暫くブログを更新していなかった間に、書いておきたいことが山ほどあったのだけれど、、、、きちんと話の首尾を整えてから、と思っている間に、結局全てパスしてしまっています。
今年最初のブログは、「どうしても書いておきたいこと」ではなく「どうでも良さそうな事」というスタンスで行きます。そうすれば気が楽だし。
というわけで、今日のニュースをザっと見渡して、、、、。
間寛平、大師匠・坂田利夫さん“最期”を語る 「アーメマ!」絶叫で「生き返りました(笑)」(オリコン) - Yahoo!ニュース
⓵cho*****さん
>最後までアホなことを、、、。 ありがとうございました。(そう思う102/そうは思わない1)
⓶hir*****さん
>正直言って阿保の坂田や間寛平で笑った事が無い。きっとその時代では面白い芸人だったのだろうが、こういう古典的な笑いはもう廃れていくのだろう。合掌。(そう思う3/そうは思わない153)
ここのコメント欄の反応は、僕と立場や感性が同じなんですね、⓵が大半(僕を含めほぼ全員)です。
中に、ただ一人だけ反対の意見⓶がありました(むろん総反発、でもコメント欄が違えば逆の結果になったかも知れない)。
以前にも書いたけれど、(少なくとも僕にとっては)「お笑い」は「寛平以前/以降」に分かれる。
客観的に考えれば、これは非常に個人的な意見なのですね。ひとつは僕が関西人であるという必然性。もうひとつ、年齢的な問題。素直に受け入れられるのは同世代の寛平(僕より2歳下、ちなみに坂田師匠は6歳上)らまで(遡ってずっと昔のダイマル・ラケットとか、東のエンタツ・アチャコとかも分かる)。
けれど、それより若い世代の「お笑い」は、「笑いのツボ」が全く別次元に存在しているように思えるのです。でもって、今のお笑いは、僕には、まるで理解不能です。そして、それと反比例するように、お笑いの社会的ステータスが、昔とは段違いに上がっているように思えます。
松本人志(僕より15歳下)が台頭し始めたころ、横山やすし(同・4歳上)をボロクソにこき下ろしていた記憶があります。そのとき、「お笑い」の世界が、全く別の空気の中に置き替わったのです。そして今はその空気が全てを満たしている。「hir****さん」の指摘は、ある意味その通りなのかも知れません(上岡龍太郎はそれを察して引退した)。
「寛平以前/以降」は、もちろん個人的な見解です。でも、もしかすると、もっと大きな意味を含んでいるのではないか、とチラリと思ったりもします。(少々オーバーな表現ですが)“日本人はどこに向かっているのか”といったような、、、。
“お笑い”の根源から、主体性・能動性(外への発信)が取り除かれていき、ひたすら空気への受動(内への集結)に収斂していく。ひいては、自己保身・リスク排除・個人情報の絶対性、、、とかいった側面を伴う、日本人の感性や価値観、倫理観(何をもって「正義」とするか)を、無意識のうちに同調強要へと向かわせる。
・・・・・・・・・・・・・・・
久しぶりに東京に戻り、室内にある120箱余のダンボール箱(のうち60箱分)を整理して、ポジ・フィルムをメインとした16箱を福岡に郵送しました。
往復4日48時間。帰路の24時間は、整理中に出てきた文庫本の中からアトランダムにピック・アップした、安部公房「第四間氷期」を読んで過ごしました。昔、ほぼリアルタイム(1959年発表)で読んだように思っていたのですが、ほとんど読んでなかったですね。
それにしても、津波の話(全く偶然です)でスタートし、近未来の人類滅亡(水棲人間としての新人類の誕生)、、、60年以上前に(手塚治虫の漫画の場合もそうだけれど)様々なディテールを、よくもまあ見事に予言している。
ホーキング博士の近未来における人類滅亡説なども、正統的な「科学」の許では「陰謀論」としか見做されないのでしょうが、、、、それで良いのでしょうか?
繁栄と進化は対極にある、、、なにも人間社会に限った問題なのではなく、様々な蝶を(僕の場合は分類学的側面から見て)例にとっても、そのことは間違いなく指摘することができます。
人類が向かっている「未来」は、進化に繋がるように見えて、実は繁栄の末の滅亡に過ぎないのです。個人情報の厳守、リスクの徹底排除、、、、それらを美徳と見做す社会は、滅亡に導く引き金に指をかけていることに他ならないのではないか、と思ったりもします。
・・・・・・・・・・・・
石田ゆり子氏の発言。僕が以前から注目している芸能人の発言は、稲垣吾郎さん、野口五郎さん、そして石田ゆり子さん(あと芸能人ではないけれどダルビッシュ有)。個々の発言は覚えていないのですが、常々注目しています。もっとも、大多数の「異論」は無視され、周囲の「正論」の中に埋もれてしまっている感は否めませんが。
今回の石田ゆり子さんの発言(というより失言ですね)は、心ならずも表立っての反響(批判)に結びついています。僕個人としても受け入れ難い指摘なのですが、発現の内容(の是非)が問題なのではありません。どのようなスタンスで発言をしているか、ということ。石田さんは、その辺りのこと(本来の意味での多様性)を、よくわかったうえでの発言でしょうから、それで問題ないと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
1週間の東京滞在中、旧くからの蝶友F氏M氏と会食、先日のブログに挙げた中学校時代の蝶友N氏とも、やっと連絡が取れました。あいにく入れ違いになって今回は会えなかった(前のブログにも書いたように最悪の状況にある最中に60年ぶりの生物クラブ同窓会に出なくてよかったで
す)。
頂いたメールに、大先輩にあたる広島大学のW氏(ノーベル賞クラスの生物学者)が僕の仕事を褒めてくれていて、「分析手法は現在の日本ではトップクラスではないか」とまで言ってくださったとあります。思いもかけぬお言葉(面と向かっては辛辣なことしか言われない)で、挫けずに頑張らなきゃと、意を新たにしている次第です。
僕は、昆虫関係の人々から、毛嫌いされています。主に、余り(「全く」も含め)会ったこともない、現在権威の中心を為す、50代から60代にかけての、研究者やアマチュア愛好家の人たち。なぜにそこまでボロクソに言われなくてはならぬのか、僕には皆目分かりません。
一方、僕と同世代以上(70‐80代)の方々からは、結構認めて貰えて(社会的存在としてはともかく)いるらしい。
F氏M氏から、帰路(第一日目の東京‐姫路)、静岡の高橋真弓先生(89歳)宅に立ち寄って挨拶をしてこられたらどうでしょうか、と提案を受けました。時間的にはちょっと難しい。それでも静岡駅で一度下車して次の電車に乗り換える前、電話だけでもしておくことにしました。とても喜んでくださったです。次回は時間をつくり、ぜひお訪ねしたいと思っています。