仕事の関係で、毎日けっこう歩いている。
先日久しぶりに会った知り合いが、
「瘦せたね」
と、ちょっと心配そうに声をかけてくれた。
この年で、急激に痩せると、病気を疑う。本人はけっして急激に痩せた訳ではないが、久しぶりに会う人には、急激な感じを与えるのだろう。
自分から進んで身体を動かすことは苦手だから、強制的にその環境に自分を置くことは、いいことなのだと、思っている。
運動の方は、強制的でもいいが、精神的な苦痛は勘弁願いたい。
貧富の差を、日本では実感することはなかったが、ペルーで、はじめてそれを膚で感じた。
「勉強しないと、○○みたいになるよ」
と、子供に言っても、その○○が周囲にはないから、勉強の動機付けにはならない。下手な例をあげれば、それでもいいよ、と返事がかえってくる。
それが日本だった。
ペルーではそんなことを子供に言う必要は全くなかった。家を出れば、裸足のこども、信号で寄ってくる物貰いの子供、車で外に出れば、周囲には三匹の子豚の家がひしめき合っている。
子供でも、その意味を理解する。
現代でも、それほど変わってはいないだろう。一朝一夕では、格差の差を、小さくするのは困難だ。
差をなくしたいと願う人は、なくすための立場にはなかなかなれない。
そんなことはどうでもいいと思っている人が、それなりの地位につく。
だから、ペルーでは、貧富の差を埋める大事業は遅々として進まない。
日本でも、格差の広がりが問題視される。
格差を小さくしようと、志をもった人が、それなりの地位についているだろうか。
たぶん、違うだろうな、と想像している。