手が移籍を拒否して御破算になった事があり、中日には「貸し」があった。普段は交渉事に慎重でいきなりトレードを申し込んだりしない青木が当時の中日・中監督に直談判したのは宇野や小松が頭角を現す前に決めてしまう必要があったからだ。当時のエース・東尾を出しても構わないとまで言うほど本気だった。

当時の青木はライオンズを若手選手で固めて低迷から再出発しようとの構想を持っていた。真弓、若菜、立花、山村の野手陣に宇野を加えれば将来有望な打線が組め、弱点の投手陣には小松や現役大リーガーを獲得できれば他球団と対等に戦える。青木の余りにしつこい要請に中監督も真剣にこのトレードを考え始めた。中日サイドが決断を下す間、青木の心配は宇野が活躍する事であった。小松は1年目という事もあり二軍でも試合には出ず体力作りに専念していた為に活躍する心配は無かった。だが青木の危惧が現実のものとなる。一軍野手の怪我もあって人数合わせで昇格した宇野が初本塁打をはじめ快打を連発したのだ。「こんな良い選手を出すわけにはいかない」それが中日サイドの答えであった。あの時、一軍野手が怪我しなければ…他の選手が一軍昇格していれば…宇野が打たなければ…。青木のライオンズ再建計画は水の泡と消えた。

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