狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

緊急お知らせ

2007-04-14 15:12:47 | Weblog

突然わがパソコン、ハードデスクが壊れたみたいです。
入院します。
今他所のコンピューターから更新しています。
毎日、ここに来て作業するわけには行かないので、
とりあえず、10日ぐらい、留守にします。
時々来て、覗きますが、メモ程度のものになります。
では。

巨人、横浜振り切る

2006-07-18 20:50:19 | Weblog

巨人8-7横浜
巨人が引き分けを挟む7連勝で、貯金を10とした。2回、李承樺のソロで先制。その後も小久保の3試合連続本塁打などで加点し、横浜の追い上げを振り切った。

巨人が35年ぶりの開幕5カード連読勝ち越し。
矢野が、鋭い振りでチームを引っ張っている。この日は5打数4安打2打点。出場10試合連続安打になった。開幕時は亀井との外野争いに負けたが、亀井が負傷で戦列離脱すると、穴埋めにとどまらない活躍だ。「打席に入るたび、少しでもうまくやろうと思ってやっているだけ」。プロ4年目の25歳から、目が離せない。

6点差から追撃 あと一歩及ばず
 横浜は9回、本塁打が出れば逆転サヨナラというところで多田が大飛球を打ったが、フェンス直前で捕られた。「少し差し込まれたかなあ」と牛島監督は残念がった。「6点差から追いつめたことを前向きにとらえてプラス思考でいくしかない」。つとめて明るく話した。

実はこれ出鱈目ならず。4月17日付朝日新聞17㌻スポーツ面、記事である。特に悪意があるわけでは勿論ない。真実の記事を再録しただけである。

>祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

再読に値する文なる哉。宜なる哉。
槿花一朝の夢
松樹千年終是朽、槿花一日自為栄。とも…。




ブログバトン

2006-05-10 12:20:36 | Weblog
春愁というのであろうか、このところそぼ降る小雨や、強く風が吹く日が続くと何となく心がもの憂い。

 主眼だった反戦基地も先月25日の投稿以来開店休業である。
 理由はいくつかあるが、他の反戦ブログを見ていると、次々とTBやリンクが広がって行き、その考察の深さに嵌りこんでしまうからである。

 老年(「老人」という言葉は今後基地区域内使用禁止語句にする)ともなると、夜が弱い。朝はけっこう早いが、そうかといって起きてすぐブログに嵌りこんでしまうと、あっという間に時間が過ぎてしまう。まだ雑用も多い身だ。

 今日は雨催い、春愁もひとしおである。あと1時間だけブログに取り組み、後は猫の額ほどのtani大農場に植えるべき茄子ときゅうりの苗を街に買いに行きたい。

 今日のブログ主題は若人に習って「ブログバトン」のスタート台に立ってみた。受け取ってくれる人があれば、幸いだし、ないときは音楽の指揮棒だと思って諦めたい所存だ。
 
1.他人のブログに勝手にコメント、TBを送ることは礼節上良くないか?
 よく判らないので、皆さんに教えていただきたい。小生は頂ければ率直嬉しい。「初めまして」という挨拶にはこだわる。
 あなただったら?

2.これまでに見たブログで、賞を創設して差し上げるとすれば、迷うことなく【最納得賞】Lさんの社会、国際カテゴリー「皇居売却計画」を選ぶ。無断リンク。
ご抗議があれば削除します。ボクが大手建設会社出身のYさんのブログに「入札に参加したら?」とコメントしたら、Yさん早速Lさんのブログにコメントを送った思い出がある。
あなたが賞を差し上げたいブログがあったら?(例えば、悪田河賞、とか脳部留賞とか…)?

3.ブログを始めた時期・動機は?ボクは針三さんブログ(元針生三郎ネーム)に啓発された。氏のプロフィールにある通りボクと同齢(小生のほうが1年old)であるからである。ブログのマニュアルは無かった。

尊敬しているLeprechaunとましまさま「反戦老年委員会」との出会の経緯は覚えていない。創設は2005,7月である。
 あなたの場合は?
 
4.過激な抗議コメントの対応について。 朝日新聞(㋄7日付)<<みる・きく・はなす」はいま>『萎縮の構図』を読んで、2年前年の今頃イラクで武装勢力に捕らえられた後、帰国した今井紀明さんブログを捜して読んだ。(新聞にイラク人質事件後、今井紀明さんあてに届いた手紙の山が撮ってある)

恐いと思った。危険を感じ彼を励ますコメントを投稿する気になれない。
 丁度1988年12月起きた本島等長崎市長の天皇の戦争責任問題を髣髴させるものがあった。ボクは今井さんの行動を支持する立場だが、天皇の戦争責任問題や今井さんたちを脅す人たちを弾劾する勇気を持たない。発言するにしても非常に気を遣う。天皇の戦争責任、親中国、北朝鮮の記事にも同様である。   
あなただったら?

5.引用が多いので気が咎める。無断引用、リンク禁止の警告あるものは、していないつもりでも、どなた様か最低の道徳基準をお教え願いないものだろうか。

あなたは?

 以上5問のブログバトンを受け取ってくださる方が現われることを庶幾う次第である。


盃苦会

2006-04-30 08:50:36 | Weblog

     初鰹大五郎にて座を締める   tani   

     【酎】高見山大五郎関のことではありませぬ。       

      江南春     杜牧     
    千里鶯啼緑映紅
    水村山郭酒旗風 
    南朝四百八十寺 
    多少楼臺咽雨中  
  訓読     千里鶯啼いて 緑紅に映ず  
          水村山郭 酒旗の風     
          南朝四百八十寺 
          多少の楼臺咽雨の中   

我が国でも、この詩句をふまえた、 
     「鯊(ハゼ)釣るや水村山郭酒旗風」 
                  服部嵐雪の句がある。


再録「もっとも小さな村の第九」

2006-03-29 21:52:10 | Weblog
特に意味があって始めたのではないが、ブログを2本立てにしたことがあった。「別冊、狸便乱亭ノート」である。

他所のブログを拝見していると、一寸僕らのような、高年者にも向きそうな編集画面にも、沢山出会う。だから、もう1本ぐらい文章中心でなく、詩歌・写真などを主体としたブログなら、長続きもするだろうし、楽しいだろうと思った。

1月半ば、田原総一郎ファンのN・Tさんのブログに共鳴して書き始めた。
しかし、そのブログはいま使っている「Goo」と比べ、編集も投稿も少々ややっこしく難点が多いと思った。しかし長所もあるはずであるから、そのうち慣れるだろうと、やっている内、時折淫乱トラック・バックも数本送られてきた。2回ぐらい削除して、ガマンし続けたが、2月初め、一度に何十本も入ってくるピンク画面の大攻勢にはほとほと降参した。

 全文削除した。幸いそのTBは「タイトル」から推して、記事に対する「嫌がらせ」ではない様なので、一応は安心していたが、このようなTBを拒否する設定を捜すのも面倒だった。思い切って削除し投稿を一切止めた。
その別冊に書いた「第九交響曲」を、いま その季節ではないが、敢て再録に踏み切った。


【註】この写真は2004の大晦日NHKの3チャンネルから録画したもので、本文とは無関係である。

  『もっとも小さな「村の第九」』
 本の帯に、<昭和63年の暮れの〈第九〉は日本全国で158公演にのぼり、「すみだ5,000人の〈第九〉」や、「サントリー1万人の〈第九〉」に代表される巨大化した公演も多い。もはや流行を超えたこの〈第九〉現象とは、日本人にとって何を意味するのだろうか。

 大正7年坂東でのドイツ人捕虜による〈第九〉初演から、戦争末期の出陣学徒壮行会の〈第九〉、戦後アマチュア合唱団により市町村でも〈第九〉が歌われるようになるまで、数多くの貴重な資料や写真のもとに〈第九〉現象のルーツをさぐり、今まであまり知られていなかった《日本の第九》の歴史を明らかにする。>

このように記された単行本を見つけた。鈴木淑弘 『〈第九〉と日本人』春秋社(1989、11)である。

 このには、371ページに及ぶ、著者と〈第九〉の関わりが、17項の章に亘って書き記されている。その中に、私の身近な村、M村が、新装中央公民館の杮落としに〈第九〉演奏されたことを、

 ◎《もっとも小さな「村の第九」》として写真も入れて9ページに亘ってその実像が紹介されている。 

その村が、本ノートで記した「戦地からの手紙」の編者I元村長のなした快挙だったのであった。この村は、人口1万4千人(現在は約4千人増加)たらずの小さな村であった。この純農村といっていい村で、昭和58年12月18日、〈第九〉演奏会が実現したのである。

そのことに関して、鈴木淑弘はその章で、次のように述べている。その内容の一部を引用してみよう。
<◎先駆的な「村」の〈第九〉
12月18日、我が国初の「村の第九」が、新装のM村中央公民館大ホールで開催されたが、この演奏会のプログラムに自ら合唱団の一員として参加したI村長は次のような真摯で格調の高い「村の第九」というあいさつ文を寄せている。

 『私はM村で「第九」が歌われることに気負いがあるわけではない。ただ、さまざまある芸能・芸術活動に新たなるものを加えて、文化の色あいと村民の誇りを更にふくらませたいと思うだけである。

 歌う側も聞く側も「第九」はその力を充分に発揮するだろう。中央公民館落成を記念して、特別企画「村の第九」を組んだのはそういう意味である。文化的素養の有無や、職業の如何は問題にならない。全ての人々はそれぞれ独自の感性と感情を持っている。それを信頼し、文化創造の思想をつくり上げていくのだ。余りに多忙の現代、物質主義の横行の中で、青少年たちは窒息し、個人は利己主義に走らされ、農業をはじめ生産性の低い産業は脱落を余儀なくされる。そのような風潮に対峙していけるのはその地域の文化だけだと思う。

一人一人の創造的な活動、少ない余暇を活用した自由な精神と肉体の活動こそ文化を向上させ、地域の連帯と発展を生み出すのだと思う。

 「第九」はその内容と形式において、今こそM村にふさわしいものの一つである。大都会の着飾った大ホールで演奏されるより、地方でこそなされるべきだ。そして、本当のありうべき生活の歓びをこめて、ふつうの人たちが歌い、きくべきだと思う。

(ベートーヴェンは貴族王族ではなく市民の為にこの曲を作曲したという)。とはいえ、ドイツ語で、しかも長時間の練習を必要とする「第九」に飛び込むことは大変な業だ。九十九%が素人で未経験者である「M村第九を歌う会」の皆さんの努力と心意気に改めて敬意を表したい。この輪はさらに広がるだろう。

 先駆的であるということは、一種困難な状況、現状固定的敵名環境の中で仕事をすることに通じる。その意味で、公演費用の半分に当たる補助の支出を、積極的に認めてくれたM村議会の先進的理解に感謝する次第である。同様に貴重なカンパを合唱団に寄せてくれた村内・外の有志に深く御礼申し上げると共に永く記憶されるべきと信ずる次第である。そこに脈々と波打っているものは良きものを全ての人々に、又全ての人々と共にという思想以外の何ものでもない。「第九」に関していえば、いつの日か夢みる「村民の第九」は次のようである。――第14楽章「そうでなく、もっと別の調べを」とベートーヴェンが呼びかける、その時聴衆全員が合唱をはじめる「集え、もろびと、抱き合え」と。

   友よ、きこえて来ないか、穂波のざわめきの中で演歌まじりの第九を口ずさむ声が、
   友よ、きこえて来ないか、かつて無気力の小年の自らの感性に目ざめて歌いだす「未来」が、
   さて、どのような「村民の第九」が現出するだろう。オーケストラは美しく鳴り出す。不安と期待の中で。文化祭はフィナーレを迎える。――語り会おうM村、育てようふるさと!

そういえば,少年の頃、私が初めて第九を聞いた夜も寒かった。公演の日は太陽のひかる明るい日曜日でありますように!           

 ――演奏会当日は、村長が望んだような快晴の比較的暖かな日であったが――(略)
 会場に入ってまず驚かされたことは、そのホールの“小さい”ことと手造りの舞台などであった。 

 ホールは、350席程度の広さで、一般のホールから見ても3分の1以下、十日ほどまえにみた「大阪城ホール」からみれば豆粒ほどの大きさであった。しかも、舞台の既設のものでは狭いために、やむなく仮設の舞台が前面に張り出されていたが、よく見るとそれは、ビールビンを入れるプラスチックのケースを積み上げ厚手のベニヤ板を張ったものであった。そして更に舞台の天井には、反響板がわりに十数枚のベニヤ板がビニールひもでつりさげられていた。まもなく星出豊指揮によるフィルハーモニー交響楽団の演奏が始まったが、第一曲目は何と日本民謡の「ソーラン節」であった。このめずらしい選曲はおそらくオーケストラ演奏などになじみの少ない村民のために考えられたものと思われるが、私は何かほっとするような温かい気分になった。この「ソーラン節」が終わり、数分の休憩がとられた後いよいよ〈第九〉が演奏された。星出豊指揮による演奏は淡々と進み、やがて第四楽章へと移った。

 まもなく、あの美しい“歓喜のしらべ″がやさしく力強く演奏され、ついにティンパニーの音とともにバリトンのソロが立ち上がり歌いはじめた。そして合唱がそれに続いた。私はこの時はじめて、M村の〈第九〉が今まで見た演奏会と決定的にちがうことを理解した…。>

 長文の引用になってしまったが、それでも《もっとも小さな「村の第九」》の項の記述のごく一部分である。




氷壁から(本物のメール)

2006-03-02 10:09:50 | Weblog

 

からまつの林を過ぎて、

  からまつをしみじみと見き。

 からまつはさびしかりけり。

  たびゆくはさびしかりけり。    

  二                 

 からまつの林を出でて、  

からまつの林に入りぬ。 

 からまつの林に入りて、 

 また細く道はつづけり。 

     三   

 からまつの林の奥も

わが通る道はありけり。

霧雨のかかる道なり

 山風のかよふ道なり。

北原白秋 

 

 

 ―十一時に澤渡の西小屋出発。坂巻一時。中ノ湯二時。釜トンネルまでの間の吹き溜まり雪深し。二時半釜トンネル。トンネルを抜けるのに十五分かかる。ツララ予想外に少なし。出口はいつものように雪でふさがっている。この辺りから雪やみ、薄ら陽射す。焼岳見え出す。白煙真直ぐに上がっている。大正池三時四十分。穂高の一部見える。大正池の売店四時五分。ここから林の中の道の道で、多少疲労を感じる。ホテルの番小屋到着五時、いつものことだが真っ暗い中に番小屋の電燈が見えて来たは有難かった。夜はホテルのTさんとストーヴを囲んで歓談。十時に二階に寝る。―井上靖 『氷壁』より

 

帰宅したわが家の庭にはとっくに春が来ていた。

親愛なる愛読者諸君!これはメル友Tさんから送られてきた写真だが、

いずれも本物

のメールです。但しこれは穂高ではありません。林の中は北海道、(中写真)は、はて何処でしょう。小さな人影が、多分服装の色から推して彼と思われます。

 


無料廃棄本嬉遊譚

2005-11-04 11:44:10 | Weblog
昨日の文化の日、午後3時から図書館前で、不要として廃棄する図書、雑誌、絵本などを一般人に無料配布になるイベントがあった。小生の知る範囲では、よほど以前から毎年行われていて、これまでも気がついた時はそのたび参加してきた。当日はすぐ側にある体育館・公民館内で芸術祭として、一般町民の書、画、写真、陶芸、手芸、盆栽展等が開かれているから、その見物を兼ねての所用である。

定刻30分ぐらい前から図書館前に長蛇の列が出来た。
小生は先ず14番の整理券を頂いた。一人5冊なので、やや時間を置いてから又列に加わり、3回並んで15冊の配布を得た。2回目は172番 3時近くになると、フリーパスとなった。
勿論小生は、そうしても良いのかどうか確めてから、行列に加わったのである。

思いがけない本が手に入った。しかも今年は廃棄済の紙片も貼ってないし、パンチも打ってなかった。小生にとってはまさに掘り出しもの市に参加した気分であった。

・復刻版大正大雑誌
  吉野作蔵・大山郁夫・与謝野晶子・レーニン・ウエルズ・内田良平・小山内薫・有島武郎・芥川龍之介・大杉栄・西田幾多郎・宇野浩二・大隈重信・後藤新平・新渡戸稲造・島村抱月・浮田和民・高浜虚子・アムンゼン・中村鴈治郎・嘉納治五郎・菊池寛・平塚らいてふ・柳原白蓮・森律子・(他56氏略)

・復刻版昭和大雑誌戦前篇・戦中篇 2冊 いずれも 昭和53年6月~9月発行
流動出版(株)月報付きである。

・記録現代史日本の百年(2回で全巻揃う)
①新しい開国(1952~60)
 ②廃墟の中から(1945~52)
③果てしなき戦線(1937~45)
④アジア開放の夢(1931~37)
⑤震災にゆらぐ(1923~31)
⑥成金天下(1912~23)
 ⑦明治の光栄(1900~12)
 ⑧強国をめざして(1877~89)
 ⑨わき立つ民論(1877~89)
⑩御一新の嵐 (1861~77)
著者代表鶴見俊輔  筑摩書房(神田小川町2の8)昭和42年1月~10月
 
・太平洋戦記 ガダルカナル 辻 政信  河出書房昭和42年11月第3版

・陸戦史集11 旅順要塞攻略戦 日露戦争 陸幹校(旧陸大)戦史教官執筆 陸戦研究普及会編 原書房 昭和44年5月初版
の15冊である。
 
序でだが、過去に同様なイベントで入手した本のうち、身辺に散らかっているのを拾い出して無差別に抽出したものを列記すれば、

・河上肇獄中往復書簡集上、下 一海知義編  岩波書店
・側近日誌 木下道雄  文芸春秋
・相聞 文学者たちの愛の軌跡  近藤富枝   中公文庫
・色道諸分 難波鉦 遊女評判記 酉水庵無底居士作 中野三敏校注 岩波文庫
・摘録鸚鵡籠中日記上・下 元禄武士の日記  岩波文庫
・里見随筆集 紅野敏郎編  岩波文庫
・草野心平詩集 入沢康夫編 岩波文庫

これ等の24冊全冊一応は目を通してある。  以上

愛国の定義

2005-10-31 05:24:04 | Weblog

愛国
何れの国を問はず、其の国人民の愛国心の弛張は、実に一国拳固元気の消長に関するものなり。

抑々人民相集りて社会を成し、国家を組織すと雖も、其の愛国心欠乏する時は、一国元気の振興は、決して望むべからず。国家多事の際に当りて、最も貴重すべきは、国民各自の愛国心なり。若し之なくんば、以て敵を破り、乱を鎮め、国威を宣揚すること能はざるなり。

斯く愛国心は、一国の精神となりて、国家の元気を左右するものなれば、其の関係する所、実に重く且大なりと謂ふべし。

我が大日本帝国が、皇統連綿たる一帝室を戴きて、開闢以来尺寸の地をも他国に侵略せられたることなきは、実に一国特有の名誉にして、即ち一国特有の精神なり。神功皇后・北条時宗・豊臣秀吉等の名君勇将が、偉大の功勲を顕し、国威を海外に輝かしたるは、此の精神に数層の勢力をへ、之をして、益々鞏固ならしめたるものなり。此の外士人又は匹夫にして、愛国の心固かりしものも、古来其の人に乏しからず。弘安の役に、伊予の国人河野道有が、伯父道時・嫡子道忠と共に、元寇征討の軍に加はりて、抜群の功績を顕したるが如きは、今に至るまで、殊に世人の称揚する所なり。

熟々日本帝国近時の形勢を察するに、欧・米諸国と競ひ立ちて、文明の利器を用ひ、外は対外の方略を立てて、国威の皇張を謀り、内は富国の策を講じて、社会の進歩を促し、以って我が帝国をして、東洋の一大文明国たらしめ、漸く宇内の列国を凌駕せんとするの勢いに至れり。

曩に我が国支那と戦を開くに當りて、我が幾千万の将士兵卒は、身異域の渡り酷熱を忍び、烈寒に堪へ、陸海共に古来未曾有の奇勲を奏し、終に支那をして非を悔い和を乞ひ、台湾・澎湖島を致して、以って和を乞ふに至らしめたり。

是豈偶然の僥倖ならんや、畢竟我が国人、万世一系の天皇を戴き、国家の為に、祖先以来久しく沐浴したる君恩に報い奉らんと欲するより、一士一卒と雖も、皆以て聖詔を奉じ、生を軽んじ、死を甘んじ、敵を見ては一歩も退かざる愛国心の致す所なり、故に我等は、彌々益々此の心を養ひ、以て我が大日本帝国の基礎を固くし、竟に世界唯一の文明富強の国たらしめんことを期すべきなり。

高等国語読本巻七終
明治三十三年十月十八日 印刷
同 三十三年十月二十八日発行
    定価金弐拾四銭

金港堂書籍株式会社編輯永洗・半古画
発行兼印刷者 東京市日本橋区本町3丁目17番地
金港堂書籍株式会社
右社長
代表者 東京市下谷区竜泉寺町四百十四番地
          原   亮一郎
売捌所  各府県特約販売所

弊社ハ常ニ書籍ノ用紙印刷製本等ニ注意シ勉メテ其ノ堅牢ヲ期セリサレド多数ノ中万一学年間ノ使用ニ耐ヘザルガ如キ粗製ノモノ有之候節ハ御通知次第無代価ヲ以テ御引換可申上候 本書ハ僻遠ノ地ニ至ルモ定価ヲ超過シテ売捌カシムルコトナキハ勿論直接ノ御注文ハ多少ニ拘ハラズ運賃ヲ負担可仕候

弛張=①緩むことと、張ること.②寛大なことと厳格なこと。

対談:皇居奉仕団に参加して

2005-10-25 22:14:46 | Weblog

K 私は平成13年11月12日~15日の3泊4日の日程で皇居奉仕団の1員で皇居奉仕に行ってまいりました。
今年で3年目になります。団員は56名。私が副団長でした。

I ボクがやはり皇居奉仕に参加したのは、平成10年の11月17日~20日だった。だからKさんは次の年からだ。
あの時、町のK醸造会社正面に5時に集合した。定刻の5時15分にバスで出発した。まだ暗かったね。
 高速道路で走り全く渋滞がなかったので、赤坂御用地に7時には着いてしまった。ボクも副団長だった。  

K 私の時もやはり5時集合。集合場所は町のF会館前でした。東宮御所西門に7時40分に到着、8時30分宮内庁職員のミーテングを受け記念写真を撮りました。 

I あの時は、40分ほど皇宮警察官の交替に約40分待ったね。8時になって下車。奉仕団の待合室に入り、割り当てられたロッカーに、弁当や小荷物を入れた。
沖縄、栃木、愛媛、福島、新潟からやって来た奉仕団が、続々入室してきた。 婦人会とか、若妻会というのもあった。私たちを含めて6団体240名の奉仕だったと思う。

K 皇居内には国の諸行事を行う宮殿や、天皇皇后紀宮のお住まいになる吹上御所のほか、宮内庁庁舎、陛下の生物学研究所、皇后陛下の紅葉山御蚕所、公淳皇后還暦記念に建てられた桃華樂堂、昭和天皇の崩御に伴い、皇居から国に寄贈された美術工芸品を保管してある三の丸尚蔵館、付属庭園、皇居東御苑などがありました。約115ヘクタールの面積だそうです。
東宮御所は、皇太子ご夫妻のお住まいの私室をはじめ、公務室や宮内庁関係事務等があり、この広大な皇居や東宮御所に、毎週500~600人、年間に、2万名もの善男善女が奉仕作業員として参加するのだそうです。

I 8時半を過ぎても担当者が現れないので、いらいらした思い出がある。9時になって、やっと係官の説明。団体ごと整列し、作業場所に行くのかと思ったら、見学と記念撮影だった。かなり離れた赤坂庭園にむかって行進だった。
赤坂庭園はかなり離れている。大きな堀の両側は、原生林の風景だった。椎や楠、欅などの大樹の森の下道を進んだ。時折落ち葉が降りしきった。丘を下りると広い芝生と、大きな池がある。背景に赤坂の高層ビルが見えた。
ここが、春秋行われる天皇陛下主催の遊園で、会場芝生に腰を下ろし、庭園課のお世話係りの人の説明を聞いた。もと紀州徳川家のお屋敷だったそうだ。
ここでも記念撮影をし、東宮御所へ移動して、皇太子ご夫妻の拝謁式となる。  11時15分過ぎ御所玄関前に整列した。庭園の片隅に天皇皇后ゆかりのテニスコートの傍を通って、拝謁室にのぞむのだが、奉仕団の人数が多くて拝謁室に入りきれなかった。  

殿下は11時半各奉仕団の中央へ、順々に進まれ、一礼のあと団長から県名、団体名や人数などのご報告を受けられ、団長へ「ご苦労様」の労いのお言葉があり、質問の御言葉を賜った。
皇太子、同妃両殿下が、僅か2~3メートル前にお立ちになって我々全員に目をそそがれる。
肩幅の広いご体格、気品に満ちた、にこやかなお顔、上品な背広など見とれてしまったのもつかの間、次の団体の方へ移られて行ってしまった。
最後に6団長が前に進み万歳三唱をしたのを受けられ、拝謁式はそれで終了、両殿下が御所にお帰りになるのを見送った。
雅子妃殿下には、まだ御妊娠なされていなかったように拝察した。休憩待合室で昼食をとり、奉仕作業は午後となった。

K 私たちのときは、11時頃から雨が降り始め、雨の中での東宮御所の見学でした。昼食後も雨は上がらず、雨天の為奉仕作業は中止となりました。急遽皇太子殿下の御会釈が行われるようになりましたね。
これは通常は、屋外で行われたのだそうですが、私たちは特別な配慮を頂き、御所の普段では入ることの出来ない「会見室」で御会釈を賜りました。雨に感謝、感謝をするほかはなかったのです。(笑)
奉仕作業の中止が決まったので、1時30分には御所を引き上げ、靖国神社に参拝しました。
丁度、全国で名高い某美術館主催の、「盆栽と本器」展が開催されておりましたので、日本を代表するような作品に触れ、大変幸運だったと思います。
3時にはホテルに着き、ゆっくり休養させていただきました。  

I ボクらは其の日、リヤカーに鎌、熊手、モッコ、砥石、竹箒、バケツ、箕などを積んで、約1キロぐらい先のくぼ地と、両側斜面の林に着いた。
各宮様方が、お手植えになったという「山ぼうし」の樹が、あちこち点在する林の中の下草刈り作業だった。広さは300m×60m位なので、55人もの多勢での作業なので、忽ち終了してしまった。休憩時間をたっぷりとり、取手市在住というお世話役から、赤坂御用地管理に関するお話を承った。
バケツや、空き缶を灰皿にして、愛煙家には有難い1服のひと時だった。3時過ぎ、作業を終えて荷物をロッカーから戻し、バスで宿舎・グランドヒル市谷に引き上げた。

K 昨日とうって変わり晴天でした。朝8時に皇居乾門から参入して、バスは窓明館に横付けです。
午前中は、陛下御一家が正月の新年参賀にお立ちになる長和殿東庭、一般の人が入ることの出来ない南庭を掃き清め、その後、正殿や、豊明殿を見学致しました。午前11時から、天皇皇后両陛下、紀宮殿下のお会釈が予定されていましたので、蓮池参集所に参加した各団体の500名が集合しました。シーンとした時間が流れました。
両陛下、紀宮様が私たちに近づかれました。団長のMさんが、T奉仕団の男性18名女性38名、計56名ですと報告いたしました。
天皇陛下からのご下問は、
  ①先日もお見えになりましたね。
  ②皆さんはどちらからお出でになりましたか。
  ③皆さんは主に何をなされておる方ですか。
  ④今年の農作物葉の出来具合はどうですか。
などです。M団長が、緊張した面持ちで、代表してお答えしましたが、両陛下、紀宮を目の前に拝し感激した様子でした。一同も同じ思いでした。(天皇陛下
ご会釈が終わり、午後は、宮内庁から富士見櫓に通じる沿道を掃き清めました。

I ボクらが拝謁を賜ったのは、最終日の4日目だった。帰宅の日でもあるし、何となく心弾む思いで朝のシャワーを浴び体操をして朝茶を飲んだ。
定刻7時に朝食、7時半バス乗車。皇居乾門から窓明館に直行した。8時半から東御苑の見学。この御苑は水、金曜日を除いて無料で一般に解放されているようだ。
広大な歴史公園といえる東地区一帯だ。
大手門を潜り元本丸入口の坂に至るまでに、三の丸尚蔵館同心場所、そして大きな石垣が迫る本丸入り口坂となる。江戸のむかしに、タイムスリップした心地になった。
二の丸庭園の植え込みを見、汐見坂、梅林坂を登ると楽部、桃華楽堂の横へ出て旧本丸跡の高台天守閣跡が直ぐ目の前にあった。そのまま進んでいくと、広い芝生、外側は内堀と外堀、大樹の樹々の下には遊歩道が通り、木陰のベンチ傍に、「松の廊下跡」の標識もある。
いまこの広場は、災害緊急時の避難場所にもなるそうである。
見学後奉仕作業となった。土手下から、フェンスの間に伐られた枝や幹などが、落ち葉の下に埋もれている。それらを掘り出し、フェンス越しに運び出して、少し離れた林の中に並べる作業で、軽い枝葉は女たち、重い幹などは男たちが運び出したのだが、かなりきつい仕事だった。
11時近くになり、いよいよ拝謁の時間が迫ってくる。天守閣の下坂道を下り、昼でも薄暗く内堀にかかる端を渡り、宮内庁庁舎後ろの蓮池参集所に急いだ。
11時15分両陛下は紀宮様をお連れになり、部屋にお入りになった。我々一同、拝礼をする。最初にお進みになったのは、沖縄県奉仕団で、団長が団名や、男女別人数を報告申し上げる。その後すぐ天皇陛下が、団長にお言葉を賜る。
ボクたちT会の前での陛下のお言葉は、
 「皆さん、どんなお仕事をなさっていますか」
 「皆さん、お元気にね」と次の奉仕団のほうへお進みになる。低いお声なので一言一句明瞭には聞き取れなかった。
  
福島県の若妻会のところでは、皇后様もお尋ねになられていた。一巡し終わると、団長が前に進み並んで万歳三唱を唱和した。
  
12時15分これで拝謁式は終わった。団員一同、皇居奉仕の目的のひとつ、最大の喜びとも言える拝謁を至近距離で体験できて、最大の満悦で窓明館で昼食をとった。 

K 私たちの3日目も素晴らしい晴天でした。
朝のミーテング後長和殿の東庭を通り、2重橋を渡り伏見櫓をバックに記念写真を撮りました。
撮影後は、上道潅濠に沿って宮中三殿へ行き、天皇陛下の生物学研究所構内の、お手植えの田圃を見学しました。陛下がお田植えになった稲株は特別に管理され、収穫された新穀は、天皇御自ら天地・天祇に薦め、これを食する祭事、新嘗祭に奉納する状況のお話を聞きました。
その後、皇后陛下が飼育される養蚕の桑園の草取り作業でした。腰を曲げての作業、取った草をモッコで運ぶのは案外疲れました。
帰りは大道庭園の盆栽を見学致しました。全国から奉納された名品や、宮中行事の祭壇に飾る盆栽を専門に管理しているところです。
5時にはホテルに引き上げ、シャンデリアが眩しい宴会場で反省会です。良かったこと、次回に引き継ぎたいことなどを、話し合い、カラオケ、ダンス等も披露され思い出に残る反省会でした。

I ボク等の泊った宿舎、「市谷グランドヒルはJR市谷駅の直ぐ近く、靖国通りに面して建っている、防衛庁共済組合ホテルだった。4Fから8Fまでが客室、3Fが大、中宴会場、2Fが結婚式場、小中宴会場、1Fにフロント、レストラン、喫茶室、クロークが並び、地下2Fまであり、1Fが和風レストラン、2Fと共に駐車場がある。ボクたちは新館4Fのツイン室に2人ずつ3泊した。窓外の夜景もよく、快適な3泊だった。
2日目から、皇居内の奉仕作業だ。
午前7時朝食1Fのレストランで済ませ、7時半バスへ。乾門へ直行した。バス中で守衛警官が人員点呼人数確認して、奉仕団控え所窓明館に入る。バスに乗車したまま宮内庁本館横を通り、富士見櫓を過ぎ、皇宮警察署本館近くの駐車場にバスを停めたのだが、ここに置けるのは、ボク等のバスだけだった。
今から約30年前この奉仕団団長のO氏(故人)が、当時の宮内庁長官と大学同窓の縁故から、特別の配慮を頂いているのだそうだ。
8時45分係官の挨拶で始まり、前庭に整列して4列縦隊をつくり、見学場所へ。宮内庁横から吹上御所、盆栽管理園に案内された。続いて天皇陛下お手植えの水田や、桑畑、蚕室、学問所などのある1画の水田前で休憩した。
隣町からお出でのSさん(65歳)から、思いがけない話をきいた。
それは45年前、彼女がまだ18歳の時、村の青年会で皇居へ奉仕作業に来た時の思い出話である。
 ・混雑する常磐線で大きな荷物を抱え皇居へ参内したこと。
 ・坂下門内側の木造の寮みたいなところで合宿、自炊をしながら、草刈り作業。  食材は持込だったこと。
 ・赤坂ご用地へは、作ったお握りを容器に入れて持参したこと。藁草履を履いて行って、着いたとき草履が切れてしまったこと。
 ・昭和天皇の拝謁時のお言葉、
「みな、勤労。ごくろう。」が、今でも懐かしくよみがえるという。彼女は当時 の記念写真を持参してみなに見せてくれた。かすりの上衣、もんぺ姿の横に大八車が写っていた。

K 最後の日はこれまた素晴らしいお天気でした。
いつもの手続きで窓明館にバス横付けです。午前中は富士見櫓下の庭園から窓明館までの道路、桔梗門周辺の道路の清掃となりました。午後からは、主に施設の見学です。百人番所から、昭和天皇がお気に入りの武蔵野の風情を再現した林を通り、二の丸庭園、回遊式庭園、都道府県の植樹庭園を通り、汐見坂を上って桃華樂堂、天守閣跡に登り、東京を眼下に望みゆっくりと休憩いたしました。
最後の作業は「松の廊下」を40分ぐらい掃き清めました。三の丸尚蔵館で、皇居に伝えられてきた「宮中の調度品」や、絵巻、彫刻、装飾金具、など数多くの棚飾りの中から、江戸時代から昭和初期の代表的な調度品の陳列を拝見し、ため息の連続でした。
その後、天皇陛下から菊のご紋章の入った、「たばこ」、皇后陛下から紅白のお菓子、皇室アルバム等のご下賜品を頂き、宮内庁職員から労いのお言葉を頂いて、家路につきました。
6時半には家に着き、4日ぶりに家族と一緒に皇居のお話を土産に愉しい夕食をいただきました。

I ボクの3日目は、話が前後になってしまったが、アメリカのクリントン大統が、来日する日だった。
拝謁式は明日に延びるのかなと思いながら、作業場所に行進したっけ。長命殿の前に着き、女達は豊明殿(大晩餐会場)食器室へ入り作業をした。
後で知ったことだが、26日来日の中国元首相の晩餐会に使う食器類を、収納室から取り出す準備をしたそうである。緊張の連続だったそうだ。
長和殿前の広場の落ち葉の清掃、宮殿や、庁舎後ろの舗装路の落ち葉掃きで午前の作業は終わった。
クリントン大統領は、宮殿には寄らず、まっすぐ吹上御所で、ご挨拶されて、皇居を辞去された由であった。午後は、奥道潅掘りに沿った塀の外側の小道を通3時過ぎ3日目の作業は終わり、3時50分バスで靖国神社へ直行した。

K これで私の皇居奉仕の記録は終わりですが、来年度も皇居奉仕団を募集しております。
11月11日から14日までの3泊4日の予定で実施いたします。募集人員は57名です。15歳以上、70歳までの健康な人ならどなたでも参加できます。
参加経費は、45,000円(バス代・昼食代・宿泊代・結団式費・反省会費・旅行保険料)。宿泊場所は、東京タワー隣の一流の結婚式場である「虎ノ門パストラル」を予定しております。希望者は、団長、または地域の役員にご連絡下さい。

I 最後になったが、ボク等の最終日は、拝謁式の後、窓明館に残り、広い館内の掃除をした。30分ぐらいで終わり午前中やり残しの作業所、桃華楽堂に向かった。
3時15分作業をすべて終了し、休憩ののち、用具をリヤカーに載せ引き上げた。
宮内庁からのプレゼントは、
  ①皇室アルバム②紅白干菓子③ご紋章入りタバコであった。
バスは乾門3時55分退出。さしたる渋滞もなく、わが町に戻った。其の日に早速「砂ばらい」であった。和気藹々、次から次、かくし芸、カラオケが飛び出し、8時10分閉会した。ご苦労様でした。副団長の重荷がやっと下ろせた。

序の序

2005-10-19 22:34:11 | Weblog

 いま凄い地震があった。震度5なりという。震源地は茨城県南部、丁度わが家の真下でわないかと思われるほど激しい揺れだった。
 しかしB-29の爆撃の時に比べたら、まだまだ、こんなものではなかったですぞ。
地震では、天井が落ちてきまいか、パソコンの電源はどうするか、火は大丈夫だっぺか、外に飛び出そうか、一応は考える余裕はある。
 爆弾ではそうは行くまい。見えないあつい雲の上からでも降ってきて、瞬時に爆発するのだから、逃げる暇などあるはずはない。「念彼観音力 爆弾段段壊」もまずムリであろう。

 また昔話になってしまった。友人のような交際をさせて頂いたT氏の回想である。
氏は1901年生まれ、昭和天皇と同じ歳だといっておられた。新聞A紙の記者の経歴を持つ。東京大空襲の時、東京本社地下室にいたという。100歳で亡くなられるまで、ご厚誼を頂いた。

 氏は、晩年「瀬戸内水軍」に非常な関心を持っておられ、小生はその講義を飽きるほど聞かされた。しかしその内容はこれといって明記すべき記憶はない。
 覚えている言葉は、この水軍に家内の先祖がいた…という学説(?)だった。根拠は、「瀬戸内水軍史」という1冊の古本だっただけである。

 そのときの余談だが、「序の序」というエッセーを書いてみたいということであった。あるいは町のサークルで出している会報誌へ寄稿文の構想だったかもしれない。

 今や、句集とか歌集などをはじめ、自分史の出版が非常に盛んである。大成したひととか、環境が自分によく似ているひとの書いた自分史なら、あるいは読んでくれる他人がいるかも知れないけど、句集・歌集の類は、序文と跋文だけをパラパラ捲っただけで、書棚の装飾品となるのが常だ。
 序文は、著者を知る上で、それが自序であったとしても、興味ある文が多いことも確かである。

 その序文を集めて、序文の序文集ををつくり、その序文を自序とする。-というような話であった。誰も死ぬまでには1冊ぐらいは本を、モノしたいであろう。
 「序の序」というその企画は、大変面白いかもしれないと思っていた。

 折も折り、天智天皇の記述を3歴史教科書所から調べる宿命を負ったのである。
 雨降りだったので、1日中それに取り組んでみたが、さっぱり纏まらなかった。

 そんなことを考えていたら、丁度まだ開けたことのない「日本歴史」が出てきた。天智天皇に入る前、序文に目をやってしまった。その「序文」の引用で今日のブログページを埋めることにする。

 『定版民族日本歴史』王朝編 白柳秀湖 千倉書房昭和十三年二月二十三日再版 
 
    定版発行に際して     (著者)
『民族日本歴史』五部編の業は、著者と読者と出版企画者との三位一体的な水も漏らさぬ渾融協和によって、事前にも事後にも、何等作為的な宣伝方法と、何等背景的な威嚇方法とを用ひず、ゴーレムの如く、黙々として進み、タンクの如く夷々として行き、初版出版後、僅々二年幾箇月にして屢次の重版全く庫中に竭き、ここに厳密なる校訂と補修とを経て、定版を世に問ふに至った。  

 蓋し出版界空前のことである。若しそれこの書が、日本帝国空前の重大時期に際会し、その内部的革新と、対外的調整との上に負担した民間歴史の役割に至っては、過去の国家的、民族的転換期に於いてした民間歴史の役割が、いつでもさうであったやうに、これを後世の人の公平な評価に俟つの他はあるまい。 
                          (昭和十三年二月)
 


100万円ウヰスキー余聞

2005-10-13 21:19:08 | Weblog
 樽の中で50年以上も熟成させたという国産ウヰスキーが(2005年5月)11日、1本(700㍉リットル)100万円(税別)で売り出された。サントリーの「山崎50年」で、同社によると熟成期間は国産で最も長く、値段も最も高いという。

 発売数量は50本限定。酒屋やデパートなどで予約を受け、6月下旬から発送する。国産ウヰスキーは1本1500円~2500円のものがよく売れている。同社は「一生に一度は飲んでみたいという人は少なからずいる」と期待している。

 これまで国産で最も熟成期間が長かったのは2000年に同社が発売した「ザ・センチュリー40年」の40年。最も高価なのも同社が02年に発売した「響35年」の100万円。これは人間国宝の13代目今泉今右衛作の有田焼ボトル入りで、ウヰスキーだけの値段は山崎50年が高いという。(朝日新聞切り抜きから)


 その日、早速
小生(tani)は予約を申し込んだのだが、すでに時遅く、完売済みであった。(本当かどうか、本当だと思う人はそれで良し、チクだと思っても一向に構わない。)

このウヰスキーを、
天皇陛下に差し上げたかどうかは、推測の域を越えぬ。

下記は大槻史彦著「言海」の編者への宮内大臣からの御達である。

 日本辭書 言海 四部
右今般編輯ノ趣ヲ以テ
天皇陛下
皇太后陛下
皇后陛下
皇太子殿下ヘ献上被致候ニ付夫々
御前ヘ差上候右ハ斯道ニ裨益不少
善良ノ辭書ニシテ精励編輯ノ段
御満足ニ被思召候此段申入候也
明治二十四年七月二十三日
宮内大臣子爵土方久元
            
    以上である。Tani 山人九拝



寿限無

2005-10-11 20:50:54 | Weblog
 小学生のヤツから、
『「寿限無」って分かる?』というオレに質問の電話がきた。
「なんだ、それ落語だろ。」オレは辛うじて返答をした。

「アノー、それを教えて貰えたいんだけど」ヤツは、オレ様がわからないと思って、バカにしてかかった電話をかけてよこしたのだ。こんチクショウめ!

「調べてFAXで送る」とは返事したものの、ちょっと、その落語全集が見付かるかどうか自信がなかった。しかし分厚い本だったから、直ぐに見つけた。事なきを得た。恥をかかずに済んだと胸をなでおろした。
増補版落語全集(下巻)金園社である。

 至急報FAXで解答した。しかしその後、広辞苑でひいたらちゃんと叮嚀に全文が載っているではないか。ヤツはそれを調べてオレに電話をよこしたのだ。
バカをみた。

《じゅげむ【寿限無】落語の一。生まれた男の子に檀那寺の住職から

「寿限無寿限無、五劫のすり切れ(ず)、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所.に住む所、やぶら小路ぶら小路(藪柑子とも)、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグリーンダイ、グリーンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」という長い名をつけてもらい、何かのたびにそれを繰り返すおかしみが狙いの前座ばなし》。
 
 酷立筑波大の学園祭「双峰祭」も間近い。
香車亭一門(訓読みYARITEEという欲求不満のオチケンのワカモノたちの集団)にしっかりヤレと教えてやれ!!        

練習

2005-10-08 09:21:31 | Weblog
トラックバックとは?
今日は雨降りの連休始まり。朝からパソ子と遊んでいます。
まだ小生「トラックバック」を使ったことがないので、練習します。
記事中[参照]をハイパーリンクで挿入する術も、まだ出来ません。その練習です。
この記事ご覧の方で、「はハーン。tani君それではダメだよ!シロウトだね。」と
お嘆きの方、御助言下さい。

スバル360

2005-10-07 21:10:21 | Weblog
 朝日新聞今日のコラム「天声人語」(10/7付)は、次のようなものであった。
ボクには、特に思い出のある「スバル360」の名前が出ているので、この新聞記事を大事に切り抜いてとっておいた。 

《星にちなむ全国アンケートで、好きな天体の第1位に「すばる(プレアデス星団)」が選ばれたことがある。昔から日本人にはなじみが深く、清少納言も「星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ」と「枕草子」でうたっている。▼おうし座にあり、六つの星が見えることから六連星(むつらぼし)ともよばれた。この六つの星をデザインしたマークが「スバル車」をつくる富士重工業の商標だ。そのスバル車の先行きが気になる動きがあった。▼トヨタ自動車が富士重工と業務提携し、これまでの提携先の米ゼネラル・モーターズ(GM)が持っていた株の一部を買って筆頭株主になる。国際的な再編を繰り返してきた業界だが、今回は日米関係を映しているような面がある。▼業績がめざましいトヨタは、米国での販売価格の値上げを発表している。トヨタは否定しているが、値上げも今回の動きも 、経営不振に苦しむGMへの支援とみられている。▼19世紀に欧州で生まれた自動車は20世紀に米国で巨大な産業となった。戦後もGMなどのビッグスリーの時代が続いたが、やがて、トヨタなどの日本車が米国の多くの消費者の支持を得るようになった。その流れは激しく、米国のメーカーは窮地に追い込まれている。▼58年に発売された「スバル360」は、丸くて小さい形から「てんとう虫」とも呼ばれた。富士重工の前身の中島飛行機の技術が凝縮されていた。小さくともきらりと輝く。そんな願いと誇りとが感じられた。そのスバルのマークが、今は、国と国のきしみの緩衝材に使われているように見える。》 

 ボクはかつて、この「スバル360」を2台(輌)も持っていたことがあった。1両はスポーツタイプ型で、部品保持の為のものである。走行は不能だった…。走行可能というか、全く実用に使って走っていたスバル普通型は、わが家の車庫(青空車庫だったが)から盗難に遇ってしまった。

 当時の警察は、届けても殆ど問題にしなかったばかりか、この盗難車が、然る所にばらばらに分解されて放棄してあったのを、こちらが見つけて警察に届けでたら、
「んだら持っていったら良がっぺ。(そうなら、そうと、自分でさっさと持って行け!!バカ)=tani 標準語訳」と担当平巡査は平然と言ってのけたのである。それで通った世の中だった。

 当時スバル360「てんとう虫」は、ホンダN360(通称イヌコロ)とともに、プリミア付の車種だったのである。20万円ぐらいが通り相場だったように記憶する。

 このスバル360の製造元の富士重工は、前記「天声人語」にもある通り、前身は中島飛行機にさかのぼる。そういっても今の人には分からないだろうけれど、旧日本海軍航空機ゼロ戦の発動機(エンジン)を作った会社とでも説明すべきか。それとも、旧陸軍戦闘機の「隼」の製造元とでも云った方が早道になるだろうか。
ゼロ戦(零式艦上戦闘機)は三菱で作った機体に、中島製のエンジン(栄発動機)を装備したのである。

 ボクが悪名高い三菱のトラックを評価するのは、あのゼロ戦(零式艦上戦闘機)のイメージがまだ抜けきらない事による。
実際、今でもいいトラックだったと断言できる。

 実はこのスバル360については、もっと大きな思い出がある。
それは隣村に住んでおられた、富豪でもあったI氏がその製造番号No1を所有していたことだ。
I氏はこのスバル360の1号車を引き取る為、わざわざ群馬の太田工場まで行ったそうである。今では全く考えられないことだが…。

 あるスバルマニアが、せめてその残骸でもと、捜し求めて歩いた時、当時I氏と懇意だったボクに語った話である。もちろん何一つ見つからなかったのはいうまでもない。

回想の記

2005-10-06 07:57:28 | Weblog
余が、運送業を辞めてから、今年で3年目にはいる。故人の3年忌のようなものだ。
酒を飲めば、昔話を為すのが世の習いである。況や忌日においておや。
まず、今日は、銘酒「菊盛」の勢いで、去年地方紙「I新聞」に載った余の投書を見ながら、この「供養」をはじめてみよう。

  排ガス規制の巨額代償に疑問
▲首都圏で作年十月一日から規定の排気量基準に満たないデーゼル車の走行規制が始まってから、一年以上がたつ。この規制に絡み、三井物産が排ガス浄化装置のデータを捏造したとしてとして、4都県が告発した。
▲われわれ小規模運送店は、1両当たり100万円以上といわれてきた対策費に二の足を踏まざるを得なかった。規制開始の日が迫るにつれ、事態は避けられぬ現実味を帯び、当初車齢に制限があった装置も、短期間のうちに車齢に無関係の適応の装置まで出回ってきた。しかし、小生は42年間続けた運送店経営から断腸の思いで足を洗った。
▲三井物産への補助金だけでも40億円近くに上るという。業界がこの対策に費やした巨費、政府・自治体の費やした巨額な補助金の代償は一体何であったのか。肝心の大気清浄効果はまだ聞かされていない。この装置へのリコールとともに、大きな疑問がわく。(元運送店経営□□歳 谷青年)

日記抄
(2004)10月5日(火)
閉店2年目に入る。終日雨なり。明日燃えないゴミを出す日なので、片付けをやりたかったが雨のため中止。
定額郵便貯金が満期になるものあり、郵便局に行き、その手続きをなす。(150万円の元金に対し万単位の利息が付いたのである。内緒話。)
郵便局に小学校同級のS君いて、今日小学同級仲間3人で飲み会をやるのだが、仲間に入らないかとの誘いあり快諾す。場所は割烹を兼ねたそば店にて、その平民そば(仮名)なる名前は聞いてはいたが初め行くところなり。

酒を飲んだのは、小生とK君二人だけで、会費は均等割りなので気の毒な思いをした。
帰りは酔っ払ってしまったK君を、皆で彼の自宅までおくって行き、サツマイモを各自1箱ずつ頂戴して帰る。彼の家ではこれを市場に出すのが生業と云。

10月6日(水)
草刈りをやる。屋敷の柿が、1メートルぐらいの下枝に、5~6個なっていた。

10月7日(木)
快晴。筑波山に行く。Yを誘いたり。途中○○辺りが原因不明の渋滞に出会っただけで順調に筑波に着く。スカイラインも平日のせいか、自家用車の登山者尠なかった。K高校と書いた観光バスの列を連ねて下りて来るのに出遭う。
ロープウエーで上がる。登りはゴンドラの乗客少なく座ることも出来た。隣席に、余ぐらいの歳と思われる男が俳句手帳(NHKの俳句講座)を出して窓外を眺めてはメモをしていた。リュックを背負って登山姿なりき。(略)

10月8日(金)
(略)
10月9日(土)
雨なり。Z寺朝参り会。不動堂が閉まっており、どうかしたのかと思ったら、客殿の玄関が開いており、集まって来たA、K,T,Iさんたち其方の方に向かっていく。
不動堂でのお参りは中止、本堂だけの読経となる。
導師が老師に代わり若住職である。「御前さまどうかなされましたか?」尋ねると、
「今朝急に眩暈をおこしてしまったので、私が勤めました」という答えなりき。老師は大正生まれなればなり。

午後颱風来る予報。雨樋に詰まっている落ち葉浚いの雨養生をした。
颱風は記録的強さだったらし。しかし、午後8時ごろ太平洋に抜けた。暴風域の西側の半径が小さかった為か、暴風雨が去ったら後吹き返しが暫らく続くものであるが、風雨は7時ごろパッタリ止んでしまった。
橋本・高知県知事が辞職。
2年前に県議会と対立し、出直し選挙で再選を果たした長野県の田中康夫知事は8日の記者会見で、「橋本知事は、地方自治から日本を変えていくという最も先駆けだ。ぜひ踏ん張っていただきたい」と、今後も応援する立場を表明した。
田中康夫の再選は痛快なりき。

10月10日(日)
(略)ショッピングセンターKに秋刀魚3匹100円也のチラシをみて妻と買いに行く。
つめ放題という豚肉に人気があった。妻は流石に買わなかった。勘定場は何処も長い列が出来ていた。これでも不景気なのカナ。

明日東京行き決まる。Sが「能・狂言」のチケットを、差し上げた彼女の友人に急にキャンセルされ、今となっては他の人を探せないから代わりに余に行けという。ちょっと億劫であったが、話は決まった。7000円のS席モッタイナイ。

10月11日(月)
目が覚めたら4時である。今日東京行きなる事を思い出し、そのまま起きる。パソコンで、瓜連のM氏に颱風はどうだったか、此方は被害がなかったなど、無音を詫びるメールを送る、先月、氏がJ新聞や、別の農業関係誌掲載のエッセーの原稿が送られてきたまま無音にしたからである。
朝小雨が降っていたので、妻が折りたたみコウモリ傘を、かばんに入れておいてくれた。

東京行きは、家を出たのが9時半ごろなり。
「能・狂言」の舞台は午後2時から開演予定なので、午前は靖国神社を見物する積りである。
道順はS任せなり。
上野→秋葉原→市谷→(徒歩)→靖国神社。
靖国神社へ行く目的は旧海軍航空機「零戦」と、艦爆「彗星」を見ることにあった。復元とはどの程度の作業だったか判らないけれど、いま近くで見ると、昔見たのとはかなりの差を感じた。よくこんな飛行機で!!は率直な感想である。「彗星」は近くにあるショーウインドを掃除していたおばさんに、「撮影禁止なんでしょう」と訊ねたら、
「皆撮っているみたいよ」と笑顔で答えてくれた。1枚デジカメに収めてきた。
ダイムラー・ベンツを真似て作ったアツタ発動機も展示してあった。

零戦は52型。撮影自由。零戦を後ろに入れ、余の雄姿を2~3枚Sに撮ってもらう。

靖国神社→(徒歩)神保町→水道橋→宝生能楽堂。

神保町では、Sの文化学院時代の友人がやっているヘンテコな個展を観る。その後適当なラーメン屋に入る。T市にもある「幸樂苑」の看板があり380円が目に付いたが、東京まで来てそんな所に入らなくても…とのSの詞に従う。「尾道ラーメン」値段は安くなかった(650円)。腹が減っていた所為もあるだろう、汁まできれいに平らげるほど美味かった。

能と狂言の組み合わせを観るのは初めてである。余は能の地謡(じうたい)は好きだ。しかし実際面白くなく疲れた。

以上が3年忌にあたった余の「回想」である。余と同様、近くにあった運送店も、いつの間にか店を閉めた。もはや未練はない。
その後排ガス規制で、東京の空気がどれだけ奇麗になったのかは知らぬ。小社のトラックが東京に来なくなった分だけ排ガスが少なくなったのは、事実だろう。
ただ余が投書で指摘したように、行政と排ガス装置メーカーとの馴れ合い、ひいては三菱自動車の政治献金が足らなかったのだろうなどという説もきく。
しかし何はともあれ、小生の所得が全くなくなってしまった3年目が何よりも寂し。