雲南昆明在住の40歳下の彼女(37歳下の千明さんで懲りたので、もう一人の彼女44歳下の“テンテン”ともども手は出していませんよ!)モニカのほか、やはり昆明の大学に通う28歳のニュージーランド人青年(日本とレバノンの血が入っている)ルイスに手伝ってもらって、今後、中国がらみの題材については、中国(あるいは台湾)のメディアを拠点に活動を行おうと考えています。
そのルイスと話していた時に、驚愕の事実が明かされました。彼はビートルズのファンで、ことにジョージ・ハリソンの大ファンとか。もちろん、ローリング・ストーンズやビーチ・ボーイズにも理解があって、話が弾みます。今の日本の若い世代には「ビーチ・ボーイズを知らない」という人も多く、その都度ガッカリしているのですが、リアルタイム(60年代当時)ではビートルズの人気が突出し、かつビーチ・ボーイズの人気が徹底的になかった日本のことですから、それも仕方がない、と自分を慰めています。
でも、、、、なんと、旧大英帝国の一員ニュージーランド人のルイスが、“クリフ・リチャードを知らない!!!(名前も聞いたことがない!)”。そんなことってあるのでしょうか? 信じられない!! もっとも、今の日本の若者が、日本の国民的歌手「美空ひばり」を知らなくても不思議ではないような気もするので、、、、イギリスの国民的歌手「クリフ・リチャード」を知らないことも有り得るのかも知れませんが。
クリフ・リチャードCliff Richard のリアルタイム(60年代)のライバルに、ビリー・ヒューリーBilly Furyがいます。もちろん、クリフを知らない人が居る時代ですから、今の日本人の99.9パーセントは彼の名は知らないでしょう(もっともリアルタイムでも日本では全く無名だったので、ブリティッシュロック興隆の嚆矢の一人として再評価されている今のほうが日本では知名度があるかも)。僕は、当時日本キングレコードから出ていた彼のシングル盤を、ジョニーのそれと共に買い集めていたものです。
アメリカに於けるジョニー・ティロットソンと、イギリスに於けるビリー・ヒューリーの実績は、見事に重なります。ジョニー(1939年4月20日生まれ)のビルボード・チャートが1958年から1965年までに26曲、ビリー(1940年4月17日生まれ)のメロディーメーカー・チャートが1959年から1966年までに26曲、最高位2位、次いで3位、、、、と、ピタリ一致します(ジョニーはその後84年までにカントリーの小ヒット4曲、ビリーは没年の83年とその前年に58~59位の小ヒット3曲)。
リアルタイムでのクリフのライバルとしては、もう一人、アダム・フェイスAdam Faithがいます。彼もビリーと同じ(クリフも)1940年生まれ。実績も全く拮抗していて、イギリスのチャートはやはり1959年から1966年まで、2曲少ない24曲も、1曲目と2曲目がナンバーワンに。
前にも同じ事を書きましたが、たまにYou-tubeに素晴らしい画像が紹介されることがあります。Johnnyのリアルタイムの動画像は他の同時代歌手に比べて極端に少なく、もともと残っている画像が少ないのかも知れないけれど、本人が出し惜しみしている、という疑惑も少なからずあります。この間も、びっくりするようなインタビュー画像が突然現れたのですが、すぐに消されてしまいました。
それはともかく、今回you-tubeの検索をかけたら、季節柄興味あるオムニバスメドレーが見つかりました。
「Merry Christmas – Feliz Navidad Christmas Oldies」 Montse Antares
メンバーのラインアップが素晴らしい!
まず、4シーズンスFour Seasonsから始まることになっていますが、なぜかこれは入っていない。最初に、ジョニー・バーネットJohnnyBurnette(1934年生まれ、64年ボート事故で死去、60年に「You are 16」「Dreaming」の2大ヒットあり)による「挨拶」が短く入ります。次いで、ダーレン・ラブDarlene Love(1938年生まれの黒人女性歌手、言わずと知れたフィル・スペクター組の中心人物で、自身名義のヒット曲は僅かですが、幾多の有名曲の実質ヴォーカルを担当していたり、バックコーラスのリードを取っていたりと、コニーやブレンダと並び、ポップス黄金期を代表する女性歌手)の「Christmas, Baby Please Come Home」。
続いて、同じ「ラブ」でもマイク・ラブMike Loveのリードボーカルによる、ビーチ・ボーイズBeach Boysの超有名クリスマスソング「リトル・セイント・ニックLittle Saint Nick」。マイクとブライアン・ウイルソンBrian Wilsonの作品で、1963年と64年のクリスマスシーズンにベスト3にチャートされていました。最初にリアルタイムで聞いたときの興奮は今もって忘れられません。でも、これほどの有名曲になるとは思わなかった。クリスマスソングのエッセンス満載、かつ録音の素晴らしさが抜群で、これがほぼ50年前のレコーディングであるとは、とても信じ難いほどの斬新さです。
“録音状態の良さ”ということでは定評のあるジョニー・ティロットソンJohnny Tillotson で、「Christmas Is The Best Of All」(自作曲)が続きます(ビーチ・ボーイズの後とは光栄極まりない)。しかし、このオムニバス収録トラックは、音の盛り上がりが他の曲と比べて平坦、もう少し声を強めにミキシングしてほしかった。
この後、アダム・フェイスの「Lonely Pub, In A Christmas Shop」、ボビー・ヴィントンBobby Vinton(1935年生まれ、経歴実績は省略、実質上1960年代のナンバーワン男性歌手)の「The Bell That Couldn’t Jingle」と、ジョニーの曲を含め、(たぶんオリジナルの)余り知られていない曲が続きます。
ディオンDion De Mucii(1939年生まれ、経歴実績は省略)の「ママがサンタにキッスした」。全盛期(58年~64年)よりずっと後年の録音ですが、いやもう圧倒的にパワフルですね。このオムニバス中の一押しの曲です。
最後が、ビリー・ヒューリーの「My Christmas Prayer」。最近、何かのブログで、「ビリーはエルヴィスのイミテーターの最高峰、完璧!」と褒め称えるコメントを見かけましたが、確かにその通り。でも当時は「メイビー・トゥモロー」「アイ・ウィル」「ハーフウエイ・トゥ・パラダイス」など、典型的な“ティーンポップスシンガー”として、アメリカのジョニーと並ぶ僕のフェブリットシンガーだったのです。ちなみに、同時期にアメリカでは、「アイ・ウィルI Will」はヴィック・ダナVic Dana盤で(後にディーン・マーチンDean Martin盤でも)、「ハーフウエイ・トゥ・パラダイスHalfway To Paradise 」はトニー・オーランドTony Orland盤で(後にボビー・ヴィントン盤でも)、それぞれヒットしています。
そのヴィック・ダナ(1942年生まれ、「ブルーレディに紅バラを」など)について。以前に、ヴィック・ダナのことを、「ボビー・ヴィントンのミニチュア版、ヴィントンから“個性を抜き取った”のがダナ」と記しました。7歳年上のヴィントン62年夏の初ヒットの半年前、61年の暮れに、クリスマスソングの「リトル・アルター・ボーイLittle Alter Boy」(Hot100第45位)でデビューを飾ります。前にも触れたように、新人の、クリスマスソングの、それも実に地味な曲が、よくぞまあポップチャート45位というポジションを確保し得たものです。この後「I Will」47位(アダルト12位)、「Danger」96位、「モアーMore」42位(アダルト10位)、「シャングリラShangli-La」27位(アダルト8位)と、爆発的ではなくとも、コンスタントにヒット曲が続きます。
「リトル・アルター・ボーイ」のリアルタイム映像があります。若々しく瑞々しく、そして謙虚なステージ。このストレートさが、彼の“個性”ですね。この曲の意外なヒットの理由が、分かるような気がします。