おっちゃんのウオーキング日誌

日々のウオーキングや出来事を綴ります。

東海道五十三次吉原宿から興津宿へ

2007年04月18日 08時52分13秒 | 東海道を歩く
8時40分フジポートホテルをチェックアウト。9時出発する。
旧東海道間宿(あいのしゅく)本市場
9時25分通過する。この辺の地名も本市場町という。

鶴芝の碑
民家の玄関前に碑がありました。


一里塚跡の碑
9時35分、小川の流れる傍らの花壇の中にありました。

王子製紙工場の煙突
9時35分、王子製紙工場の脇を通過する。吉原には製紙工場が多い。

柚木の常夜灯
10時07分、通過する。コンクリートの道路に囲まれて残っている。

富士川橋手前
10時16分、富士川に到着、大きな橋が見える。昔は橋が無く、渡し船で渡った場所である。

富士川渡船場跡


富士川橋より上流を望む






































































































吉原宿を抜け富士川を渡る。蒲原宿の手前、光蓮寺にて、甘茶とお菓子のご接待を受ける。ご好意に甘え、ここで昼食をとる。蒲原宿、由井宿を抜け、さった峠を越える。途中より雨が降り出す。16時JR興津駅に到着、解散となる。19時30分に自宅に帰り着く。
本日の歩行数35,162歩、24kmでした。

東海道五十三次沼津宿から吉原宿へ

2007年04月17日 19時34分02秒 | 東海道を歩く
10時沼津駅に集合、参加者23名。10時05分出発する。天候曇り、時々薄日もさす。
沼津駅

10時20分川廓通りに到着、こんな標識が設置されていた。
川廓通りの標識

川廓の由来-1

川廓の由来ー2

川廓を歩く
現在は敷石と花壇で綺麗に整備されていました。


千本山乗運寺
10時35分到着ここで5分休憩をとる。

若山牧水の墓所
乗運寺境内に旅を愛した漂泊の詩人若山牧水の墓があった。

間門の由来
10時間門(まかど)を通過、間門の名前の由来の説明表示があった。

沼津藩領境榜示杭
11時03分八幡神社に到着、傍らに「従是東沼津領」の榜示杭、下半分が欠けている。明治維新の時にこわされたという。

松永の一里塚後碑
11時30分通過する。民家の塀をへこませ碑が建てられている。


大本山松陰寺
12時20分到着、境内を借り昼食をとる。とうとう雨が降り出した。合羽のズボンをはきポンチョをかぶる。

東海道原宿本陣跡
13時00分通過する、本陣を思わせるものはなにも残っていない。

千本松原を歩く
14時東海道をはずれ海岸線に出る、千本松原が延々と続いている。左手には大きなコンクリートの防波堤が続いている。防波堤の上にも幅4mくらいの道路がついている。

一里塚跡
14時30分通過する。隣に増田平四郎の銅像があった。原宿の人で、天保の大飢饉や度重なる水害から住民を救済するため津島沼の大干拓と大排水路を計画した人
の説明書きがあった。

妙法寺にて休憩
15時境内を借り休憩をとる。妙法寺は立派なお寺で毘沙門天も祭ってある。

安藤広重の左富士の絵の場所
15時54分到着、史跡となって整備されている。

東海道名勝 左富士

左富士の絵
この日は雨模様、富士山も見えない。周りも製紙工場だらけ昔の面影はかけらも無い。

洒落た案内標識があった。

平家越の史跡
16時到着。治承四年(1180年)源平の合戦時、水鳥が一斉に飛び立つ羽音に驚いて平家の軍勢が逃げたといわれる富士川の戦いがこのあたりという。




吉原の街並み
16時10分吉原の街に入る。アーケードの商店街が続いている。賑やかな街並みである。


フジポートホテル
16時30分到着する。今日の宿泊所、ビジネスホテルである。(宿泊代¥6,600、朝食バイキング¥1,000)




本日の歩行数34,182歩、23kmでした。

小田原宿から箱根宿へ

2007年02月13日 21時52分38秒 | 東海道を歩く
JR小田原駅に集合
JR小田原駅前に集合、箱根宿の箱根関所跡を目指して、午前10時出発する。本日の参加者は29名である。


小田原城を左手に見る
小田原城を左手に見ながら、ウオーキングが始まった。幸い天候も良く、絶好のウオーキング日和である。
                        
ういろう
江戸時代、外郎家(ういろうけ)は薬屋であったそうだが、ここでつくられた羊羹のようなお菓子が有名になりこの名が残ったという。ういろうは名古屋が有名だが元祖は小田原だそうだ。お城のような大きな建物である。

すじかい橋町を行く
前方に箱根の山並みを望み、すじかい橋町を通過する。 
                        
小田原の道祖神
小田原市指定重要文化財として整備されている。

風祭りの一里塚
11時到着する。江戸から21番目の一里塚である。現在は住宅街の中にある。
                        
早雲寺
11時45分早雲寺に到着、境内の片隅を借り持参の弁当で昼食を取る。12時15分出発。

早雲寺由来
大永元年(1521年)約500年前に北条氏綱によって建立されたというお寺である。北条文化の数多くの文化財が残されているそうです。
                        
旧箱根街道一里塚
江戸から22番目の一里塚である。現在は史跡のみが残っている。

箱根旧街道入り口の案内板
ここより235mの間、昔より残る石畳の街道である。国の指定史跡となっている。
                        
旧街道の石畳の道を歩く
ここの石畳は歩きやすい。

初花の滝
箱根旧街道を抜けると、また自動車道に出た。暫く行くと奥湯本の温泉街である。
温泉街を抜けると、右手の山の中腹にわずかに滝が見える。これが「勝五郎・初花のあだ討ち」の妻初花が水垢離をした滝である。それで、この名が付いたと言う。
                        
鎖雲寺 箱根霊験いざりの仇討ち・勝五郎・初花の墓がある

女ころし坂
昔、馬から落ちて女の人が死んだという、険しい坂だった。
                        
女ころし坂の現状・面影なし

割石坂
曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところ伝えられている。現在は急な石の階段となっている。
                        
これより江戸時代の石畳

江戸時代の石畳
綺麗に保存されている。江戸時代を踏みしめて歩く。                                     
接待茶屋
昔、茶屋があったところ。

箱根旧街道の標識
                        
箱根旧街道を歩く

大澤坂の案内板
大澤坂は大澤川を渡ったところにある。昔の「甲申旅日記」に「大澤坂又は坐頭転がしともいうとぞ、このあたりつつじ盛んにして趣味に良し」とかかれている。当時の石畳の坂が一番良く残っている坂で、苔むした石畳は、往時をしのばせてくれます。


大澤坂を登る


畑宿本陣跡
ここに畑宿本陣があったが、火災で焼失したそうだ。わずかに庭園のなごりがのこされている。


畑宿本陣跡の現状

茅ヶ崎から小田原へ

2007年01月16日 21時42分15秒 | 東海道を歩く
7時30分自宅を出発。駅まで三キロメートル、ウオーキングで行く。
八王子発8時24分茅ヶ崎行きに乗車する。9時43分茅ヶ崎駅に到着する。
東海道五十三次、京都まで歩こうの第四回目である。本日の参加者31名、10時茅ヶ崎を出発する。天候に恵まれ晴天の天気である。

茅ヶ崎駅を出発する


南湖の左富士の碑
富士山の眺めの良いところだが、あいにく今日はかすんでいた。



相模川を渡る
11時00分相模川を渡る。



平塚駅前を通過する
11時25分平塚駅前を通過する。


平塚宿江戸見附




平塚宿脇本陣跡


平塚宿高札場跡



平塚宿本陣跡



平塚宿問屋場跡



平塚の塚




平塚宿京方見附跡



高麗山


茅葺きの家



化粧(けわい)井戸



大磯宿一里塚



大磯八景・化粧坂


大磯宿江戸方見附跡


大磯宿北組問屋場跡


大磯宿本陣跡




東海道の松並木


旧伊藤博文邸・滄浪閣



大磯城山公園


城山公園展望台よりの展望


江戸から十七里(約68km)の碑


国府本郷の一里塚



現在の松並木



松屋本陣の跡



小田原市に入る



小田原城址江戸口見附跡




小田原駅前に到着

東海道・東戸塚~茅ヶ崎

2006年12月05日 21時35分32秒 | 東海道を歩く
12月5日東海道・戸塚宿~藤沢宿を歩く。
10時東戸塚駅集合、今日の参加者は32名の大所帯である。
10時05分出発する。

東戸塚駅
駅前には巨大なビルがそびえている。



戸塚一里塚跡
10時55分到着する。



戸塚一里塚跡の現状
国道拡幅工事で跡形もない、標識のみが立って入る。



戸塚宿・吉田大橋の浮世絵
初代広重の浮世絵で有名な場所である。橋のたもとにこの看板がある。



吉田大橋の現状
11時00分この場所を通過する。浮世絵に見られる風光明媚様子は一切無い。


戸塚宿案内図
戸塚駅前にこの看板が設置されていた。


戸塚宿本陣跡
戸塚が東海道の宿駅になったのは、慶長九年(1604年)11月のことである。
澤邊本陣の初祖、澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者であるという。11時30分通過。


東俣野中央公園にて昼食
12時45分~13時15分昼食休憩をとる。


旧東海道松並木跡の看板と松




清浄光寺(通称:遊行寺)
時宗総本山:藤沢山 無量光院 清浄光寺という。宗祖は一遍上人である。
13時45分~14時00分見学する。ここで全員の記念写真を撮る。         



清浄光寺の大いちょう
見事な大いちょうである。その大きさに圧倒されてしまう。
藤沢市指定重要文化財に指定されている。清浄光寺の象徴として境内に聳えている。かっては樹高約31mにおよぶ雄大な姿を誇っているが、昭和57年の台風で丈夫が折損してしまった。樹齢は300年~700年と諸説がある。
樹高16m、幹回り6.83mである。


源義経首洗い井戸
住宅街の路地を入り、奥まったところの小さな公園の脇にこの遺跡があった。
14時20分見学する。





茅ヶ崎の東海道の松並木




茅ヶ崎の一里塚
茅ヶ崎駅に入る道の脇にあった。




茅ヶ崎駅前
16時05分茅ヶ崎駅に到着した。
本日の歩行距離21kmでした。ここで解散となる。続きは来年の一月である。



自宅に帰り着く
茅ヶ崎駅より相模線を利用する。
16時17分発 八王子行き乗車
17時40分  八王子着
18時10分自宅に帰り着く。本日の歩行数36,817歩、25kmでした。

川崎宿より保土ヶ谷宿

2006年11月21日 20時35分04秒 | 東海道を歩く
11月21日JR川崎駅に集合、10時東戸塚に向け出発する、総勢28名である。
昨日までの雨も上がり、雲もしだいに取れてきている。最高のウオーキング日和となってきた。



旧東海道の表示の道
今はビル街の谷間の道である。


川崎宿入り口
歩きだしてすぐに、川崎宿入り口跡の表示があった。


芭蕉句碑
10時30分、道路の傍らにきれいに整備された句碑がありました。


麦の別れ


市場の一里塚
10時45分到着、市街地の中で、わづかに面影を残しています。


一里塚説明



鶴見川橋
11時00分鶴見川橋を渡る。


生麦事件発生現場
11時45分、現在では住宅街の中にあります。


生麦事件之跡
発生現場より数百メートル離れたところにあります。



神奈川宿:東海道分間延絵図より
神奈川宿に入ると、江戸時代後期に作られたという、東海道分間延絵図より神奈川宿部分の紹介の石碑が道路わきに作られていた。
道路に面してビッシリと家が立ち並んでいる。すぐ下は神奈川湊である。現在は海は埋め立てられ、ビルが立ち並び海を見ることはできない。











高札場
12時45分、公民館の脇に昔の高札場の高札が展示されていた。


幸ケ谷公園
13時到着、ここで昼食とする。
この場所に「権現山合戦の跡」の碑がたっていた。
永正7年(1510)北条早雲がここに砦を築いたため、上杉朝良ら二万の大軍が取り囲み合戦が行われたという。北条方が敗走した。
安政年間にはお台場つくりなどの為、埋め立て用に山が削られて低くなったという。
13時30分出発。


神奈川宿袖ヶ浦
昔はとても風向明媚なところであったようです。


神奈川の台と茶屋
料亭田中屋は現在もこの看板の向かいにあります。



神奈川台の関門跡
神奈川宿の西の関門が置かれたところ。開港後の混乱時に警備体制の強化を計った。





芝生の追分
14時12分通過。八王子道、八王子へ続く絹の道への別れ道である。


これより保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿の散策図があった。


旧帷子橋跡
旧帷子川にかかっていた端の場所である。保土ヶ谷宿の名所で、歌や俳句によまれ、初代広重の絵でも有名であった。


現在は公園の一部に橋の形状が残されている。


保土ヶ谷宿 本陣跡
塀の中に門の一部が残されている。


本陣跡の説明


旅籠や(本金子屋)跡
天保年間の本金子屋(伝左衛門)規模は、間口七間(12.7m)奥行き十一間半(20.9m)部屋数十三であったそうな。


権太坂
箱根駅伝でよく耳にする坂の名前である。昔、旅人が土地の老人に坂の名を尋ねたところ老人は自分の名前を聞かれたと思い「ごんた」と答えたそうで、それから権太坂」と言われるようになったそうな。日本橋より平坦な道が続き始めてのきつい坂道であった。現代は住宅街となっているが、坂道は結構長く続いている。




現在の権太坂の一部


投げ込み塚
昔、権太坂で行き倒れた人を葬ったという無縁仏の塚である。それほどに昔は難所であったようだ。


境木立場跡
武蔵の国と相模の国の国境で、江戸時代には、そのしるしとして傍示杭あるいは境杭と呼ばれる木柱が建てられ「境木」の名前の由来といわれる。


立場茶屋
この立場には有名な茶屋であった。この家がその跡である。


境木の現代版


焼餅坂
名前の由来は分からない




現在の焼餅坂




品濃坂の一里塚
日本橋から九番目の一里塚である。保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置している。


現在の一里塚
神奈川県内で現存している一里塚はここだけだそうだ。


オウロラ シティのビル
16時00分、東戸塚駅前のオウロラ シティに到着する。本日のウオーキングはここまでで、ここで解散となった。


18時、自宅に帰る。本日のウオーキング33,706歩、23km也。



日本橋から川崎へ

2006年10月24日 22時46分32秒 | 東海道を歩く
日本橋道路元標



日本橋に設置されている道路元標である。旧道路法で設置が義務付けられていたが、現道路法では道路元標に関する規定は無いという。
現在日本橋を始点とする国道は 
   国道一号(大阪迄)    国道四号(青森迄)    国道六号(仙台迄)
   国道十四号(千葉迄)  国道十五号(横浜迄)  国道十七号(新潟迄)
   国道二十号(塩尻迄)
である。
10時、東海道を五十三次「京都まで歩こう」のメンバー24名が集合した。


里程標

里程標があった。京都まで503km、これから歩く距離である。


出発

10時10分出発する。今まで降っていた雨もやんだようだ。


京橋通過


ビルの谷間に、京橋の橋の欄干の一部が史跡として残されていた。


ゆりかもめ新橋駅




10時50分新交通ゆりかもめの新橋駅の下を通過した。
5年前、ゆりかもめの新橋駅延伸工事に関係したことがある。わずか5年の月日の経過であるが、回りには超高層ビルが立ち並び様変わりしているのには驚かされる。


西郷・勝会見之地碑


大きなビルの敷地の片隅にこの碑はあった。薩摩藩屋敷内で会談は行われたそうであるから、この辺は薩摩藩の屋敷があったのであろう。その面影は現在では、何も無い。

品川宿本陣跡(聖跡公園)


12時30分品川宿本陣跡に到着した。本陣は明治天皇が休憩した行在所として使われたことから「聖蹟」の名が残り公園となっている。ここで昼食をとる。


旧東海道


国道の脇のところどころに旧東海道の道が残っている。



旧東海道の道は現在では商店街の感じで、戦災にも会っているので古い建物は無い。わずかに二軒、昔を感じさせる家があった。

鈴ケ森刑場遺跡



道路に挟まれた、狭い一角が刑場跡の碑として残っている。









はりつけ台、かえん台の碑があり、丸い穴、四角い穴が刻み込まれた大きな石が残っている。何か生々しく、夜はここを歩きたくない思いにかられる。

多摩川の土手に到着




15時40分多摩川土手に到着。川崎まであと一キロメートルである。


いよいよ神奈川県だ



多摩川の橋を渡ると、いよいよ神奈川県である。
本日はこの先の郷土資料館の前で解散となる。本日の歩行距離は22、3kmであった。