狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

反戦老年委員会解散宣言

2007-09-30 20:51:43 | 反戦基地

 

「反戦老年委員会」主宰ましま翁が、そのブログにて、9.26突如その委員会解散を宣言なされたのには吃驚した。夥しい数の読者が、熟年、老年たるを問わず、このタイトルを見て、仰天し絶句してしまったに違いない。併しその本文を読んでいくいちに、すぐ翁の真意を解した。 10月1日を期して、「反戦塾」と装いを新たに、反戦の論陣を張るという。心から祝福の言葉を申し上げたい。 旧ブログは10月中は利用可能とのことであるが、今日バックナンバーの一部を、 PDFに保存して見た。無料ソフトなので、あまり鮮明な印刷ではないが、拡大鏡を使わずとも、充分よく読める。 図は2005.4.12「反戦老年会」創立第1号最初のページで、カットは、2007.9.30最終号である。

新装「反戦塾」の益々の発展を祈念して止まない。


旅愁

2007-09-28 20:16:11 | 日録

更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思いに、ひとりなやむ。
恋しやふるさと、なつかし父母、
夢路にたどるは、故郷の家路。
更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思いに、ひとりなやむ。

窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遥けき彼方に、こころ迷う。
恋しやふるさと、なつかし父母、
思いに浮かぶは、杜のこずえ。
窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遥けき彼方に、心まよう。

 この高原の写真は畏友T兄が、つい昨日行って来た、福島県白河高原の赤面山(あかづらやま)1.701m、元赤面山スキー場が入り口となるそうである。
この佇まいからは、犬童球渓の「旅愁」のイメージは湧かないであろう。それは時刻が秋の夜、つまり燈刻でないからである。しかしボクは、これで充分秋の、ノスタルジーを思い起こすことが出来る。

嘗てわが邑も貧しい農村であったし、このような風景は福島県まで足を運ばなくても、何処にでもある変哲もない光景だった。

ボクはこの薄野に佇って、いままで○○年間連れ添ってきた糟糠の○妻に思いを馳せた。
運送や、特に小生のような零細稼業は所謂〝雲助〟と蔑まれた時代の駕篭かきと全く同じであった。○妻には随分苦労をかけた。

女性大臣が幅をきかしている今日、わが家の大蔵大臣、間違った!財務大臣に、頭があがらない日々が今でも毎日続いている。



 


新聞全面広告<核兵器のない世界へ>

2007-09-25 14:55:17 | 反戦基地
新聞を整理していたら(…というと格好がつくが、実はかえって散らかしてしまう結果と相成った)、このような全面広告の新聞がで出てきた。

 今の新聞は、普通36頁建なので、ほとんど毎日いくつかの全面広告が載る。
 しかし、小生などにはあまり関係のない、商業ベースの広告が主流であるから、折角の全面広告もついつい見逃してしまう。この朝日新聞広告も、27頁めという奥のほうの頁に入っていたので、廃棄寸前だった。

 広げて見たら、なんとボクが「ノーベル平和賞受賞に値するかもしらない」と評価していた、ある偉いお方の、世界に向けた平和へのメッセージであった。(2007年9月8付朝日新聞全面広告)

 全面広告のことで驚かされたのは、今から約17年前"宮沢りえ 篠山紀信Santa Fe"の全面広告で、堅いとされていた朝日新聞に彼女の大胆なヌード姿が、大きく撮って載った時だった。衝撃を受けた。朝刊の4頁目であるから、見落とすはずがない。(1991年10月14日付け朝刊)今でもちゃんと大事に保存してある。

 この「核兵器廃絶へのアッピール」が、テロ特措法延長論議最中の日本の国会へ、大きな圧力になり、平和の危機を訴える、崇高な理念に基づく広告であることを願って止まない。しっかりしてよ。太田さん!

 早速ボクは"Santa Fe" と一緒に大事にスクラップブックに貼り付けておいた。

新柿と「いただきます」

2007-09-24 07:16:25 | 日録
 一昨日の土曜日、天台宗寺院○○山Z寺客殿で朝詣り読経後の朝茶をお招ばれした。
参加者一同、ごく自然に「いただきます」と合掌して、お茶と新柿をいただいたのである。

 拙宅で愛用の「天台こよみ」のはじめに「いただきます」というお話がある。
この「いただきます」についてのお話は次のような、実例を紹介して結んでいる。

 
北陸地方のある県では、昔から小学校の給食のとき、児童たちはごく自然に手を合わせ、声をそろえて「いただきます」と食事をしていました。これを他地方からの転校生の父兄が見て、
「特定の宗教に偏った行為だ」と学校にクレームをつけ、このため学校側は今までの食事作法をいとも簡単に廃止してしまったということです。
 このような、日本の美しい習俗をその心とともに、私たち日本人が取り戻したいものです。

新米について

2007-09-22 10:36:59 | 日録
朝詣りの本堂に新米が奉納されていた。今朝は2袋だけであるが、これから収穫期の盛りになると、これまでの例では、かなりの量のお米がこの場所に積まれる。

 田舎に住んでいると、小生のように農家でなくとも、都会に出ている身内のものなどに、新米を送って悦んでもらいたいのが人情と云うもので、ボクも都内に住む伜夫婦に嘗て毎年送っていたことがあった。仲秋の今頃である。
 あまり感激した素振りが無いので、
「新米の味はどうだったかね?」と訊ねてみた。答えは、最初の1~2回は美味いと思ったけど、東京で買っても味はそんなには変わらないし、たくさん送ってもらっても、置き場所にも困るので、無理しなくていい。と素っ気無かった。

 そう言われて見れば、新米、新米と大騒ぎして刻を争って手に入れ、自らも食するのであるが、成るほど伜たちの言い分に、理解できないことはない結論に達した。

 オレですら、ほんとに美味かったと思うのは最初の一回きりで、その後、
 「これ新米?」などと妻に聞き返すこともあったのだ。
 新米ならどれでも同じではない。早稲は敬遠されるし、晩生のコシヒカリが珍重されるが、同じコシヒカリでも、収穫された土地によって、買うほうは価格差を付けるらしい。業者は、その家の収穫の場所をちゃんと心得ているのだ。カベトチ(粘土質)或いは、砂地の田で獲れた米が良いとされる。

 しかし、現在の米は、昨日刈った稲が、今日食膳に並ぶようなわけであるから、収穫された籾は乾燥機で1夜で乾かし、玄米になると、直ちに保冷庫で貯蔵される。
 それを買って来て、1回搗きの精米機で精白したものを、無保冷の米櫃に貯蔵するわけだから、変質も早い。旨いのは、わずかの期間となる。
 それに、今は何所の家庭でも食べる量が非常に少ない。子供たちは給食がある。マンション住まいの伜夫婦が、喜ばぬ理由は以上のようなことによるのであろう。

杉村楚人冠の「続々湖畔吟」に〝新米〟というイッセイがある。今の人には到底理解できないことも多いと思う。しかし戦後10年ぐらいの頃まで、新米は楚人冠の指摘の通り、古米より安値だったのである。ボクですら知っている。
 恐らくこれは、天孫降臨の時代から、2千何百年続いてきた豊葦原瑞穂の国の新米事情であろう。
  新米

九月の中ごろになって、新米が出て来た。つやつやした色をしてゐて、ねッとりとした落ち着いた味がある。以っての外に旨い。

新米は水を引きにくいので、飯にしてもふえない。随って経済上不利益だと、細かい人はいふ。さうかと思ふと、新米は脂肪(あぶら)が多いから、消化がよくないといふ人もある。併し食って旨いという点に至っては、何人も否やはいはない。

それほど旨いものならば、それが時と共に段々まずくなっていくに任せずして、何とかその旨さを保存する方法を講じさうなものだが、今日までそんなこと考へた人があると聞いたこともない。自分は年々新米を食べる毎に、科学全盛の今日、せめて次の端境期まで存続させる方法が、もう出来てもよさそうなものと、思はざるを得ない。

米と同じ憾を、私は新茶にも持ってゐる。新茶のもつ味、新茶の放つ香、新茶の見せる色、これらは苟くも新茶を愛するものゝ誰しも賞玩に堪へぬところのものであるが、その新茶は色も香も味も半年ならずして消えて行く。日本の緑茶の得意先といへば、何処よりもアメリカであるが、アメリカでも緑茶の賞味せらるゝのは、主として新茶の時代だけで、古くなってはとんと珍重されない。それほど大切な新茶の香味でありながら、これを保存する方法が今に何人にも考へられないといふは、人間も存外愚なものと、浅ましくなる。

もッとお座のさめる事は、これを商売人にいはせると、新米々々と新米を旨がって喜ぶのは素人だそうな。米を元に商売しているくろうとの身になって見れば、新米は水引が悪くて飯がふえない上に、お客が旨がって余計に食やがるから、とても勘定が引き合わないというのである。お客が食やがって引き合はないなぞ、よくもづけづけとそんな口が利けたものと驚かれるが、とてもの事お客がまづがって食やがらなかったら、尚引き合ふまい。




新茶が出ると、新茶は古茶拠り価画高いが、新米が出た時は、新米は水引が悪くて、おまけにお客が余計に食やがって損だからとて、値が安いに至っては、小千谷縮じゃないが、人の腹の底が見えすく。(昭、7、9、26)


杉村楚人冠:(1872~1945)新聞記者。随筆家。本名広太、別号縦横。和歌山県生まれ。我孫子手賀沼湖畔に移り住んだ。現在我孫子に杉村邸、楚人冠公園がある。

朝の散策

2007-09-19 16:23:03 | 日録


 わが地方では「二番穂」という。稲を刈ったあと、そこからまた稲の新芽が出て穂をつけるのである。
 広辞苑を牽いても、この語彙は無い。だから、この「二番穂」という言葉は、わが地方でしか使わない方言かと思った。
 今朝涼しくなったのを幸いに、附近の田圃道を、ジョギングした。見渡す限りの田圃。その中で稲刈りの済んだところは、まだ5分の1位の割合である。
 それが、見事な程、二番穂をつけていた。

曼殊沙華

2007-09-18 20:24:22 | 日録
稲刈りの頃、毎年曼殊沙華の花が咲く…。
芽が出てくるところを、注意深く観察していると、このexoticな怪花はある日突然ニューっと芽が出て、忽ちにして開花となる。
多く卵塔場(墓場)近くに咲く花だから、屋敷に植えるのは忌み嫌う人もあるが、最近は鑑賞花として、路肩の花壇に植えておくのも珍しくはなくなった。
小生も、屋敷内に植えてある。この花による不吉な出来事はまだ無い。

♪~赤い花なら、曼殊沙華~
オレの父親は全くの音痴であった。歌を求められた酒席では、これ以外何も出来なかったと思う。
父は尼港事件シベリア出兵時の生き残り兵士である。

狂い咲き

2007-09-16 17:16:53 | 日録
山躑躅(つつじ)の花が咲いた。
今は園芸品種も多く、花の色も紫・白などいろいろあるとされるが、この躑躅はボクが運送業の現役時代、建設現場の地ならし工事で、踏み潰される寸前のものを持ち帰り、庭に植えておいた本物の山躑躅である。
ちっとも大きくならなかったのは、屋敷造成の為、何回もの植え越しの末、やっと現在の宅地擁壁下に納まった次第だからである。
 しかし、いずれにせよ開花は春に間違えは無い。季節外れに咲く花を「返り花」「狂い咲き」と称して、特に目新しいことでは無いかも知れないが、俳句の季語にもあるように、「初冬」の小春日和に咲くものが大方であろう。だから、今頃咲くのは全く珍しい現象といわねばならない。
 何から何まで狂っている方今、まさか施政方針演説の直後、首相の座をブン投げてしまった珍事と、結びつけたくは無いが、戦時中狂い咲きで色々の噂がもてはやされたことを、今やっと思い出した。
 政変ぐらいならまだしも、転変地異の前哨でなければ良いがなと密かに念じている。

月見草と安倍さん

2007-09-13 09:39:46 | 日録

・・・河口局から郵便物を受取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、きょうは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆって、口もとを大事にハンケチでおおいかくし、絹物まとった芸者風の女など、からだをねじ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。

 けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士には一瞥も与えず、かえって富士と反対側の、山路に沿った断崖をじっと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないという、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやった。

 老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、

「おや、月見草」そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。 さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。
富士には月見草がよく似合う。・・・ 太宰治全集『富岳百景』より

 


迷走般若心経説話

2007-09-12 12:40:46 | 反戦基地

ボクは今年から、町の郷土文学研究会(照れくさい名称だが、正式呼称である)の文芸誌発行の編集長を仰せつかった。 準備のため前号を見ると、「天台宗ニューヨーク別院本堂 落慶一周年記念法要に参加して」と題した町の天台宗寺院Z寺の副住職K師のエッセーが載っていた。その中に、
>私たちのガイドをしてくれたのは70歳前後の老夫婦でした。彼は平和主主義者で妻は元教師で、「アメリカ人の全部が、ブッシュ大統領と同じ考えだと思わないで欲しい。戦争は憎しみを増すだけ、許すことの大切さが大事。」と言っていました。
という件がある。
 大変重い言葉である。これを元にブログの更新を思い立っていた。 しかし、いまインド洋上での海上自衛隊の給油活動の審議、更に安倍首相の「職を賭す」発言が交錯していた。 今日はきのう行われた安倍首相の施政方針演説に対する各党の代表質問国会中継の予定でもあった。 折も折り、ボクはアサヒコムニュースを真っ先に開いてしまった。胸騒ぎがした。全くの偶然である。

安倍首相は12日、麻生太郎幹事長ら複数の自民党幹部に対し、退陣する意向を伝えた。12日は午後1時から衆院本会議で代表質問が予定されていたが、「私は辞任するので、代表質問に答えるわけにはいかない」などと伝えた。臨時国会の実質的な論戦が始まる前に、辞任するべきだと判断したと見られる。午後2時から記者会見し、正式に表明する。
ボクのパソコンのモデムに落雷が直撃した。地球が激震し、宰相がテロとの闘いに疲れ発狂したと思った。 テレビは、緊急記者会見から始まり、与野党の政治家がうろたえた。テレビに釘付けになってしまった。 中途半端だが、とリ合えずK師のエッセー抜粋をここに引用させていただき、般若心経説話として、このブログを埋めておきたい。
アメリカ・ニューヨーク市から北へ高速道で3時間位のところに、天台宗ニューヨーク別院のお寺があります。10年ほど前天台宗を学ばれた住職の聞真・ポール・ネエモン師が、カルナ天台達磨センターを開設したことに始っています。聞真・ポール・ネエモン師は近くの大學の教授もしており、馬小屋を改築したような粗末なお堂で天台宗を広めていました。その粗末な本堂を2005年6月に改築し、それを記念しての1周年の法要でした。法要は、京都の妙法院跡(三十三間堂)・菅原真海大僧正に、日本から参列の20名の僧侶方と、ニューヨーク別院住職と信者の方で合同で行われました。法要は護摩供の法要でしたが、英語の般若心経が太鼓に合せ読誦され、何とも神秘的な感動を覚えました。触りを、
般若波羅蜜多心経 Maka Hana Haramita Shigyo Avalokitesavara Bodhisattva doing deep prajna paramita. Clearly saw emptiness of all five conditions. Thus completely relieving misfortune and pain.
と「Avalokitesavara Bodhisattva」などは普通の辞書などにはなく、もっとも聞真・ポール・ネエモン師が訳したものだそうで、意味は観自在菩薩(観音様)でしょう。
日本語で声を出して一緒に読んでみましたが、私たちら使っている般若心経とピッタリ合いました。 以前、比叡山の根本中堂で、中国・韓国の僧侶と一緒にそれぞれの国の言葉で般若心経を読んだことがありましたがまさにぴったりと合い、その時のことが蘇り日米合同の仏教法要に、何ともいえない感慨を味和うことが出来ました。(略)お経には、光明と言って仏の放つ光の不思議さが出て来たり、懺悔文 というものを唱え、懺悔することを大切にしますが、国や信ずる宗教が違っても来世や生きて行く指針などには、共通のことが沢山あるなと感じました。幽体離脱のことを聞くと自分の横たわった躰を見て、何でこんな所にいるのか不思議な感覚だったそうです。(ネイティブアメリカンの夫婦との話)娘の通訳を通しての会話なので十分でなかったかも知れませんが、真意は十分に伝わりました。  最後に、セドナの南フラッグスタッフところに住む、私たちのガイドをしてくれたのは70歳前後の老夫婦でした。彼は平和主主義者で妻は元教師で、「アメリカ人の全部が、ブッシュ大統領と同じ考えだと思わないで欲しい。戦争は憎しみを増すだけ、許すことの大切さが大事。」と言っていました。改めて、国や人種が違っても人間の共通性感じたアメリカ滞在でした。(筆者はZ寺副住職)

農業をやりたい

2007-09-07 21:50:20 | 怒ブログ


ボクをはじめとして、農業をやいたい人は、たくさんいる。しかし、どういう法律に触れるのか不明だが、やりたくても出来ないのだ。
 写真のように荒らしておいても、ちゃんとうまい汁が吸えるような仕組みが出来てしまっているらしいのだ。
 漁業にしても然り。漁業権を持つものは、やりたい人に、死んでもラッパを口から放さない。
 それはそうだ。現在の農水産業は、何から何まで補助金で成り立っているからだ。
…ということではあるまいか。
 会計検査院殿。依怙贔屓はなりませぬ。

 しかし、静かに考えれば、考える程、誰が農水相になっても、かりに舛添氏が農水相になったとしても、同じことだろうと誰も思っている。

 民主党も、そろそろ本音を吐き始めたようだ。やはり、日本の政治を救うのは、国民が、衆参院選の投票をすべてボイコットする以外にはないだろう。

賞状

2007-09-06 10:19:46 | 日録

 朋友Iさんから、今年夏の囲碁大会上級者の部で準優勝の栄冠を獲得したというメールを頂いた。先ず率直にお祝いの言葉を贈りたい。
「お目出とう。とうとうやりましたね!」」
上級者と言えば、パソコン教材にも、上級者向けというコーナーがあって、われわれには、まったく近寄れない存在だが、囲碁となるとこれはまた格別である。将棋の上級者は飛車・角抜きで、対局するが、囲碁の場合は弱い方が石を何個も置いてから始めるらしい。

 ボクは囲碁の仕組みなど、全く分からない。知っているのは、町の「文化協議会」の組織のなかに生活文化という部門があり、囲碁同好会はその中に位置することぐらいだ。
 そして、Iさんは、その上級者の部門で準優勝の栄冠を勝ち得たのである。
 もちろん町の同好会であるから、Iさんといえども、アマチュアである。しかしこの同好会には、プロと対局出来るような上級者がいたことも確かである。
 
 実はボクは約10年前、(あるいはもっと前かもしれない)囲碁同好会に在籍していたK.K氏の令夫人とは、やはり文化協議会の中の俳句会の仲間であった。
 会報編集の用件で一度だけK.K氏宅を訪ねたことがある。この時、氏は自転車の後ろに段ボールの箱を積んで、出かけるところであった。鎌や農業用具と思われる道具が入っていたから、畑へでも行くところだったのであろう。何とも風采のあがらない百姓爺さんのような格好が印象に残っている。

 この、K.K氏を超上級者とボクが呼ぶのは、文化会報に「プロとの対局記」が掲載されたのを読んだからである。氏が若き時代、プロと対局し、相手を打ち負かしてしまった貴重なルポが書かれてあった。文も並の書き手ではなかった。
 氏はすでに鬼籍に入られているが、勲3等叙勲(ボクは叙勲に等級をつけるのを、良しとは考えないが)の持ち主であった。兵隊の位でいえば、E.サイデンデスカーと同列同級ということになる。

百万円のウィスキー

2007-09-05 21:09:39 | 阿呆塾
 Livedoor ハイクブログにこんな句が載った。
『レッドなら 何本買える 百万円   艦長』

句の説明[サントリーが100万円(700ml入り)のウェスキー を限定販売するそうです。学生の頃、お世話になったレッドなら、一体、何本買えるのでしょうか。]

 ボクはこれは2005年5月の頃の話だとはかり思っていた。ネットで調べても確かにそう書いてある。1日で完売したと言うことを、当時の新聞記事で読んだ覚えもあった。

 艦長さん随分古い話をご存じだなと思って、さらによく調べたら、100万円ウヰスキーでは味を占めたものと見える。確かに今年(2007.4.20~)も「響35」を限定発売していたのだ。

これは、人間国宝の徳田八十吉氏が焼き上げた九谷焼をボトルにしたウィスキー「響35年 三代徳田八十吉<耀彩瓶 碧陽>」のことだそうで、(700ml入り)を、希望小売価格100万円で150本限定で発売することにし、2007年4月20日から酒販店やデパートで予約受付を始めた。というものである

そうとは知らず、艦長さんに返句をしてしまった。
『一日で売り切れ百万円の酒    谷人』
句の説明[目下1千万円のウイスキー発売準備中  (株)サントリー]

 この「100万円のウイスキー」の話題は、当ブログに落書きしたような気もするので、バックナンバーを調べたが、見つからない。小生のブログは2005.7からだから、勘違いだったかもしれない。
まあ。ダブってもしょうがない、折角新聞記事切り抜きが見つかったのだからと、大急ぎ復刻を試みた。

 
樽の中で50年以上も熟成させたという国産ウィスキーが11日(2005.5)、1本(700ml)100万円(税別)売り出された。サントリーの「山崎50年」=写真=で、同社によると熟成期間は国産で最も長く、値段も最も高いという。
 発売数量は50本限定。酒屋やデパートなどで予約を受け、6月下旬から発送する。国産ウイスキーは1本1500円~2500円のものがよく売れている。同社は「一生に」一度は飲んでみたいという人は少なからずいる」と期待している。
 これまで国産で最も熟成期間が長かったのは2000年に同社が発売した「ザ・センチュリー40年」の40年。最も高価なのも同社が02年に発売した「響35年」の100万円。これは人間国宝の13代目今泉今右衛門作の有田焼ボトル入りで、ウイスキーだけの値段は山崎50年が高いという。
(2005.5.12付朝日新聞)

 今回の「響35」まだ予約席に空席があったら、2本も注文してみっか、妻と大笑いしたのであった。


農林水産大臣

2007-09-03 14:27:42 | 怒ブログ
27日発足した安倍改造内閣が、発足直後から「政治とカネ」問題に振り回されていたが、遂に遠藤農水相が辞任に追い込まれた。
 ボクは前農水相赤城氏の地元なので、人情的に“おらが大臣7日天下”の地元・山形での「大臣就任祝賀」ムードの幕引きには複雑な思い入れがある。
 抑も農業関係団体の長は、補助金獲得が主たる職務のようにさえ思いてならないのだ。
ボクの村の周囲を見渡しただけでも、政治家への還流の有無は別として、漁業権だとか、米の減反、転作、土地改良に絡む様々な補助金獲得に、政治が関わっていることは、事実といっても間違いはあるまい。
 今は、地方議員と云えども、農協組合長なの兼任は禁止されていると聞いた。国会議員が共済組合の組合長兼任できるとは、思いも寄らなかったことである。

 さて、赤城大臣の顔の絆創膏は、自民支持、反自民の政党支持とは関係なく、地元県民にとっては強烈なショックであった。
 郵送された、筑摩書房のPR誌「ちくま」の表紙をみても、
「何だ!これは!」と思わず思わず叫んでしまったのである。

 巻頭に、自民党嫌いのなだ・いなだのエッセイー「人間、とりあえず主義」が連載されている。さすが赤城元大臣の話題ではなかった。

 『自民党が参院選で歴史的な大敗を喫した翌日、小田実が死んだ。二つは記憶の中で結びつくだろう。この自民党敗北のニュースが、旅立つ小田実には、よい餞になったと考えたい。』
ベトナム戦争反対に生涯をかけた小田実への追悼であった。
 この老人党党首は「戦争反対」の大声を、毎号絶やさず叫び続けている。