自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

過ぎてしまえばみな美しい、、?

2010年04月16日 09時59分35秒 | コラム
 タイトルに上げた歌詞の流行歌があったけど、誰しも美しい過去を持ちたいものだ。力を出し切った瞬間は思い出となるし、地道な努力の継続は習慣となって己の一部となるし、そうゆう過去だったら、その時は苦しく辛かったことでも、美しい過去として振り返ることが出来るだろう。平時であれば、全ての人にそうゆう過去を持つ機会が保障されているが、異常時には、思い出したくもない過去を人の残してしまうものだ。

 近くに、シベリア抑留の体験を持つ方がいる。すでに65年以上の歳月が流れるのに、自らは出来るだけ思い出さぬようにしているし、他人に話すことも控え封じ込めているのだが、何かの機会にその忌まわしい過去が湧き出すことがあるとのこと。まさに戦争という最異常の状況で起きた、美しくない過去なのであろう、、、。

 何度か顔を合わせ世間話をする中で、その重い口から漏れ聞くことが出来たが、徴兵の現役で3年間、満州(東北)で毒ガス部隊で実戦ではなく、様々な動物実験をやっていたとのこと。ソビエト軍が侵攻してきた時、部隊の上官はすでに逃亡、一戦交えるかとの意見もあったが、降伏命令も出たし、武装解除、捕虜となる。その方は、シベリア抑留は、“奴隷として売られた”と考えておられる。他では武装解除後は帰還を許されているし、帰還までの2年間の強制労働は、賠償の見返りとされたと考えておられる。

 その方は主にソフホーズで農業に従事したそうだが、共産主義の教育を徹底しながら、日本人が団結しないように度々編成替えをしたとのこと。ある時は隣合わせになった人が、それまで会ったことのなかった従弟だったとの偶然もあったとのこと。2年間、ただ考えたことは食べることとダモイ(家に帰る)だったそうだ。雑草はきれいに食べてしまったし、ポプラの葉も食し、松の葉だけは食べれなかったとのこと。凍ったジャガイモを拾って料理したら、馬糞だったとの笑えない話もあったようだ。なんと言っても寒さには苦しまされたとのこと。マイナス70度になると、労働免除だが、まさに言葉が凍ってしまうそうである。その方は、3年間の満州(東北)での冬の体験があるから、何とか生き延びたが、その体験のない初年兵の多くは凍傷にかかって亡くなったそうだ。そこ方は、’47年、舞鶴に帰還、故郷の支線に乗車した時は11月15日、7・5・3の祝いで晴れ着の家族と同席したそうだが、復員者への冷たい視線を未だに忘れないそうだ。さらに追い打ちをかけるような国の対応、軍人恩給の積算に当たって、外地の、東南アジアや中国は、3.0とのことだが、シベリアは1,0とのこと、ずっと後になって一時金が支給されたが、未だに恨み辛みの残る晩年になっている、

 個人の所為ではなく、政府の行為によってもたらされた、異常な状況下での不幸な過去を、無かったことにしたり、忘れ去ってはいけないことだ。