Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 556 KKドラフト ③

2018年11月07日 | 1985 年 



それを駆け引きと言うのなら、これほど見事な駆け引きはない。顔色ひとつ変えず対応する桑田を見ていると、なるほどあの甲子園のマウンドで修羅場を潜り抜けてきただけのことはあると逆に感心してしまう。11月20日、パ・リーグ広報部長の伊東一雄氏の声で「第1回選択希望選手・読売 桑田真澄・17歳・投手・PL学園」のアナウンスで始まった今回の騒動。事態は二転三転したが、どうにか巨人入りに向かって動き出した。鳥取国体が終了した10月23日、桑田は「100%進学です。僕は早稲田に行きます。巨人?巨人は清原君を指名するのでは」と表明した。野球部へ退部届を出さなかったのでプロ球団関係者との接触を絶ったまま運命の日を迎えた。

桑田はプロへは行かない。それが既定路線だった。だがルール上は桑田を指名する事は禁じられてはいない。アマチュア規定の庇護下にある為に桑田本人と直接交渉は出来ないが学校関係者や親族を介しての交渉は可能。いま振り返ると父親の泰次さんの言動は一貫している事に気づかされる。ドラフト会議後には「巨人から1位指名されて喜ばない選手はいない。向こうが会いたいと言ってきたら会ってもいい」と。翌21日になると「ここまでくると全てが上手く丸く収まることはないでしょう。どこかに迷惑かかると覚悟しています」と巨人入りに一歩踏み込んだ発言。22日には巨人・長谷川球団代表が来阪し学校関係者と泰次さんに挨拶を済ませた後には「息子は明日、上京しますが受験を断る為だと思う」とほぼ巨人入りを認める発言をした。

一方、PL学園研志寮では中村監督と高木野球部長が自らの進退をかけて桑田に早大進学勧告を続けていた。22日の午後9時という異例の時刻から始まった会見で高木野球部長は「桑田君は早大を受験することになりました。明日(23日)上京します」と発表した。しかしこの会見を受けて報道陣から「これで巨人入りは無くなったと理解していいのか?」と問われると「そう願っています(高木)」と如何にも歯切れは悪かった。翌23日の大阪空港でも会見をする予定だったが急遽中止に。追いすがる報道陣に桑田は「僕を信じて下さい。気持ちは変わっていません」とだけ言い残して機上の人となり、舞台は大阪から東京に移った。

羽田空港に降り立った桑田は更に思いつめた表情に見えた。この時すでに気持ちは決まっていたのであろう。同行した高木野球部長と別れ、早大野球部の佐野マネージャーとPL学園OBの加藤外野手と共に日本鋼管の高輪クラブに向かった。そこには早大・飯田監督が待っていた。到着した桑田は自ら東京六大学野球連盟事務局長・長船騏郎氏(早大OB)に電話をした。桑田は飯田監督と駆けつけた長船氏を前に「巨人に行きたい。でもそうすると早大にもPL学園にも迷惑をかけてしまう」と思いを吐露した。長船氏が「早大を受験したら巨人には行けない。私たちからこうしろ、とは言わないので最後は自分で決めなさい」とアドバイスすると桑田は「はい、分かりました」と答えたという。

そして出した結論は早大受験断念。退部届を提出していない為、巨人入りを表明することは出来ないが事実上の巨人入りが決まった。桑田の気持ちは千々に揺れた。一度は早大進学を言い張った桑田が「センバツ大会の頃から巨人なら…」と前言を翻すとは思わなかった。ドラフトには進学を希望する選手を指名してはいけない、とのルールはないが道義的に見てやはりおかしい。かねてからドラフト制度に反対している巨人とすればこれも一つの戦術だろうが、裏取引があったと疑われても仕方ない。人気球団がその人気に便乗してとった行動が一人の愛すべき17歳の野球少年の周りに多くの敵を作ってしまった罪は重い。会見を終えて重圧から解放された桑田が笑顔で「自分で決めました。後悔はしていません」と言ったのが唯一の救いだった。
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