面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「土佐日記」13

2006年09月02日 | 放浪記
↑高知駅遠景

JR高知駅は、思っていたよりも小さい駅だった。
県庁所在地でもあるし、高知県の玄関口なので、ターミナル駅としてもっと大きなものを想像していたのだが、予想をはるかに超えて小さかった。

遠景写真を撮ったが、どれが駅舎だかなんだか、よくわからない写真ができあがってしまったくらい、こじんまりとした古びた駅である。
帰り際に改札口で告知に気づいたのだが、近代的な駅舎に改装予定だとか。

賢明な処置であろう。
高知県の玄関口としては、いささか貧弱さは否めなかったので…。

「土佐日記」12

2006年09月01日 | 放浪記
↑幕末四賢侯の一人

高知城天守閣から真っ直ぐ南側に行ったところに、山内家の下屋敷跡があり、警備の家臣が入っていた長屋が残されている。
その近くには「土佐山内家宝物資料館」と「山内神社」があり、これまた“レキヲタ”には実に魅力的なところである。

まず資料館で展示物を満喫したあと、すぐ東側にある山内神社を参拝。
ここにおわしますのが、初代一豊公から数えること15代目の豊信公(「容堂」という名の方が有名だわな)の銅像である。

てっきりこの人が最後の土佐藩主だと思っていたのだが、実は16代目に豊範公がいたといことに気付かなかった。
これも現地に来て初めて知ったことであるが、この豊範公もなかなかの人物であったようだ。

「土佐日記」11

2006年09月01日 | 放浪記
↑城跡の碑

桂浜番外編として、浦戸城址をご紹介。
これは桂浜を望む高台の小山にあり、「坂本龍馬記念館」の北側に位置している。
現在はうっそうとした森になっていて、天守台付近への小道を行こうとしたが、いきなり蜘蛛の巣に行く手を阻まれたり雑草が道に覆い被さるように茂っていてうっとうしくなって断念。
麓の駐車場の一角にひっそりと立つ碑だけを撮影した。

戦国時代、長宗我部家の居城でもあったところ。
大きな内湾である浦戸港の入口に築かれ、湾を行き来する船の押さえとしては抜群のロケーションである。
一代で四国全土を統一した長宗我部元親も、土佐一国を平定してからは岡豊城(おこうじょう)を政治的拠点としていたが、さもありなん。
やはり政治の舞台としては手狭でもあり不便。

これも現地で知った話であるが、山内一豊が関ヶ原の恩賞として土佐一国を与えられ、入国して最初に居城としたのがこの浦戸城。
更に書けば、まず一豊の弟・康豊が先に入国し、領民に対して長宗我部時代の政治政策を踏襲すると説明して“地ならし”をしたうえで一豊が入国したとか。
浦戸城に入った一豊は、ひとまずここを拠点にして領内を巡視し、先に紹介したように大高坂山に新城を築くことを決めた、という次第である。

「土佐日記」10

2006年09月01日 | 放浪記
↑龍馬先生と一緒にいかが?

桂浜の近くの土産物屋が並ぶ一角には、やはりと言うかなんと言うか、坂本龍馬と一緒にプリクラが撮れる。
時間の都合で店の外観を撮影するにとどまったのだが、どなたか龍馬先生とのプリクラをお持ちの方はご一報を!

ちなみに他にも「龍馬専門店」と銘打った店もあり、「龍馬うどん」「龍馬ラーメン」を掲げる食堂もある。
(意味がわからん!?)

やはり桂浜と言えば龍馬であるのは間違いない!
(長井秀和風…もうエエて!?)

「土佐日記」9

2006年09月01日 | 放浪記
↑太平洋の眺めぜよ!

坂本先生の目線で太平洋を臨む。
生憎の雨模様でどんよりとした風景しか広がらずに残念ではあるが、水平線しか見えない大海原を眺めつづける龍馬の気持ちに、少し近づけたような気がした♪
(大言壮語癖が強まっただけという説もあるが)

「土佐日記」6

2006年09月01日 | 放浪記
↑やはり高知と言えば…

今年は大河ドラマの影響により山内一豊が前面に押し出されている雰囲気があるが、やはり高知と言えば坂本龍馬であろう。
そして龍馬と言えばこの桂浜。
大変分りやすい風景が撮れたので一枚。

「土佐日記」5

2006年09月01日 | 放浪記
↑自由民権運動の星

高知城の大手門をくぐって最初に目にする銅像が、実はこの「板垣退助像」であることは全く予想外であった。
というか、板垣退助が土佐藩出身だということも忘れていた。

暴漢に襲われて瀕死の重傷を負い、死の間際に
「板垣死すとも自由は死せず」
と言ったという話が有名だが、本当にそんなスゴイことを言ったのだろうか!?
少なくとも
「イテっ!」
と言ったのは、間違いない。
(長井秀和風…やっぱり古いか!?)

「土佐日記」4

2006年09月01日 | 放浪記
↑一豊夫人と馬の像

高知城の三の丸手前に立つこの銅像。
言わずと知れた、山内一豊を内助の功で支えたと言われる妻・千代と、その千代の持参金で購入し一豊出世の大きな足がかりとなったと言われる名馬・太田黒である。

戦前には妻の鑑として取り上げられたこの逸話。
事実かどうかは疑わしいところであるが確認のしようが無い。
ただ、他の逸話と合わせて、一豊夫人の千代さんは、かなりの賢夫人であったことは間違いない。
(長井秀和風…ちょっと古い!?)