狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

乾杯の歌

2006-03-31 21:06:25 | 日録

 

                   オペラ「椿姫」公演にむけ、猛練習に励む会員たち

 1992年隣村M村のコーラス同好会が、10周年記念コンサートとしてオペラ「椿姫」全3幕を村の中央公民館ホールで公演した。≪(代表:H・O(歯科医)≫
 この村は「もっとも小さな『村の第九』」公演の実績があるところだ。
 平成の大合併でも「合併」をせず、単独村を選び頑張っている県内でも数尠い文化村である。
 当時村長だったI氏の挨拶文があるので紹介する。

            椿姫コンサートに寄せて

 10周年記念コンサートを「椿姫」で飾るM村コーラスに心からお祝い申し上げます。
私も一員の末席におりますので少々氣恥ずかしいのですが、本当に嬉しく思います。
 10年前に「村民の第九」がM村コーラスにより演奏されました。一般的に予想もされないことでした。そして10年後、同じホールで、予想もされないオペラ「椿姫」が上演されます。O代表をはじめ、ものすごいエネルギーであり、何と楽しいことだろうと不思議にもなり、愉快にもなります。

「開かれた村へ」とM村は様々な文化活動を展開して参りました。肩ひじはらずに、誇りを失わず、多様な生活と多様な生活と多様な価値を認め合い、M村の文化活動は広がって行くのでしょう。

 今年から私たちは「We thank E M-MURA」運動を始めました。三つのE・Eternty(永続性)、Environment(環境)、Earnest(誠実)をキーワードにしております。これらはまさに私たちの文化の問題です。いやむしろ文化からの出発といえます。

EM‐MURA」運動が村全体の文化水準を高める力になることを願っております。そして、其の意味からも、手作りオペラ「椿姫」は、「E M‐MURA」を先どりした生き生きとした現われであると信じるものであります。
                    M村長  K・I

 (アルフレード)酒をくもう、美しい人が花をそえるよろこびの杯に
はかないこの時が快楽に酔いしれるように
酒をくもう、愛の誘う甘いときめきの中に
あの全能のまなざしがこの心を打つから
酒をくもう、愛は杯とともに ひとしお熱い口づけを受けよう

(一同)ああ!酒をくもう、

愛は杯とともに ひとしお熱い口づけを受けよう

(ヴィオレッタ)皆さんとうれしいこの時を
分かちあうことができるのよ
この世界でよろこびでないものはみんなおろかなもの
楽しみましょう、愛の歓びははかなくてつかの間のもの
咲いてしおれる花なのよ、もう二度と楽しむことはできないの
楽しみましょう、心をそそる熱い言葉が私たちを招いているわ

(一同)ああ!楽しもう!
杯と歌と笑いが夜を色どり、この楽園に私たちは新しい日を迎えよ
 

 

 私は、前原が民主党代表の辞任及び執行部の総退陣や、永田議員の辞職願いのニュースを聞いて、「乾杯の歌」を諳んずる訳ではない。呆れ果て物思うもイヤだ。何たる醜。何たる態。
憂鬱で堪らぬ。其のストレスを一気に吹き飛ばすのがこの歌だ。明日孫たちが来る。最後の(一同)の合唱団の大募集をしよう!!

 

 

 

 

   ALFREDO: S'inebrii a volutt . Libiamo ne'lieti calici Che la bellezza infiora, E la fuggevol ora Libiam ne' dolci fremiti Che suscita I'amore, (indicando Violetta) Poich quell'occhio al core Onnipotente va... Libiamo,amore fra i calici Pi caldi baci avr .

 

 

 


全集月報のこと

2006-03-31 12:54:22 | 日録

「荷風全集 第14巻」が入手できてやれ嬉やと思っていたら、最後の第28巻もないとばかり勘違いして、ITで捜したらこれもあったので、すぐに注文してしまった。翌日よく書棚をみたらちゃんと揃っているではないか。

 物忘れの度が、悪くなってきたのは、自分でも最近痛切に感じる所であるが、まだ書店から本の発送のメールが届いていなかったから、大急ぎキャンセルしたい旨のメールを送った。

 しかし一瞬遅かったようだ。「申し訳ないが昼過ぎ送ってしまったから、何卒宜しく頼む」という意味のメールが来た。
「まあいいや、金額も金額のことだし」と思っていたら、
立て続けに
「届いたら廃棄してください。」と簡単なメールが入ってきた。

一瞬複雑な気分に襲われたのは、年金生活者の哀れである。勿論代金は月曜日送金する積もりでいる。


  

 概ね全集などというものは、僕の場合殆ど読まない。しかし、そこに挿まれている「月報」は様々な多様な人が書いてあって面白いものだ。月報を編んで出版した本も数多いだろう。

漱石全集月報昭和3年版・10年版) 菊版396頁  岩波書店
寺田寅彦全集月報(昭和11年~昭和25年) 46版   岩波書店

 荷風全集第24巻に湯浅芳子の、
「荷風の矛盾」というエッセイが載っていた。大概は著者を誉める文が多いのが常だが、女性の文で、しかもロシア文学に精通した彼女の随想は、興味深々である。
抜粋を記す。


(略)
菊池寛の文学はいわば卑俗の文学であり、荷風のそれは反俗といえるだろう。しかし反俗といっても、荷風の反俗は、たとえばチェーホフの文学について言われる反俗とはたいへんちがう。
後者の意味でいうなら荷風自身が其の俗の最たるものであったといえる。

というのは、荷風ぐらい徹底したエゴイストはなかった。彼は自由を愛したといわれるが、それは自己の自由をいうので他人のことなんぞ考えるひとではなかったからである。
また彼には文学者・詩人としての高いプライドがあったかの如くであるけれども、実は人間としての真のプライド、人間の尊厳の自覚は欠いていたかに思われるふしが大いにある。

尤もここが彼の矛盾であって、変わりやすい気分の起伏によってこの矛盾も其のときどきに従い出没したのであったのかもしれない。

実際荷風ぐらい矛盾の多かった人はない。あるときは神(ホザナ)よ!と叫び、あるときはサタンよ!と叫ぶ、とゴーリキイが指摘しているアンドレーエフの矛盾どころではない。封建的なもの官僚的なものを憎むかにみえて、自身はなかなか封建的だし、また官僚的なところも大いにある。

これは出生や生い立ち方からもきているし、彼が漢籍をよくしたことにもよるだろう。つまり荷風の教養の複雑さが矛盾の複雑さを生んでいるのだ。江戸末期の文学やフランス文学への傾倒、これもひとつの矛盾を生む。また5年ばかりの海外生活でヨーロッパ文化にじかにふれたこと、しかも日本には吉原があり玉の井があって、そういう土地にも惹きつけられる点は、いわゆる取材の為ばかりではないのである。
(略)
一体荷風は芸術的な感覚はすぐれていたけれどもモラルの感覚に至っては低く4書5経的な偏見で簡単に片付けている。

また倫理的な思考は最低で、読んだ本は驚くばかりだったけれど、感性で受け止めていたきりではなかったか。これは音楽や劇についても同じで、だから彼には読後にも観劇後にも感想の記録がほとんどない。
荷風がゾラやモーパッサンや後年はバルビュースなどにも惹かれたというのはまことに奇異な思いがするけれど、荷風なりの読み方をしたので、作者や作品の深いイデアは解ろうとしなかったし、もともと解る筈のない人物だったのである。



誰もみんな戸惑う

2006-03-30 21:53:11 | 怒ブログ

『文部省「固執」・戸惑う編集者
        社会科相次ぐ検定意見』
これは今朝の朝日新聞第二社会面記事の見出しである。
 その内容は
①靖国問題。 「裁判での違憲判断は傍論として述べられた。判決主文は国が勝訴しているのに、それが理解できない取り上げ方はどんなものか」。

②イラク戦争 「米国のイラク攻撃を『先制攻撃』とした記述や自衛隊の多国籍軍参加に関する記述にことごとく検定意見がついた。

③竹島・尖閣諸島の領土問題  「目立つのは、『日本固有の領土』の明示を徹底したこと。」

の三点に絞られているようだ。そして
「議論の材料を記述すべきだ」との(法制思想史)京大教授のコメントが書かれている。
 しかしこんなに教科書検定で意見が分かれているのに、素朴な考えとして、取敢えず現場の先生方はどうするんだろう。

 実は 今日町の生涯学習課主導のある実行委員会が持たれ、僕も委員の一員として出席した。席上、議題をそっちのけにして考え込んでしまった。
委員である町の女性小学校校長さん二人も出席なされていて、提示された案件に真剣な討議がなされていたからである。
今年度の町の企画として、児童に課す「読書感想文コンクール」が主たる議題であった。

新聞はいう。
《「政府の立場に沿わない書きぶりは絶対に認めないという姿勢だった」。今回の高校教科書の検定での文部科学省の「こだわり」に、社会科の教科書編集者らは戸惑いを隠さない。検定意見が集中したのは、小泉首相の靖国神社参拝に対する司法判断、イラク戦争と自衛隊派遣、領土問題の3項目。成人になろうとする
高校生向けの教材への徹底したチェックに、「教室での議論が生まれない」という心配もある。》と。

再録「もっとも小さな村の第九」

2006-03-29 21:52:10 | Weblog
特に意味があって始めたのではないが、ブログを2本立てにしたことがあった。「別冊、狸便乱亭ノート」である。

他所のブログを拝見していると、一寸僕らのような、高年者にも向きそうな編集画面にも、沢山出会う。だから、もう1本ぐらい文章中心でなく、詩歌・写真などを主体としたブログなら、長続きもするだろうし、楽しいだろうと思った。

1月半ば、田原総一郎ファンのN・Tさんのブログに共鳴して書き始めた。
しかし、そのブログはいま使っている「Goo」と比べ、編集も投稿も少々ややっこしく難点が多いと思った。しかし長所もあるはずであるから、そのうち慣れるだろうと、やっている内、時折淫乱トラック・バックも数本送られてきた。2回ぐらい削除して、ガマンし続けたが、2月初め、一度に何十本も入ってくるピンク画面の大攻勢にはほとほと降参した。

 全文削除した。幸いそのTBは「タイトル」から推して、記事に対する「嫌がらせ」ではない様なので、一応は安心していたが、このようなTBを拒否する設定を捜すのも面倒だった。思い切って削除し投稿を一切止めた。
その別冊に書いた「第九交響曲」を、いま その季節ではないが、敢て再録に踏み切った。


【註】この写真は2004の大晦日NHKの3チャンネルから録画したもので、本文とは無関係である。

  『もっとも小さな「村の第九」』
 本の帯に、<昭和63年の暮れの〈第九〉は日本全国で158公演にのぼり、「すみだ5,000人の〈第九〉」や、「サントリー1万人の〈第九〉」に代表される巨大化した公演も多い。もはや流行を超えたこの〈第九〉現象とは、日本人にとって何を意味するのだろうか。

 大正7年坂東でのドイツ人捕虜による〈第九〉初演から、戦争末期の出陣学徒壮行会の〈第九〉、戦後アマチュア合唱団により市町村でも〈第九〉が歌われるようになるまで、数多くの貴重な資料や写真のもとに〈第九〉現象のルーツをさぐり、今まであまり知られていなかった《日本の第九》の歴史を明らかにする。>

このように記された単行本を見つけた。鈴木淑弘 『〈第九〉と日本人』春秋社(1989、11)である。

 このには、371ページに及ぶ、著者と〈第九〉の関わりが、17項の章に亘って書き記されている。その中に、私の身近な村、M村が、新装中央公民館の杮落としに〈第九〉演奏されたことを、

 ◎《もっとも小さな「村の第九」》として写真も入れて9ページに亘ってその実像が紹介されている。 

その村が、本ノートで記した「戦地からの手紙」の編者I元村長のなした快挙だったのであった。この村は、人口1万4千人(現在は約4千人増加)たらずの小さな村であった。この純農村といっていい村で、昭和58年12月18日、〈第九〉演奏会が実現したのである。

そのことに関して、鈴木淑弘はその章で、次のように述べている。その内容の一部を引用してみよう。
<◎先駆的な「村」の〈第九〉
12月18日、我が国初の「村の第九」が、新装のM村中央公民館大ホールで開催されたが、この演奏会のプログラムに自ら合唱団の一員として参加したI村長は次のような真摯で格調の高い「村の第九」というあいさつ文を寄せている。

 『私はM村で「第九」が歌われることに気負いがあるわけではない。ただ、さまざまある芸能・芸術活動に新たなるものを加えて、文化の色あいと村民の誇りを更にふくらませたいと思うだけである。

 歌う側も聞く側も「第九」はその力を充分に発揮するだろう。中央公民館落成を記念して、特別企画「村の第九」を組んだのはそういう意味である。文化的素養の有無や、職業の如何は問題にならない。全ての人々はそれぞれ独自の感性と感情を持っている。それを信頼し、文化創造の思想をつくり上げていくのだ。余りに多忙の現代、物質主義の横行の中で、青少年たちは窒息し、個人は利己主義に走らされ、農業をはじめ生産性の低い産業は脱落を余儀なくされる。そのような風潮に対峙していけるのはその地域の文化だけだと思う。

一人一人の創造的な活動、少ない余暇を活用した自由な精神と肉体の活動こそ文化を向上させ、地域の連帯と発展を生み出すのだと思う。

 「第九」はその内容と形式において、今こそM村にふさわしいものの一つである。大都会の着飾った大ホールで演奏されるより、地方でこそなされるべきだ。そして、本当のありうべき生活の歓びをこめて、ふつうの人たちが歌い、きくべきだと思う。

(ベートーヴェンは貴族王族ではなく市民の為にこの曲を作曲したという)。とはいえ、ドイツ語で、しかも長時間の練習を必要とする「第九」に飛び込むことは大変な業だ。九十九%が素人で未経験者である「M村第九を歌う会」の皆さんの努力と心意気に改めて敬意を表したい。この輪はさらに広がるだろう。

 先駆的であるということは、一種困難な状況、現状固定的敵名環境の中で仕事をすることに通じる。その意味で、公演費用の半分に当たる補助の支出を、積極的に認めてくれたM村議会の先進的理解に感謝する次第である。同様に貴重なカンパを合唱団に寄せてくれた村内・外の有志に深く御礼申し上げると共に永く記憶されるべきと信ずる次第である。そこに脈々と波打っているものは良きものを全ての人々に、又全ての人々と共にという思想以外の何ものでもない。「第九」に関していえば、いつの日か夢みる「村民の第九」は次のようである。――第14楽章「そうでなく、もっと別の調べを」とベートーヴェンが呼びかける、その時聴衆全員が合唱をはじめる「集え、もろびと、抱き合え」と。

   友よ、きこえて来ないか、穂波のざわめきの中で演歌まじりの第九を口ずさむ声が、
   友よ、きこえて来ないか、かつて無気力の小年の自らの感性に目ざめて歌いだす「未来」が、
   さて、どのような「村民の第九」が現出するだろう。オーケストラは美しく鳴り出す。不安と期待の中で。文化祭はフィナーレを迎える。――語り会おうM村、育てようふるさと!

そういえば,少年の頃、私が初めて第九を聞いた夜も寒かった。公演の日は太陽のひかる明るい日曜日でありますように!           

 ――演奏会当日は、村長が望んだような快晴の比較的暖かな日であったが――(略)
 会場に入ってまず驚かされたことは、そのホールの“小さい”ことと手造りの舞台などであった。 

 ホールは、350席程度の広さで、一般のホールから見ても3分の1以下、十日ほどまえにみた「大阪城ホール」からみれば豆粒ほどの大きさであった。しかも、舞台の既設のものでは狭いために、やむなく仮設の舞台が前面に張り出されていたが、よく見るとそれは、ビールビンを入れるプラスチックのケースを積み上げ厚手のベニヤ板を張ったものであった。そして更に舞台の天井には、反響板がわりに十数枚のベニヤ板がビニールひもでつりさげられていた。まもなく星出豊指揮によるフィルハーモニー交響楽団の演奏が始まったが、第一曲目は何と日本民謡の「ソーラン節」であった。このめずらしい選曲はおそらくオーケストラ演奏などになじみの少ない村民のために考えられたものと思われるが、私は何かほっとするような温かい気分になった。この「ソーラン節」が終わり、数分の休憩がとられた後いよいよ〈第九〉が演奏された。星出豊指揮による演奏は淡々と進み、やがて第四楽章へと移った。

 まもなく、あの美しい“歓喜のしらべ″がやさしく力強く演奏され、ついにティンパニーの音とともにバリトンのソロが立ち上がり歌いはじめた。そして合唱がそれに続いた。私はこの時はじめて、M村の〈第九〉が今まで見た演奏会と決定的にちがうことを理解した…。>

 長文の引用になってしまったが、それでも《もっとも小さな「村の第九」》の項の記述のごく一部分である。




咳をしても一人

2006-03-28 20:28:05 | 日録

荷風全集「14巻」が見つかって、宝くじが当たったような感激を味わった。
そうしたら、何と!「28巻」も欠本だったのである。慌ててしまった。

荷風全集全28巻46版 1962.12~1965.8しかし、これも簡単に見つかったので即刻注文した。(参照)
次の、
荷風全集(第2次)29巻46版1971.2~1974.6.更に
荷風全集新版・全30巻品切重版未定。
こんな本購う人あるんだなぁ。オレは28巻本で沢山だ。29巻も30巻にも全く魅力がない。
(岩波書店70年 1987年3月 岩波書店)より抜粋。
 1962年12月。5《荷風全集》刊行開始。全28巻。永井荷風の間には、かつて全集刊行について了解が成り、一時、原稿の類をすべて岩波書店の保管に託されたこともあったが、その後不幸にも意思の疎通を欠いて沙汰止みとなり(1940年4月30日の記事参照)、戦後の全集は中央公論社から出版された。

荷風氏の没後、著作権を継承された遺族は、種々の事情により全集刊行の出版社を決定されず、懸案となったまま3年を経過したが、最後に1962年に入って岩波書店を選定、正式に全集刊行の希望を申し出られた結果、著者没後の全集が岩波書店によって、編纂・刊行されることになったのである。

岩波書店は荷風氏と少なからぬ関係を有する佐藤春夫・久保田万太郎・堀口大學氏などの示教を仰いで別巻を定め、校訂は荷風氏の文学研究者として知られる稲垣達郎・竹盛天雄両氏に委嘱した。在来の全集に未収録の戦後の作品のほか、多くの小品・断片等も新たに蒐集され、特に世の注目するところとなっていた大正6年より没年に至るまでの日誌が原型のまま収録されされることになって、全集としては全く面目を一新するに至った。(1965.8.14完結)

井蛙の見るところ3尺の天に過ぎず、なりけるか。

咳をしても一人
放哉

改題日本海の海戦

2006-03-27 21:32:54 | 日録

岩波書店がを発行した、「岩波書店七十年」岩波書店1987 によると、
<1934年(昭和9年12.)
ー中等教科書《国語》刊―全10冊.
編集:西尾実他.
教科書出版は、文部省の監督下にあったため、編者としては自由に所信を発揮することができず、また出版者としては、特色ある出版が困難であったので、岩波書店は従来手がけていなかったが、国民教育の重要性に鑑みてあえて理想的教育書の出版を企画し、数年の準備期間をを重ねて、この教科書の刊行を開始したのであった。
販売に当たっては、従来弊害の多かった学校・教職員に対する直接売込みの方法を排し、まず新聞紙上に教科書発行についての店主の決意を表明し、その後もすべて公の広告宣伝に依存した。反響は予想以上に大きく、最初の年度に第1巻は3万5000部発行、他の巻もこれに準じ、全国国語教科書中第2位の発行部数を示すに至った。>
とある。この《国語》全10冊は1988年復刻版として同書店から発行された。

<(略)この10巻を手にすれば、今の中学・高校の国語教科書と、どうしても比較したくなる。『国語』の、当時としてはやっと手に入れたににちがいない「別漉越前鳥ノ子紙」は、今日の教科書では見られない。和綴も、いまはない。表紙はどうか。『国語』の表紙は正倉院御物「碧地狩猟文錦」の実物三分の二の複写であり、出版社はこれについて「国語教科書としての美と力と品位とを象徴し得たことに於いて他の追従を許さぬものがあると信じます」(刊行にあたって出された宣伝冊子の「編輯室より」)と自信を持って書いていた。(略)> 復刻版『国語』付録・解説 山住正巳
次の〝九 日本海の海戦〟は「国語 巻3 岩波書店」から引用したものである。

         

九 日本海の海戦
 <天佑と神助により、我が聯合艦隊は五月二十七八日敵の第二・第三艦隊と日本海に戦うて、遂に殆ど之を撃滅することを得たり。

初め敵艦隊の南洋に出現するや、上命に基づき、予め之を近海に迎撃するの計画を定め、朝鮮海峡に全力を集中して、徐に敵の北上を待ちしが、敵は一時安南沿岸に寄泊したるの後、暫次北上し来りしを以て、わが近海に到達すべき数日前より、予定の如く数隻の哨艦を南方警戒線に配備し、各隊は一切の戦備を整へ、直ちに出動し得る姿勢を持して各々其の根拠地に泊在せり。

果然、二十七日午前五時に至り、哨艦の一隻信濃丸の無線電信は、[敵艦見ゆ。敵は東水道に向かふものの如し」と警報せり。全軍踊躍、直ちに対敵行動を開始せり。

 午前七時、哨艦和泉、亦敵の東北に航進するを報じ、片岡艦隊・東郷戦隊つづいて出羽戦隊も、午前十時十一時の交、壱岐・対馬の間において敵と接触し、爾後沖の島付近に至るまで、時々敵の砲撃を受けつゝ、終始よく之接触を保ち、詳に敵情を電報せしかば、此の日海上濛気深く、展望五海里以外に及ばざりしも、数十海里を隔てたる敵影恰も眼中に映れるが如く、既に敵の艦隊はその第二・第三艦隊の全力にして特務艦船躍七隻を伴なふこと、敵の陣形は二列縦陣にして、其の主力は右翼の先頭に立ち、特務艦船はその後尾に続けること、又敵の速力は約十二海里にして、なほ北東に航進せること等を知り、本職は之に依り、我が主力を以て午後二時ごろ沖の島付近に敵を迎え、先づ其の左翼の先頭より撃破せんとする心算を立つるを得たり。

 主戦艦隊・装甲巡洋艦隊・瓜生戦隊、各駆逐隊は正午頃既に沖の島北方約十海里に達し、敵の左側に出んが為、更に西方に進路を執りしが、午後一時三十分頃出羽。東郷戦隊等相前後して来り会し、暫時にして、正にわが左舷に当たれる南方数海里に敵影を発見せり。

 ここに於いて全軍に戦闘開始を令し、同五十五分視界内に在る我が全艦隊に対し、
「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」の信号旗を掲揚せり。而して主戦艦隊は小時南西に向首し、敵と反航通過する如く見せしが、午後二時五分急に東に折れ、其の正面を変じて斜めに敵の先頭を圧迫し、装甲巡洋艦艦も続航して其の後に連なり、他の緒戦隊は予定戦策の如く南下して敵の後尾を衝けり。之を当日戦闘開始の際に於ける彼我の態勢とす。

 敵は我が圧迫を受けて稍右舷に舵を転じ、午後二時八分彼より砲火を開始せり。我は暫らく之に堪へて、距離六千米に近づくに及び、猛烈に敵の戦闘艦に砲火を集中せり。敵はこれが為に益々東南に激圧せらるるものの如く、其の左右列共に暫時東方に変針し自然に不規則なる単縦陣を形成して我と並航の姿勢を執り、其の左翼の先頭艦たりしオスラビヤの如きは、須臾にして撃破せられて大火災を起こして、戦列より脱せり。此の時に當り、我が全隊の砲火は、距離の短縮とともに益々著しき効果をあらわし、敵の旗艦クニヤージ‐スワロフ、二番艦アレクサンドル三世もまた大火災に罹り、相ついで戦列を離れければ、敵の陣形いよいよ乱れ、他の諸艦また火災に罹れるもの多く。騰煙西風に靉きて忽ち海面を覆ひ、濛気と共に全く敵影を包みぬ。これ午後二時四十五分前後に於ける戦況にして、勝敗は既に此の間に決したるなり。>

かなり長文に亘るので結びの部分を記す。
<此の対戦に於ける敵の兵力、我と大差あるにあらず、敵の将卒も亦其の祖国の為に極力奮闘したるを認む。しかも我が聯合艦隊が、よく勝を制して前の如き奇蹟をを収め得たるものは、一に天皇陛下の御稜威の致す所にして、もとより人為の能くすべきにあらず。殊に我が軍の損失、死傷の僅少なりしは、歴代神霊の加護によるものと信ずる外なく、嚮に敵に対して勇戦したりし麾下将卒も、皆此の成果を見るに及びて、唯々感激の極み言ふ所を知らざるものの如し。>
    (東郷聯合艦隊司令長官広報)
なお、原文に忠実ならんと、懸命努力したが、一部はパソコン文字に頼った。
【例】 人為→為爲  神霊→神靈 変針→變針
旧字や繰り返しの等記号も「外字エディタ」でも小生には作れないものは
「々」や「ゝ」または、文字そのままを繰り返し使用した。



日本海海戦について

2006-03-26 21:23:58 | 反戦基地

【日本海海戦】明治三八年(1905年)5月27日から翌日に賭けて行われた日露戦争中最大の海戦。日本海対馬沖で、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。(松村明編・大辞泉 小学館)

【日本海海戦】日露戦争における日本・ロシア両海軍の決戦。1905年(明治三八)5月27日から翌28日にわたり、日本海対沖で司令長官東郷平八郎の率いる連合艦隊がバルチック艦隊を壊滅させた。(新村出編・広辞苑第5版)

(日本海海戦)1904年(明治37)年2月、日本は英米の支持を受け、ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争。戦場になったのは朝鮮と満洲だった。1905年、日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利した。

ロシアは劣勢をはね返すため、バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は、アフリカの南端をを迂回し、インド洋を横切り、8ヶ月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の開戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。(市販本新らしい歴史教科書 扶桑社)
 
第十 日本海海戦
 露国が連敗の勢を回復せんため、本国における海軍の殆ど全勢力を舉げて編成せる太平洋第二・第三艦隊は、朝鮮海峡を經てウラヂボストックに向かはんとす。わが海軍は、初より敵を近海に迎へ撃つの計を定め、豫め全力を朝鮮海峡に集中してこれを待つ。

 明治三十八年五月二十七日午前四時四十五分、我が哨艦信濃丸より、無線電信にて「敵艦見ゆ。」との報告あり。東郷司令長官は、直ちに全軍に出動を命じ、先づ小巡洋艦をして、敵艦隊を沖島にいざなひ寄せしむ。
午後一時五十五分、我が旗艦三笠は戦闘旗をかゝぐると共に、信号旗を以て令を各艦に下せり。いはく、
「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮勵努力せよ。」と。我が軍の士気大いに振るふ。三笠に乗れる東郷司令長官は、六隻の主艦隊を率ゐて、上村艦隊と共に先頭なる敵の主力に當り、片岡・出羽・瓜生・東郷(正路)の諸隊は、敵の後尾をつく。

敵の先頭部隊は直ちに砲火を開始せしが、我はこれに應ぜず、距離六千米に近づきて始めて應戦し、烈しく敵を砲撃せしかば、敵の艦隊忽ち乱れ、早くも戦列を離るゝものあり。

風叫び海怒りて、波は山も如くなれども、沈着にして熟練なる我が砲員の打ち出す砲弾は、よく敵艦に命中して、火災を続々起こし、黒煙海をおほう。午後二時四十五分、勝敗すでに定まれり。敵はかなはじと、にはかに路を変へて逃げ去らんとす。我は急にその前路をさへぎりて攻撃せしかば、敵の諸艦皆多大の損害を受け、続いてわが駆逐艦より二回の水雷攻撃を受けて、敵の両旗艦を始め、その他の諸艦も多く相次いで沈没せり。夜に入りて、我が駆逐艦、水雷艇隊は、砲火をくぐって敵艦に迫り、無二無三に攻撃せしかば、敵艦隊は四分五裂の有様となれり。

明くれば二十八日、天よく晴れて海上波静かなり。我が艦隊は、東郷司令長官の命により欝稜島付近に集まりて敵を待ちしが、忽ち東方に當りてはるかに数条の黒煙を見る。よりて主戦艦隊及び巡洋艦隊は、直ちに東方に向かって敵の進路をふさぎ、片岡・瓜生・東郷の諸隊は、その退路を断ちて、午前十時十五分、全く敵を包囲せり。敵将ネボカトフ少将、今は逃れぬところと覚悟したりけん、にわかに戦艦ニコライ一世以下四隻を挙げて部下と共に降伏せり。

敵の司令長官ロジェストウエンスキー中将は、昨日の戦闘に傷を負ひ、幕僚と共に一駆逐艦に移りしが、我が駆逐艦漣・陽炎の二隻に追撃せられ、遂に捕へらるゝに至れり。

此の両日の戦に、敵艦の大部分は、我が艦隊のために、或は撃沈せられ或は捕獲せられて、三十八隻中逃れ得たるもの巡洋艦以下数隻のみ。敵の死傷及び捕虜は、司令長官以下壱萬六百余人。我が軍の死傷甚だ少なく、艦艇の沈没したるもの僅かに水雷艇三隻に過ぎず。

東郷司令長官の発せし戦況報告の末尾にいはく、
「我ガ連合艦隊ガ能ク勝ヲ制シテ前記ノ如キ奇蹟ヲ収メ得タルモノハ、一ニ天皇陛下ノ御稜威ノ致ス所ニシテ、固ヨリ人為ノ能クスベキニアラズ。特ニ我ガ軍ノ損失・死傷ノ僅少ナリシハ、歴代神霊ノ加護ニ由ルモノト信仰スルノ外ナク、曩ニ敵ニ対シ勇進敢戦シタル麾下将卒モ、皆此ノ成果ヲ見ルニ及ンデ、唯々感激ノ極、言フ所ヲ知ラザルモノノ如シ。」
と。勝報上聞に達するや、司令長官にたまへる勅語の中に、

「朕ハ汝等ノ忠烈ニ依リ、祖宗ノ神霊ニ對フルヲ得ルヲ懌ブ。」
と仰せられたり。将兵、すべて感泣せざるはなかりき。
(文部省・尋常科用 小学国語読本巻十一)

薫風に托鉢迎ふ少子村

2006-03-25 20:25:37 | 日録
托鉢の写真を添えて友人たちにメールを送ったら、
「今でも托鉢の写真が撮れるところが有るなんて驚きました。」
「実際行き会ったこともなく身近に出会ったこともないし、テレビや映画の一齣として記憶にあるだけです」などというご返事を頂いた。(参照)

 なるほど、今は田舎と言えども玄関は、施錠してある所が多いし、托鉢を知らない「団地」などでは、「物乞い」と間違われる危険性も十分考えられる。第一留守番を預かっているのは、耳すら聞こえない老人ばかりのところが多くなってしまったからである。

 それでなくとも、猛犬に吼えられる危険性は必ずあるであろう。
 しかし、このZ寺のある村に関する限り、それは杞憂であった。午後1時半、同宗青年部の僧が10人以上集まり、本堂で永代供養の法事が厳かに行われた後、世話役の先導で3人ぐらいづつ手分けして、檀家のすべての家庭を廻って托鉢をしたのであった。

早速、世話役であったA君が、小生の句に次のような「感想文」を「俳句会月報」
に寄せてくれた。

<《薫風に托鉢迎ふ少子村  tani》
 広辞苑によれば「托鉢」は、①修行僧が、各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けて廻ること。乞食(こつじき)②善寺で食事の時、僧が鉢を持って僧堂に行くこと。
―とあるが、わが村でもこの彼岸明けに托鉢を行った。
 県仏教会の青年部の若い僧が、網代笠(あじろがさ)、墨染めの僧衣に白足袋草鞋(わらじ)姿でS~Kの各戸をお経を上げて廻ったのである。経は「摩訶般若心経」「薬師真言」(やくししんごん)「法華成仏偈」(ほっけじょうぶつげ)とあげて、最後にお布施を頂いて廻るのであるが、この浄財はラオスに学校を建てる資金にするそうである。天台宗の青年部が毎年継続して進めている運動である。

……春の日差しの中、足早に歩く修行僧達の目立つ姿は、一昔前だったら子供の列も出来ただろうが、静かな村は見送る人影もなく、僧たちのお経の声だけが時折家並みから聞こえる。待っているのは年配のお婆さんで、初めて来た托鉢にどのような接待をすればよいか、腐心しているのである。
 白装束に墨染めはキリリとした出で立ちであるが、薫風にゆれる様子は、網代笠の中を覗きたい衝動に駆られる。眉目秀麗な面影が笠の下にあるようで、それを想像させる読経の素晴らしい協和音も響いているのだった。志の高さは歩行の早さにも現れている。>K・A生

 此処で荷風全集の話題はまことに不謹慎であった。お詫びしたい。
 荷風散人「罹災日録」(扶桑書房)2000円也では随分迷った。2000円という金額は今のオレにとっては、大金である。諦めて帰ってきた。
 以前書いた記憶があるが、オレは30巻のうち1巻欠本の荷風全集を持っている。
欠巻の「第14巻」は割合見つかると思うと、店主の助言があったのだが、アテにもしていなかった。兎に角30巻(つまり1巻欠)で5000円という安値で買い入れたものだ。
 所が今日荷風「罹災日録」をIEで検索してみたら、2000円の値段は頷けたのであるが、そんなことどうでもよくなった。
荷風全集第14巻が400円で見つかったのである。早速注文したら早速届いた。早速送金した。洵に季節は春であった。> 
    




托鉢

2006-03-25 18:53:36 | 日録

〈戒名には院、居士、信士など号がつくことが多い。その違いを「院は浄土へのグリーン席、居士は指定席、信士は自由席」と座席料金にたとえて講釈する寺がある。「せっかくならグリーン車で」。戒名料を奮発させようという魂胆のようだ〉。(朝日新聞3.19付天声人語)

 このコラムを読む限り、お寺さんというところは、何かお金ですべての座席が決まってしまうような感じを受けてしまうし、営利ばかりを目的としているところとだとばかり感違えしている人も、少なくないようだ。

それは、今の政治家が碌なことをやっていないから、そう思うのであって、たとえば創価学会のように、南無妙法蓮華経を唱えながら、政党の選挙運動ばかりやるのが、仏教ではない。

本当の仏教とは、兎に角「戦争はゴメンだ」と叫びながら、静かに「摩訶般若心経」を唱え、その冥加料を世界平和にいくらかでも寄与しようとして行う、真摯な托鉢のあることを私たちは肝に銘すべきである。

責任をとるということ(6)

2006-03-24 22:25:13 | 反戦基地
   公式参拝とは       角田三郎

 天皇の靖国神社公式参拝ということを、もう少し視点を変えて考えてみよう。
 まず“公的〟というあいまいな言葉であるが、それは、国事行為と私的の間の中間的な領域にあることだという。宮沢俊義『日本国憲法』の国事行為についての説明にはこうしるしてあった。

 「天皇の国事に関する行為に〝内閣助言と承認〟を必要とするとは……天皇のそれらの行為はひとえに内閣の意思にもとづいて行われるべく、天皇が単独に行うことが出来ないこと、言葉をかえていえばそれらの行為は、天皇の名で、天皇の行為という形でなされるが、其の実質上の行為者は原則として内閣でなくてはならないこと、これを裏からいえば、それらの行為についてについては、天皇は、内閣の決定を無条件にそのまま採用し〝めくら判〟を押さなくてはならないことを意味する」。

 天皇の公式参拝は、いかにしても国会で成立しなかった靖国法案を、内閣が、天皇を利用悪用して、何とかその成立にこぎつけたいとする第一歩である。

しかし、国会と内閣が、本来の責任ある行為と判断を自らの責任においてとることを放棄し、天皇という無責任なる存在に、また、かつて民衆の一切の生命と権利を侵略した存在に、再び憲法上疑義ある行為をなさしめるとは何事であろうか。
私たちは、内閣の責任は国事行為に準じて問われるべきであると思うから、天皇の公式参拝の時点で総理大臣を(内容的には天皇それ自身を)告発しようと思っている。
公的などという言葉で逃げても、内閣には責任があるからである。

また、公的な行為とは私的な領域との中間であるということから考える。それならば、それは、黒でも白でもないといって逃げられることではなく、黒でもあり白でもあるとして考えられるべきことであろう。ということは、国事行為に準ずるものとして内閣の責任は問われ、又、天皇自身の私意、恣意によって、現憲法の根幹をつきくずす業がなされているということを、天皇自身がなそうとしていることを問われなければならないということである。

無責任な、無責任な者をして、現憲法を破らしめようとする内閣も問題なら、無責任なる者をして、現憲法を(天皇制にとって全く困った存在であるものを)踏みつけようとする天皇も問題である。

そもそも天皇は、旧憲法上に君臨し、民衆の生命も思想も良心も信仰も無視してきた当事者であった。それは、明治初期や大正の、自由民権運動の歴史を見れば明白なことだ。
昭和にあっても、国会で決し得なかったことを、緊急勅令で、天皇自身が国会を無視する形式で成立せしめた治安維持法があり宗教法人法があった。

「治安立法として有名な治安維持法の前身は、大正12年の大震災に便乗して弾圧をねらった緊急勅令であったし、さらに、その強化のために、昭和3年4月、同法罰条に極刑を加えて提出した改正法案が、衆議院において未了となると、政府は『事態ノ急到底議会招集ノ暇ナシ』との理由のもとに、6月29日、治安維持法を改正する緊急勅令を公布、即日施行。遂に
『国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ5年以上ノ刑ニ処』することにしたのである」(体系憲法時点より)

天皇の公的参拝は、かつて天皇自身が政府と共に実行したあの緊急勅令による悪法作りを繰り返すことだ、ということを、天皇自身と内閣が銘肝すべきだと私は思う。
再三繰り返すけれど、公的という灰色の言葉で、天皇も内閣も共に無責任な形で、現憲法の侵犯がなされることは承認されるべきではない。

 8・5集会の動因の1つは、朝鮮半島の民衆や台湾の民衆が「天皇陛下ノ為ニ喜ンデ死ンダ」と確言した靖国神社当局の発言にあった。靖国神社当局にも靖国法案や天皇の公式参拝を推進する人々にも、隣国の民への戦争責任や罪責が全く欠如していることはこのように明白である。
以上のことから、靖国当局や改憲論者や靖国法案推進の意見を一言でまとめればこうである。

「日本は肇国以来、天皇の私有物である。天皇が天皇制という国体護持のため、兵士と庶民をどんな惨苦に追いやっても、それは統治者の権利の行使だから当然のことで、民衆も兵士もそして服属した隣国の民も、天皇のために死ぬことを光栄とし、喜んだのである。
天皇はまた、天照大神の直系の現人神である。そのまことの最高至貴の神の勅のまにまに生き死んだものを、天皇の命令で神とするのが靖国神社や国家神道の神社である。だから、法にあっては神聖不可侵の統治者であり、精神界にあっては現人神であり、人を神とすることを承認し否決できる唯一の方である天皇が、堂々と国家の元首として、靖国神社に望むことが正しいことなのだ。そうでなければ、天皇のために死んだことが全く無意味になるではないか」。






戯作「地下足袋のうた」

2006-03-23 21:49:33 | 日録

(一見土地改良の顕彰記念碑のように見えるけれど、土屋文明の揮毫による『文学碑』である。)
 
 今日は仲間と一緒に伊藤左千夫の文学散歩に参加した。
復習として、古い冊子を探して確めてみた思い出。1987年の頃のことである。

嘗て僕は、「北の壁」という短歌会の一員だったことがあった。当然「北の壁」なる短歌冊子に毎月作品を発表して、相互に作品評を出し合っていたものだ。
この会員に満蒙開拓義勇軍出身者で、M町町議会議員のT.Yさんがおられた。

農は国の基といわれ履きこし来破れ地下足袋とふとも較べぬ
地下足袋は幾足履きしなお幾足履けるならんとふっと思うなり
借金の督促に今宵来るという地下足袋なかば脱ぎしままいる
                     (T・Y詠)
このように、氏は「地下足袋」を歌材にすることが多かったから、僕がT・Yさんの歌評に代えて次の歌を投稿した。

 戯作「地下足袋のうた」(T・Y大兄に)
地下足袋のうたよむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る
                   
しかし次号この歌は 戯作「地下足袋のうた」という表題省略で一般作品欄に載せられ、次号作品講評の対象になったのである。佳作なりとのご講評を得た。

蛇足となるが、『戯作(たわむれさく)』と註を入れてくれないと、困るのである。しかし誰も気がつかぬらしく、今でも冷や汗物となっている。小冊子といえども、何十部もかがどこかに配られているのである。恥ずかしいが、今となっては抗議も弁解もままならぬ。

牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る
            伊藤左千夫

しっかりしてよ!N・K党さん!

2006-03-22 21:39:27 | 怒ブログ
テレビを殆ど見ないボクは、今度のWBCの試合のことなど、全く知らなかった。
昨日、村の中を散策していて、喫茶店「森の径」を通ったら祭日休業。南面の居間のガラス戸越しに、ご夫婦揃ってテレビの前で狂喜しているのが見えた。それで、日本チームが世界一の座を射止めたのを知った次第である。

 今夜、わが家でも夕餉の時間、テレビを点けた。否が応でも帰国した日本チームを迎える、報道陣、カメラのフラッシュ・紅潮した多勢の人たちの顔が映し出された。
 そして、対戦相手のキューバ代表が21日、帰国した時の映像である。
選手たちが首都ハバナへ到着すると、カストロ国家評議会議長らが出迎え、大勢の市民も歓迎した。セペダ選手は「日本に負けた決勝から学ぶべきことはあるが、この歓迎は誇りに思う」と話した。
 カストロ議長は「国中でテレビを見たから停電になりそうだった」などと話し、選手の奮闘をたたえた。

 ボクはこちらの方が感激した。
 憲法9条を護ろうというブログの叫びに、俺も思わず声を出して叫んでしまった。
 「社民党、あ、民社党だっけ課。莫迦ぁ!!!ムラヤマなんていうご老体も嘗てありきだったっけなぁ。
カストロ議長の、あの格好良い戦闘服良く見習え!!
ブルーカラーを馬鹿にしてはいけない。N・K党の東大出の、アンちゃん!
社民党にもカストロ議長みたいな人★稲ぁ!!!!!
捨民党などといわれ、みっともないぞ、福島さん。

惜春

2006-03-22 05:52:19 | 日録
まだ、惜春という季節には早いと思うけど…。
 土曜日の朝、朝行の読経を終えて客殿の茶席戻ると、
 「托鉢にご協力のお願い」というチラシを若住職のK師が来られて皆さんに配って歩いた。
彼岸明けの翌日にあたる25日、「托鉢」があるので、檀家の人に配って欲しいと、分厚い状袋である。今ここに来ている人たちは、それぞれ檀家の世話役員なのである。
 私と、Iさんは此の寺の檀家でないので、渡されない。余分にあったら一枚下さいといって頂いてきた。内容は次のようなものであった。

   托鉢にご協力のお願い
 天台宗では、「一隅を照らす運動」を昭和44年から推進しており、日本国はもとより海外でも災害、人道支援など宗教的な立場から数多くの地球救援活動援助事業をおこなっております。
その「一隅を照らす運動」の一環として東南アジアのラオスの国に学校を建設する運動を展開しており、これまでに22校の学校を建設し現在ラオスのシビライ村に中学校の建設を進めております。その一助とにと県の天台宗仏教青年会が托鉢を下記により実施いたします。何卒、檀徒の皆様のご協力をお願いいたします。
      記
日時:平成18年3月25日(土)午後2時~午後4時
場所:×××、×××
 各戸を回り各家の玄関先でお経を上げ、各家の家内安全、先祖代々の供養を致します。冥加料は、お気持ちで上げていただくものですが1,000円を目安にしていただければと存じます。
今のラオス村は日本の昭和35,6年の頃で、子どもたちは裸足ですが目は輝いていました。


 私はまだこの「托鉢」というものを見たことがない。月末に新聞販売店から無料配布のPR誌に連載されている、玄侑宗久の「ベラボーな生活」に
「風薫るネグリジェ」という副タイトルのエッセイが載っていたのを読んだのを思い出した。

 雲水(行雲流水のようにゆくえの定まらないことから)所定めず遍歴修行の禅僧(行脚僧)が、「ほ~ほ~」と言いながら路地を歩く。
この声は、托鉢に来たことを一般の家の皆さんにお知らせする合図であるとともに、托鉢僧どうしがお互いの居場所を知らせる効果があることなど、また(「ほ~」という声は、仏法の「法」だと言う説のほかに、食器である「鉢孟(はつう)だとの説もあるとのこと、コインを投げつける方もいるそうだが、
「投げつけられたお金を拾っても托鉢にならない。我々は乞食ではない」と言うことなどがこと面白く書かれてある。

「風薫るネグリジェ」という表題は、マンションの4階の上の方で女性が手を振っている。その右手はコインを持っているように開かなれていないので、すぐ反応を示さないとコインを投げられる恐れがあると思ったから、ひたすらに4階まで息を切らして駆け上がると、
 40前後ぐらいに見える先刻の女性が大きくドアを開け、「仏壇の前でお経を上げてくださるんでしょ」と無邪気にいう彼女の香水を含んだ薫風が、ネグリジェを揺らして吹き抜けていった…、意味ありげな、くだりを指す。

 玄侑先生一瞬迷ったあと、
「あのう、托鉢は玄関先でいただくものなんです。すみません。仏壇でのお経も読めません」
 納得してくれた彼女からお金をいただくと、さっきより息を切らして階段を駆け下り連絡線に飛び乗るように仲間と合流したという他愛もない話で終わる。

 さて25日、私は朝行仲間、A君宅に托鉢の時間を見計らってお邪魔致し、実際の托鉢姿をデジカメに撮らせてもらう約束をした。
 お許しがあれば25日過ぎのブログに托鉢僧の写真を載せたいと思っている。
勿論「風薫るネグリジェ」に出会いそうもない、純朴な農村である。





今日は何の日?

2006-03-21 07:47:16 | 日録

 昨日は終日暴風の如き強風吹き荒れる。此処数日パソコンのやりすぎにや?両眼ちらちら動くものあり煩わし。、M眼科医に行く。 心配したが異常なかりき。

 次、K耳鼻科。広い待合室のベンチ。オレが文庫本を読んで居眠り寸前の所へ隣席の男との僅かな隙間に大きなけつ(尻)が割り込んできた。隣人はその女の夫らしかった。オレは仕方がないからそこから1メートル近く席をずらして避けた。男の向こう側もうんと席が空いているんだぜ。

 以前にも別の大學病院の待合で同じような経験がある。オレは女難の相があるのかもしれない。

 2時頃とはなりぬ。
 「×××」中華そばを食い、
 久しぶり古本屋「□□□□」に遊ぶ。老夫婦(60歳代か?)の経営の店なり。後継者なしと云。
奥さん一人古雑誌をへセロハン紙をかけていた。来客一人。
 「浪花節1代」という箱入りの本、もう10年近く同じ書棚に鎮座している。
 2000円の表示なりき。
 「パソコン上達しました?」
 「やっていないのよ」
 「オレ教えてやるかなぁ」
 荷風散人「罹災日録」(扶桑書房)食指が動いたが諦めた。
 他に欲しきもの見当たらず。
「聞けわだつみのこえ」全日本ブッククラブ版義理買いして帰る。


広辞苑によれば、【春分】二十四節季の1。太陽の中心が春分点上に来た時の称。春分を含む日を春分の日といい、太陽暦では3月21日頃。春の彼岸の中日にあたる。学校の休み日。昼夜の長さがほぼ等しい。
春季皇霊祭=天皇が毎年春分の日に、皇霊殿で歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祀る祭祀。旧制の祭日の一。今は【春分の日】といい、国民の祝日。

彼岸[梵語、波羅 (Para)nノ譯語(一){仏教ノ語。生死ノ境界ヲ此岸トシ、涅槃ヲ彼岸トシ、煩悩ヲ中流ニ譬ヘ、波羅蜜ヲ到彼岸トス。即チ、菩薩、無相ノ知恵ヲ以テ、禅定ノ舟航ニ乗ジ、此岸ヨリ彼岸ニ至ラシムト云フ。
(二)佛家ニ春分、秋分ノ日ヲ中日トシテ、其前後、各々三日、合ハセテ七日間ノ称。(二百年前、春分、秋分ノ日ヨリ三日目ヲ初トシ、其六日目ヲ中トシ九日目ヲ終ワリトセシコトモアリキ)此期間、仏事ヲ修スルコト、コレヲ彼岸会ト云ヒ、道、俗、共ニ、諸仏ニ詣デ、亡霊ニ供養ス。(三)転ジテ、ソノ七日間ノ季節ノ称。



天皇・マッカーサー会見

2006-03-20 18:25:19 | 怒ブログ

 私が若い頃、≪『西風とひょうどり』は陽いっぱい≫とよく言われたものだ。『ひようどり(日雇取)』とはヒヤトヒノ人足、ヒヨウカセギの事である。つまり西風と≪「ひょうどり」は日没で終わりになるから、も少しのガマンですョ≫という意味をこめて使った言葉だ。

 実際昔はよく西風が吹いた。我が村からT町に通じる県道を西に向かうのは自転車が漕げず、押していったことが何回もあったのを覚えている。

そうだ、長塚節「土」の書き出し部分はこうであった。
<烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうっと打ち付けては又ごうっと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひゅうひゅうと悲鳴の響を立てて泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつつ目叩いた。そして西風はどうかするとぱったり止んで終ったかと思うほど静かになった。>

今は日没になっても西風が止まないことが多い。ひようとりを、「パート」に譬えると日没で終わりになるとは考えられない。
そんなことを考えさせられる1日であった。終日風吹きまくり震えあってしまった。

天気図を挿入しておいた。

東北や北海道は20日午前、低気圧が発達しながら北海道の東海上を北上したため、各地で風速18メートル以上の強い風を観測した。気象庁は暴風雪や高波への警戒を呼び掛けている。北海道では21日朝にかけ、日本海側を中心に断続的に雪が強く降り、大雪となる恐れもあるという。
 気象庁によると、各地の風速は襟裳岬(北海道)22メートル、飛島(山形県)19メートルなど。
 21日午前6時までに予想される最大風速は北日本の海上で20-25メートル、陸上で18-22メートル。波の高さは北海道、東北の沿岸で6-7メートルの見込み。予想降雪量は北海道の多い所で50センチ。
                                                   (共同通信) - 3月20日8時52分更新


昭和天皇・マッカーサー会見は45年9月~51年4月、リッジウエー中将(のち大将)との会見は翌年5月まで行われた。いずれも内容は秘密にされたが、マッカーサー会見第1回全文と第4回の前段については、作家の児島襄氏(故人)が通訳の記録を雑誌や著書に公表。第3回記録も国会図書館に保管されているのが見つかった。

45年~47年マッカーサー会見1‐4回
戦争責任―第1回

昭和天皇は敗戦直後の1945年9月27日、米大使館に連合国最高司令官マッカーサー元帥を訪ね、約37分間会見した。ただ一人通訳として立ち会った外務省参事官の奥村勝蔵氏はただちに記録を作った。

少なくとも1部は外務省、一部は宮内省(当時)に保管されたが、いまだに公開されていない。この会見についてマッカーサー元帥は64年の回想記で、天皇が戦争の全責任を負うと言明し、「私自身貴方の代表する諸国の採決にゆだねる」旨を語った、と記している。

だが、作家の児島襄氏が75年11月号の「文芸春秋」誌に公表した奥村氏の要領筆記には、直接天皇が全責任を負うと発言した言葉がなかったため、研究者の間で論議を呼んだ。
松井手記はこの奥村メモを全部転記し、「全責任発言の経緯について新たな指摘をしている。松井手記は、以下のように述べる。

「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる」旨の発言は通訳の奥村氏によれば、「あまりの重大さを考慮し記録から削除した」。その発言は、元帥が「滔滔と戦争哲学を語った直後に述べられた」という。(略)

 歴史の空白埋める
49~51年マッカーサー会見第8‐11回
核心―第9回。
(略)天皇は朝鮮半島情勢、ソ連の原爆保有などについて元帥に尋ね、「日本として千島がソ連に占領され、若し台湾が中共の手に落ちたならば、米国は日本を放棄するのではないかと心配する向きがある」と伝えた。
 元帥は「米国の政策は全く不変です。米国は日本に止まり日本及び東亜の平和を擁護するために断固として戦うでありましょう」と決意を示した。

停滞―第10回
(略)その後2人は中国、インドネシア情勢について意見を交わす。天皇は「日本共産党は国際情勢の推移に従い巧みにソ連のプロパガンダを国内に流して国民の不満をかきたてているように見受けられます」と感想を述べた。

元帥は共産党が法律に違反したらどしどし取り締まり、宣伝に対して保守的世論は宣伝をもって応える努力が必要だと言う見解を示した。 会見後、元帥は5月3日に日本共産党の非合法化を示唆。6月6日に共産党中央委員24人の公職追放を指令した。

離別―第11回
情勢は急変する。50年朝鮮戦争が勃発し、元帥は軍の指揮に没頭する。(略)51年4月15日の会見は、マッカーサー元帥がトルーマン大統領に罷免された4日後。これが最後の会見となった。
元帥は「お別れの言葉を申し上げるのは私の惜別おく能わざる」と、これまでの協力に謝意を述べた。
天皇も「誠に残念」と答え、朝鮮半島での米軍人、民間人らの死傷者に同情の気持ちを表した。(略)天皇は「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付き謝意を表したいと思います」と語った。(略)