コロナの敵(原因)はマスク。
熱中症の敵(原因)は冷房。
ついでに、正義の敵は正義、平和の敵は平和。
集団性自己中で早晩人類は(たぶん最初に日本人が)滅びます。
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このあいだも少しだけ書いたけれど、市川猿之助事件の報道に対する篠田博之氏の重要な指摘。
市川猿之助さん逮捕をめぐる報道と騒動のあり方にますます違和感を覚えざるをえない(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース
篠田氏は僕が最も尊敬している言論人です。氏の評論対象は、いわゆる凶悪犯に関わる事例が主流だと思います。
凶悪犯罪はもちろん悪ではあるのですが、そう解釈することでのみ済ましてしまったら、なんの解決にも至りません。被害者と加害者を「善悪」とは別の視点から俯瞰して考察する。問題の本質は何処にあるのか、という困難極まりない作業を、正面から取り組み探り続けているのが、篠田氏のスタンスです。
平和な社会、差別のない社会、自由な社会、、、声高に標榜することは簡単です。でも、現実には、それらのユートピアは実現しないでいる。なぜなら、「平和」や「自由」を絶対的なものとしか捉えていないからです。反対側を含めた全体像を俯瞰的に把握することから始めねばなりません。別に悪を肯定しろと言っているわけではないのです。それぞれの悪の持つ意味を追求する。非常に深く重い作業です。
僕の好きな明治の小説家(悲惨小説・深刻小説)広津柳浪に対する評論にこんな指摘がありました。
>誰もが気付いていても取り上げない対象を敢えて取り上げる(意訳)。
それと軌を一にするように思われます。
その篠田氏が、珍しく軟派的なテーマを取り上げ、問題提起を行っている。一見軽く見える対象なのですが、実は(現代の日本を象徴する)非常に重大な問題が含まれているのですね。
ここでは具体的な内容には踏み込みません。添付した本文を読んで欲しいです。
僕は、猿之助は、どちらかと言えば嫌いな人の部類だし、歌舞伎には全く興味ないし、そもそもこの事件にも興味はありません。しかし、そういったこととは全く別次元に於いて、この事件に対する報道の在り方に、非常に大きな違和感(嫌悪感と言っても良い)を覚えるのです。
ある意味些細な事なのでしょうが、その(報道の在り方に対する)問題点を「なあなあ」で済ましてしまうのではなく、根本的な部分を直視し、将来に繋げていかねばなりません。
そもそも僕からすれば、大抵の「報道」には違和感を覚えるのです。何のための「報道」なのか、ということ。「報道」はどこまで必要なのか。
40年ほど前、神戸新聞の連載で、「報道」の在り方に疑問を呈したことがあります。阪神大震災に関しての報道。一応地元民で一応報道関係者の端くれとしての僕の矜持。複数の読者から「よく言ってくれた」という励ましの言葉を頂いたのですが、編集部からは譴責を受けました。そのような考えは報道に対する冒涜であると。
姿勢は間違っていないと思います。今後も同じスタンスで対処していきます。
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ここんところ、腹立たしい事ばかり頻発しています。まあ、結果として社会の枠外で生きている僕自身に問題があると言ってしまえばそれまでなのですが。
しかし、後期高齢者に突入して達観しました。日本の民主主義は間違っていると。そして、科学ひいては文明をはっきりと否定します(科学云々については説明が必要)。
そんなこと言ってるから、益々社会から取り残されてしまうわけですが。まあ、僕の場合は打たれ強い(換言すれば鈍感)ので、「無敵の人」(予備軍はゴマンといるはず、たまたま大事に至らないだけで、何事が起こっても全然不思議じゃない状況)化しなくて済んでいるのです。
平和とか自由とかは、金持ち(ここで言う金持ちは、最下層以外のほぼ全ての人々に相当)や権力者(空気に従って生きる大衆も結局のところ権力者なのです)、声高に権利を叫ぶ人々にのみ齎される特権(集団性自己中の肯定)なんですね。それらの枠からはみ出た(空気の外にある)人間は、風によって空気を乱す、リスクの対象として排除されていきます。それが民主主義の実態です(と言って共産主義を支持しているわけではないですよ)。
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前回前々回と同じ話題に触れたのですが、もう一回繰り返します。アパートの近くの公園(およびその周辺の道端)の草刈りについて。それ自体は致し方ないですね。いろんな虫とかがいる藪を刈って市民をリスクから守る、それは分からんでもないです。それと遷移の問題。人間が手を入れないで放っておくと、やがて鬱閉した照葉樹林と化してしまう。教科書的な理屈としてはその通りですね。でも、本当かな?という気もします。ほっといてもそれなりに(勝手に)調節して、極相以外の様々な移行的(遷移途上の足踏み状態の)環境も出現するのではないでしょうか。
それはともかく、人間が関与したものは「善」で大切にし、(人間の思惑とは無関係に)勝手に為されたものは「悪」で排除する。おかしいとは思いませんか?
道端で蝶の撮影をしていると、草刈りの作業員から「じゃまだ、どけ!」と言われたりします。それだけならまだしも、「撮影許可を取っているのか?」とか。前にも言ったけれど、TV番組見ていると、「許可を得て撮影しています」というテロップがしょっちゅう出てくる。もちろん、許可を取ることが必要な場合もあるでしょう。でも、何でもかんでも許可、それはおかしくはないですか?道端の蝶を撮影するのにも「許可」、、、むろん申し込めば腕章とかを与えられて、特権を得ること出来るわけですが、そんなのは本来の自然観察じゃないです。腕章などは、くれても突き返します。
シルビアシジミ。絶滅危惧種第Ⅰ類(福岡県も)だそうな。それこそ申請すれば、急遽保護の対象になって、草刈りのパターンも変更されるのかも知れません。おもろいですね。
シルビアシジミに「ついて。2つの問題提起。
2種(ニュ-ジーランド産を含めると3種)に分割されるようです。でも、僕は安易には従いません(笑)。まあ、否定するわけではないのですが、といって素直に受け入れるわけでもない(キタキチョウとかヤマトスジグロシロチョウとかも同様)。確かに、日本に於いては異所的分布する(屋久周辺のみ複雑)2つの集団に分かれるのでしょうが、ほとんど全ての生物の種が同様の(かつそれぞれに独自のパターンで)問題を内包している。
種の認識の問題です。DNA解析に拠って示されたデータは、問題の提起(すなわちスタート)であって、「答え」「結論」ではない。別に2種に分けることを反対しているわけではないのですよ。それで決着をつける、という安直なやり方を避けるために、敢えて(従来どおり)1つに纏めておくのです。前進のための、守旧です。
もうひとつの問題提起。日本のシルビアシジミは、本当に衰退しているのか?
衰退状態のまま、継続して生き続けている、というのが本来の姿である、とは考えられないでしょうか? オガサワラシジミの例で指摘したことがありますが、この蝶は一時的な大発生をした。それはアブノーマルな状態なのですね。でもそこを基準として「衰退・絶滅危惧」を考える。繁栄していること(その要因は人為による環境変化)は、むしろ異常事態なのであって、ほそぼそと生き永らえている状態こそ、健全な状態なのかも知れない。それを人間が余計な思惑で搔き乱す。
僕が子供だった頃、ヤマトシジミを100頭採ればシルビアシジミが一匹混じっている、という噂を信じて、せっせとヤマトシジミを採っていたことがあります。噂ではなくて本当だった。確かに混じっていました。須磨浦小学校の校庭脇の藪で(確か1959年)1頭を採集しました。マッチ箱に入れて、今でも探せばどこかに保管されているはずです。その後1962年だったかに(阪神タイガース優勝の時)岡本の甲南中学の校庭脇でもう一頭を採集。
次に日本本土で出会ったのは、1980年代前半。千葉県鴨川市の内陸部、愛宕山山麓の牧草地の隅っこです。
それから40年ぶりの再会ですね(中国雲南省では何度も出会っていますが)。
どの産地も(中国でも)、ごくつまらない、というか、ありきたりの環境ですね。隅っこです。(人間の生活に於いて)無駄な空間。環境保全とかの対象とは無縁な、いわば、生物にとって好ましからぬ(ように思える)環境です。
ツマグロキチョウとか、チャマダラセセリとか、ウラナミジャノメとかの(あるいは山地草原のヤマキチョウとかヒメシロチョウとかの)、絶滅危惧メンバー諸種も、似たようなパターン。類型化するのは難しいのですが、「狭間」とか「移行途上」とかいった概念の上に成り立って生育を続けている。
これは人間がどうにかすれば良いという問題には馴染みません。それぞれの種が、微妙なデリケートな綱渡り的状況下で生き続けている。絶滅危惧状態であることで、正常が保たれている。
シルビアシジミをはじめ、上掲各種は日本では絶滅の危機に直面している(そのことは必ずしもネガティブな状況ではない)わけですが、その本質を探るヒントは中国にあります。これらの種は、中国では街中を含む雑然とした環境で、結構普遍的に見られるのです。日本に於いては、そのような「無駄」な環境を排除している。
インターネットで福岡県のレッドデータ生物を検索してみました。蝶については矢田修氏と上田恭一郎氏という、最も信頼するに値する研究者が監修しているので、資料としては一級です。
シルビアシジミはともかく、数多くの意外な種が「絶滅危惧」として羅列されています。ほとんどが21世紀に入る少し前 頃から急減したのだそうです。その要因は環境変化にあるのではないかと。本当かなあ~。環境の変化自体は事実なのでしょうか、それが蝶たちの衰退に直結しているとは、僕には思えません。環境の変化だけでは説明つかない部分が多々あります。
この報文をチェックして、驚愕したことがあります。九州に於けるヒカゲチョウ(ナミヒカゲ)。ヒカゲチョウは、日本に在来分布する240余種の蝶のなかで、最も重要で、かつ不思議なアイデンティティを有する種です。「日本固有種」というだけでなく、唯一、海外に姉妹種が見当たらないのです。
中国には外観の類似した多数の種が分布していますが、雄交尾器の形状は、どれもヒカゲチョウと大きく異なります(従ってヒカゲチョウ一種で独立属を立てる研究者もいる)。雄交尾器の形状が類似した種を敢えて探すと、北米産の種(それも外観が似ている種ではなく、似ていない種)がそれに相当する。偶然なのか、何らかの必然性があるのか。
青森県‐山口県(含む四国4県)に広く分布し(島嶼部を除く)、ただし、両端の青森と山口のどこかで、突然分布が途切れる。北海道と九州にはいない(九州については後述)。
究極の遺存分布種であるわけで、それとともに、究極の繁栄種でもあるのです。
分布圏内に於いては、最普通種のひとつ。東京をはじめとした大都市の中心部でも、ごみ捨て場とか公衆便所の周りとか駅前の雑然とした空間とか、タケ(メダケ(ネザサ)類)が生えているところでは、どこにでも現れます。もっとも、意外なことに、郊外では余り姿を見ない。そして山奥(例えば南ア三峰川源流とか北ア上高地とか)に行くと再び姿を現す。
九州では、近年になって福岡県や大分県の一部地域で見つかっているという情報を聞いていました。おそらく二次的な拡散なのではないかと。
ところが、この報文を読むと、九州での実態は、僕が認識していたのとは全く逆だったのです。いなかったところに新たに侵入したのではなく、かつていたのにいなくなってしまった。19世紀から記録があり、1960年代には九州北部でごく普通に見られたのが、1992年を最後に、姿を消してしまった、と。
その要因を「環境の変化」としていますが、それは有り得ない。上にも記したように、(分布圏内では)最もありきたりの、雑多な環境に多産している、まあいわばゴキブリのような「生命力の強い」種なのです。なんで九州の集団だけがデリケートなのか?
こんなことを考えてみました。全く同じ環境条件下でも、繁栄の中心地(日本の大部分の地)と、その末端部分(本州の北端や西端および九州北部)では、それぞれ何らかのバイアスのようなものが働いて、違う結果として表現されるのではないかと。全く同じ条件下でも、中心では繁栄し、末端はアウト。ヒカゲチョウも、東京など分布の中央では繁栄を謳歌しているけれど、端っこの九州では衰退に直面している。
シルビアシジミは、中国でも日本でも、生育する環境自体は同じだと思うのです。ヒカゲチョウとは一回りスケールが違うのですが、置き換えて考えてみましょう。中国では都市の街中にも繁栄している。(やはりありきたりの雑然とした空間に棲息してはいても)日本では衰退。
「大阪府とその周辺の蝶:シルビアシジミ」というコラムに記されていた次のような指摘、慧眼ですね。
>蝶がある場所に生息するということに、普通の人間には見えない何かが影響を与えているような気がします。
今日(2023.7.4)は、午前中、一昨日と同じ場所でシルビアシジミのチェックを行っていました。
メス
写真中央左側の草地の5m四方ぐらいの空間に発生しています。団地の背後に僕のアパートがあります。
食草のミヤコグサは、余り大きな群落を形成せず、ぽつぽつと生えています。雌は花ではなく葉に産卵します。
産卵。
メス
オス