狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

編集後記

2008-01-30 16:32:19 | 怒ブログ
九百字の編集後記
 俳句会報の空領域をうめるのに、「一句鑑賞」なる雑文を書かされることが多い。内容はそのタイトルが示す通り、句会に出された俳句の中から任意の一句を選んで「短評」を加えることである。しかしボクは作品の批評は大のは苦手である。どだい他人様の作品に批評を加える程の器ではない。従ってその作品の主題から想像できる作者の思いを書き連ね、最後に宛がわれた字数に削っていくという作業になってしまう。
 今回は、
 触れてみる永遠の師の句碑落ち葉降る   K K
 というKKさんの句に焦点を当てた。
 これは会場に充てられた広大な公園敷地の一角あるわれわれ句会の師であった俳句人IS氏の句碑があって、作者は句材を探しつつこの句碑周囲散策したものだろう。
 句碑はあまり目立たない公園の隅に建っているとは聞いたが、まだお目にかかっていない。
この先生は句集やエッセーやの出版数は勿論数え切れない程あるが、その中に、氏が主宰していた「排誌」の編集後記だけを編んだ叢書がある。昭和61年の創刊号から、平成6年までの後記120篇が収められている。身近な方なので、丁度今先生の講座を受講しているような錯覚の襲われた。

「額」我が家の郵便受けに、ある日、大きな書類袋が挟まっていた。その大きな茶色の書類袋は、しっかりと郵便受けにすがりつき、零れ落ちないよう必死に堪えている格好であった。
 このたび、貴台の永年のご精励に対する感謝をこめて、知事が色紙を揮毫いたしましたのでお送り申し上げます。
 送られてきたその色紙には、人事課長からのこんな書面が付けられていたが、要するに「永年勤続の記念品」として知事から退職の県庁職員に贈られるお決まりの色紙である。
 だが、「今頃になって」と、私は苦笑せざるを得なかった。」
 と言うのも、四十二年間の亘る茨城県庁職員としての勤務を終え、私が定年退職したのは四年前の昭和六十一年三月で、物によっては時効の成立するような期間を経過している。
 既に4年も過ぎてしまい、日々俳句に忙しい私には、無事に勤めを終わったと言う退職の感激など、すっかり薄らいでしまった。
「暫く飾って置こうか」と呟いたら家内はすぐ、「いまに書斎に掛かっている額の方が値打ちがあるでしょう」と言い出した。
そういえば確かにそうだ。それは私が江戸崎土地改良事務所勤務時代に「永年優良安全運転管理者」として県警察本部長からの表彰状である。
こちらの方は知事の色紙と違い、滅多に戴ける物ではない。
結局、知事の色紙は袋に戻され、お蔵入りになってしまった。
ところで、家内も退院後既に三ヶ月を経過し、リハリビもかなり順調に進み、毎日の歩行距離も郡と伸びてきた。
そして知事の色紙をめぐっての家内のこの判断も適切だし、細かなことを相談できるようになってきたことは何とも嬉しい、


文芸taniについて

2008-01-24 15:26:06 | 日録
     
「光陰矢の如し」とか…。
 まだ、賀状の季節の気分が抜けきらないのに、2月のカレンダーの余白に書き込みが次第に増えつつある。
 その中で、小生が最も焦り出したのは、純文学誌「文芸tani」(純文学のところを強調傍点を入れたい)文字の発行日が近づいたことだ。昨日やっと表紙の草案が出来た。
 執筆者は12~3名。体裁はB5版である。
 この編集を今年からやることになった。原稿の量はうんと溜まっている。
 この雑誌編集は、ボクがワープロに打ち込み、印刷。製本を業者に依頼するだけなので、確かに大変なことだ。前任者だったA君は、この雑誌編集を第1号から去年の第12号まで一人でコナして来たのである。ご苦労の程しみじみと分かった。
 A君は、フロッピーに入れてきた原稿も、全部自分の「一太郎」に打ち直したというのだ。彼の一太郎はWordとの互換性のない旧式なので、字ばかりで約90ページ前後、よくやって来られたと思う。
 その点ボクは、いくらかは彼より楽である。どういうことになるやら、2月いっぱいに仕上げなくてはならぬ。乞う。ご声援!

お弁当の話

2008-01-22 20:39:37 | 日録
          

(2007)12月2日(日)
K氏に誘われ、M市A駅「M市社会福祉ボランティア会館」にて俳句会なり。
電車など乗ったことなく、さりとて車で行くとなると、高速道にものらねばならず、大いに心許無かったから、K氏に同行を依頼しておいた。
最寄りのT駅で7時55分待ち合わせることになった。7時半娘にT駅まで乗せていって貰う。
 切符の買い方が分からず、隣で販売機に向かっている女性に聞いて買った。
「何処まで行くんですか?」
「M駅です」
「それでは、お札を入れ、920円のボタンを押せば、切符とお釣りが出てきます。」娘にやり方は大体聞いておいたが、実際は、時間が10分以上あるのだが、操作の仕方を考える余裕がないのである。改札を通り、K氏を待つ。氏は時間通りにM子夫人と現れた。オレの為わさわざ一電車早く来て、T駅で降りて下さったのだった。


M市 A駅で降りたのだが、ボクはM駅とA駅を感違えした。A駅はM駅の一つて手前の駅である。
 会場は、改札口を出ると、そこから通路を2カ所ぐらい曲がるとすぐ有った。一電車早かったので、人気が無かったので、まだ会場の玄関入り口が開かないかと思ったら、開いていた。
暫く合わなかった。会員達は皆歳とった高齢者に見えた。
特にU夫妻は惨めに見えた。夫人に支えられるようにしてお出でになったU氏は、全く口を利かなかった。(利けないらしかった。)脳梗塞だったのだ。

冬晴れやインド洋には遠き湖
枯れ葭の湖への景観閉ざしけり
あの日あの時練兵場跡小春なり
湖畔の宿愁い尠し冬花火
死刑囚粛々廻るコンペアー

 「弁当の話」とはほど遠い話になってしまった。
 その時の豪華な弁当である。

小生いま咳が止まらずやっとパソ子に向かっている体たらく。
21日名医G先生のご高診を仰ぎ、
 トクレス パンスールカプセル
 カロナール200mg
を処方された。効果みられず。あすまた診てもらう積もりでいる。
「お弁当の話」は取り敢えずこれで終わる。

言論の死

2008-01-20 20:10:56 | 怒ブログ
             
何故今頃、『長崎市長への7300通の手紙』か?
1988年(昭和63年)の頃の出来事である。
長崎市長(保守系無所属)が、市議会で、たしか共産党の議員の質問に答えて「歴史家の記述を見ても、私自身の軍隊経験からも、天皇の責任はあると思う」と述べたのが発端で、右翼団体の街宣車の攻撃にさらされ、果ては銃弾にさらされる結果となった。
「言論の死」と謳ったは、そのこともあるけれど、それより重大なことは、
市長に宛てた大規模な手紙を纏めた「長崎市長への7300通の手紙」が解放同盟の抗議と要求を受けて絶版になったことである。
あれから20年以上の歳月が流れた。既に風化してしまった事件なのかも知れない。
しかし絶対に風化させてはいけない。ボクはそういう積もりで、今このパソコンに向かっている。

雑録

2008-01-17 18:07:03 | 日録
                

Tさん。いがい雪だったね。ついにめっけだ。ちょっと小ぶりになっちゃったけど、あった!写真を送る。
灯刻、オレは所用があって、オモテ(本家)さ、行った。途中、お庚申さまん処から、上がるべと思ったら、M兵衛さんの田圃に、青いモノが見えた。Aさんが、そこで犬めを引っ張って散歩に来て、「おんこ」を垂らせていた。
 オレは、どうすっかと思ったが、構わず見に行った。あった!!
持統天皇あたりから、やっていると思われる「いじぐわ」の松としめ縄があった。
とよあしわらのきずほの国は巨人軍とともに不滅だと思った。
 その足でM兵衛さ寄る。Tさん婆さんと炬燵で「水戸黄門」を見ていた。ガラス戸を叩いて合図をしたら、魂消て玄関の方から出てきた。

オレ「ならせ餅ついたかや?」
Tさん「搗いたよ。何で?」

オレ「臼と弓張り提灯いまも出すのがや?」
Tさん「出すとも・んだけんと、はあ、かだっしゃたド。」
オレ「写真を撮りに来た」
Tさん「あゝ。そうが。どーぞ」

ならせ餅は、玄関入るとすぐ下駄箱(?)の上に飾ってあった!
 今日は携帯電話なので、フラッシュがないので、もし写っていなかったら、明日また来て、デジカメで撮りたいと言ったら、19日には、外してしまうから、撮んなら、明日だなければ、ダメだとも言った。
「20日の風には当てられないからな」と念を押された。

「毛野賛歌(けぬのほめうた)流れて

2008-01-16 21:19:57 | 日録
反戦塾塾長ましま氏から2回に亘って、拙ブログに塾話を賜った。
小生は、氏に対し感謝する以外言の葉を持たぬ。
前述筆者S.H「S和尚の思い出」から、巻末に近い一節を紹介して、「親寺」シリーズを閉じたい。

〈「毛野賛歌」(けぬのほめうた)流れて〉より抜粋引用。
山川の 氏神山ゆ
峯伝ふ 山路ありけり
裾めぐる 径(こみち)ありけり

昭和五十七年元旦に発表された、わがS文和尚の遺作「毛野賛歌(けぬのほめうた)」の冒頭の一節である。琵琶の音色には幽玄の響きがある。静から動へ、そして強から弱へ、喜怒哀楽の感情を弦とばち一つで自由自在に繰る妙技に、数百人の参列者席はしわぶき一つ発するものなかった。(略)

柞葉(ははそば)の林涼しき
女坂(おみなさか)辿る小径は
薩埵尊 おわす御堂へ
岩富士の 岩陰立てば
赤松の 梢は高く
大天狗 小天狗翔ける
 私の記憶にない毛野賛歌の一節である。
 不思議に思った私は、後でそっとD氏(S和尚令息現住職)に尋ねたものである。なんとこの一節は、同氏が作詩をして、父の遺作の中に付け加えた一文であった。(略)

毛野賛歌(けぬほめうた) 金剛窟山人
山川の
氏神山ゆ
峯伝ふ
山路ありけり
裾めぐる
小径ありけり

白髭の
斯廬の聖の
先立ちて
指して示せる
住むに適き
美しき所は

ー以後3頁に亘って詠まれているが略す。

あとがき
わたしたちの毛野は両毛文化発祥の地である。渡良瀬の流れの移動にしたがって、上つ毛野下つ毛野の境が多少動いたとしても、わたしたちの毛野がその中心地であったということにまちがいはない。そして、はじめこの地がおどろしき沼地であり、渡良瀬の遊水池であり、当時山裾沿えに集落が形成され、やがて、わたしたちのの先祖が、この沼地を干し拓き、切り拓きして、美田をつくり、畑をつくり、毛野文化の礎を築いたものである。まさに文化とは「耕す」こと、生活の知恵であった。毛の国の異の人ということばがあることを推し量るに、「日本書記」持統天皇の御代、「元年、三年、四年と連続三回にわたって、帰化した新羅の人々が下野にはいった」とあることから、あるいは、その人たちが、異の人々であったかもしれない。いずれにしても、わたしたちのみ親である。み親たちをしのびつつ、この毛野が文化の里らしく発展することを冀うものである。
 昭和五十七年元旦
                          金剛窟山人敬白
                            (S.Y)


   

完敗

2008-01-16 07:16:26 | 日録
           

題不識庵撃機山圖(川中島) 不識庵機山を撃つの図に題す
              頼山陽

  鞭聲肅々夜過河 鞭声粛々夜河を過る
  曉見千兵擁大牙  曉に見る千兵の大牙を擁するを
  遺恨十年磨一劍  遺恨なり十年一剣を磨き
  流星光底逸長蛇  流星光底長蛇を逸す

「べんせいしゅくしゅく」と、横綱朝青龍の完敗とは何の関係もない。後ろをとられて、土俵下に吹っ飛んだ。あまり格好は良くない負け方である。
金星を上げたのは、赤城元農水相、額賀財務相(大蔵大臣)の地元イバラッケン出身、稀瀬の海。
 座布団が飛んだ。何回も、何回もNHKのニュースで、この場面を放映した。
しかし、イバラッケンにも、少数ながら朝青龍ファンもいるんだよねぇ。確かにこの目で見た。

 前日(14日)の新聞によると、
 横綱朝青龍復帰で、東京・国技館で迎えた大相撲初場所は初日札止めの盛況。取組前の横綱土俵入りで、西の花道から朝青龍が登場すると、客席から声援が次々に飛んだと言う。

初心者コース

2008-01-14 19:51:27 | 日録

 ボクはその後、たびたびこの親寺を訪れることになるのであるが、まず今日は、
T寺早創500年記念出版の「S文和尚の思い出」から、その書き出し部分を紹介したい。この著書にはいわゆる「序文」というものはない。いきなり著者の章から始まる。

      第一章  若き日のS文和尚
 S文和尚との出会いと別れ

 人生はまさに出会いと別れのドラマである。
 そして人は、一つの命の中で限りない出会いの喜びを知るものである。数多くの出会いの中には十年つき合っていても他人でいるものもあり、三日でも信じあえる人もある。
 私とS和尚とはその後者である。
  昭和十七年十月と言えば、太平洋戦争勃発から丁度一年を過ぎて米軍の大反撃が海と空と陸から開始され、ニューギニア・ガダルカナル島で血みどろの戦闘が行われていた頃である。当時私は、東部三十六部隊通信中隊の事務室で人事係の助手をしていた。毎日のように赤紙で招集されて来る兵士達を編成して、前線の要求に応じて戦地に送り込む、そんな作業が私の仕事であった。――戦線の限りない拡大と余りにも多くの戦死により兵員の不足が甚だしく、特に指揮官の補充が前線から要求されてきた。そんな時に繰り上げ卒業、あるいは学業半ばにして召集される兵士、それがいわゆる学徒出陣である。 
 そんなある日、連隊区司令部から通信中隊に配属される第一回学徒出陣者の名簿が私の机の上に積まれた。

 戸籍謄本、卒業証明書、町村役場からの意見書等、一件書類が個人別に綴じこまれてそれぞれ表紙に「軍事秘密」と朱書されている。――我が隊に配属された新兵は三十名位だった。冷たく事務的に書類を整理していた私の目が輝いた。
〈本籍地栃木県足利郡毛野村山川、○○ ○○〉

 私は一瞬の内にT寺の息子だなと悟った。それから一人一人を事務室に呼んで「身上調査」をするのである。当番兵に連れられて、まだ幼な顔の残った丸顔のあどけない学生が、恐怖に怯えながら私の机の前に不動の姿勢をとった。
「氏名・本籍地・現住所・出身学校名を言いなさい。
 私は冷たく型通りの質問をした。
 「○○ ○○であります!本籍地は…………であります!
 大きな声であった。隣にいた人事係の准尉が思わずこちらを向いた。私は満足した。
 これが私と○文和尚との出会いであった。そしてこの時の「○○ ○○であります!」、この途方もない大きな声こそ、後に彼が任官して陸軍中尉となり数多くの部下を叱咤する大号令となり、更に長じて荘厳にして朗々たる読経の美声となるのである。――そして後年、いかに数多くの檀家の心をうるおし、その心を魅了し随喜の涙を誘ったことか、万人の知る所である。 


親寺2

2008-01-13 22:02:11 | 日録
         

 ボクは、軽トラを山門前の駐車場に置いて、わが菩提寺に比し、清掃されている親寺庭内を散策した。平日の午後訪れる人は誰もいなかった。
本堂の扉ガラス戸も閉ざされたままで、ふと気が付くと、側にあった掲示番に、当山○○草創五百年記念出版「S文和尚の思い出」頒価千円というメモ状の貼り紙があるのに気が付いた。どうせ序だから、記念に購っていきたくなった。
 呼び鈴のボタンを押すと、直ぐに住職らしい威儀細袈裟の坊さんが現れた。
 ボクは末寺いばらきT寺の檀家のもので、通りがかり偶然貴山の標識見て訪れた旨を申し上げた。
 

親寺

2008-01-12 19:56:34 | 日録

お寺さんには、必ずと言って良いほど、「何処何処の末寺」というような開基の由来が記されてある。私の菩提寺である禅寺の山門にも、町教育委員会と銘打った社寺案内プレートに、
「下野国毛野村=現足利市山川、T寺の末寺と伝える」とあったのを、私は何となく記憶していた。

 まだ運送店の現役時代末、私は軽トラで足利の工事現場に、測量器具や、分電盤のような建設機器資材を何度も配送していた事があった。ひとつの工事現場は、少なくとも半年ぐらいの工事期間があるので、始まりとお終になる頃は、連日といっていいほど、資材センターから足利間を往来したものである。

 私はその道筋に、毛野とか山川の地名があるのを、最初から気になっていた。
ある時間に余裕のあった日、とうとうわが菩提寺の親寺(末寺に対してボクの造語である)を発見し、訪ねたのであった。

昭和天皇忌

2008-01-07 09:43:45 | 日録
           

このテレビ体操画面と昭和天皇忌とは何の関係もない。
昨年12月の中旬、足に原因不明の水疱が出来、左脚は踵外側、右脚はつま先足裏である。左は殆ど快癒したが、右足底はばい菌が入ってしまったのか、未だに腫れが引かず、痛む。当然歩くのを控えているから、躰が固まってしまった。身体上半身だけでも動かさねば…と、妻に促され、今朝は椅子に腰掛けたまま体操で身体を解した。(もちろん今日は医者にも掛かり、抗生物質を処方された。)

 昨日は暦の上では「小寒」今日は七草である。曹洞宗家庭暦を捲ってみたら、『七草、七草かゆ、昭和天皇忌、不成就日、さんりんぼう』。とあり、やっと気が付いた。あれから20年経ってしまったのだ。
 あの日の事は今でもはっきりと覚えている。4トントラックを駆って、文部省管轄の研究所内の工事現場に向かっていた。その頃、メディアは、この日をXデイと呼んでいた。
 ラジオはNHKはもとより民放も、コマーシャル抜きで、陛下の脈拍、血圧等の数値を分刻みで放送し続けた。
 作業は中止、車の中でラジオをかけっ放しで待機していた。
 結局、その日の作業は何もせず、午前中で帰庫した。

M邸

2008-01-06 21:11:37 | 日録

このM邸については、この豪邸を建てる以前の、茅葺きの旧家屋を小生別ブログ瓦版で、紹介した事がある。先代夫人は、特に見栄えするお婆さんではなく、一農家のおっ母さんに過ぎなかったが、その頃(昭和天皇ご存命の頃)オレに、戦後流行った、ヤスパースだの、ジャン・P・サルトルの実存哲学を講じた。

なぜ此処でM邸なのか。実はこのお宅が、「一鍬」や「ならせ餅」伝統行事を忠実に護ってきたからである。

 


ならせ餅

2008-01-05 06:32:33 | 日録
           
旧臘、28日だったか。所用(俳句会報届け)で友人I君宅を訪れた時の事だ。
玄関先にに、大きな臼と杵が置いてあった。I君は出てこなかったので、倅さんと会話を交わした。
「これ使うのぉ?」飾り物の臼にしては水洗いがしてあって、使ったような形跡である。
「毎年これで搗くんです。」
「誰が"捏ねとり"をやるんですかね?」倅さんの話では、近くに本家があって、そこで一緒に搗くので、捏ねとりは本家任せとのことであった。I君の家は農家ではない。先代の時分家し、夫婦揃って小中学の教職にあったが、今彼は病院に入退院を繰り返している身だ。

 だがしかしー、今どき?町で臼餅を搗くのは、昨秋I大農学部の学園祭でもやっていたが、あくまで商工会員の、イベントとしての餅搗きである。一般家庭で、昔式に餅搗きをやるのは、この町ではI君宅ただ一軒ではなかろうかとさえ思った。
 あいにく、カメラ代わりの携帯電話を持ってこなかったので、残念ながら撮って来なかったのを悔やんでいる。

 餅搗きは暮れに正月用の餅を搗き、更に14日にならせ餅(まゆだまとも云う)を搗いて一応の区切りである。写真は、そのならせ餅である。町史にも「村」だった
頃の民俗としての年中行事が編まれているが、わが町が明治100年記念として発行した「町の生い立ち」(昭和43年)にある「まゆもち」を引用してみる。

十四日、「まゆもち」この朝餅をつき、小さな丸もちとして楢の木にならせ、大黒柱に結びつけさらに米俵(土蔵のないうちは土間)にかさねておいた。かまどの神などに供えた。まゆのよく出来るのを祈ったのであろう。このもちも二十日の風にあわせるなといって十九日にとって雑煮とする。


このブログで一月一日国旗日の丸を掲げたお宅が、2代続けて小中学の校長さんを勤めたことを紹介したが、I君も父親の代から2代揃って校長職にあった。
何か彼も国旗を立て、14日のならせ餅の伝統を受けついでやっていそうな気がしてならなかった。



 



浮雲

2008-01-04 16:29:19 | 日録
             

 これは、拙宅の庭から眺めた今日の浮雲である。
僕は国木田独歩の「武蔵野」にある日記の一節を中学2年の時、国語の教科書で読んだ。(「国語」岩波書店)
 日記の部分だけ、「武蔵野日記」として載せてあった。
 僕はこの冒頭に出てくる「浮雲変幻たり」を今なお諳んじていて、強く印象に残っている。
 丁度今日のこの雲を見て「浮雲変幻たり」を思い浮かべたのである。

武蔵野日記

九月七日 昨日も今日も南風強く吹き、雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき、林影一時に煌めく。
同九日 風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり。
十九日 朝、空曇り風死す。冷霧寒露、虫声しげし。天地の心なお目さめぬが如し。
同二十一日 秋天拭うがごとし。木の葉火の如くかがやく。
十月十九日 月明らかに林影黒し。
同二十五日 朝は霧深く、午後は晴る。夜に入りて雲の絶間の月冴ゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出で、野を歩み林を訪う。
同二十六日 午後林を訪う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す。
十一月四日 天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色漸く到り、林影漸く遠し。
同十八日 月を蹈んで散歩す。青煙地を這い月光林に砕く。
同十九日 天晴れ。風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑う。小鳥梢に囀ず。一路人影なし。独り歩み、黙思口吟し、足にまかせて近郊をめぐる。
同二十二日 夜更けぬ。戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし。
同二十三日 昨夜の風雨にて、木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ。
同二十四日 木の葉いまだ全く落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐し。
同二十六日 夜十時記す。屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて、野や林や、永久の夢に入りたらんが如し。午後、犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入り、落葉を浮かべて流る。折々時雨しめやかに林を過ぎて、落葉の上をわたりゆく音静かなり。
同二十七日 昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば、富士山真白に連山の上に聳ゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面に水あふれ、林影倒に映れり。
十二月二日 今朝、霜、雪のごとく朝日にきらめきて見事なり。しばらくして薄雲かかり日光寒し。
同二十二日 雪初めて降る。

一月十三日 夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて、戸外をうかがう。降雪火影にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す。はたして風声か。
同十四日 今朝大雪。葡萄棚堕ちぬ。 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ。ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる。
同二十日 美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭針の如し。
二月八日 梅咲きぬ。月漸く美し。
三月十三日 夜十二時。月傾き風急に、雲わき、林鳴る。
同二十一日 夜十一時。屋外の風声をきく。忽ち遠く、忽ち近し。春や襲いし、冬や遁れし。

即ち、この日記は武蔵野(東京・綾瀬辺りも武蔵野だったらしいが、今その面影を捜すのは容易な事ではない。)の、秋から春への移り変わりを克明に記してあるのだ。
正月三が日が、忽ちにして過ぎ去り、地球温暖化のため、梅や、辛夷のの花芽も大分大きくなってきた。直きそこまで春が来ているような気がする。
しかし、あまり喜んでばかりはいられない小生なのである。