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自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

無賠償、無併合

2018年11月17日 06時22分23秒 | コラム

 弱肉強食が一般的だった時期、戦争が起きると勝利した方が負けた方から、領土を奪ったり賠償金を課すのが常であった。戦争で敗れてただでさえ苦しい生活を余儀なくされるのに、さらなる負担を強いられるのだから、”復讐戦”を準備。することとなり、争いを繰り返すのが人類の歴史であった。復讐戦を無くすには相手を殲滅する方法がとられたのも人類の歴史では一般的だった。カントの”永遠の平和のために”等、戦争を無くすにはどうすれば好いかの提案も為されるようになったが、現実の世界は戦争は継続された。多数の国を巻き込んだ第一次世界大戦中、革命が起きたロシアではレーニンが権力を獲得し、無賠償、無併合、民族自決主義を主張し、戦線から離脱した。アメリカの参戦は第一次世界大戦を終結させたが、リベラルなウイルソン大統領は、レーニンが主張した無賠償、無併合、民族自決主義を取り入れた”講和原則14箇条”でベルサイユ会議に臨んだが、戦勝国、イギリス、フランスの拒否に会い、敗戦国ドイツで、後、”ベルサイユ条約破棄”を主張し、合法的に権力を獲得したヒトラーを迎えることとなった。

 時代は変わって、近現代史は受験には出ないとのことで、歴史を学んでいない若い世代は、アメリカと戦争をしたのを知らないものも多い。まして、“北方領土”の本質はほとんど理解されていない。歯舞、色丹が日本に返還されれば、安倍内閣の支持率が大幅にアップするかもしれない。この国も、日清戦争で、台湾を奪い、莫大な賠償金(当時の国家予算の3倍)を得たし、日露戦争では、樺太の南半分を割譲させ、満州国を創り、同じく中国に関心を持つ米英との対立、その結末が、1945年8月15日の敗戦である。無賠償、無併合は、イギリスがアヘン戦争で得た香港を中国へ返還したり、小笠原、沖縄を日本に返還したり、一般化しているが、日本が戦争で獲得した領土はポツダム宣言を受託し元の国に返還するのは当然だが、千島列島は、ロシアとの交渉で得た固有の領土である。歯舞色丹は根室半島の続きであり、アメリカが当時のソビエトに約束した、”南樺太の領有と千島列島の獲得”には含まれていない当時のソビエトのの勇み足だし、日本に謝罪し弁償金を払って返還するのが道理に合っている。親日家と言われるプーチンが日露の平和条約について提案しだした8年前のブログを再録する。

日露と北方領土

日本の諺に、「遠くの親戚より、近くの他人」というのがあるけど、近代国家になってからのわが国は隣近所との付き合いが下手であるといえるだろう。向こう三軒というと、朝鮮・中国・ロシアになるわけだが、欧米諸国に鎖国の夢を打ち破られてから急速に欧米の経済システム、資本主義を取り入れての近代国家を目指したため、その拡大再生産が生命の経済仕組みは隣近所との諍いを起こし、未だにその完全な修復がなせれないままである、、、。

 ロシアでプーチン大統領が選出され、未だに平和条約が結ばれていない両国間の問題の解決に意欲的な態度を見せているが、両国間の歴史について少し調べてみたいと思う。もともとロシアという国は民族的にはスラブ民族で、どちらかというとヨーロッパでは後進国扱いを受けてきた。かつてはモンゴルの支配下にあったし、その支配から抜け出し、 イワン大帝の頃からその存在感を示すようになり、17世紀末のピーター大帝の頃からその拡張政策を推し進め、不凍港を求めての南下政策は、ロシアの外交方針の原則となる。江戸時代鎖国政策を取る日本近海に最初にやってくるようになったのはその南下政策の延長上のロシアである。度々使節を送ってくるが、特に日露の友好の証として、遭難しロシアにたどり着き当時のエカテリナ女帝に厚遇を受けた大黒屋光大夫の帰国は特筆すべきであろう。本格的な外交が開始されたのが、江戸末期であるが、千島列島と樺太(ロシアはこれ等をクリル諸島・サハリンと呼ぶ)は、当時は北方少数民族の生活の場であり、そこに探検、領土拡大という波が押し寄せてきた。ロシアの来航に対抗して、鎖国中の江戸幕府も、最上徳内・近藤重蔵等に千島探検を命じ、さらに間宮林蔵は樺太に渡り、間宮海峡を発見する。ペリーによって鎖国政策を放棄させられた幕府は、ロシアとの間に日露和親条約を結び、その中で領土問題も話し合われたが、樺太は棚上げ、混在を維持し、千島の島々の線引きをし国後・択捉を日本領、それ以北をロシアとの取り決めがなされた(1855年)。 歯舞・色丹は根室半島の続きだし、千島列島には含まれないのが地理学上の常識だ。
 幕府が倒れ新政府がなるが、幕府が結んだ条約は遵守することを条件に明治政府は欧米列強に承認された。新政府はロシアとの国境問題を解決するための交渉を行い、樺太を放棄し、カムイ岬以北の千島列島を日本領とする条約を結んだ。1875年、千島樺太交換条約がこれである。北方領土問題の原点に当たるこの条約の重要性を忘れてはいけない。その後わが国はポーツマス条約で南樺太をロシアから奪ったのだが、千島列島は正式な話し合いで決定した領土である。
 前にも述べたがロシアはヨーロッパの後進国であり、かつてロシアの詩人が、『豊かなロシア、そして貧しきロシア』と詠じた様に日本にとっても親しみの持てる国であった。トルストイを生んだ国であり、彼に親しみを持つ白樺派の文学活動が見られ、武者小路実篤、有島武郎たちが活動したし、ロシア民謡の親しみのあるメロディはわが国でも多くの人の心を捉えたものである。
 民衆同士は本来友好的に助け合えるものなのだが(日露戦争に反対した、平民新聞の幸徳秋水の存在は、日露両国民の共通の財産である)、国と国(政府と政府)が対立するようになると民衆もそのプロパガンダに乗せられ、互いに憎みあい傷つけあうようにもなる。日露戦争中にロシアでは第一次革命運動がおき、第一次世界大戦中には世界で最初の社会主義革命が成功する。労働者・農民・兵士からなる会議(ソビエト)の権力が確立したのは、各国の干渉戦争(シベリア出兵)に打ち勝って以降である、、、。日本政府が最後まで撤兵しなかったことは反省すべきことである。その後最近のソビエト崩壊までは、社会主義国ソビエト連邦がわが国の隣人となる。
 『世界を震惑させたロシア革命』はその理念からは、それまで人間扱いを受けていなかった、虐げられた農民・労働者・兵士の解放を目指すものであった。しかし、アンドレ・ジイドが早々と落胆したように、国の内外に反革命勢力を抱え、革命の成果を守るためには極端な権力集中、その結果として独裁政治を生み出すこととなる。レーニンに代わったスターリンがそれを推し進めることになったのだが、ソビエトが輝いていたのは、計画経済によって、世界大恐慌の影響もなく、短期間に世界有数の工業国に発展させたこととナチスドイツとの戦いに勝利したときである。スターリン時代の功罪は歴史的に定着したようであるが、その罪の部分にわが国も責任がないとはいえないだろう。革命当初から社会主義ロシアを敵視し、革命の指導者レーニンを新聞報道では“冷忍”と記したし、前にも述べたシベリア出兵を最後まで続け、第二次世界大戦前は、ナチスドイツとの間に対ソ戦を想定した日独防共協定(1936年)を結び、張鼓峰事件・ノモンハン事件等の武力紛争を起こし、ドイツも呼応すると考えていたのだが、優先順位を対英仏戦においたドイツは独ソ不可侵条約を結び、日本政府を愕然とさせた。今度は日ソ中立条約(’41年)を結びインドシナ進駐を開始し、米英との対立を深めるが、軍事同盟国のドイツは長期戦に備えてソビエトへの侵略を開始する。外交音痴もここまで来ると国を滅ぼすことになるだろう。

 第二次世界大戦終了までは、米・英・ソ三国は反ファシズムという観点で共同歩調を取った。北方領土問題を考える上で、先に述べた千島樺太交換条約とヤルタ会談(’45年2月)とポツダム会議(’45年7月)とサンフランシスコ講和会議(’51年9月)はセットで考えなければならないものである。ドイツの敗戦が時間の問題となった’45年2月、米・英・ソ三国首脳は戦後の問題を大戦中の協力体制の下、処理することを確認し、早期に大戦を終了させるため、ドイツ降伏後、2ヶ月、3ヵ月以内にソビエトが対日戦に参加するように求めた。代償を求めたスターリンに対して、南樺太の回復と千島列島の領有を認めた。アメリカは何よりも自国の若い兵士の犠牲を最小限に抑えるため、玉砕戦法を取る日本軍の抵抗に苦慮していたので、ウイルソン大統領によって第一次大戦後に主張され、ほぼ国際原則になっていた無賠償・無併合の例外を認めたわけだ。戦闘能力を失ったわが国は、もはや戦争継続の望みも絶たれていたにも拘らず、例の外交音痴ぶりを発揮し、中立条約を望みとソビエトに仲介役を依頼しようと動いたが、’45年4月、中立条約の延長はしないとの通告を受けただけである。ドイツ降伏が’45年5月7日、ヤルタ密談で遅くとも8月8日にはソビエトの対日戦が開始される。わが国にポツダム宣言が突きつけられたのが7月26日、7月中に降伏していれば、千島列島は日本の領土であるし、北方領土の問題など戦後生じるはずはなかった。ポツダム宣言にある戦争犯罪人は処罰するとの項目にこだわって、8月15日まで降伏が延びたため、ヒロシマ・ナガサキ、そして今も解決できない残留孤児、さらに朝鮮の分断まで引き起こした。8月15日以降も参戦したソビエトは領有を保障された千島列島に進駐し、島民を強制的に退去させた。
 さて戦後の世界だが、ヤルタ会談で目指した戦後の構築は、冷戦の勃発で反故にされてしまった。尽力したルーズベルトに代わって保守派のトルーマン副大統領が大統領に昇格したのもその一因だが、一国社会主義で苦心したソビエトが社会主義国の拡大、そしてそれらを支配下に置こうとしたこともその対立を深めることとなった。大戦中は、ファシズムと戦うためには悪魔とでも手をつなぐと述べたチャーチルも、スターリンのやり方を、鉄のカーテン云々、との批判を向けることとなった。
 冷戦構造に組み込まれたわが国も、アメリカの庇護のもとで独立を回復する道を選んだ(サンフランシスコ単独講和、ソビエト・中国・インドは講和せず)。この会議で、外交の継続(ヤルタ密談の内容)を認めるアメリカは日本の全権大使吉田首相に千島列島の放棄を促し、その放棄宣言を楯に実質支配のソビエトがその領有権を確定したという主張を断固として譲らなかったし、それを引き継ぐ今のロシアもその延長上にあるのが現状である。                この国の歴代保守政権は、吉田首相が放棄した千島列島とは北千島であって、南千島の国後・択捉はその中にないらないと強弁しているが、北海道とカムチャッカ半島の間に散在する島々が千島列島(クリル諸島)であることは疑いない。歯舞色丹は千島列島でないという言うのは話が通じるが、、、。ソビエト崩壊後、現在のロシア政府は、歯舞・色丹の二島で妥協する気があるようであるが、原則は譲るべきではないと思う。わが国が戦前もそうだが、戦後はアメリカの手下として一貫して取り続けた反共・反ソビエトの政策が、本来ロシア国民の生活の向上に向けられるべきロシア国民の労働の成果が果てしない軍備拡張に費やされた責任を感じつつ、人類の立場に立った交渉をすべきだと思う。戦争によって領土の変更は認められないとの原則に立って、日ロ間に関しては、南樺太のロシアへの返還は当然だが、千島列島は日本の領土であるべきであることを確認すべきである。しかし、国際会議で、千島列島の放棄を宣言したのだから、領土回復は主張できない。しかしその帰属は決定していないし、ロシア領とはいえない(無賠償、無併合の原則から)。その上で、実質支配のロシアと図り、もともとこの地の先住民族であった少数民族に自治権を与え、北方民族自治共和国を日露が協力して支援していくことだ。そうすることが、民族紛争の根を絶つ全人類的な目標に向けた、日露両国の国際貢献に繋がるのではないだろうか、、、、。


母校は分かる、入学した学校は、、、?

2018年11月06日 09時03分15秒 | コラム

 小学校に入学したのは敗戦の年であった。最初の思いでは、前日から楽しみにしていた遠足、校庭に集合して、学校長の話のあと、我々一年生は近くの愛宕神社まで出向くことになっていた。今でもはっきり記憶しているのだが、学校長の話で、”空襲がないと好いのですが、、”の発言の直後、サイレンが鳴り、即中止、下校したことである。東北地方の県都ではあるが、軍需産業が無くとも度々爆撃を受けるようになり、まもなく敗戦、、、。当時は子どもでも、大きくなったら何になると問われると、男の子は、”兵隊さん、陸軍大将、海軍大将”であった。明治以降の皇国史観に基づく教育が、家庭でも、学校でも。社会でも徹底していたからであろう。それに異を唱えるものは、治安維持法で絡め取られていたことはずっと後になって知ったのだが、、、。

 ”国難”がやたら喧伝されるようになった昨今、学校教育の原点となった小学校を訪ねることにした。3年生の途中で転校することになったので、母校とは言えない小学校である。校長室には、歴代校長の写真が飾ってあるのが分かっていたので、まだまぶたに残っている朝礼台でお話をした校長さんに会いたかったのが来校の目的であった。21代目の学校長が、73年前のにこやかに挨拶をした姿であった。初代から8代目まではまだ写真がなかったが、20代目の校長さんの写真を見て愕然とした。丸刈りで軍服姿の写真であった。

 ”盆の上の豆”的体質は、”国難”で加速するのではないだろうか、、、。


物理学の基本原理,e=mc2

2018年10月31日 06時30分59秒 | コラム

 火の獲得が、ヒトを人間にしたのだが、全ての物質はその質量に光の速度(1秒間に30万キロメータ)の二乗を掛けたエネルギーを持っている。燃え続ける巨大物体、太陽からの好位置にある地球で3000万種の生命が誕生した。そのフロントランナーとしての人類なのだが、ホモサピエンス(賢い人)と自称しながら、その愚かさによって命の消滅をもたらせかねない状況に向かっている。

 鉄の利用は生産性を拡大したし、人に幸せをもたらしたはずだが、人のエゴも拡大したようで、絶望した老子は81条の人類への警鐘を残し、関所を超えて何処かに去ってしまった。ルソーやトルストイは老子の考えに触れて、己の生き方を決めたようだが、G8,とかG20,といわれる国の指導者こそ老子の考えに学んで、地球、そして命の問題を考えるべきだと思う。

 より豊かさを求めた産業革命時、当時唯一の可燃物であった木材を大量に消費し、はげ山を生み出したが、燃える石、石炭を発見し、はげ山の代わりにスモッグを生じさせた。続いて燃える水の発見は、その巨大埋蔵地、中東に悲劇をもたらし、現在もその悲劇を拡大再生産している。クリーンエネルギーとして人類に貢献すると言われて進められた原発は、事故が起きえればとんでもない災いをもたらすし、燃えかすの処理法も、、、。

 私が20年前に、離れを作り、その電源を太陽光発電にしたのは、TVで、らくだにパネルを付け小型冷蔵庫で子供用のワクチンを運んでいる様子を見たからである。太陽光発電の技術向上に少しでも貢献したいと思ったからだ。余剰電力は東電が買い取ってくれるというので、1年間で10万円ぐらいは東電から振り込まれている。東電はその料金は、一般消費者に負担させているとのこと、なんだか申し訳ないように思っている。クリーンエネルギーそのものの太陽光発電は、大気汚染とは無縁のものだし、原料は太陽が消滅するまで無限だし、資源を巡る国同士に対立も解消してくれる。その素晴らしい人類の技術も、利が絡むといろんな問題を生じることとなる。各家庭の屋根における太陽光発電だったら良かったのだが、それを進める側の思惑もあって、私の所にも度々太陽光発電の設置を求める電話が殺到した。すでに設置済みだった私は、その電話してくる人に、”あなたの仕事は大切で素晴らしい。顧客を獲得するに、何年で元が取れるとかそんな勧め方でなく、当面預金に回してるものを屋根の上に預金するつもりでどうですか、銀行利子より高い配当がありますが、、。”等とアドバイススたのだが、、、。昨今は、利を求めて大規模な太陽光発電設備が、山を削ったり、農作放棄地や空き地等に設置されているが、環境破壊を生じている。


盆と正月が一緒に来た、、、

2018年09月15日 08時57分01秒 | コラム

 この国では昔から、最高に忙しく、最高に嬉しい事の表現として、この”盆と正月が一緒に来た”という言葉が使われ続けていた。つまり、年中暇無しで働き続け、休みは先祖に思いをいたす盆と新しい年のスタートである正月だけにして、先祖を供養し、年の初めを祝い、この時ばかりは御馳走を食べられたのである。平素は慎ましく、働くの語源が、”傍が楽になる”といわれてるように、先祖代々、働くことを厭わないのが国民性となっていた。それ故にこの国の戦国時代の末、我が国にキリスト教の伝来で訪れた、フランシスコ、ザビエルが文化ショックを受けたものである。欧米のキリスト教世界では、労働は苦、神からの罰と教えられていたのだが、喜々として働いている一般民衆の姿に心を打たれ、この国の人たちがキリスト教に帰依してくれれば、欧米で失われて旧教(ローマーカトリック)の力を取り戻すことが出来ると信じたものである。

 ”働くことが好き”、”温暖湿潤気候”の二つがこの国の財産である、狭い山がちの島国で営々として平穏な生活が続けられてきたのだが、、、。欧米で生み出された社会の仕組みを、明治以降模倣し物質的豊かさではその水準に達したようだが、心は日々貧しくなってきてるのではないだろうか、、、。今日15日は、かっての敬老の日、今年は暦の都合で17日に変更されている。”軽老の日”にでもなってしまったのだろうか、、、。頭の軽い政治家が、連休が増えると国民がいっぱい遊んでくれて景気が良くなる、等と考えて、連休日を増やす為に休日をスライドする法律を制定してしまった。古き良きものを守り、それを取り戻そうとするのが健全保守の考えなのだが、、、、。


味方千人敵千人

2018年09月05日 14時37分57秒 | コラム

 タイトルの言葉は、古くからの格言とも言えるのだが、歴史的に大きな仕事をした人物にはついて回る言葉だろう。今この地球上でこの格言に当てはまると思える人物は、アメリカのトランプとロシアのプーチンと言えるのではないだろうか、、、。両者の手にある核ボタンが起動すれば、確実に人類の破滅が到来する。人類のみならずこの奇跡の惑星終末にもなりかねない。

 生まれたものは必ず消滅するのは永遠の真理で、この地球も、太陽系、もやがては消滅するのだろうが、人類誕生以降500万年といわれているが、現在存在する80億にならんとする人類は、この惑星で異常繁殖してしまったので淘汰されるのが必然なのだろうか、、、。生存競争という名の争いを繰り返してきた生き物なのだけど、今を生きる人類のルーツを遡ると10数名の女性(命を生む)に行き着くと言われているし、さらに一人の女性(ルーシー)に、さらにすべての地球上の生き物は命を生み出した海に行き着く。つまり、”人間皆兄弟姉妹、すべての生き物は皆友達”なのだが、、、。

 一方のキーマンと言えるトンプ大統領に知ってもらいたい先輩がいる。母国イギリスの帝国主義に替わる新しい社会を模索し、合衆国独立宣言を起草したと言われ、アメリカの第三代大統領に就任したジェファーソン、もちろん彼も多くの敵対者が存在した。何故多くの敵対者が存在したかは、彼の言葉を詠むと理解できるだろう。彼の言”銀行は軍隊より危険である。資金調達のために、子どもが支払うことになる金を借りて使うことは、未来に対する大きな詐欺行為である。もしアメリカ国民が民間の銀行に通貨発行権を与えてしまえば、銀行は子どもがホームレスになってしまうまで、銀行は国民の財産を吸い上げるであろう。”

 通貨発行権を国に取り替えようとしたため、ケネディ大統領は暗殺されたと言われているが、ジェファーソンの予言の正しさを証明しているのかもしれない。同じくこの国の現状、国債の残高が1000兆円を上回っている事実は、経済成長が善との思い込みが、そのための財源不足をを財政法で禁止していた赤字国債の発行を、”特例法”なるトリックで発行し続けた歴代自民党政権の失政以外の何物でもないのだが、それを許し続ける主権者にとっては自業自得なのかもしれない。輪転機をフル稼働させての、金の裏付けのない不換紙幣(正確に言うと単なる紙切れ)を発行し続けての癒着構造が政官財で出来上がってしまった。そして現在、清貧な政治家、優秀な官僚(憲法で定められている全体の奉仕者として、それを体現したい役人)、社会は豊かに、個は慎ましくとの財界人も淘汰されてしまい、今や絶滅危惧種。大手を振って我が世の春を謳歌しているのが、利に走る政治家、官僚、ファンドとなる。立法権、行政権をただしてくれるはずの司法権、国民、主権者の立場に立とうとする裁判官はいても、昇進を阻まれ、利にさとく、左右される上級裁判官が生まれ続けている。


夏の終わりに、、、

2018年08月31日 08時36分04秒 | コラム

 猛暑が続いた今年の夏、地球温暖化については以前から科学者が警鐘し続けていたのだが、それぞれの思惑もあって、まともな国際的合意も為されていない現状である。”のど元過ぎれば、、、”との格言があるが、都合の悪いことはなかったことにして、惰性の生活を人類はその滅亡まで続けるのであろうか、、、、。

 今年の猛暑はいろんなことを考える良い機会となった。エアコンを電気代節約のため使用しないで、熱中症で亡くなった方が少なからずいた件では心を痛めたが、家を建てた時、取り付けたエアコンは、ほとんど使用しないで過ごしてきたのだが、今年の夏は必要を感じ付けたのだが、長年使用しないとガスが変化して使用不能となるとか、二、三ヶ月に一度は1時間は運転しなくてはいけないと専門家から伺った。今年の夏はエアコンを新しく購入し、何度かは使用した夏であった。幸い20年ほど前に、離れを作った際にその屋根に太陽光発電を取り付けたので、電気代を心配することはなかったが、、、。私が太陽光発電に心が引かれたのは、あるテレビの願組で、らくだに発電のためのパネルを取り付けその電力で小型冷蔵庫、そこにワクチンを納めて子ども達に届けている様子を見た時である。是こそ科学。技術の人類への貢献と思えたし、その手助けをささやかながら担うと思ったからだ。

 2500年も前に、孔子は”君子は義にさとり、小人は利にさとる、”と述べているのだが、その警鐘が現在でも通じるのは、人間とは代わり映えのしない生き物なのだろう。2年後の東京オリンピック、それを何の疑問もなく取り決めた、JOCの中心人物、今年の猛暑で再考しようとは考えていないのだろうか、、、。先の東京オリンピックの開会式を10月10日と決め、その後永くこの日を記念して体育の日としたのは、正しい判断であった、古代ギリシャ人の叡智を、帝国主義全盛の時期に活かそうとして近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵はまさに義の人であった。本来開催地をギリシャに固定しても良かったのだろうが、世界各地で開催することによって、オリンピック精神をグローバリズム化することを願ったのだろうが、、、。オリンピック特需で利を得るものが生じるようになり、誘致合戦とかでは醜い金銭の動きもあったのだろう。

 2020年の東京オリンピック開催の条件は、10月に延期するか、莫大な借金をしても、この国の技術力を活かしてすべての競技場を全天候型の競技場にすることだ。マラソン、その他、競技場内で出来ない種目は、早朝、深夜にするしかない。一番好いのは、今経済危機で苦しむギリシャに替わって貰い、かかる費用すべてを日本で負担することだろう。その財源は、この国が世界平和に寄与するために、その反対の歩み、軍事基地建設、オスプレイ、イージス艦、イージスアショアに掛ける費用でまかなうことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


田園風景の移り変わり、、、

2018年08月23日 14時19分11秒 | コラム

 まもなく刈り取りが始まろうとしている田園、時折田畝の中に入って草取りをしている人、櫨の草刈りをやっている人を見かける時もあるが、たんぼ道を散歩していて人と出会うことが少なくなってきている。そんな時草刈り機で除草作業をしている人を見かけると何故かほっとする感じがする。かっての田園風景と言えば、各農家の勤勉性を競うごとく、田畝には雑草もなく、土手の草刈りもこまめに行われ、均一の美しさが保たれていた。子どもの頃から、親の厳しい労働を目の当たりにして育ち、小さいことから家の手伝いをして、働くことを厭わない優れた労動力も持ち主だった若者は、高度経済成長の担い手として、工業地帯に奪い取られてしまった。農作業の省力化として、耕耘機、が工場から提供されるとその支払いのため、父ちゃんの出稼ぎが始まった。それ故に”3ちゃん農業”、(じいちゃんばあちゃん母ちゃん)等と揶揄され、まもなく年を取ったじいちゃんばあちゃんは引退、母ちゃんだけとなって手が回らないので、田んぼでは手が回らず、下には雑草、稲が中間。上には伸びた稗、の状態で”三段農業”と揶揄され時代となった。

 耕作放棄地も散見するようになり、山間部の田畝は、ほとんど原野と化している、あっという間に灌木が生え、長年掛けての豊かな土壌、温暖湿潤のこの国の自然は農業(人の食を維持する産業)に向いているのだとつくづく感じる。今の田園の様は3通りに分かれている。百姓魂の持ち主なのだろう田畝には“頭を垂れた稲穂”、きれいに狩りとたれた櫨;除草剤を大量に使ったのだろう赤茶けた姿を見せている所、背丈ほどの雑草が伸び放題に繁茂しているところ、、、。

 この国の農業は、雑草との戦いと協調からなってきた。今ではあまり見なれなくなったが、農家のお祖母ちゃんで、90度に体を折って歩いてるだけでなく仕事をこなしていた人が多く見られた。つまり田畑での厳しい除草作業に長年従事していたが為の変形である。しかもすべて手作業で、田畝での除草作業では摘み取った雑草を、稲の根の下に押し込んで稲の生長に役立たせようとしたし、土手の草刈りでは、それぞれの家には、耕耘機やトラックターの無かった時代の大切な助っ人、牛馬、の餌として無駄なく活用された。

 自然が生み出した生産物は、すべて自然に帰るし、循環経済こそ永続性があるものだ。人が己の生活を高めようとして、古くは農業畜産に力を入れたのだが、やがて商業にさらに鉱工業にシフトしていく中で、この奇跡の惑星地球を痛め続けている。川が創る平地、三角州、河岸段丘、扇状地は、豊かな実りをもたらしたし。人の生活水準も高めてくれた。やがてより多くの生産のために、工場で生産された肥料が使用されるようになると、農産物の生産高が上がると同時に、副作用としての問題も生じてくる。この国の代表的な肥料会社の、新日本窒素水俣での問題は、水俣病の副作用でどれほどの不幸を生じたことか、、、。さらにこの国にとっての最大の課題であった、”雑草との戦い”を解決する安易は方法として、除草剤が使用され続けている。民族の独立のために、宗主国のフランスとの戦い、さらに干渉してきたアメリカとの厳しい独立のための戦い(ベトナム戦争)。ジャングルを味方にゲリラ戦を続けるベトナムを屈服させるべく、アメリカが取った作戦がジャングルの抹消であった。添えの協力して巨大企業に成長したのが、モンサントである、

 除草剤へと生産をシフトしたのだが、いち早く受け容れたのが残念ながら、アメリカの意向に何一つ逆らえないこの国である。3通りに分かれているこの国の田園風景が、除草剤使用や、放棄地にならないよう願っている。


記念日と祈念日

2018年08月16日 09時52分54秒 | コラム

 昨日の8月15日、戦没者追悼の式典が挙行されたが、天皇、はご臨席、そしてお言葉、主催者の代表総理大臣は差し障りのない挨拶でごまかし、加害責任には触れないと批判するメディアもあったが、大手メディアのほぼ全部が、”終戦記念日”として8月15日を捉えている。

 言葉を厳密にそして正確に使うならば、8月15日は大日本帝国にとっての敗戦記念日、昨日は、73回目の敗戦記念日である。そして、1946年11月3日、日本国憲法公布、翌年の5月3日の施行こそ終戦祈念日で、二度と戦争をしないために、新しい日本国憲法第二章第9条で、戦争の放棄、陸空海軍の不保持、その他の戦力の不保持、交戦権の否認という絶対的平和主義の立場に立つことを誓った日である。

 大日本帝国憲法下で好い思いをしていた人にとって、敗戦は受け入りがたいのは理解できる。一億総懺悔が、ごく少ない牢獄内に囚われていた人(治安維持法違反)を除いては、受けいられてしまった。それだけ、この国の民衆がマインドコントロールされていた証なのだが、十分な民主化が実現されたなら、占領軍は撤退することになっていたのに、名を変えたアメリカ軍が、この国に駐在しているのは、まだ十分に民主化されてない証なのかもしれない。

 南米のコスタリカ(豊かな海岸)に先取りされた、軍隊のない世界に向けて、その絶対的根拠である、日本国憲法の前文と第9条を失わないことが、人類に対する日本国民の責めと言えるだろう、、、。


それぞれの8月15日

2018年08月15日 09時25分40秒 | コラム

 73年前の8月15日、私は。小学校(当時は国民学校)1年生、仙台郊外の疎開地で迎えたのだが、その年の7月10日に、仙台空襲、残された子ども達の命を最優先に母は疎開を決断したようだ。父は陸軍司政官として昭和17年シンガポールに赴任、当時南進政策を採用した日本軍が東南アジアに戦争継続の資源を求め軍隊を派遣、英、仏、オランダ、アメリカの植民地だった地域を占領、当時逓信省(元郵政省)の役人だった父は軍事郵便事業に携わり、今で言ったら過労死とでも言うのだろう、当地で戦病死、12歳を頭に6人の子どもを託された母は人には言えぬ厳しい戦後があったと思う。世間の同情に母は”ちっとも苦労とは思わなかった”が口癖だったが、私自身、今でも母に感謝していることは自分の生育の中で、瞬時も世を恨んだり、父がいてくれたらと思うことがなかったことである。その母も20年前、90歳で亡くなったのだが、遺品を整理している中で母の詠んだ、”残されし、六たりの子らは 育ち行く 御霊に告げむ 靖国の森”との歌が出てきた。戦後民主主義教育の一期生として育った私としては、最後の一句を、”その日来たれば”と訂正させてもらった。

 サイパン陥落後、東条内閣は崩壊、戦闘能力が壊滅しているのは、この国の為政者は理解していたのに、かけ声だけは勇ましく、”一億火の玉、本土決戦、神風の襲来”で8月15日まで多くの悲劇を国民のみならず、周辺国にも与え続けた。サイパンからは連日b29が来襲、日本の主要都市は無差別爆撃を受け続けた。10万余が犠牲となったと言われる、東京大空襲はよく知られているが、その無差別殺戮を指揮した、ル、メイ将軍に旭日大勲章を授与した事実はほとんど知られていないのがこの国の現実である。中立条約を結んでいた当時のソビエトに仲介の労を執ってもらおうとしたが、対ドイツ戦で協調したアメリカとの密約(ヤルタ会談)で応じてもらえず、提示された降伏条件(ポツダム宣言)が日本国政府に出されたのが、7月26日、直ちに受託していれば、朝鮮の分断はなかったし、ヒロシマ、ソビエトの対日参戦、それに基づく北方領土問題もないし、ナガサキも残留孤児問題も生じることはなかった。


隣国、朝鮮半島の国、、、その②

2018年06月12日 05時51分57秒 | コラム

 1945,8,15、まではこの国の人々は、大日本帝国憲法下の臣民(天皇の家来)であった。国家主義教育によって幼少時から洗脳され、治安維持法によって言論は統制されていたし、大正デモクラシーといわれた短い期間では、赤い鳥運動、普通選挙制(男子だけ、、)の成立もあったが、当時の世界最大の帝国(イギリス)との同盟が廃止されてからは、自力でその勢力を大陸へ拡大するために極端な独裁体制を確立することになる。5,15事件、2,26事件を経て政党政治は終止符をうち、天皇;軍部;財閥の鉄のトライアングル体制が確立する。その体制に疑問を持つ人は、治安維持法で絡め取られたし、少しでも疑問を感じるものは特高警察に付け回された。1928年の不戦条約に調印している手前、中国に仕掛けた侵略戦争を、事変と言い換えた。国民のマインドコントロールには、御用学者、メディアを利用した。朝鮮併合には”日鮮同祖論”なるものが主張されたし、満州国建国では、五族(日、漢、モンゴル、満州、朝鮮)共和の理想国家、対米英戦では鬼畜米英のアジア植民地解放、大東亜共栄圏の確立が喧伝された。当時の小学校では、やはりパシリの教師もいる者で、世界の白地図を教室内に掲げ、日本の軍隊が占領した地に日の丸を掲げたりして万々歳を唱えさせたりした。そんな戦前、戦中のムードと今の世の中の共通点が多々あるような気がするのは、老いの幻想なのだろうか、、、。

 戦争責任を自らで裁けなかったこの国fでは、戦前好い思いをした人のDNAを引き継いでいる人たちが力を維持している。彼らは今度の戦争では、アメリカの物量に敗れたので、アジアの民衆に敗れたのではないとの信念を持っている。イギリスを味方にしたから、日清、日露の戦いに勝てたし、アメリカとの同盟があれば、どこと対立したとしても安心であるとの論理で縛られている。アメリカの属国といわれてもそれに甘んじてる勢力が、今のこの国では力を持っている。

 元に戻って、朝鮮半島の二つの国がどうして生まれたのか、最大の責任がある我が国について考えねばならない。1910年朝鮮併合、そして大陸への道、泥沼に陥り、ドイツと組んで対ソ戦を意図した防共協定をを結んだが、対仏英戦を優先したドイツが、ソビエトと不可侵条約を結んだので、日本もソビエトと中立侵条約を結び、北進を南進に変更、ドイツに占領されたフランスの保持していたインドシナに戦争継続の資源を求めた。真珠湾の奇襲で、一時太平洋の制海権を維持したが、すぐさま破綻、1945年に入るともはや敗北は決定的となる。この年の2月のヤルタ会談、3月の対ソ交渉(中立侵条約を頼みと仲介依頼)、5月ドイツ降伏、7月、ポツダム宣言による対日降伏勧告、はセットとして考えなければならない。

 対英仏戦を優先したドイツも、戦争継続の資源を求め対ソ戦を開始、当時のソビエトにとっては、ナポレオンの時の大祖国戦争に次ぐ、第二の祖国戦争、多大の犠牲をは払いながらも撃退に成功、もっとも、当時のアメリカは、リベラリストのルーズベルト、資本主義に危機をニューデール政策での乗り越え、”社会主義は競争相手であるが敵ではない、敵はファシズトである。”との考えを持つ人物で、ドイツとの戦いに苦しむソビエトに武器援助もした。日本軍の玉砕戦法に苦心したアメリカは、自国の若者の被害を押さえるために、何しろ大陸には多くの日本兵が展開しているし、陸続きのソビエトに対して日本への参戦を求めた。見返りを求めたスターリンに対して、援助した武器の無償、南樺太の領有、さらにアメリカの基本原則である講和に当たっての”無賠償無併合”に反して、千島列島の領有まで認め、ドイツ降伏三ヶ月後に対日参戦を約束させた。(ヤルタ密談)

 7月26日に日本への降伏勧告の条件(ポツダム宣言)を直ちに受託して、降伏していれば、ヒロシマ、ナガサキはなかったし、北方領土問題、残留孤児問題も起きることがなかった。国民には一億総玉砕を呼びかけていた責任者は誰だったのだろう、、、。3月にはソビエトに仲介を依頼していたのだし、降伏を受け容れる要素は指導部にあったのだし、、、。ポツダムの降伏条件は、歴代の戦争で獲得した領土は返還するだし、台湾は中華民国へ、南樺太はソビエトへ、朝鮮は朝鮮へ返せばいい。戦争犯罪人は処罰するの項目で、その中に天皇が入るか入らないかの確認でもたもたしている内に、8月を迎えてしまった。朝鮮では日本の植民地支配に抵抗し続けていた金日成、アメリカに亡命し朝鮮の独立運動をしていた李承晩がいた。対戦終了間近にルーズベルトが死去したのが、人類にとってこの上ない不幸と言えるだろう。朝鮮問題では、米ソ間で、北緯38度以南の日本軍はアメリカが武装解除、以北の日本軍はソビエトが武装解除、終了後両軍は撤退、選挙で新たな国が発足する予定であった。副大統領から昇格したトルーマン大統領は、戦中に巨大な力を持つようになった軍需産業の意向に沿って、冷戦を発動する。亡命していた李承晩を南の大韓民国に据え、一方スターリンは、ソビエト軍中尉の肩書きを持つ金日成(当時は、抗日抵抗運動の指導者、民族の英雄としての金日成とは別人ではないかの疑念もあった)の下、朝鮮民主主義人民共和国成立を促し。米ソの冷戦の代理戦争を強いられ、最大の不幸が同じ民族が殺し合い、この狭い列島で第二次世界大戦で世界で使用された爆弾を超える量の爆弾が投下されたことである。その戦争が未だ終了しておらず、今回のシンガポール会談で、その終結宣言が為されるかが最大のポイントである。

 第二次世界大戦後の新たな国際関係に力を発揮できたのは、国内の産業が無傷で、完全にイギリスに変わって資本主義世界のリーダーの地位を得たのがアメリカである、大戦で疲弊したヨーロッパの資本主義諸国を、マーシャルプランでその復興を支援し、中国の市場を巡る日米の対立も解消し、支援していた蒋介石の国民政府が新たな中国になっていれば、軍需産業にシフトした産業を元の平和産業に切り替え、中国市場に販売することが出来たのだが、内戦が起こり、社会主義を目指す勢力が毛沢東中心とする人民解放軍に結集し、アメリカの軍事介入を危険視したスターリン(この頃まではドイツとともに戦った同士としての連帯感があった、、、)が揚子江での停戦を毛沢東に指示したが、大陸全体の解放に向かい勝利し、人民共和国が成立したのが1949年`10月である。台湾に亡命した蒋介石の国民政府を支援し続けたアメリカは、朝鮮動乱を契機に、中国への破壊活動を試みたがいずれも失敗した。朝鮮戦争で、北の敗北が濃厚になった時、義勇軍を派遣し国連軍(実質は米軍)を多大の犠牲を払いながら、38度線近辺まで押し返したのが、建国間もない人民解放軍である。停戦ラインの南北2キロが、人の愚かさを象徴するように、野鳥の楽園となっている。