まだ、惜春という季節には早いと思うけど…。
土曜日の朝、朝行の読経を終えて客殿の茶席戻ると、
「托鉢にご協力のお願い」というチラシを若住職のK師が来られて皆さんに配って歩いた。
彼岸明けの翌日にあたる25日、「托鉢」があるので、檀家の人に配って欲しいと、分厚い状袋である。今ここに来ている人たちは、それぞれ檀家の世話役員なのである。
私と、Iさんは此の寺の檀家でないので、渡されない。余分にあったら一枚下さいといって頂いてきた。内容は次のようなものであった。
托鉢にご協力のお願い
天台宗では、「一隅を照らす運動」を昭和44年から推進しており、日本国はもとより海外でも災害、人道支援など宗教的な立場から数多くの地球救援活動援助事業をおこなっております。
その「一隅を照らす運動」の一環として東南アジアのラオスの国に学校を建設する運動を展開しており、これまでに22校の学校を建設し現在ラオスのシビライ村に中学校の建設を進めております。その一助とにと県の天台宗仏教青年会が托鉢を下記により実施いたします。何卒、檀徒の皆様のご協力をお願いいたします。
記
日時:平成18年3月25日(土)午後2時~午後4時
場所:×××、×××
各戸を回り各家の玄関先でお経を上げ、各家の家内安全、先祖代々の供養を致します。冥加料は、お気持ちで上げていただくものですが1,000円を目安にしていただければと存じます。
今のラオス村は日本の昭和35,6年の頃で、子どもたちは裸足ですが目は輝いていました。
私はまだこの「托鉢」というものを見たことがない。月末に新聞販売店から無料配布のPR誌に連載されている、玄侑宗久の「ベラボーな生活」に
「風薫るネグリジェ」という副タイトルのエッセイが載っていたのを読んだのを思い出した。
雲水(行雲流水のようにゆくえの定まらないことから)所定めず遍歴修行の禅僧(行脚僧)が、「ほ~ほ~」と言いながら路地を歩く。
この声は、托鉢に来たことを一般の家の皆さんにお知らせする合図であるとともに、托鉢僧どうしがお互いの居場所を知らせる効果があることなど、また(「ほ~」という声は、仏法の「法」だと言う説のほかに、食器である「鉢孟(はつう)だとの説もあるとのこと、コインを投げつける方もいるそうだが、
「投げつけられたお金を拾っても托鉢にならない。我々は乞食ではない」と言うことなどがこと面白く書かれてある。
「風薫るネグリジェ」という表題は、マンションの4階の上の方で女性が手を振っている。その右手はコインを持っているように開かなれていないので、すぐ反応を示さないとコインを投げられる恐れがあると思ったから、ひたすらに4階まで息を切らして駆け上がると、
40前後ぐらいに見える先刻の女性が大きくドアを開け、「仏壇の前でお経を上げてくださるんでしょ」と無邪気にいう彼女の香水を含んだ薫風が、ネグリジェを揺らして吹き抜けていった…、意味ありげな、くだりを指す。
玄侑先生一瞬迷ったあと、
「あのう、托鉢は玄関先でいただくものなんです。すみません。仏壇でのお経も読めません」
納得してくれた彼女からお金をいただくと、さっきより息を切らして階段を駆け下り連絡線に飛び乗るように仲間と合流したという他愛もない話で終わる。
さて25日、私は朝行仲間、A君宅に托鉢の時間を見計らってお邪魔致し、実際の托鉢姿をデジカメに撮らせてもらう約束をした。
お許しがあれば25日過ぎのブログに托鉢僧の写真を載せたいと思っている。
勿論「風薫るネグリジェ」に出会いそうもない、純朴な農村である。
土曜日の朝、朝行の読経を終えて客殿の茶席戻ると、
「托鉢にご協力のお願い」というチラシを若住職のK師が来られて皆さんに配って歩いた。
彼岸明けの翌日にあたる25日、「托鉢」があるので、檀家の人に配って欲しいと、分厚い状袋である。今ここに来ている人たちは、それぞれ檀家の世話役員なのである。
私と、Iさんは此の寺の檀家でないので、渡されない。余分にあったら一枚下さいといって頂いてきた。内容は次のようなものであった。
托鉢にご協力のお願い
天台宗では、「一隅を照らす運動」を昭和44年から推進しており、日本国はもとより海外でも災害、人道支援など宗教的な立場から数多くの地球救援活動援助事業をおこなっております。
その「一隅を照らす運動」の一環として東南アジアのラオスの国に学校を建設する運動を展開しており、これまでに22校の学校を建設し現在ラオスのシビライ村に中学校の建設を進めております。その一助とにと県の天台宗仏教青年会が托鉢を下記により実施いたします。何卒、檀徒の皆様のご協力をお願いいたします。
記
日時:平成18年3月25日(土)午後2時~午後4時
場所:×××、×××
各戸を回り各家の玄関先でお経を上げ、各家の家内安全、先祖代々の供養を致します。冥加料は、お気持ちで上げていただくものですが1,000円を目安にしていただければと存じます。
今のラオス村は日本の昭和35,6年の頃で、子どもたちは裸足ですが目は輝いていました。
私はまだこの「托鉢」というものを見たことがない。月末に新聞販売店から無料配布のPR誌に連載されている、玄侑宗久の「ベラボーな生活」に
「風薫るネグリジェ」という副タイトルのエッセイが載っていたのを読んだのを思い出した。
雲水(行雲流水のようにゆくえの定まらないことから)所定めず遍歴修行の禅僧(行脚僧)が、「ほ~ほ~」と言いながら路地を歩く。
この声は、托鉢に来たことを一般の家の皆さんにお知らせする合図であるとともに、托鉢僧どうしがお互いの居場所を知らせる効果があることなど、また(「ほ~」という声は、仏法の「法」だと言う説のほかに、食器である「鉢孟(はつう)だとの説もあるとのこと、コインを投げつける方もいるそうだが、
「投げつけられたお金を拾っても托鉢にならない。我々は乞食ではない」と言うことなどがこと面白く書かれてある。
「風薫るネグリジェ」という表題は、マンションの4階の上の方で女性が手を振っている。その右手はコインを持っているように開かなれていないので、すぐ反応を示さないとコインを投げられる恐れがあると思ったから、ひたすらに4階まで息を切らして駆け上がると、
40前後ぐらいに見える先刻の女性が大きくドアを開け、「仏壇の前でお経を上げてくださるんでしょ」と無邪気にいう彼女の香水を含んだ薫風が、ネグリジェを揺らして吹き抜けていった…、意味ありげな、くだりを指す。
玄侑先生一瞬迷ったあと、
「あのう、托鉢は玄関先でいただくものなんです。すみません。仏壇でのお経も読めません」
納得してくれた彼女からお金をいただくと、さっきより息を切らして階段を駆け下り連絡線に飛び乗るように仲間と合流したという他愛もない話で終わる。
さて25日、私は朝行仲間、A君宅に托鉢の時間を見計らってお邪魔致し、実際の托鉢姿をデジカメに撮らせてもらう約束をした。
お許しがあれば25日過ぎのブログに托鉢僧の写真を載せたいと思っている。
勿論「風薫るネグリジェ」に出会いそうもない、純朴な農村である。
なにより閉ざされた山門から外へ出て娑婆のの空気が吸えるし、お昼には美味しい食事が接待されます。
北陸の家の仏間の立派なことには驚きました。
大勢の托鉢僧が中で読経できましたから・・・
徳満寺の地蔵堂の「間引き絵馬」これを理解できるのは、せいぜい大正生まれの人まででしょう。
小生は昭和始めの生まれですが、何となく分かる様な気が致します。