狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

再録「もっとも小さな村の第九」

2006-03-29 21:52:10 | Weblog
特に意味があって始めたのではないが、ブログを2本立てにしたことがあった。「別冊、狸便乱亭ノート」である。

他所のブログを拝見していると、一寸僕らのような、高年者にも向きそうな編集画面にも、沢山出会う。だから、もう1本ぐらい文章中心でなく、詩歌・写真などを主体としたブログなら、長続きもするだろうし、楽しいだろうと思った。

1月半ば、田原総一郎ファンのN・Tさんのブログに共鳴して書き始めた。
しかし、そのブログはいま使っている「Goo」と比べ、編集も投稿も少々ややっこしく難点が多いと思った。しかし長所もあるはずであるから、そのうち慣れるだろうと、やっている内、時折淫乱トラック・バックも数本送られてきた。2回ぐらい削除して、ガマンし続けたが、2月初め、一度に何十本も入ってくるピンク画面の大攻勢にはほとほと降参した。

 全文削除した。幸いそのTBは「タイトル」から推して、記事に対する「嫌がらせ」ではない様なので、一応は安心していたが、このようなTBを拒否する設定を捜すのも面倒だった。思い切って削除し投稿を一切止めた。
その別冊に書いた「第九交響曲」を、いま その季節ではないが、敢て再録に踏み切った。


【註】この写真は2004の大晦日NHKの3チャンネルから録画したもので、本文とは無関係である。

  『もっとも小さな「村の第九」』
 本の帯に、<昭和63年の暮れの〈第九〉は日本全国で158公演にのぼり、「すみだ5,000人の〈第九〉」や、「サントリー1万人の〈第九〉」に代表される巨大化した公演も多い。もはや流行を超えたこの〈第九〉現象とは、日本人にとって何を意味するのだろうか。

 大正7年坂東でのドイツ人捕虜による〈第九〉初演から、戦争末期の出陣学徒壮行会の〈第九〉、戦後アマチュア合唱団により市町村でも〈第九〉が歌われるようになるまで、数多くの貴重な資料や写真のもとに〈第九〉現象のルーツをさぐり、今まであまり知られていなかった《日本の第九》の歴史を明らかにする。>

このように記された単行本を見つけた。鈴木淑弘 『〈第九〉と日本人』春秋社(1989、11)である。

 このには、371ページに及ぶ、著者と〈第九〉の関わりが、17項の章に亘って書き記されている。その中に、私の身近な村、M村が、新装中央公民館の杮落としに〈第九〉演奏されたことを、

 ◎《もっとも小さな「村の第九」》として写真も入れて9ページに亘ってその実像が紹介されている。 

その村が、本ノートで記した「戦地からの手紙」の編者I元村長のなした快挙だったのであった。この村は、人口1万4千人(現在は約4千人増加)たらずの小さな村であった。この純農村といっていい村で、昭和58年12月18日、〈第九〉演奏会が実現したのである。

そのことに関して、鈴木淑弘はその章で、次のように述べている。その内容の一部を引用してみよう。
<◎先駆的な「村」の〈第九〉
12月18日、我が国初の「村の第九」が、新装のM村中央公民館大ホールで開催されたが、この演奏会のプログラムに自ら合唱団の一員として参加したI村長は次のような真摯で格調の高い「村の第九」というあいさつ文を寄せている。

 『私はM村で「第九」が歌われることに気負いがあるわけではない。ただ、さまざまある芸能・芸術活動に新たなるものを加えて、文化の色あいと村民の誇りを更にふくらませたいと思うだけである。

 歌う側も聞く側も「第九」はその力を充分に発揮するだろう。中央公民館落成を記念して、特別企画「村の第九」を組んだのはそういう意味である。文化的素養の有無や、職業の如何は問題にならない。全ての人々はそれぞれ独自の感性と感情を持っている。それを信頼し、文化創造の思想をつくり上げていくのだ。余りに多忙の現代、物質主義の横行の中で、青少年たちは窒息し、個人は利己主義に走らされ、農業をはじめ生産性の低い産業は脱落を余儀なくされる。そのような風潮に対峙していけるのはその地域の文化だけだと思う。

一人一人の創造的な活動、少ない余暇を活用した自由な精神と肉体の活動こそ文化を向上させ、地域の連帯と発展を生み出すのだと思う。

 「第九」はその内容と形式において、今こそM村にふさわしいものの一つである。大都会の着飾った大ホールで演奏されるより、地方でこそなされるべきだ。そして、本当のありうべき生活の歓びをこめて、ふつうの人たちが歌い、きくべきだと思う。

(ベートーヴェンは貴族王族ではなく市民の為にこの曲を作曲したという)。とはいえ、ドイツ語で、しかも長時間の練習を必要とする「第九」に飛び込むことは大変な業だ。九十九%が素人で未経験者である「M村第九を歌う会」の皆さんの努力と心意気に改めて敬意を表したい。この輪はさらに広がるだろう。

 先駆的であるということは、一種困難な状況、現状固定的敵名環境の中で仕事をすることに通じる。その意味で、公演費用の半分に当たる補助の支出を、積極的に認めてくれたM村議会の先進的理解に感謝する次第である。同様に貴重なカンパを合唱団に寄せてくれた村内・外の有志に深く御礼申し上げると共に永く記憶されるべきと信ずる次第である。そこに脈々と波打っているものは良きものを全ての人々に、又全ての人々と共にという思想以外の何ものでもない。「第九」に関していえば、いつの日か夢みる「村民の第九」は次のようである。――第14楽章「そうでなく、もっと別の調べを」とベートーヴェンが呼びかける、その時聴衆全員が合唱をはじめる「集え、もろびと、抱き合え」と。

   友よ、きこえて来ないか、穂波のざわめきの中で演歌まじりの第九を口ずさむ声が、
   友よ、きこえて来ないか、かつて無気力の小年の自らの感性に目ざめて歌いだす「未来」が、
   さて、どのような「村民の第九」が現出するだろう。オーケストラは美しく鳴り出す。不安と期待の中で。文化祭はフィナーレを迎える。――語り会おうM村、育てようふるさと!

そういえば,少年の頃、私が初めて第九を聞いた夜も寒かった。公演の日は太陽のひかる明るい日曜日でありますように!           

 ――演奏会当日は、村長が望んだような快晴の比較的暖かな日であったが――(略)
 会場に入ってまず驚かされたことは、そのホールの“小さい”ことと手造りの舞台などであった。 

 ホールは、350席程度の広さで、一般のホールから見ても3分の1以下、十日ほどまえにみた「大阪城ホール」からみれば豆粒ほどの大きさであった。しかも、舞台の既設のものでは狭いために、やむなく仮設の舞台が前面に張り出されていたが、よく見るとそれは、ビールビンを入れるプラスチックのケースを積み上げ厚手のベニヤ板を張ったものであった。そして更に舞台の天井には、反響板がわりに十数枚のベニヤ板がビニールひもでつりさげられていた。まもなく星出豊指揮によるフィルハーモニー交響楽団の演奏が始まったが、第一曲目は何と日本民謡の「ソーラン節」であった。このめずらしい選曲はおそらくオーケストラ演奏などになじみの少ない村民のために考えられたものと思われるが、私は何かほっとするような温かい気分になった。この「ソーラン節」が終わり、数分の休憩がとられた後いよいよ〈第九〉が演奏された。星出豊指揮による演奏は淡々と進み、やがて第四楽章へと移った。

 まもなく、あの美しい“歓喜のしらべ″がやさしく力強く演奏され、ついにティンパニーの音とともにバリトンのソロが立ち上がり歌いはじめた。そして合唱がそれに続いた。私はこの時はじめて、M村の〈第九〉が今まで見た演奏会と決定的にちがうことを理解した…。>

 長文の引用になってしまったが、それでも《もっとも小さな「村の第九」》の項の記述のごく一部分である。




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3 コメント

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Unknown (遊彩)
2006-03-30 09:23:32
<もっとも小さな「村の第九」>に市川氏の要請により参加したのは「土浦市第九を歌う会」

以来「土浦市民合唱団」「東京文化会館(日本フィルハーモニー)」につぐ、4回目の出演であった。それが最後の「私の第九の合唱」になり、これらの経験は私の人生の貴重な財産である。
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三橋美智也とはまた一味… (tani)
2006-03-30 11:02:05
コメント有難うございます。

「表千家」からいきなりカラオケ。

お元気な孫様とのお写真拝見安心しました。

小生今年は喜ぶ歳、『歓喜』を再現しました。

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こんばんは (N・Tこと野良狸)
2006-03-30 21:47:31
ご無沙汰してます。(それでもちょくちょくこちらのブログを拝見させていただいております。)



トラックバック、ありがとうございました。

文字化けしてしまっているのを、知らない人が見たらビビってしまいそうなので、文字化けTBを削除させていただく代わりにコメント欄の方に、勝手ながら経緯を説明をさせていただきました。



ところで、もしかしてお誕生日をお迎えになったのではないでしょうか?

喜寿のお誕生日、おめでとうございます!!!





これからも元気バリバリのtaniさんでいてください。
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