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自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

皇国史観の克服は可能か、、、その②

2020年02月14日 09時19分44秒 | コラム

 九州王朝の分派が大和に侵入し、この地の豪族を征服、支配したか、連携して大和政権を樹立したのは何時の事なのだろうか、(天孫降臨の地、高千穂が宮崎県にありにあり、宮崎県沖から日本海流で容易に紀伊半島にたどり着く)そして分家の力をつけ、527年、磐井の乱で本国の九州王朝を支配下におさめ、東北と南九州の一部を除き国土統一を成し遂げたのだが、建国の日は六世紀の末というのが史実であろう。

 その大和政権で力をつけてきたのが、渡来系の蘇我氏である。大王の血筋が絶え、越の国から迎えたのが継体天皇、実権は蘇我氏にあり、飛鳥朝をスタートさせた聖徳太子は、父方も母方も蘇我氏の血を引き継いでいるし、蘇我馬子の娘と結婚し、皇位継承権を持つ山背大兄王を生んでいる。蘇我三代(馬子、蝦夷、入鹿、、本名はもっと素敵な名前だと思うのだが、、、)で、蘇我氏の血を引く天皇を殺したり聖徳太子の死後、その子を攻め滅ぼしたのも、蘇我王朝を開いたと考えた方が史実にあっていると思う。当然多くの反対者は存在したし、645年、大化の改新という、ク、デターによって蘇我氏本家は滅亡する。

 天智、天武朝で律令政治(天皇主権)が確立し、聖武天皇の時、最盛期を迎える。様々な問題も生じ、桓武帝の平安遷都から100年間律令政治の立て直しを図るが実権は、大化の改新時の第一の功労者、中臣鎌足の子孫、藤原氏に移っていく。鎌足の息子、不比等がその基礎固めをするのだが、娘を聖武天皇の后にしたやり方は蘇我氏と共通するが、蘇我氏の興亡を知る不比等は、藤原氏の権力維持のためには、あくまでも黒子に徹し、トップには立たない、実利はしっかり戴き、責任は回避する術を生み出した天才的な策略家と言えるであろう。現在も続くこの国の無責任体制のルーツはこの辺にあるのかもしれない、、、、。その路線を踏襲した藤原北家の系統が、平安中期の約200年間、摂関政治という名の支配を維持した。中央での出世をあきらめ地方政権をめざし土着した藤原一族の分派が、奥州藤原三代である。当時天皇は藤原氏の操り人形で、子どものときだけ天皇の位につき、成人すると退位させられる。成人しても判断力のない場合(血族結婚の弊害)は関白職にすべて委ねることとなる。そんな中央の政府にに反旗を翻し、”王侯いずくんぞ種あらんや、、、”の気概で関八州を支配し、自ら新たな天皇と称したのが平将門である。馳せ参じた農民を、農繁期に自国に帰したすきを突かれて、藤原秀郷に討たれのであるが、今でも地元では自分たち農民のために戦ってくれた守護神として守り続けられている。(神田明神)

 摂関政治の欠点は、藤原氏の血を引く皇位継承者が絶えてしまうことにある。平安最後の約100間は藤原氏と血縁のない天皇が位につき、過去の律令政治を目指すのだが、荘園を整理し公地を回復しようとしても取り巻きの藤原氏に反対されてしまう、白河天皇は藤原氏の影響から逃れるため、自ら退位し、天皇の地位を息子に譲り、院政を開始する。平安400年間、地方では土地を開墾し獲得して自営、農民となった者たちが、自らの土地を守るために(一所懸命)、武士団を結成着実に力をつけていく。そういう武士団のまとめ役として、平氏、源氏が並び立つ。保元、平冶の乱に勝利し、藤原氏の摂関政治を踏襲して、実権を握ったのがが平清盛である。平安末期の約20年間、”平氏に非ずんば、人に非ず”の政治が続くが、地方武士たちは源氏の血筋を引く頼朝を中心に、関東に地方政権を樹立する。

  鎌倉。室町、江戸の3幕府政治の約700年間は武家政治であるが、形式的には天皇から、武家としての最高の位、征夷大将軍に任じられ政治を任されるという形式をとる。もともと征夷大将軍というのは、大和政権がその領地を東北に広めるために、蝦夷地を攻める責任者に命じられたのが坂上田村麻呂であって、貴族の最高の位が、太政大臣、武家の最高位が征夷大将軍として定着したものである。

 鎌倉から南北朝統一までの200年間は公武の対立期である。武家勢力に対して、旧勢力の天皇、貴族がたのとの権力闘争が見られた時期である。京都側の鎌倉幕府(北条氏の執権政治)に不満な武士に期待しての、北条氏追討のもくろみは失敗に終わる(承久の乱)が、元の襲来による、執権政治を支える幕府と御家人との破局は鎌倉幕府滅亡につながる。ほんの2年間天皇親政の政治(後醍醐天皇)が見られるが、実権は源氏の血筋を引く鎌倉幕府の有力な御家人であった足利氏に移る。足利尊氏の政治ブレーンは、征夷大将軍を受け開幕るなら、天皇は必要だし、木や石で作ればとまで提案したそうだが、尊氏は頼朝を踏襲した。

 天皇家が最困窮したのが戦国時代である。戦国武将は、将軍をサポートし勢力の拡大を図ろうとするし。実権のない将軍にその役を命じることで存在を許されている天皇家にしてみれば当然であろう。信長の跡を継ぎ、全国統一を果たした秀吉は、聚楽第に天皇を迎え、かってこの国を統一した方の子孫であることを周知させ、その天皇からすべてを任された(太閣)という形式をとり、その地位を保証した。続く江戸幕府も天皇は将軍をさづける地位を保証されたが。禁中並びに公家諸法度で、隅々まで幕府の干渉を受けた。困った人には手をさしのべるのがこの国の一般民衆の性質であったようで、京都の商人で経済援助をした人、地方でも献金をして、色紙などをもらい、家宝として持ち続けた人もいたが、明治の初期には、「天皇はんも偉い出世しなはった、この町にいなはったときはずいぶん苦労したはりましたけど、、、家には天皇はんの借金証文がたんとあったんどす、いまさら取立てもできまへんけど、、」と話す老舗の主人もいたようで、一般民衆からは好意的にみられていた。

 旧皇室典範は、大日本帝国憲法とセットで、天皇を神に祭り上げるものとなった明時代の法であるのだが、戦後新たに定められた皇室典範は旧法の何ら変わりない内容を持っているし、今回の天皇代替わりに基づく様々な行事は、その皇室典範に基づき行われたが、大嘗祭における総理大臣の、”天皇陛下万歳”の三唱に違和感を覚えたのは私だけであろうか、、、。 


皇国史観の克服は可能か、、、

2020年02月13日 10時23分24秒 | コラム

 この国の歴史年表が縦であらわされるのは、西暦593年、聖徳太子が摂政の位についた年、飛鳥時代からである。それまでは、弥生時代は紀元前2~3世紀、大和時代(古墳時代)4世紀半ば過ぎとして、年表上では斜線で表現される。記録の残る歴史時代は飛鳥時代からで、それ以前は考古学の時代となる。考古学によって史実が解明されれば、歴史時代もそれに伴い遡るのである。我が国の古代史の解明には、中国、朝鮮、日本の東アジアのの興亡の歴史と捉えて観ていかないと真実は見えてこないであろう、、。古代天皇家の内紛、壬申の乱で勝利した天武天皇の時編集された古事記、さらにその天武朝の正当性を強調する日本書紀にの記述を全面的に正史とみなしては皇国史観にたどり着くこととなる。邪馬台(壱)国も大和にあり、初代天皇と言われている神武天皇の墳墓も、、、との大和一元史観では行き着くところ日本は”天皇を中心とする神の国”になってしまうのである。出雲王国もあったはずだし、九州王朝も吉備王朝、さらに越王朝も存在したとの多元史観でこの国を見ていく必要がある。    

 飛鳥、奈良、平安の約600年間は、政治の中心は近畿地方にあり、実権は、天皇(律令政治)、貴族(摂関政治)、そして天皇が取り戻す(院政)と移り変わったのは史実である。それに先立つ古墳時代は我が国が多くの小国家の分立から、地域王国の成立、大和朝廷による国土統一の歴史であるし、その歴史的解明には、近畿地方に残る古墳の学術的調査が欠かせない。その多くは、明治以降、日本書紀の記述に基づいて特定されたものであるが、被埋葬者に敬意を表しつつ、発掘し、最新のDNA鑑定も加味すれば、古代史の謎はすべて解明されるであろう。宮内庁の管理下にある天皇陵にその許可が出ないの、天皇家のルーツが大陸、ないしは朝鮮半島になるの恐れているのかもしれない、、、。現上皇が、2001年自らの誕生日に、”ゆかり発言”をして、桓武天皇には百済王、武寧の血が流れていると言い切っているのだから、自国の成り立ちの解明には天皇陵の発掘は欠かせない、    ヨーロッパ諸国が王政の頃、スペイン、イギリス、フランス等の王室は血縁でつながっていたし、ノルマン人のイギリス征服後、イギリス王がたびたび領土確保のために大陸に武力行使したのと同じことが、朝鮮半島に出兵し高句麗と戦ったり、663年、白村江での唐、新羅の連合軍に完敗するまで続けられたと考えた方が史実にあっていると思う。皇国史観では、”三韓征伐”となってしまうのだが、、、。神宮皇后はお産で実家に里帰りしたのが史実であろう、、、。つづく    


2,11は紀元節、建国の日ではない、、、。

2020年02月11日 10時07分57秒 | コラム

2,11に寄せて、以前のブログを再録する、

 政令で建国を記念する日と定めても、史実に合わないことに納得はできないが、休みが一日増えるからとの理由で歓迎する人が多いのが現実であろう。封建社会の江戸幕府を倒したのは、ヨーロッパの市民革命とは異なり、薩長を中心とする下級武士が主体であった。それ故に、主君の主君にあたる幕府に代わる政権、つまり明治政府の正当性を権威付けるために、天皇を利用した。1868年の王政復。’73年の紀元節、’80年の君が代制定、’89年の大日本帝国憲法制定、’90年の教育勅語でその完成を見る。この国の歴史を振り返ってみよう。

 戦前のこの国では、菊と桜が二大タブーであった。天皇と軍に対する批判はもちろん、まともな研究、考察さえ問題視されたし、触れてはいけない領域であった。神聖にして犯すべからずの天皇と、その統帥権の下にある軍には一切口出しできないのが戦前のわが国であった。「近代天皇制」は日露戦争後構築されたが、その権威は2600年に及ぶ皇統の血という架空の教義に基づいていた、そのカリスマ性は、戦前は当然、戦後も、そして現在でも多くの日本人の中に大きな影響を与えている。架空の権威に基づき独裁政権を維持している某国を揶揄し、その危険性を針小棒大に宣伝し続けるマスコミ、1945年8月16日、皇居前広場で土下座して天皇に謝る人の群れ、「玉音放送」で左程混乱もなく自民族の占領を甘んじて受け容れた歴史を持つ自国のことは忘れてしまったのであろうか、、、。戦前の教義。皇国史観の克服なしには、この国の民主主義は形骸化するだけである。

 皇国史観のルーツは、江戸時代の鎖国政策による情報操作、情報遮断のドグマに求めてよいだろう。それまでのわが国の学問というと、儒教の解釈として幕府の正学なった朱子学、実践を重んじる陽明学、古典からじかに学ぼうとする古学、庶民にわかりやすく伝えようとする心学、吉宗の洋書輸入の許可以降の蘭学、仏教伝来以降のさまざまな宗派による解釈が中心であった。そんな中で、儒教は中国、仏教はインド、蘭学はヨーロッパの教え、日本の本来の教えは何か求めようとした、契沖、賀茂真淵、本居宣長等は万葉集、古事記の研究からつかもうとした。国学の始まりである。そして対外的なものを除去した中で残るのは、神道と天皇制であるとのイデオロギーを確立したのが平田篤胤であリ、水戸学に引き継がれ、幕末の討幕勢力を結集させる尊王攘夷運動となった。鎖国をやめての開国方針は時代の流れであり、フランスと結んだ幕府とイギリスと通じた討幕勢力の薩摩、長州との争いは、インド、アフリカにおける英仏抗争でのイギリス勝利の流れをくみ、イギリスと結んだ討幕派の勝利となる。新しく権力をつかんだ薩長は、自らの権力維持のため、尊王思想を最大限に利用した。江戸海幕以来、実質的首都だった江戸を東京と改め、天皇を京都から移し、その時天皇はすり替えられたとの伝説もあるのだが、天皇の権威を高めることにより自らの幕府に代わる政権の正当性を主張した。古代天皇制確立時の歴史書、日本書紀の記述を根拠に、日本の国は神武天皇以来天皇がこの国を治めたいたのだから、そえまでの武家政権に代わり、天皇親政の政治が実施されるとの「王政復古」の大号令が発せられた。そして、天皇が神の前で誓いを立てるという形で、政治の基本方針、五箇条が発布された。

 辛酉の年に大変革が起きる(この辛酉説そのものが古代中国の思想なのだが)601年が、その辛酉の年にあたり、それより1260年前の正月(旧暦では2月11日)に、初代天皇の神武天皇が即位したとの仮説のもとに、明治の絶対王政的天皇制が構築された。薩長独裁に不満を持つ勢力の自由民権運動も、議会開設の詔を勝ち取ったが、大日本帝国憲法(君主権>議会)の下で藩閥政治が継続する。民権重視の思想も、それを支援する勢力も、いわゆる大正デモクラシーと言われる中で育っていったが、世界恐慌の波に飲み込まれ、ひ弱な体質の日本の資本主義はファシズムへと大きく舵取りをする。財閥と軍部が組み、政党政治を、5,15事件、2,26事件で葬り、中国への侵略、1940年には、皇紀2600年祭を大々的に挙行し、天皇の下大アジア統一を目指した「大東亜共栄圏」の実現をめざし対米英戦争を発動した。

 戦後の一時期、我こそは正朝南朝(後醍醐天皇)の血筋を引く天皇であると主張した熊沢天皇なるものも現れ話題となったが、日本の占領統治にあたって天皇制を温存したほうが有利と判断したアメリカの判断によって、第一次世界大戦後、日本が参考にしてきた政治体制、帝政ドイツの皇帝は退位し共和制になったように、本来は廃止されるべきであった天皇制は象徴天皇制として残ることとなった。国権の機能は一切保持せず、内閣の助言と承認のもと行う国事行為のみに限られることとなったのだが、戦前以来の宮内庁の機能には手を付けることにならなかった。戦前は神であり、戦後人間宣言をして本来の人間に戻ったのであるが、依然として囚われの身であることには変わりがない。二代にわたって民間から妃を迎え、国民と共に歩む象徴天皇制を模索しているのだが、Y染色体、万世一系、皇国2600年有余との皇国史観の影響下にある保守というより反動政治家、その代弁者としての御用学者、さらに生活権も関わる宮内庁によって、開かれた皇室は、未だに閉ざされたままであるし、いつ何時、再び雲の上に祭り上げられないとも限らないのである。すべての人間解放を目指す上では、天皇もその後継者も人間的自由は保障されるべきであるし(辞める自由を含めて)。象徴天皇制も歴史の中に残るべきであろう。続  


”三つ子の魂百まで、、”

2020年02月07日 09時12分10秒 | コラム

 諺とか格言とかいうものは長年の人の生活から生まれた生活の知恵と言えるのではないだろうか、、、。自然界は適者生存、弱肉強食の世界であり続けたし、約500万年と言われている人間社会でもその原理は通用し、今もって”MIGHT IS RIGHT”の世が続いている。それを”RIGHT IS MIGHT”にしようとする人の営みが人類の歴史であり、そのことに至る唯一の道が”教育”である。家庭教育、学校教育、社会教育。自己教育がその役割を担っている。昨今ではそれ以前の胎児教育の大切さも指摘されているが、、、、。

 時の権力が、その教育を自らのコントロール下に置きたいのは当然で、学校教育、社会教育(メディアが中心)の支配に成功すれば、どんな悪政でも継続し続けることが出来る。小泉政権、現在の安倍政権が長期政権を維持しているのはこのことと関連がある。その間一時的だが、民主党中心の政権ができたが、松下政経塾出のPHP(繁栄を通しての平和と繁栄)では古くは、ローマンパックス、現在のアメリカンアックスの考えと一緒だし、人類の歩む方向とは言えなかった。新PHP(前後のPを入れ替え)、つまり平和を通しての繁栄と幸福だと人類の歩む方向に合致すると思うが、、、。

 ”あなたによく似た子供を産んで川という字に寝てみたい”という都都逸があるが、胎児教育の大切さを言ってるのだろう、、、。乳幼児にどんな育て方をされたかの重要性を示しているのが、タイトルの言葉だろう。ふと思い出したことがある。私が冬期休暇で実家に帰省していた時のことである、姉が子供を連れてよく遊びに来ていたが、私は炬燵で本を読んでたのだが、その周りをよちよち歩きの姪っ子が、キャンディを口にし、その包み紙をポイ捨てした。その時私は炬燵から出て、その包み紙を拾わせ、台所にあったゴミ箱に入れて、その頭を:”いい子いい子”と言って撫でてやった。再度炬燵で本を読み続けたのだが、キャンディを口にし、その包み紙を、部屋の中をよちよち歩きをしていた姪っ子に渡したところ、先ほどのゴミ箱に投げ入れ私のところに戻って、頭をさしだしてきた。”いい子いい子”と頭を撫でてやったのだが、すごく嬉しそうな顔ををしていたのを数十年たったいまでも覚えている。

 後日談だが、是もずっと前に姉から聞いた話だが、前に遊んだおもちゃをきちんと片づけをしてからでないと、次の遊びに向かなかったそうだ。さらなる後日談があって、ひとり息子と結婚し、その結婚生活での間のトラブルが机上、室内の整理整頓だったのこと。彼の散らかし(姪の判断)と彼の慣習との問題だったようだ、、。彼に会った時。姪っ子の幼児の時の話をしたのだが、”よくわかりました”との答えをしてれた。


”厚顔無恥”

2020年01月30日 08時22分44秒 | コラム

 国会論戦を聞いていて、タイトルの言葉が浮かんできた。代表質問する人は前もってその質問内容を提出し、その解答は役人が用意し、回答者はそれを朗読する習わしになっているようだ。予算委員会の審議なはずなのに、税金をどのように集めそれをどのようなものに支出するのかの論戦ではなく、”サクラ論戦”になっている。そんな中で、同じ三世議員である、総理大臣と防衛大臣にぴったりの言葉が”厚顔無恥”である。一世の岸信介と河野一郎では大きな違いがあったのだが、、、。

 東大銀時計の持ち主にして満州の官僚、東条内閣の閣僚で開戦詔書に署名、A級戦犯として巣鴨に収容されたが、東条らが処刑された日に無罪放免、のち、この国の総理となり日米安保改定に取り組み現在の安保条約を締結したのが岸信介である。

 早稲田大学出身で、学生時代には箱根駅伝も体験し、新聞記者から政治家に転身、日ソ交渉に尽力し、アメリカ一辺倒ではなかったのが河野一郎である。

 岸の娘、洋子が嫁いだのが安倍晋太郎、優秀な息子たちは、三菱の社長、現総理大臣となっている。河野の二代目は自民党の総裁になったが、総理大臣になれなかった。リベラル度は高い政治家ではあったのだが、、、。

 河野家の三代目、大臣の地位のために、河野家のリベラル精神を売り渡してしまったのだろうか、、、。


閑 是 寶

2020年01月17日 08時14分29秒 | コラム

 タイトルの言葉は、中学時代の還暦同窓会で、小学校時代の話が持ち上がり、6年生の時の教室風景が話題となった。木造校舎の教室の柱に竹筒の花瓶が掛かっていて、その下の色紙に、”心に太陽を持て”、”唇に歌を持て”との言葉が掛かっていた様が甦ってきた。担任の先生がまだお元気ならお会い したいと、電話帳で調べ、その旨を伝えると、喜んで近くの小学校まで迎えに来てくださった。その時恩師は88才、自転車で迎えに来てくださり、あっという間の3時間余りだったが、先生にも喜んで戴き訪ねてよかったと一同感激したものだ。その時に先生からプレゼントしてもらった言葉が”閑、是、寶”である。定年を迎えた我々にとって、閑をいかに過ごすかを示唆してくれた言葉である。つまり閑を寶としなさいという、厳しさを弁えた生き方が必要な箴言であった。そのことを一時も忘れないために、散歩で河川敷を通った時、平たい丸い石を拾ってその言葉を記し文鎮代わりに日々目に付くところにおいてはいるのだが、、、。

 人類が閑を持てるようになったのは何時からなのだろうか、、、。スクール(学校)の語源がスコラで、閑ということからして、ギリシャのソフィスト、中国の諸子百家と言われた人の存在からそんなに遡ることはないのであろう。古代中国の思想家は人間を君子と小人に分け、”君子は義に覚り、小人は利に覚る”とか”君子危うきに近寄らず”、”小人閑居して不善をなす”との今の人間にも通じる教えを説いているのだが、、、。

  人は自らのことを、ホモサピエンス(賢い人)と自称しながら、その歩みの大部分は:”MIGHT IS RIGHT”の世を過ごしてきた。それを、”RIGHT iS MIGHT”の世にしていくにはと色々と考えをめぐらしてきた。宗教家は死後の世界にそんな世があると説いたが、啓蒙思想家は現世にその社会の実現を主張した。人は生まれたときは、”裸で名無し”なのだから、家庭教育、学校教育、社会教育、さらに自己教育によって、ヒト~人~人間~ヒューマンビーイングとして成長していく必要がある。”MIGHT iS RIGHT”を維持したい勢力は、学校教育と社会教育を自らのコントロール下に置きたいらしく、様々な企てを続行中である。”政治は最高の道徳である。”という言葉は死語となってしまい、”政治は金儲けである。”状況が進行してしまっているのが現状ではないだろうか、、、。 


新春、めでたさも中くらいなら、、、

2020年01月08日 10時02分01秒 | コラム

 新しい年になってそうそう、新聞紙上では第三次世界大戦の危険を指摘する記事であふれている。イランとアメリカの諍いによるものだが、イランと言えば、紀元前にこの地にペルシャ帝国を築き、ギリシャのポリスの団結力にその拡大を阻まれ、アレキサンダーによって一時は滅ぼされ、王朝は滅んだが、民族は滅びることなく、たびたび王朝を復活し、アメリカに支援されたシャー王朝を追放し、イスラム教を取り入れた今の姿である。ローマ帝国に先立つ、元世界チャンピオンの末裔と言えるものだ。一方現世界チャンピオンと言っていいアメリカだが、世界各地に軍を派遣し、アメリカンパックスを維持しているのだが、いつまでその体制を維持できると考えているのだろうか、、、、。

 そんな危機をあおる新聞の広告欄に、”反逆老人は死なず”との鎌田氏の本が紹介されていた。そして、”デモに行っても老人ばかり、でも、いのちのためには、黙っていられない。80歳超のルポライターが反逆老人同志に送る熱いエール”との本の紹介が出ていた。

 一方この国の最高責任者は、奥さんと一緒に映画鑑賞、ゴルフを楽しみ、伊勢神宮にお参りして、年頭祈願、自衛隊を中東に派遣するのは止めそうにない。日本国憲法下の総理大臣としてはふさわしくないのだが、、、。以前のコラムを再録する。

  アベノミクス、、、、ま、み、む、め、も

 一度は投げ出したのに、政権交代の準備不足から大失態の民主党政権、引き続いで再登板の現政権だが、ネオリベラリズムを推し進めた、サッチャーリズム、レーガノミックスの二番煎じ、三番煎じに過ぎないアベノミクス、横文字に弱いこの国の民衆は、高度経済成長期の夢を取り戻してくれるのではとの淡い期待を持ってしまったようだ。 

  ま、、、、まやかしもマスメディアの後押しがあれば、大衆のマインドコントロールが加納と  なり奈落に落とされからから気づくのは75年前の大本営発表に一喜一憂した前例がる。 

  み、、、、ミリタリー路線をひた走るのは、完全に復活した旧財閥系の思惑と一致するから。その師匠役が、第二次世界大戦後冷戦の発動により、アメリカに成立した軍産共同体。

  む、、、、無理無体を押し付けてくる、”知日派”という名のジャパンパンドラーズに忠実なだけのこの国の新保守主義という名の保守反動の神輿である安倍政権。   。                                                                    、  

   め、、、、面倒なことは先送り、(財政再建、社会保障、少子化対策。格差是正、等)

   も、、、、もう騙されないぞとの民衆の目覚めだけが、この国のルネサンスの到来となる。

    

 


スイスとアフガニスタン

2019年12月13日 08時53分45秒 | コラム

 中村氏の献身的なアフガニスタンでの活動がテロにより中断され、ニュースでも大々的に浮動されたが、中村氏の真意は、この国では絶望的な目標となってしまったが、”東洋のスイス”の実現ではなかったのだろうか、、、。スイス、アフガニスタンには多くの共通点がある。歴史的には強国に挟まれた内陸国であり、それらの強国に屈することなく、独立、自立を維持してきた誇り高い民族である。

 スイスの建国の日は、13世紀末、3州の永久盟約が結ばれ時と言われているし、特にオーストリアの圧力に屈しなかった、ウイリアム、テルの物語は世界中の子供が知っていることだろう。永世中立国として認められたのは、ナポレオン戦争の後始末、1814年ウイーン会議でありであり、多くの国際機関も置かれ、世界で最も高い評価を受けている。

 スイス同様、周りの強国に抵抗し独立を維持してきたパミール高原の山の民、一時はソビエトの影響を受け社会主義政権もできたが、社会主義勢力の広まりを防ぐべく、アメリカの、謀略にはまり、ソビエトはアフガンに兵を出したが、目的を達成できないどころか、ソビエト崩壊にまでつながってしまった。

 そのアフガンに、自衛隊を派遣しようとしているようだが、かってナポレオン、ナチスドイツの侵攻を防いだロシア軍兵、国外に出ては勝利できなかったし、この国でも当時最大の帝国、モンゴルを撃退した鎌倉武士、靖国神社がこの国を守るために犠牲となった人を祭るのであれば、該当者は鎌倉武士だけであろう、刀伊の襲来で犠牲になった人もいるだろうが、、、。いずれにしても国外に兵を派遣しては、秀吉の朝鮮出兵にしても、アジアに兵を出した”大東亜戦争”にしても、結果はすでに証明されている。

 中村さんが意図した”農業立国”こそ、アフガンの恒久平和への近道なのだと思う。


この国の無責任体制のルーツは、、、

2019年12月03日 09時42分55秒 | コラム

 この国の歴史年表で立軸で示されるのは、聖徳太子が摂政の位につき飛鳥時代の始まりの589年が最初である。それ以前は、縄文時代、弥生時代、古墳時代、大和時代との時代区分は斜線で表示されている。およそ8000年前とか、紀元前2、3世紀とか、、、。古代天皇制が確立したのは、大和時代の有力者蘇我氏をク、デターで倒した天智天皇、藤原鎌足による大化の改新、天皇家の内紛、壬申の乱で天武朝を開いた天武天皇を経てであろう。その天皇が善政を維持したがゆえに、天皇制が今も維持されているなら万々歳であるのだが、、、、。

 今回の天皇代替わりの一連のセレモニーは、おおむね好意的に報道され続けたが、皇位継承権2位の位置にある秋篠宮の批判にどう応えるのであろうか。歴代天皇の墓前に就任の報告をし、この国にいやさかを願って戴いたようだが、今のこの国の体たらくをいささかも感じておられないのが実情だろう。超大国アメリカの大統領の表敬訪問を受け,三権の長から”天皇陛下万歳!”の声援を受ける。慇懃無礼に奉られてるとの理解はできないだろう。

 権力の交代があるとその新たな権力は前時代の批判することによって己の正当性を誇示するものだ、大和時代の最大の権力者は、渡来系の蘇我氏であった、それ以前の権力者、物部氏を倒し、おそらく大王となり蘇我王朝を開いたはずだ。当時の蘇我王朝に批判的なものの存在は当然で、新興勢力の中臣鎌足、元大王家の若手中大兄皇子が組んでの政変、それ故にその新たな権力で残される歴史は、前時代のへの批判、蘇我氏の名前も蔑称が用いられる、入鹿、馬子、蝦夷、等である。本名はもっと素敵な名称であったろう。

 天武朝で編纂された歴史書が。古事記、日本書紀で、文字がなかった時代伝承されてきた語り部の歴史を万葉仮名で記したのが古事記であるし、天武朝の正当性を記するのが日本書紀である。大化の改新の最大の功労者、中臣氏、天智天皇から藤原の姓を受けた鎌足の子、不比等、そしてその子孫が次の時代の権力の保持者となった。古代天皇制最盛期の天皇が、聖武天皇なのだが、深く仏教に帰依し、東大寺大仏を建立した人物だが、その聖武天皇までが、藤原不比等のコントロール下にあったといえるだろう。聖武天皇自身、不比等の孫であるし、その妻光明皇后も不比等の娘であった。つまり聖武天皇にとっては藤原不比等は祖父でもあり、義理の父でもあったわけだ、、、。

 前時代の権力者、蘇我氏の滅亡を目の当たりにした藤原不比等は、第一人者にならず、黒子に徹することによって、利はたっぷり頂戴するが、責任は取らなくても済む方法を生み出した天才的な政治家であると思う。この国の無責任体制のルーツはさしずめこの時からではないかと思う、、、。

 その藤原氏の摂関政治の行われていた平安時代、関東地方の農民の苦悩に反乱を起こしたのが、平将門である。新興勢力の武士団、源氏にしても、平氏にしても、天皇の血筋を引く人物を棟梁として力を集めたのである。それ故に平将門は、”王侯いずくんぞ種あらんや”の気概の元、関東で新しい天皇に即位したのだが、農繁期に農民を土地に帰したため、その隙をつかれて、藤原秀郷(中央での出世をあきらめ、地方に出た)に滅ぼされてしまったが、その人気は今も続いていて、神田明神で神となって守り続けられている。


真の豊かさとは、、、

2019年11月27日 10時50分18秒 | コラム

 山間を流れる小さな川に沿って、東西約3キロの小さな集落がある。そのほぼ中間に廃校となった元小学校跡地がある。時々その地まで散歩に出かけるのだが、4月には満開の桜が見物できるが、人影はない。その跡地の前に元商店らしい建物があり、今は自販機が設置されているだけだが、たぶん子供たちの学用品を販売していたのであろう。元店主らしい人と話す機会があったが、自分たちが通ってて頃は全校生で170人は在籍していたそうだ。今その集落の小学生は、3,4人とか、、、。日曜日に散歩で出向いても子供に出会うことがないのが納得できた。少子高齢化が進み、増えるのは廃屋のみとか、、、。

 真の豊かさとはないかを問い直さなくてはならない。170人の子供を小学校へ通わせていた頃と現在の3、4人とではどちらが豊かと言えるのだろうか、、、。確かに物質的には貧しかったかもしれない、それ故に物の豊かさを目指して、高度経済成長政策にもろ手を挙げて賛同し、優れた労働力(子供のころから親の厳しい労働を見て育ち、手伝うことに疑問も持たぬ、あたりまえのこととして働く)の持ち主だった農山村の若年労働力は工業地帯の支えとなったし、今は近郊にマイホームを持ち、定年退職の年になっているのだと思う。その年代の人と散歩の途中で話す機会があったが、自分の息子が安定した生活ができてないと嘆いていたが、その原因を適切に、小泉政権の”働き方改革”と指摘しておられたが、”働き方改革”というと働くものにとってプラスになる改革だと思ってしまうが、それ故に高い支持率を維持していたし、あっさり身を引いたのは真実が現れない前の変わり身の早さと言えるだろう。

 社会の木鐸たるマスメディアは、正確に言葉を使わないければいけない。”働き方改革”の真実は、資本の論理による、”働かせ方改革”に他ならない。”弱肉強食”というと誰でも理解できるし、文明国ではそんなことが起きてはいけないと思うのだが、”新自由主義”というと素晴らしいことと多くの人が期待してしまうし、夢から覚めたときは、人類滅亡となるかもしれない。