おっちゃんのウオーキング日誌

日々のウオーキングや出来事を綴ります。

川崎宿より保土ヶ谷宿

2006年11月21日 20時35分04秒 | 東海道を歩く
11月21日JR川崎駅に集合、10時東戸塚に向け出発する、総勢28名である。
昨日までの雨も上がり、雲もしだいに取れてきている。最高のウオーキング日和となってきた。



旧東海道の表示の道
今はビル街の谷間の道である。


川崎宿入り口
歩きだしてすぐに、川崎宿入り口跡の表示があった。


芭蕉句碑
10時30分、道路の傍らにきれいに整備された句碑がありました。


麦の別れ


市場の一里塚
10時45分到着、市街地の中で、わづかに面影を残しています。


一里塚説明



鶴見川橋
11時00分鶴見川橋を渡る。


生麦事件発生現場
11時45分、現在では住宅街の中にあります。


生麦事件之跡
発生現場より数百メートル離れたところにあります。



神奈川宿:東海道分間延絵図より
神奈川宿に入ると、江戸時代後期に作られたという、東海道分間延絵図より神奈川宿部分の紹介の石碑が道路わきに作られていた。
道路に面してビッシリと家が立ち並んでいる。すぐ下は神奈川湊である。現在は海は埋め立てられ、ビルが立ち並び海を見ることはできない。











高札場
12時45分、公民館の脇に昔の高札場の高札が展示されていた。


幸ケ谷公園
13時到着、ここで昼食とする。
この場所に「権現山合戦の跡」の碑がたっていた。
永正7年(1510)北条早雲がここに砦を築いたため、上杉朝良ら二万の大軍が取り囲み合戦が行われたという。北条方が敗走した。
安政年間にはお台場つくりなどの為、埋め立て用に山が削られて低くなったという。
13時30分出発。


神奈川宿袖ヶ浦
昔はとても風向明媚なところであったようです。


神奈川の台と茶屋
料亭田中屋は現在もこの看板の向かいにあります。



神奈川台の関門跡
神奈川宿の西の関門が置かれたところ。開港後の混乱時に警備体制の強化を計った。





芝生の追分
14時12分通過。八王子道、八王子へ続く絹の道への別れ道である。


これより保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿の散策図があった。


旧帷子橋跡
旧帷子川にかかっていた端の場所である。保土ヶ谷宿の名所で、歌や俳句によまれ、初代広重の絵でも有名であった。


現在は公園の一部に橋の形状が残されている。


保土ヶ谷宿 本陣跡
塀の中に門の一部が残されている。


本陣跡の説明


旅籠や(本金子屋)跡
天保年間の本金子屋(伝左衛門)規模は、間口七間(12.7m)奥行き十一間半(20.9m)部屋数十三であったそうな。


権太坂
箱根駅伝でよく耳にする坂の名前である。昔、旅人が土地の老人に坂の名を尋ねたところ老人は自分の名前を聞かれたと思い「ごんた」と答えたそうで、それから権太坂」と言われるようになったそうな。日本橋より平坦な道が続き始めてのきつい坂道であった。現代は住宅街となっているが、坂道は結構長く続いている。




現在の権太坂の一部


投げ込み塚
昔、権太坂で行き倒れた人を葬ったという無縁仏の塚である。それほどに昔は難所であったようだ。


境木立場跡
武蔵の国と相模の国の国境で、江戸時代には、そのしるしとして傍示杭あるいは境杭と呼ばれる木柱が建てられ「境木」の名前の由来といわれる。


立場茶屋
この立場には有名な茶屋であった。この家がその跡である。


境木の現代版


焼餅坂
名前の由来は分からない




現在の焼餅坂




品濃坂の一里塚
日本橋から九番目の一里塚である。保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置している。


現在の一里塚
神奈川県内で現存している一里塚はここだけだそうだ。


オウロラ シティのビル
16時00分、東戸塚駅前のオウロラ シティに到着する。本日のウオーキングはここまでで、ここで解散となった。


18時、自宅に帰る。本日のウオーキング33,706歩、23km也。



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