面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「遊山船」

2006年05月19日 | 落語
落語の記事が少ないよなぁ。。
というわけで、当ブログ名にもなっている「遊山船」。

ところで、本人は気付かなかったのだが「遊山船」という単語、一般的にはなじみのない言葉のようである(確かにイマドキ使う言葉ではないわいなぁ)。
読みは「ゆさんぶね」。
当ブログにお越しいただいた方々から、多々お問い合わせをいただいたので、ブログ冒頭を改訂して読みがなを入れることにした。

さて、その「遊山船」という噺。
中之島のだいぶ西側、堂島川と土佐堀川にかかる、今は堺筋につながっている浪花橋が舞台。
詳しい方には「難波橋やろ?」とツッコまれるところであるが、古い絵には浪花橋とあり、こっちの字面の方が風情があるので、こちらの表記にて。
江戸時代、夏になると夕涼みのメッカだったそう。

船場あたりの裏長屋に住む喜六・清八の二人連れ。
松屋町筋を北へ北へ、浪花橋まで夕涼みにやって来た。
橋の上にさしかかると、川には屋形船や茶船が行き交っていて、そのまた陽気なこと。
(ここで落語では「吹けよ川風」という唄が下座から流れる)
今では、夏だからといってもそんな風景は見られないが、天神祭の川の風景を想像してもらえばいいだろう。

ある屋形船では、船を仕立てた客が芸者や舞妓、幇間(たいこもち)を引き連れて宴会の真っ最中。
その様子を橋の上から眺めていて、喜六が清八に尋ねる。
「なんや知らん、あの船にはきれいなオナゴが乗ってるなあ。」
「ああ、あれは芸州や。」
「ほぉ~、安芸ちゅうことは広島の人か。」
「あほか、芸者のことをシャレて芸州っちゅうねん。」
「さよか、ほなこっちにいてる舞妓がマー州で、あっちにいてる仲居がナー州ってなもんやな。」
「まあ、そやな。」
「ほな、あこに座ってる男はなんや?」
「ああ、あれはキャアや。」
「キャア?キャアて何や?」
「客のことを縮めてキャアや。大坂の粋言葉、シャレ言葉で、縮めて言うねん。」
「ははぁ、ほなら芸者はげーで舞妓はマー、たいこもちがターで仲居がナー、お前がアーでわしがホー。」
「何しょうむないこと言うてんねん!」

このあたりのくすぐりは、演者によってセリフが異なる。
教わった師匠の形によるのだろうが、いろんなパターンがある。
ギャグを満載しながら二人の会話が続いていると、川上の方から稽古屋の連中が乗った船が下ってくる。
この船がまた、お囃子鳴り物でにぎやかなこと。
ふとその船を見ると、碇の模様の浴衣を着た美女が一人、団扇を片手に船に揺られて川風に吹かれ、その風情のなんとも艶やかなこと。
「おい見てみぃ、どや、あのオナゴ!本日の秀逸やな。あんなん誉めたらなアカンで。よっ!できました本日の秀逸!さてもキレイな碇の模様!」
と清八が声をかけると女が、
「風が吹いても流れんように。」
「おい喜ぃこ、聞いたか。お前とこのカカでは、あんなシャレたこと、よう言わんやろ!」
「何言うてんねん、清やん!ウチのカカかて、あれくらいのこと言えるわい!」

夕涼みを終えて家に戻った喜六。
さっそく女房をつかまえて稽古屋の船の一件を話すと、
「何言うてんの、アホらし。そんなもん、わたいらおいどの穴で言うたるわ。」
「わっ!ケツの穴で言うてか!!さすがはカカや!よし、ほんならな、確かウチに碇の模様の浴衣があったやろ。祭のそろえで作ったやつ。あれ出してこい。」
「そんなもん、どこぞにいってしもてあるかいな!」
「ええから探してこいて!」
「ほんまにもう…ボロボロになったぁるがな、シミ付いてるし!」
「かめへん、かめへん。おい、お前ちょっと船に乗れ。ほんでな、ワシが屋根に登って天窓から誉めるさかいな、お前あれ言え。」
「ようそんなアホらしこと考えるな!だいいち船てどこにあるねん?」
「船なんか、あるかいな。タライがあるやろ、タライ。あれ持って来て入れ。」
「そんなアホなことができるかいな!」
「ええから、やれ、て!な、ほたらワシは屋根に登るさかいな!」
喜六は喜んで屋根に上がり、天窓から下をのぞけば、女房はちゃんとタライに座っている。
「うわっははは、あんなこと言いながら、ちゃんとやっとんねんがな!おもろなってきたな♪ほな、カカ、いくで!」
「もう、クソ暑いねんから、はよやってしまい!」
「そないボロクソ言うなやて。よっしゃ!さてもき…(咳払い)さってもき…て、また汚いなぁ、あの浴衣。ちょっとは洗ろとけっちゅうねんホンマに。なんやズズ黒うなってるがな。えーい、しゃーない!ここまできたんや、言うてこましたろ!さても汚い、碇の模様!」
と言いますと、嫁さんも粋なもんで、
「質に入れても、流れんように…」

この嫁さんの返しが秀逸。
先に紹介した「芝浜」とは、また違った方向性で「くぅ~っ!」と唸ってしまう。
オチが好きな噺の一つである。

ちなみに、この「風が吹いても流れんように」「質に入れても流れんように」という二つの重要なセリフは、実は演者によって異なる。
米朝の著書では、稽古屋の女は「川に落ちても流れんように」、喜六の女房は「質に置いても流れんように」となっている。
おそらく本来のオチはこちらなんだろう。
「…落ちても」と「…置いても」で韻を踏んだ言い回しになっていて、粋ぶりが引き立つ。
しかし、稽古屋の女のセリフとして考えた場合に、「風が吹いても流れんように」とする方が、舟遊びで川風にあたりながら夕涼みしている艶やかな姿が目に浮かぶようにグッと引き立つ。

いずれのセリフであっても、機転の利いた返答の粋を楽しむという、この噺の持つ味わいは変わらない。
そしてまた、貧乏はしながらも屈託のない笑いのある、喜六夫婦の明るい暮らしぶりが垣間見えて微笑ましい。
江戸時代の大坂の、平和な庶民の風景がよく描かれた、ちょっとハートウォーミングな古典落語らしい噺である。


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