自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

移設ではなく撤去である。

2010年04月14日 11時28分08秒 | コラム
 日本の安全(?)のための日米安保条約、それに基づく基地の容認。ところが普天間の米軍基地の存在故の事件が頻発する中で、旧政権下で13年かけて出た結論が辺野古沖への新たな基地の建設。政府間の合意は為されても住民の同意は得られることなく現在に至っていた。昨夏の選挙で、沖縄住民は基地負担の軽減を公約した民主党を支援し、沖縄の全選挙区で民主党が勝利、その勢いもあって戦後始めて選挙による政権交代が実現した。“無血革命”と高らかに宣言し、政権発足時は高い支持率を示した民主党政権も半年経った現在、じり貧状態に追い込まれている。

 大幅な財政赤字と対米従属という負の遺産を引き継いだ民主党政権に大きな期待をすることは無理なことだと思う。財政赤字は将来の富をこれまでに消費し続けたからであり、主権者には覚悟を求めなければならない。無駄遣いを洗い出した後の増税は主権者も覚悟はしていると思う。対米従属に関しては、戦前から親米英派であり、一時は軍部からも狙われ、敗戦後長期にわたって政権を維持した吉田氏、独立時に日米安保条約(旧)を結ばされたが、さらなるアメリカからの要望には、憲法を盾にやんわり拒否するしたたかさを備えていた。
 その吉田氏とライバル関係にあった鳩山一郎氏の孫に当たる現総理も“対等で緊密な日米関係”を目指すなら、吉田氏が利用した憲法を盾とした賛否の対応を学ぶ必要がある。

 『手を引きゃ、肩に乗る』という諺というか言い伝えがある。今の日米関係はまさにこの状態ではないだろうか。サンフランシスコ会議で独立を果たした(ポツダム宣言を履行)時に、米軍は完全に撤退すべきであった。その後両国間で、日本防衛の義務(憲法で陸海軍の不保持を決めているし)、その見返りとして基地提供を主権者の代表たる国会で承認したのなら、同じく主権者の意志で、その条約も破棄できなければならない。政府の行為により再び戦争の惨禍を受けないために、主権者はその責任を果たさなくてはならない。

 “日米同盟が基軸”等という言葉は日本国憲法下の総理が口にすべきものではない。暴力に頼らないで済む“裁判を受ける権利”、それを行使しての主権者の異議申し立ても、地方裁判所では認められたが、最高裁は“統治論”で逃げてしまい、現実を追認し続けてきた。
 その結果、首都圏に膨大な米軍基地が存在し、英語を用いての日米軍事訓練が常習化し、沖縄の負担軽減は先送りされてしまったいる。沖縄住民の本土復帰への願いは、憲法9条下の日本への復帰であり、米軍基地撤去が実現できるとの期待があったからだ。本土の従米政権の尻ぬぐいをさせられ続けるならば、かっての無防備の琉球王国の後裔として琉球共和国を目指したであろう。かっては薩摩の武力に屈したが、沖縄戦での悲劇を教訓に、無防備の島に立ち返ることが沖縄住民の真の平和に繋がるであろう。