2020.2.8
「現代ビジネス」用に、いくつもの原稿を用意しているのですが、僕のような役立たずの低知能者が書く記事は、端から無視されてしまいます。エリート編集者や識者・論客と言われる人たちの知能は、植松被告みたく「優秀」であることには違いないので、仕方がありません。
むろん僕の僻みの冗談です(笑)。明日、編集U氏がトンカツ定食をご馳走してくれることになっているので、余り刺激をするとマズい(トンカツ食いっぱぐれる)のですが、どうせ記事にはならないのなら、僕のブログのほうで、思いついたことを脈絡なく、かつ寄り道しながら書いていくことにします(新型ウイルスにしか興味のない方は、冒頭部分や寄り道部分を飛ばしてお読みください)。
「津久井やまゆり園」(昔よくギフチョウの撮影時に近くを通った)植松被告(呼称はこれで良いのかな?)と被害者の方々、「京都アニメ」(昔、ウラジロミドリシジミの撮影にこの辺りから近くの山に向かったことがある)青葉容疑者(呼称未確認)と被害者の方々。それぞれの立場や関係性は、正反対に位置するのですね。ちなみに座間の大量殺人は、「獣」としての人間の余りに悍(おぞ)ましい欲望。青葉容疑者は、人間の根源にある「恨み」。植松被告は「思想」「信念」に基づいた行動。
少し前の、あるヤフーニュースで、次のようなコメントを見つけました。
>「京アニ」と「やまゆり園」は、根本的に異なる。確かに両方とも多くの人が亡くなった。しかし、前者は、人だけではなく、日本の素晴らしい文化(アニメ作品とその作り手)の消失。人類にとっての損失である。後者とは比較にならないほど前者の損失は重い。
さすがに、「それは違うだろ!」というリコメントも多かったのですけれど、賛同意見も少なくなかったのです。
ちなみに、僕もリコメントを入れておきました。
「命は命、作品は人により評価が異なる」
僕とアニメは、全く接点がないわけではありません。僕の「出発点」は、児童漫画の世界です。10代の頃は、この業界の裏方(アシスタント)として働いていました。
唯一、雑誌「リボンコミック」に掲載された“ハムレット”(芳谷圭児・画)」という作品に、アシスタントとして名前が載ってる(笑)。
10代の頃の僕は、「漫画(特に少女漫画)評論家」になりたかったのです。最も好きだったのが、超ベテラン(なにしろ太宰治の1歳上)の杉浦茂、90歳近くになっても新作を発表し続けていました。コロッケ五円の介、野菜サラダの介、おでん串の介、、、知ってる人は知ってる、ギャグ漫画(この表現は余り好きではありませんが)の元祖みたいな方です。子供たちに、SF小説の存在と魅力をそれとなく伝えた、という功績もあります。
身近なところ(僕より一歳年上)では矢代まさ子さん。主要媒体は貸本だったので、新開地や新長田にあった古本屋をめぐって執筆作品を収集、宝物のようにして読みふけっていました。様々な作品に登場する作者の四国の田舎(伊予三島市、現・四国中央市)を訪ねていったこともあります(今でいう“聖地巡り”ですね)。ご主人の山本まさはるさんの故郷、淡路島の南に浮かぶ小島「沼島(ぬじま)」にも縁があって、2歳か3歳頃、母の故郷徳島県に向かう途中、神戸港発鳴門港行きのフェリーが台風の余波で沼島に緊急寄港したことを覚えています(僕の最初の記憶のひとつかも知れない)。
後年、東京都の国分寺市にアパートを借りた際(ちょうどそのアパート脇を舞台にして“三億円事件”というのが発生し、その後僕は何度か警察の取り調べを受けた)、比較的近い町に矢代さんが住んでいたので何度か訪ねて行って、収集した本は全てご本人に差し上げました。
ご主人の山本まさはるさんとは、国分寺の駅前で、よく飲み明かしたものです。ご健在なら、矢代さんは73歳になったところでしょうか(時々夢に出てきます)。まさはる氏は80歳近いのかも(今ネットで調べてみました、両氏ともご健在なようです、ついでに芳谷圭児さんもチェックしたら、83歳でご健在です!)。
しかし、僕にとって「漫画家」といえば、手塚治虫さん、彼一人に付きます。次元が全く異なります。
落語家の立川談志さんが、「人類の歴史で天才と呼べるのは、レオナルド・ダ・ビンチと手塚治虫だけ」と仰っていたことがあります。僕はテレビなどを見ることが滅多にないので、立川談志という人のことは良く知らないのですけれど、この言葉だけでも、「本物の人物」であることが分かります(少なくとも、ちょくちょくネットに顔を出す立川ナントカとやらの、白痴丸出しの弟子とは、天と地ほどの差があることは確かなようです)。ちなみに後ほど談志氏は「ダ・ビンチを並列したのは、言葉のゴロを考えてのこと、本当の天才は手塚一人」と言い切っていた。完全に同意します。
手塚治虫の作品は、いわゆる「漫画」の枠からは、大きくはみ出しています。芸術作品であると同時に、哲学であり、科学的な論文と見做すことも出来ます。
手塚漫画に接すれば、小説も絵画も必要ない、学校で勉強する必要もない。ただただ手塚作品(例えば「火の鳥」とその関連作品)を読んでいるだけで、全てのこと(世の中、宇宙、、、)が分かる。これ以上は書きません(「火の鳥」読んだことがない人がいれば、ぜひ読んでください)。
手塚治虫は、(まだ当時の日本では誰も本格的には手掛けていなかった)アニメ制作を目指していたのだそうです。しかし、初期段階で挫折してしまいました。僕は、それでよかったのではないだろうか、と思っています。
漫画とアニメは、似て非なるものです。話し出すと長くなって仕舞うので、とりあえず一言で言っておくと、漫画は「自らが読み取るもの」。ひとつひとつ、自分の頭で内容を理解して、先に進んでいく。「実態」で構築されている漫画と異なり、アニメは「空気」で成り立っている。良くも悪くも、有無を言わせず、読者に「感じさせる」“力”を持っているのです。究極の「共同幻想」媒体。
漫画は、例えば「地図」に置き換えれば、シンプルな(等高線が載って正確な縮尺が示されている)従来型の地図です。等高線とか距離とかの基本情報は、それに基づいて様々な解読や発見が齎される無限の情報宝庫なのですが、現代の若者にとっては、無駄だらけの古風な地図にしか過ぎないようで、シンプルな(基本情報のみが示された)地図は、急速に消滅しつつあります。
アニメは、いわば最近の、“役に立つ情報”がてんこ盛りの、ファッショナブルな地図。基本情報はほぼ全てカットされ、必要な情報だけが、利用者に提供されます。読み手が(無駄な?)努力をしなくても、「空気」に身を委ねるだけで、一瞬にして「分かる」のです。
両方あって良いと思います。でも、「基本」は無くしてはならない。
「アニメ」が日本の素晴しい文化であることは認めます。しかし、危険性も秘めています。イメージ的な伝達で、簡単に「真実」が分かったような気分になる。そのシステムを作り出すことも、受け取ることも、日本人に与えられた才能の一つかも知れません。でも、良い部分も悪い部分もある。アニメは(人々を皆同じ方向に導こうとする)「空気」のプラットホームです。アニメを過大に評価することに、危惧を感じています。
話が本題から逸れてしまったかも知れません。「アニメの命」と「障害者の命」の重みについてです。
意思伝達が出来ない人々が存在することで、(本人を含む)多くの人々が苦しみ、社会に「迷惑」がかかる。感情抜きで処分すべきである(まあ、僕も処分されちゃうわけですね)。日本人の大多数の本音は、(むろん、非常に深い部分での本音であって、現実上は、そんなことは誰も表立って考えないでしょうが、、、、表立って考えていないからこそ)植松被告の主張と、左程大差はないのでは、と思っています。
「京アニ放火事件」では、「アニメに関わる貴重な人命が失われた、青葉容疑者は許しがたい」ということで、構図的には対極にあるのですが、「空気のプラットホーム」に乗っかったうえでの反応ということでは、同じだと思っています(僕は、病院での治療中に青葉容疑者が発したという「初めて親切にされた」という言葉が、頭から離れません)。
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さて、今回の新型ウイルス騒ぎについて書こうとしています。正直アホらしい気分になっています。とりあえず思いついたことを、無秩序に書いておきます。
まず、前回のブログ(「あや子版」には掲載済みも「社会の窓から」には未掲載)再掲しておきます。
武漢訪問を隠し医師ら30人余りを新型コロナの危険にさらした中国人とは?
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実に醜い記事です。この記事を書いた宮崎某という記者こそ、断罪されるべきです。
武漢ウイルス感染者と接触した人は、無数にいるはずです。僕もその一人かも知れないし、U
氏や三世やあやこさんだって知らないうちにその一人になっているかも知れません。
2月3日も早朝に帰国、すぐに病院、保健所、市役所などに報告に行きました。全く相手にさえしてくれませんでした(皆非常にまじめに対応してくださった上で)。「一定以上の熱がある」「武漢に滞在」「感染が発覚する」以外は、手の打ちようがないのです(インフルエンザの場合と同様に)。
言動一致させようにも為すことが出来ず、結局「中国(および個人)叩き」に終始するだけ。それと諸共、日本も窮地に陥っている。漁夫の利を得るのは、アメリカ、という事でしょうね。
ということで、だんだん見えてきた気もします(気がするだけ、なのかも知れませんが、、、何が事実か、物事全て、そう簡単ではないわけで)。
香港デモ同様に、その構図は「中国(共産党)を悪」として、ひたすら「悪を」叩くことで、自分より弱い立場の存在の全てを、否定・排除する。上記の記事などは、その典型でしょう。
「産經」など保守系メディアが、ステレオタイプ的に中韓を叩きまくる一方、「朝日」などのリベラル系メディアでは、次のような記事も見られます。
「武漢に一泊しても私は平気だった」現地のリアルとは?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200205-00000080-sasahi-bus_all&p=2
まあ、「お手軽な記事」ということでは“似たり寄ったり”ということも出来ますが、「空気」で膨らんだ風船をぶち破るためには、このくらい思い切ってカマしておいた方が良いのかも知れません。
リベラルってのは、心情的には、あんまり好きではない(個人的には「産經」「読売」のほうが何故か厚遇してくれていて、「朝日」「毎日」からは冷遇されています、笑)し、この、ロジャースさんの意見が正しいのかどうかも定かではないですが、その正否とは別に、このような記事が掲載されることは、非常に意義があることだと思います。
メディア(報道)にとって、最も重要なことは、「正確さ」や「速報性」や「事実の特定」ではなくて、いかに「客観性」に基づいているか、という事だと思うのですが、どうやら「客観性」に拘っていれば、報道は成り立たなくなってしまうみたいですね。
例えば、今回の新型ウイルス騒動でしばしば伝えられる「ゴースト・タウン」状態の町。この時期(春節週間)は、毎年「ゴースト・タウン」状態です。むろん、今回の問題がそれに拍車をかけているのは確かでしょうし、本来ならそろそろ春節期間(名目上は初日から一週間ですが通常もっと長く休んでることが多い)終了で活気を取り戻さねばならないところなので、現時点での「ゴースト・タウン」状況は異常事態ではあるのですけれど、(報道されている)数日前ぐらいの時点では、春節の延長と、本来なら捉えるべきなのです。
感染者数や死者数についてもそうですね。「新型」でない肺炎や、従来のインフルエンザを始めとした他のウイルスなどとの比較の上において考えるべきだと思うのですが、、、、。「それぞれに性格が違うから比較しようがない」というのは当然ですけれど、その前提で比較を試みる、という努力が、全くと言っていいほど為されていない(まるで、それを行ってはいけないような「空気」)。
このブログの(上)では、広東省に於ける、リアルタイムの状況、ことに「マスク」着用の推移の実態について、書き記しました。
特に香港では、去年の後半から、図らずも「マスク」がトレンドになってます(笑)。
以前から、「マスク」ってのは一体何なのだろう?と考えてきました。日本人や中国人は、なんでこれほどまでにマスクが大好きなんだろう?
結論を言えば、「現代日本の文化」の象徴ですね。日中韓の東アジア人の意識の端的な現れが「マスク」に代表されているように感じます。危機管理、自己防御、責任逃れ、、、、マナーとルールの問題。
マナーとルールという事に関して、別の話題を差し挟みます。
いつも日本に戻ってくるたびに、違和感を覚えるのです。僕の日本のアパートのある、東京郊外のJR青梅線。ドアの開け閉めが手動です。「車内の気温を一定に保つこと」と「省エネ」が本来の目的だと思うのですが、「ルールのためのルール」になってしまっている気がします。
例えば、最終電車近くになると、立川駅で中央線からの乗り換え客が、どっと階段を駆け下りてきます。それらの乗客が、ひとりひとりドアを開けては閉めて、乗り降りする。次々後ろからやってくるのが分かっているのに、「自分はルールを守る」ということで、乗ると閉める。面倒なだけではなく、次に乗る人が度々ドアに挟まれたりもするので、危ない事このうえない。
「自分はルール守る」、、、それが最も大事な事のわけです。自分さえルールを守っていれば、(むろん極論ですが)他はどうなっても良い、という(無意識的な)意識。自分たちがやってることがどういうことなのか、自覚はしていないのですね。滑稽というか哀しいというか、、、、それが日本の国民性なのでしょう。
中身(本質)よりも入れ物(外枠)が大事。
今回中国では、マスクをしていなければ交通機関を利用できず、するしかなかったのですが、、、。日本に帰ってきても、(肩身が狭いので)一応、マスクを持ち歩いています。
個人的には、かえってマスクは不潔に感じるし、それ以前に、ただのマスクに、どれだけの「防菌」効用があるのか、、、。そもそも、マスクというのは、病人とか特殊な作業をする人が使用するもの、ではなかったのでしょうか? いつの頃からか、冬はマスクをするのがマナー、みたいになってきています。
もっとも、接客業こそマスクするのがマナー、と言う意見もあれば、接客業がマスクをするのは、マナーに反する、という意見もあります(異なる意見が並立するのは良いことです)。
「上」にも書きましたが、中国広州では、人→人感染の可能性が発表された1月16日から、緊急指令が発せられた(大晦日に当たる)1月24日の間に、マスク着用者の割合は、大きく遷移しました。
20日頃まではマスク着用者はちらほらだったのが、22日頃には接客飲食関係者のほぼ全員(というより上からの指令で完全に100%)、一般の人達の6~7割ぐらいが、マスク着用となりました。25日には、一般の人も着用を義務付けられ、100%に。
日本は逆ですね。接客・飲食業は、現時点でもマスクなしが主流。それよりも、一般の人のマスク姿のほうが、ずっと多いように思われます。もっとも、今回に限らず、毎年冬にはマスクですが。
どっちにしろ、「右に倣え」ですね。
日本は共産主義社会ではないので、「自由の閉鎖」は有りません。空気に沿った「自主規制」という「自由の閉鎖」があるだけです(笑)。
マスクに関しては、日本人は、なんか、勘違いしているような気が、、、、。でも、これがアジアの(日中韓共通の)文化なんでしょうね。
欧米では、「マスク」というのは、結構特殊な存在なのだと思います。「重病人」とか、劣悪状況下で作業している人とかのためにあるもので、日常的なものではないはずです。
そういえば、今回、香港に於いても、欧米人の多くはマスクをしていなかったですね。
*「日本マクドナルド」および「スターバックス・イン・ジャパン」は、企業の方針で従業員のマスク禁止由(空港のスタバのスタッフに関してはマスク着用とのこと)。
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中国の人達は、(やってることの良し悪しは別として)必死に「新型ウイルス」と戦っています。それはもう、涙ぐましいほど、、、、。
もちろん感染を防ぐ(自分たちの身を守る)ことに対してもですが、自分たちが源となった失態を最小限に食い止め、日本を始めとした外国からの、これ以上の「蔑視」を何とか防ぎとめよう(評価を回復しよう)と。見ていて切なくなります。
一部の中国人の反応は、行き過ぎであるとも感じます。僕のいたコミュニティ(アパート周辺住居群)では、24日から完全閉鎖(外部住民との接触の全面禁止)が続いています。自衛団が集落の出入り口で目を光らせる、鬼気迫った雰囲気。正直、そのこと自体が恐怖です。
モニカの(ご主人の)実家も、完全封鎖されていて、部屋の外にも出れないようです。おそらく、中国中が、(公式発表の有無に関係なく)そのような状況に陥っているのでしょう。
で僕は、命からがら?(モニカとU氏の手助けを得て)香港に逃げてきたのですが、さすが「自由」の国、今回に関しては、緊張感は余りありません。市民は皆、自主判断で行動しているように見てとれます(誉めているわけでもない)。
日本入国時も、簡単な自己申し込み用紙に記入(印)しただけ。イミグレーションでの体温検査もなし(自動的に為されているみたいですが)。いつもは「どこに言ってましたか?」と訊ねられる質問もなし、、、、。
一方、(香港を含む)中国各地の港や空港から来た船舶や飛行機の乗客を、一律入国拒否する。なんか、やってることが、バラバラだと思います。
ヤフコメ民の騒いでいる「中国から日本に人を入れるな」の合唱は、一体何だったのか? 中国は「隠蔽」ばかりして、自分の事しか考えてなくて、けしからん、日本は毅然とした態度を、、、と言っていたのではななかったでしょうか?
日本は、、、良くも悪くも言動不一致ですね。
以下極論です(笑)。
★中国上層部は初期~中期段階で情報を「隠蔽」した。
★それによって、「医学的な危機管理」には、成功した。
★しかし、「政治的な危機管理」には、見事に失敗した、
「新型ウイルス」の問題は、突き詰めれば、メディアや大衆による、弱者に対しての壮大なる虐めですね。虐める側は、自分たちは「正義」だと思っている。
*むろん、虐められる側にも問題はある。でもそれとこれとは別の話です。
図式を整理しておきます。
武漢都市圏(人口5000万人)。仮に、発生源がこことしましょう(断定はできないけれど状況的にはそうでしょう)。16日の人-人感染判明から間もなくして、春節移動直前に都市が(実質)封鎖された。都市内でパニックを伴ったパンデミック発生。
その他の東西南北に位置する(北京・上海・重慶・広州など)大都市圏(人口5000万人+)。理屈上、武漢と日常的な、大量の人々が交流しているので、各大都市圏での感染者は既に膨大な数。
それぞれの地において2次(および以降)感染に至るタイムラグを仮に10~20日と考えれば、1月末スタート、そろそろ武漢同様のパンデミックが発生する頃です。
しかし、そうはならない可能性も。
というのは、、、、武漢以外の各大都市圏は、“現時点では”大都市ではないのです。春節期間の継続により、おそらく通常の1/10の人口もないはず。
人々は田舎に散らばっています。個々に対応する(医療技術など不足問題あるとしても)対策を、大都市に人々が集中している場合に比べれば、比較的取りやすいのではないか、と。
俯瞰的に見た場合(例えば日本など)。
>“大都市に閉じ込められず”広範囲に感染者が亘る。
>ほかのインフルエンザ同様の次元に置かれる。
>個々の感染者ごとに対応することが可能。
もしかしたら、現時点での武漢に於ける突出した感染者・死者数の最大の要因は、必要のない極めて多くの患者?が、一握りの病院に押し寄せた弊害に基づくのではないでしょうか?
それとは逆に、別の視点からの(ポジティブな)意外な盲点。日本では、現実的には「新型ウイルス」よりも、インフルエンザの拡散のほうが遥かに危惧されることなのですが、ここにきて、大幅に感染者が減少していると。「新型」騒ぎで予防が行き届き、インフルエンザの蔓延を防ぐ思わぬ効果が齎されたのだとか。皮肉なことに「新型ウイルスのおかげ」というわけです。
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問題を次の3つに集約してみました。
中国の劣悪な衛生概念。
日本の執拗な中韓叩き。
武漢・湖北省発の意味。
Ⅰ現代中国の余りにも劣悪な、かつ「文化」として成り立っている“環境・衛生概念”を考える。
この機会に、中国の衛生問題を、(見かけの問題としてではなく)根本的に考え直すときに来ているのではないでしょうか?
その象徴例。
小七、服を着たままジャー、でも僕は注意出来ない。
>モニカ曰く「何が問題あるの?もう日本人はつまらんことにイチャモンつけてウザい」
食堂のゴミ箱にウンチもさせます。
>「何か問題ある?どうせ残飯と一緒に処理されるでしょ?」
それが中国の文化なので、それはそれで良いのかも知れないけれど、その延長が今のどうしようもない「衛生環境」に至ってるわけで、、、。
しかし、こんなことも言えると思う。
日本の風呂(僕は大好きなので帰国後はイの一番に銭湯に行きます)。
なんて不衛生なんだ!
国外の多くの人が、そう思ってるはずです。
でも、日本に於いては、全体としての高い衛生環境の中での存在ゆえ、破綻には至らないで済むのです。
と言って、もしも、ということもあります。その際は (高い衛生概念を保っていることが返って仇となって)無免疫であることが災いして、思わぬ大事に至る可能性もありえます。
中国の出鱈目な文化。
日本の行き過ぎ文化。
それぞれに長所を認めたうえで、欠点を改善していくべきだと思います。
中国の「衛生」「環境」に、どれほどの問題があるのか。一般の日本人には、とても想像の付かないことと思います。
なぜ、こんなにも差があるのか、、、僕にもその理由がさっぱり分からない。「共産主義」だから、とか「中国人は自分のことしか考えていないから」とか、「人口が多すぎるから」とか、そんな「平面的な」解釈では、説明不能です。
日本は極端なので比較の対象にもならないでしょうが、東南アジアの諸国の「劣悪環境・衛生」と比べてさえ、その劣悪さは次元が飛び抜けている。
他の国(僕の知ってる範囲では東南アジア諸国・アメリカ・ギリシャ)の場合は、衛生・環境の劣悪化は、貧困・無教養・地方といったファクターが大きく作用し、富裕・教養・都市化が為されることで、改善に向かう、という側面が感じ取れますが、中国の場合は、いくら富裕・教養・都市化が為されても、本質的な部分では、変わっていない(むしろ表向きの繁栄と相対的に劣化)と感じます。
これは言っちゃいけないことのひとつかも知れないけれど、、、多くの日本人は、「(共産党政権下の)中国本土と、(自由な民主主義の国)香港・台湾は、全く違う、後者は(衛生・環境面にしても)基本的には日本と同じだ」、と思っているようです。
違いますよ。香港も台湾も、外枠は「日本・欧米」的に近代化が為されていますが、本質的な部分では「大陸中国人」の価値観・感性と何ら変わりがありません。絶対面積の小ささと、欧米や日本からの(もちろんいい意味での)外圧が作用して、表向きはなんとか「最悪の劣悪環境状況」から脱することが出来ているのです。
「政治体制」の問題ではなく、「漢民族」としての価値観を根本的部分から変えねばならないのだと思います(現在の価値観のまま「共産党」圧制のタガが外れたら、もっと大変なことになる)。
隣国、日本の存在は、我々日本人が考えている以上に、(とてつもなく)大きいと思います。
このままいけば(仮に現体制が崩壊し「民主化」が為されても)、町中ウンチ・ションベンのまま、世界一の大国になるのです。金持ちが、世界中で、暴若無人な振る舞いを行います。
日本は、良くも悪くも、対極にある。
僕は、(日本を愛する日本人として)日本の「悪い部分」(例えば過剰な衛生概念や責任逃れ体質など)にどうしても目が行ってしまうのですが(笑)、いっそのこと、日本も「半分」中国化することを勧めたいです。
それでもって(例えていえば、遠く地球から月を眺めているのではなく、月の表面に近づいてチェックすることで)、日本の国民は、やっと「中国の本質」を理解し得るのだと思う。
同時に、中国国民の方も、手放しで(他人事のように)「日本は清潔・空気がきれい」と感嘆するだけでなく、自分の国と照らし合わせて(現状では比較可能な次元にない)問題の在処を考えることが出来るようになるのではないかと。
隣国として、中国と一体になり、世界の「環境」整備に取り組む、義務を有している、と思います。
今回の「新型ウイルス」騒動が、そのきっかけに成れば良いのですが(排除では解決しない)。
Ⅱ 日本の執拗な中韓叩きに基づく災害の二次拡大。日中共倒れで、アメリカ一人勝ち?
今回のウイルス問題は、日本が「異質の排除」に向かう中で起こった、象徴的な出来事だと思います。中韓ヘイトは、必ずや、自分たち(日本人)に跳ね返ってくる。そのことを認識する機会になれば、と思います。
発生当初のヤフーニュースの記事に、こんなコメントを入れてみました。
>武漢には、可愛いい女の娘が多いです。
>武漢の若者の多くは、日本が大好きです。
すると、ドサッと青ぽっち(否定)がやってきました。
中国(武漢)を褒めたコメントと思ったみたいですね。
それで、再訳注を追加しました。
>日本のおっさんが、(武漢出身の女の子と)多数「濃厚接触」しています。
>武漢の若者は日本大好きだから、大量に押し寄せてきます。
赤ぽっち(肯定)のほうが多くなりましたね。
*ちなみに、(このヤフーニュースのシステムとは無関係ですが)中国に於ける注意点。基本的に、赤は「Yes/Good」、青は「No/Bad」です。間違えて判断しないように。
攻撃の対象を特定するべきではないと思うし、実質上「対象」が特定出来なくなっています。それ以前に、日本のメディアや大衆は、アメリカで大騒ぎになっている、インフルエンザの猛威には、頑なに触れようとしません。
実際の(少なくても僕の周りに存在する)人々の考えと、メディア(ネット含む)から発信される“国民の平均的意見?”の、余りの乖離は、何なのでしょうか?、、、、、今回に限らず(例えば香港デモでも)いつも不思議に思い続けているのです。
個人の直接的思考と、メディアやネット上の意見。後者は、実は絶対的多数ではなく、絶対的を装った相対的な多数(無意識的な追従・依存が表に現れたもの)なのかも知れません。
僕は、(語弊はあるとしても)、中国政府の「隠蔽」は、結果として成功だったと思います。危機発令が大晦日だったということは、大半の都市住民は既に田舎に帰ったあと。もし、春節期間前に発令していれば、田舎に帰ることも出来ず、市民の大多数が都市に閉じ込めれることで、各都市が武漢同様のパニックになっていた、と思います。逆に富裕層は、一足先に大挙して海外に逃げていただろうし。
武漢から2週間遅れだとすれば、日本は今がちょうど武漢スタートの時点、今月中頃には今の武漢状態になるわけですが、皮肉な言い方をすれば、ザルであるゆえに、普通のインフルや肺炎と同列の状態で日本中に広がって、いつしか日常の中に没してしまうのでしょう。
今後の方向性推定。
残るは、より一層の中国叩きと、異質への恐怖心。
いずれにしても、中国の衛生概念は、それはもう信じられないぐらい酷く、なおかつそのことが「文化」として刷り込まれてしまっています。難しい(ほとんど不可能?)けれど、この機会に根本的な部分から変えていくしかありません(都市、富裕層、エリートほど大きな問題を抱えているので、必要以上に「中国の近代化」にポジティブな焦点を当てることは危険です)。
中国の劣悪な衛生状況下では、(表に現れないだけで)同様のストレスは、過去長い期間にわたって、世界に大量にばら撒かれている。中国の“想像を絶する”衛生状況を鑑みれば、「新型ウイルス」にしろ、そのほかのウイルスにしろ、とっくに蔓延していて当然です。日本にだって、ずっと前から、幾つもの未知のウイルスが広まってるでしょう。「種類」が特定されず、報道されていないだけだと思います。
「新型」への対応を基準にするとすれば、(既にある旧型やインフルエンザなども合わせて)本来なら、日本国民すべてが「隔離」されなければ解決しない問題です。
既に世界のあちこち(殊に日本)が、数週間前の武漢状態になってるはずです。やがて、現在の武漢状態になる?自分たちも、既に当事者(潜在的保菌者の可能性)です。中国人を追い返すなり、感染者を隔離するなりして、やり過ごせばいい、という問題ではないと思います。もっと根本的な、俯瞰的な取り組みが必要とされるはずです。
早い話、従来の肺炎やインフルエンザの脅威は、隅に置かれたまま、、、、結果として「中国叩き」の材料になるだけです。
なにか、問題がすり替えられているような気がします。日本の国民がやってることは、なんか、おかしいです。
ヒットラーのユダヤ排除、関東大震災後の朝鮮人暴動デマによる虐殺、中世の魔女狩り、、、、同じ方向に進みつつあるような危惧間を持っているのです。
「新型ウイルス」問題は、結局は、矛盾だらけのまま、「終結無きの終結」とせざるを得ないでしょう。
そして後に残るのは、これまで以上の「異質の存在」(主に中韓)に対するヘイト。日本人の孤立化です。
Ⅲ 地球の遺伝子のプール、長江中流域一帯で、何が起こっているのか?
ユーラシア大陸の中央から東に向かって中国を横断する長江は、アフリカ大陸のナイル、南米大陸のアマゾン、北米大陸のミシシッピーと並ぶ、地球最大の大河です。その中でも、トータルなボリュームという点では、飛び抜けたスケールを持っています。
7000m級のチベット山岳地帯に源を発する(メコン、サルウイン、イラワジ、ブラマプトラなどをはじめとしたアジアの大河と踵を接して南北に併流する)源・上流部から、一度広く平坦な四川盆地へと流れ込み、そこからほぼ真東に、上海郊外の東シナ海河口に向かいます。
その中間地帯で、再び南北に山が迫ります。三峡渓谷です。出口の東にある大都市が武漢。
生物地理学、生物地志学的な面に於いての、武漢・湖北省・長江中流域の、世界的に見ても特別な位置づけ。それと近代文明の急激な発展との相関。今回の「新型ウイルス」発生と、(直接か間接かはともかく)何らかの次元で、結び付きがあるように思えてなりません。
「濃厚接触」による(人から人へ感性の可能性)のヤフーニュースをチェックしたのと、ほぼ同じ頃、同じ武漢周辺を舞台とした「世界最大の淡水魚(ハシナガチョウザメ)の絶滅が認定された」というニュースに出会いました。僕としては、圧倒的に、後者の方が重大ニュースだったのです。
僕は、1988年から中国を主要フィールドとしているのですが、それまでのメインは日本の屋久島でした(1960年代中期~)。世界各地の、屋久島と同緯度(北緯30度13分~28分)地帯に、非常に興味があるのです。
屋久島から西に向かうと、上海南方の舟山諸島(岱山島)、長江流域を遡り、チベット高原南部とヒマラヤ山脈北部を横断し、アフガニスタン、イラン、イラク、シリア、エジプト、チェニジア、モロッコなどを通り、大西洋からフロリダ半島付け根(ジャクソンビル=ジョニー・ティロットソンの故郷です)に上陸、カリブ海北縁、アメリカ/メキシコ国境地帯、カリフォルニア半島の付け根、北太平洋を渡って、伊豆諸島と小笠原の間の鳥島に戻ってきます。
屋久島はともかくとして、大多数が、紛争地だったり、岩と砂漠の不毛の地だったりします。温帯でも熱帯でもない、中途半端な気候です(少し南の沖縄や少し北のギリシャなどを含め、この“中途半端ベルト”が、現代文明の発祥地であることは興味深いと思う)。
武漢も、ちょうどこの「屋久島ライン」上に位置しています。歴史的・地政学的に中国のジャンクションであるとともに、武漢の背後を覆う三峡一帯の湖北省山岳地帯は、地史学・生物地理学的に見ても中国の(のみならず地球の)最重要地域でもあります。
この長江中流域(三峡周辺山地)は、貧弱な植生環境が続く“中途半端ベルト”の中で、例外的に豊かな植生を誇っています。北京郊外へと流れる黄河に挟まれた北側一帯は、陝西省の「秦嶺」(ジャイアントパンダやトキの野生地)からつづく「神架農」の深い山地です。
僕のオナガギフチョウ(日本固有種ギフチョウの最近縁種)の調査地域であり、やはり僕が対象としている野生アジサイの一種で日本固有種のギンバイソウの唯一の姉妹種が分布する地域です。
野人(いわゆる雪男!)が存在している、とも信じられています。もちろん“トンデモ科学”の類で(笑)と言いたいところですが、この地域の生物相の特殊性を考えれば、完全無視をしてしまうのも、どこか抵抗が残ります。
今回封鎖された都市のひとつ恩施市にも、何度も通いました。レンゲソウの故郷を調べたり、、、僕にとって、とても思い入れの強い場所なのです。
近くには、他には化石しか知られていない、古代樹メタセコイアの唯一の原生個体の生育地もあります。ちなみに、以前の「現代ビジネス」記事に書いた、野良仕事のおばあちゃんが「清潔な水なので飲んで良いですよ」と案内してくれた「オタマジャクシの泳いでいる水たまり」も、この地です。
南側一帯には、香港に流れる、珠江との間に挟まれた「南嶺」が連なります。その北に聳える梵浄山のブナ原生林では、日本固有種で、日本以外の地域には近縁種さえ存在しないと考えられていた、フジミドリシジミ(蝶)の姉妹種が発見されました(発見の経緯は僕の指摘に基づきます)。
そうそう、この一帯は、稲作文明の発祥地でもあるのです。
いろんな思いがあって、書き切れません。
「新型ウイルス」の媒体起源が、この地域に棲む野生コウモリ、という噂もありますね。それが事実かどうかはともかく、この地域発祥の未知のウイルスを数多く保有している可能性は、大いに有り得ると思います。
長江三峡地帯は、地球の生命の遺伝子のプールです。中国人たちは、そこに巨大ダムを造った。そのことに代表される人類の過信。ひたすら近代化を目指し、無駄を排除する理論。やがて“シッペ返し”が訪れることは、目に見えています。
今回の「新型ウイルス」騒動は、その序章なのかも知れません。
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僕は、「日韓中」は兄弟の関係だと思っています。人間社会的なことは僕にはよく分からないのですが、生物地理学的な視点からは、紛いようもなく一括りの地域です。
なのに、あまりにも互いの事を知らない(知ろうとしない)。膨大な数の人々が、日本に、中国に行き来して(居住して)いるにも関わらず、無関心。
国家、企業、大学、メディア、旅行代理店、、、等々を通して(まるで防護服を纏っているかのような状態で)しか、相手に接しようとしない。
一方、(国際結婚したりして)彼の地(日本&中国)に溶け込んでいる人達は、それぞれ(国家体制だけではなく大衆)からの弾圧・疎外を恐れてか、ひたすら口を噤む。
そのような状況下において発信されるメデイアの情報からは、ちっとも「想い」が伝わってこないのです。
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追記①
昨秋から「社会の窓から」と「青山潤三の世界・あや子版」に同じ記事を併行して掲載し続けているのですが、「社会の窓から」の方には、写真掲載が出来ない状況が続いているようです。添附された写真に関しては「あや子版」のほうをご覧ください(「社会の窓から」の方にも、古い記事の写真をイレギュラーな形で載せていくこともあるかも知れません)。
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追記②
今回の「新型ウイルス」騒動は、僕にとって“他人事”ではありません。僕自身、この数年間、度々「急性肺炎」に至る恐れを指摘されてきました。不可解な症状に悩まされながら、日中を往復し続けています。現時点でも、午後になると、肺が猛烈に締め付けられ苦しい状況が続いています。7年前のドングリ事故に基づく、膨大な量の痰や膿の肺への嚥下が重要なファクターであることは間違いないのですが、様々な検査の結果に異状は見出されず、正確な診断は叶わないでいます。経済的な面も含め、ブログで助けを求めてはいるのですが、ほとんど誰一人見向きもしてくれません(笑)。
まあ、そのような状況下で、この記事を書いているという事を、認識して置いて頂ければ嬉しいです。