狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

千畳敷カール

2008-03-31 11:04:48 | 日録

Winter is over. Spring has come!?

盟友高山 登兄からの便りです。
週末長野の蓼科温泉と木曽駒ヶ岳の麓、千畳敷カールまで行って見た。
カールは2.612mまだ一面の銀世界だ。晴れていたので気温は-3度だが、寒くは感じなく南アルプスの山々が見えたがすぐに雲の中に。
 気分爽快今年も山に挑戦する事に。

331(月)820現在の千畳敷(中央アルプス観光K.K.H.Pより) 【千畳敷の情報】 天候:雪 気温-6.4℃
雲上の別世界へようこそ

「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り、すっかり春らしくなってきました。駒ヶ根高原では、地元の方が植えられた水仙の花が咲きだしました。大沼湖の周辺では、福寿草が咲きだしています。里では、春の訪れを実感できるようになってきましが、千畳敷カールはまだまだ厳冬期。青い空、素晴らしい白銀の世界が広がっております。今日のように天気が良い日には白銀の南アルプス連峰や富士山をご覧いただけます。登山をされない方でも冬山体験気分。普段では体験することの出来ないマイナス10℃前後の気温をぜひ体験してみて下さい。館内はバッチリ暖房が効いていますし、冷えた体を温めるホットコーヒーや、温かいお食事をご用意して皆様のご利用をお待ちしております。
昨日の山頂は最高気温が-3.4℃、最低気温が-6.5℃でした。現在、千畳敷の積雪は400cmです。暖かい服装としっかりとした靴をご用意下さい。また、登山をご予定の方は、完全な冬山装備をご用意のうえ、無理のない計画で安全にお楽しみください。
 

 

 


ツェッペリンカレー

2008-03-27 15:02:27 | 日録
         
そんなに昔話ではない。ツェッペリン飛行船がT市にやってくるという友人の誘いで、わけも分からず、そのメーン会場になるT市のS公園に出かけた。
その日は、天候の具合でとうとう飛行船は来なかったような気もするが、ネットで調べると、来たのは平成17年2月6日となっていて、5日にくる予定が1日ずれた事は確かなことだろう。それだけは、はっきり覚えている。しかしそんな事は、後で調べれば分かることであって、強情を張る程の必要はない。
その時ボクは、会場で、今で謂う「パネル・ディスカション形式」の講演を聞き、その後、「ツィッペリン、カレー」なる物をを賞味致したのであった。(順序が逆かもしれぬ。)とにかくこのカレーライスと、飛行船飛来の日付が違うことには間違えないと思う。飛行船がやってきたのは、明らかにその後の別の日であることを、だんだん思い出してきた。

        
 ――いま、書いているうちにやっと分かってきた。
 「ツェッペリ・ンカレー」が振る舞われたイベントのあった日付は、写真撮影日付から推して、2004(平成16)年11月23日であった。
この時、翌年飛来する「ツエッペリンNT号」についての説明解説・新たな町起こしなどの講演があったのだろうと思う。市長もお出でになって挨拶をされた。残念ながら、このイベントはネットでも、小生に日記も捜し出せなかった。
        

 上図は間違えなくネットにある2005(平成17)年2月6日の「ツエッペリンNT号」である。日記でも確かめた。
地上すれすれまで下りてきたが、繋留出来なかった。大勢の人出だった。

 二つ並べた最上段の写真は、カレーをかける前と、カレーは、別の器に入れてあって、それをかけたものとを、"Snipping Tool"を使って並べて貼り付けたのもので、ここでは、クリックしても大きい画面にはならない。
 昭和4年のツェッペリン伯号来浦の当時、市内K割烹で調理したカレーを再現させたものだそうだが、(インスタントカレー粉で調理したものではなかった。)勿論昔と今の味とは比較になるべくもないと、密かに思ったのであった。

銀色の風

2008-03-26 21:37:41 | 日録

山は暮れ野は銀色の風の音なり     しづ江
最近しづ江さんの作品は、短歌の表現が混同する乱調句が多いので、批判の対象になることもあるが、それはそれでよいのではないか。
ここでは「銀の風」が、この句の求心的役割を果たしていると思う。
 そういう俳句の提唱者である荻原井泉水の「自然・自己・自由」という著書に、次のような文が、
第1部「新短詩提唱」の中にある。

黒き手が黒き手が木の実つかみたり    山頭火

この句は、層雲同人の中でも、どういうことを言おうとしたものか、皆目分からなぬと云う声があった。
 なるほど、この句はきわめて象徴的な表現をしているから、この「黒い手」がどんな人の手であるか、それを味わう上のキメテは難しい。だが――

    くだもの      山村暮鳥
 まっ赤なくだもの
 この上のくだもの
 それを見ただけで
 人間は寂しいし盗賊となるのだ
 その手がおそろしい

 この詩とかの句とは、同じ気持ちのものではあるまいが、この詩を味わったら決して分からないものではあるまい。
 また私が旅で作った句(大正三年頃か)
〈枯れ草に鳴く虫の空は青く冷え  井泉水〉
           ――俳句例会報より

俳句仲間、超高齢者しづ江さん(なんとM.生まれ)は、毎月行われる例会に殆ど無欠席である。われわれの句会は指導者がいない。例会報で、お互いに「一句鑑賞」欄で感想を述べ合う。これは小生のページを埋めるために書いた雑文である。
序でにしづ江さんの最近の出句を紹介する。
 梅林を出る紅梅の香をつけて
 蕗味噌を練る腕しかと母米寿
 春風や笑いば残る幼顔

闌春

2008-03-22 14:06:46 | 怒ブログ
            

朝行を出でて一斉仏の座      谷人

幾年経つだろう。ボクは「朝詣り会」と称する仲間に入って、毎週土曜日の朝隣村のz寺で朝の「行」を続けて来た。
「朝詣り会」というのが、このお寺さんの年中行事表にある正式な呼称で、仲間達は「朝行」などともよんでいる。特に厳しい修行をするわけではない。
夏は6時半、冬は7時から15分~20分間の読経をし、終了後客殿の一室で朝茶をお呼ばれし、雑談後解散というのが一般スケジュールだ。
今の季節が「行」の一番良い環境の季節だろう。
特に今朝は、2日続いた雨催いの寒い気温、ストーヴの部屋での生活だったのが一転して「闌春」の季節である。
帰途、路傍の畑畦の「仏の座」の群生を見て一句詠んでみた。

 添付写真はz寺不動堂である。

      

「狸便乱亭ノート」命名縁起

2008-03-20 14:08:19 | 日録
                
きょう別冊"PETITES NOUVELLES"で、当ブログ開設について思い当たることを少しばかり述べた。ブログ開設では先輩に当たる、針尾兄と遊彩氏についてもふれた。その他の思い出を書き留めておきたい。
先ず当時のブログタイトル由来についてのくだりを転載してみる。
○「狸便乱亭ノート」 タイトル由来
liberty note を漢字に当てたもので、大それた意味はない。押し付けがましい解説を加えれば、「狸」といえば、とぼけ顔をしながら悪賢い爺さまを連想しがちだが、ごくお人よしの類の人間の顔と御理解いただきたい。便乱とはべらぼう【便乱坊】の2字を拝借した。広辞苑によれば、「寛文年間(1661~1673)に見世物に出た、全身まっくろで頭がとがり、目は赤く丸く、あごは猿のような姿の人間」だそうである。つまり(バカ)のことだ。小生(管理人)の顔が充分予想できると思う。

○「怒ブログ」について
拙ブログの開設日は2005.07.26でまだまだ日は浅い。パソコン暦がサトウ・サンペイ(「パ」の字塾)の塾生からの出発となる。サトウ・サンペイ講師は小生と同じ歳の生まれで、現在小生使用の、唯一の聖典は(「パ」の字塾2002年8月版)である。
ブログ「狸便乱亭ノート」は、(友引)を選んで初登録した。ブログ付箋にある “category” の欄などそのとき目に入らなかった。「怒ブログ」とは、小生が私(ひそか)に淑(よ)しとしている、故前田俊彦翁の「ドブロク造り」に因んで開設の巻頭詞にしたもので、何時の間にか「怒ブログ」の“category ”が拙ブログの代名詞みたいにいわれている。

このサイトのブックマークに、
○leprechaun日々のたわむれ
○反戦塾(元反戦老年委員会)
○ナイショのブロク
を記帳させて頂いているが、どうしてお知り合いなったかは、即答に窮する。
おそらく、leprechaun氏が初めてのおつきあいだと思う。
忘れもしない。それは『皇居売却計画』という名サイトであった。
昨年急逝された「写画あーる」遊彩氏にメールをした。氏は大手建設会社の営業にも関わったこともあるので、情報を提供したのである。
添付は、その「皇居買収計画」サイトと、遊彩氏が送ったコメントを、Snippig Toolでコピーした。色々ご指導をたまわったご三方に厚く御礼を申し上げたい。


平和を…(2)

2008-03-19 20:52:36 | 怒ブログ

戦争を知らない世代。太平洋戦争(大東亜戦争と云わないと気が済まない人もいる)ドラマでしか分からなくなってしまった。
一瞬にして10万人の命を奪った広島の原爆、一夜にして10万人以上が焼け死んだ東京大空襲。それに比べると、イラク戦争で失った生命の数は、信じ難いし、全く不可解である。
「戦争をすれば誰かが儲かる」昔の理論が口にこそ出せないが生きているような気がしてならない。
当時の朝日新聞を検証してみた。

      私たちの内面をも蹂躙
辺見 庸
〝新しい中世〟とでもいいたくなる荒ぶる風景が眼前に立ち上がった。ハイテク兵器を操る野蛮な「帝国」が、絶対暴力で世界を総べようというのだ。発想があまりに中世的であり、新しいのは兵器システムだけなのだ。人はいま理不尽に、そして確実に殺されている。
米英両軍による画時代的ともいえる暴挙はイラクの人と大地を手ひどく痛めつけているだけでなく、じつは戦火からはるか離れた私たちの内面をも深く侵している。なぜなら、今回の武力行使が人倫の根源に背くものであるにもかかわらず、私たちは直ちに制止する術を知らず、多くの人々の身体が爆弾で千切れ、焼き尽くされのをただ悲しみと怒りの中で想像するほかないからである。
思えば、私たちの内面もまた米英軍に爆撃されているのであり、胸のうちは戦車や軍靴により蹂躙されているのだ。全世界でわき起こっているこれだけの反戦の声を無視して強行された軍事侵略がもしもこのまま正当化されるなら、それはイラク市民にとっての悲劇にとどまらず、人倫全体への危害を意味し、あまねく世界規模の精神の敗北にさえつながりかねない。
問題の本質は米英が国連安保理の承認を得ずして開戦に踏みきったことにあるのではない。よしんば安保理が一致してそれを認めたにせよ、このたびの軍事行動は人道上いささかも合理化できるものではないのだ。イラクの核兵器開発開発の証拠はなかった。9・11テロやアルカイダと関係も立証されていない。湾岸戦争の大敗北とその後の制裁で弱りきったイラク軍にはさしあたり、米英に脅威を与える力などあるわけもなかった。
大統領宮殿の査察という屈辱に耐え、ミサイル廃棄にも応じたフセイン政権の語られざる本音は、強気の反米発言とは裏腹に、〝命ごい〟だったともいわれる。いや、だれよりもイラクの民衆が平和と生命の安全を請うていた。心の中で<助けてくれ>と叫んでいる者たちに、米英はしかし、話し合いの手を差し伸べるのではなく、問答無用と爆弾を落とした。フセイン大統領は紛れもない圧制者ではあるけれども、米英の所業は非道であり、永遠に記憶され裁かれるべき戦争犯罪である。
世界の軍事費総額約8千億㌦の4割強となる国防予算をもち、8千もの有効核弾頭を保有し、戦術核並みのMOABなど新型大量破壊兵器を次から次へと開発している人類史上最大の軍事帝国、米国。ネオ・コンサーバティブ(新保守主義)グループに牛耳られたこの戦争超大国の粗暴な政権が事実上、世界の暴力独占権を握り、国際社会の「準則」を国連にも国際条約にもよらず、いまや自国の都合で決定しようとしている。彼らが依存しているのは、最高度の電子化された兵器と戦争の組織体系、大量殺戮をメディアの眼から隠すバーシャルなシステム、すなわち人類がかつて手にしたこともない絶対暴力である。
米国のみが「先制攻撃」という名の侵略権や他国の指導者に対する暗殺権を有する彼らの思想は、近代国民国家のものというより病的なまでに古く専制的であり、忍耐の要る対話をすぐに拒む蛮人のそれという外はない。換言すれば、高度に技術化された蛮人が世界を仕切ろうとしているのである。
戦慄せざるをえないのは、小泉首相がこの「帝国」の絶対暴力にためらわず支持をあたえたことだ。しかもその弁明ではイラクに結びつけて北朝鮮の「脅威」がほのめかされていた。ということは、「帝国」の絶対暴力が対イラク戦後、日本を出撃基地として一気に朝鮮半島に向けられるかもしれない恐怖のプロセスを小泉氏は是としているということであろうか。それまでに有事法案を採択し、「帝国」の戦争に大いに協力しようというのか。イラク反戦を叫びつつ、私たちは朝鮮半島にからむ私たちの近未来の地獄絵をも想像しなければならない。
騙し絵のような米軍提供の戦争映像の奥に、隠された無告の人々の惨憺たる死骸を見る必要がある。米軍がどのように演出しようとも無血の清潔な戦争などない。今彼方の戦争に反対することは、来るべき此方の戦争を拒む事にも通じるのだ。
?


平和を…

2008-03-17 09:29:48 | 怒ブログ
          
    
決議案や意見書案 すでに4町村で可決
米国などによるイラクへの武力攻撃が秒読み段階に入る中、県内の市町村議会でも、平和的解決を求める意見書案や決議案が相次いで提出されている。A新聞M支局のまとめでは、約3割を占める23議会で提出され、F町、K町、A町、M村の4町村議会では可決された。
F町では、与野党会派で意見書案を提案し、7日の本会議で全会一致で可決した。イラク政府に対し「国連決議を遵守し、国際社会の不安と懸念を払拭するよう要求する」とする一方、米国に対して「国連を無視した一方的な武力行使を公言する米国の態度は、査察による解決への努力を妨害するもの」と指摘している。
K町とM村の議会の意見書は共産党議員が提案。イラク、米国双方に歩み寄りを呼びかけ、日本政府には平和的解決に向けた外交努力を尽くすように求めている。A町議会の意見書は、イラクや米国という言葉を使わず「国連決議に基づかない軍事行動に反対する」と表現した。
このほか、北I市やI市など12市町村が3月末までに採決を予定しており、I岡市やS市など6市町村で審議中だ。県議会は、共産党県議2人が意見書案を提出しており20日の本会議で採決予定だ。
一方、T町議会は13日に意見書案を否決した。提案した町議の一人は「一般人が被害を受ける戦争に対し、地方からも声を上げるべきだった」と悔やむ。反対した町議の一人は「国の方針がすでに決まっているのに町議会が何を言っても変わらない」と語った。
7日から開会中のS和町議会は18日、町議2人が「米国のイラク攻撃に反対する意見書を提出したい」と正副議長に申し入れた。議会運営委員会で協議したが、「意見書提出は議会開会2日前までという期限が守られていない」と受理されなかった。申し入れた町議の1人は「戦争回避より意見書提出期限の方を重視した判断はおかしい」と批判している。
(2001. 3/19付A紙地方版)

仕舞屋

2008-03-14 09:29:53 | 日録
            
山梨県にお住まい(違っていたらゴメン)の山珊瑚さまから「ハイクブログ」というサイトで、
『仕舞屋に冷たき風や貸家札』   山珊瑚
という芳吟返句を賜った。
これは、◎下の二、三文字しりとり俳句◎という"ことば遊び"で、
ボクが桃多呂さんの句
『廻る火や闇を焦がしてお水取り』   桃多呂
にお返しした盲句
『取り敢えず御礼の一句朝の霜』    谷人
の下の二、文字"しも"に繋いでくれた名句である。

この"仕舞屋"というあまり馴染みのない言葉は、蛇足になるが"しもたや"と訓読みする。
ボクの地方では、今はあまり使われなくなってしまったが、
『…きゃつ【彼奴】は、今ゼニに不自由しなくなったから"しもたや"暮らしだ。』などという風に使った言葉である。
ボクはてっきりわが地方の方言だとばかり思っていた。
しかし方言ではなかった。ただ本来の意味との違いを、いま初めて辞書を引いて知った。 

しもたや【仕舞屋】(シマウタヤの転)「しもうたや」に同じ。
しもうたや→もと商家であったが、その商売をやめた家。
『金利や資財の利潤で裕福に暮らしている人、またわそういう家』というのは第2義に当たる。
わがふるさとの村は、昭和の終わりから平成はじめににかけて、大規模な宅地造成の村となった。今村の中に1~5丁目がある。
詳しいことは分からないけれど、約467,900㎡の田、畑、山林、原野、その他が売却され、開発されたのである。
 "バブル"といわれた時代である。この開発住宅団地は、平成11年までに、
  計画戸数    1,353戸
  人口計画    5,120人
という大型開発計画であった。=開発会社「開発計画概要書」平成元年7月制作による。
 今日、この変貌はげしい住宅団地内に所用があって訪れた。
 道に迷うて、この団地最後の大売り出しであろう(?)ところに迷い込んでしまった。
 何を云いたいのか自分でも分からなくなってきた。
 これだけの土地を手放し、ふるさとを売り渡してしまった当事者は今は老朽化してしまったが、「仕舞屋」はすでに死語になってしまったようである。

三月十日に想う

2008-03-10 18:58:26 | 反戦基地
          

春の月戦禍照らした過去を持つ  (高崎市  野尻町子)

これは、今日3月10日付朝日新聞の「朝日俳壇」にあった金子兜太選の句である。
選者の短評。
『野尻氏。三月十日の東京大空襲をはじめ各都市の「戦禍」を忘れることはない。』
ボクは、その頃中学3年生であり、東京を見たことも行ったこともなかった。一夜のうちに十万人以上が焼け死んだということは、戦後になって知ったことだ。勿論新聞もラジオも、殆どが空襲の惨状を全く報道しなかった時代である。
ただ、遠く離れた東京の空が真っ赤だったことと、燃えた紙屑がイバラッケンの我が家まで飛んできたことだけは、はっきり覚えている。それは2回あった。多分それは3月10日と、5月25日の東京大空襲だったろうと今は考えている。当時の軍国少年の気持ちを今再現することは不可能だが、呆然と見ていたことだけは確かである。
ボクが文芸誌の制作編集長(?)になったことは前にも述べた。
編集作業も大詰めである。
実は、誌末の編集後記前に『筆者紹介』と、これまで発行した本紙の『通巻総目録(1)』を掲載した。
その第5号(平成12年度号)は、『私の終戦』特集号だった。
その中に直接隅田公園近くて、実際の体験に遇われたT・Rさんの貴重な記録が載っていた。
《戦場へ行かなかった年代の記録としては、空爆の体験が生死を分ける極限状況として、少年少女期の心に深く焼き付いていることに感銘を受けた》とこの号の編集者は後記で述べている。
なお、この五号までは。印刷は勿論製本まで手作りであった。表紙絵は、当時中学生だった、編集者A兄の倅さんの作である。

摘録断腸亭日乗より
昭和20年3月10日(抜粋)
…ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり。余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり。されどこの二、三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに到しが、戦争のため下女下男の雇はるる者なく、園丁は来らず、過日雪のふり積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、むしろ一思に蔵書を売り払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになりゐたりしなり。昨夜火に遭ひて無一物となりしはかへつて老後安心の基なるやまた知るべからず。されど三十余年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし。昏暮五叟及その二子帰り来たり、市中の見聞を語る。大略次の如し。
昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向島一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠りにおちぬ。


啓蟄の翌日の朝の某家のガラス戸の中の日の出の一こま

2008-03-06 22:29:42 | 日録

窓の障子が明るいので起きて開けてみると、東の空ほんのりと明らんでいた。5時半である。
日の出前の東の空、絵に描いたように鮮やである。これまでも何回かもカメラに収めてきたが、うまくいかぬ。やっぱり固定脚でシャッター速度をうんと遅くしなければダメなのだろう。何枚撮っているうちに時間は刻々と経過。太陽が昇ってくる。これが気球の回転の速さか!
 ガラス戸を太陽が照らし始めた。

 さてさて今月発行予定の文芸誌も愈々大詰め。
「編集後記」にするか「あとがき」にするかの段階に入った。こんなことで、クヨクヨする気の小さい小生である。いくら零細なりとは云え、運送店経営者には不向きだった。だからうまくいく筈はなかったと自虐的反省をしている。

「文学散歩」という雑誌創刊号(昭和36年1月創刊)を見つけた。
編集後記の前に、筆者紹介(敬称略)というコーナーが設けてあったので、真似してみた。今は、住所や電話番号の記載などは敬遠される。垢抜けた編集、その野田宇太郎編集「文学散歩」の筆者紹介は、次のようなものである。

石田幹之助 東洋学者、文学博士、日本大学教授、文化財保護専門委員。
徳田一穂  作家。秋声長男。
谷口吉郎  建築学者、工学博士、東工大教授、文化財保護専門委員。
吉井 勇  作家、歌人、昭和35年11月19日74歳に没。
村松嘉津  フランスの東洋学者ガスパルドヌ教授夫人。文化史及び文学史研究家、在ヴェルサレユ。
阿部徹雄  写真家
若杉 慧  作家
幸田 文  作家
戸川エマ  作家、評論家、文化学院教授
三輪福松  イタリア中世、ルネッサンス美術史専攻
曽宮一念  画家、図画会々員
高橋新吉  詩人、作家
小堀杏奴  作家。評論家

野火

2008-03-02 10:05:05 | 日録

          

 大言海 大槻文彦:冨山房を検索して本文を作った。
この辞書は、変体仮名あり旧仮名遣い、更に本文はカタカナ表記である。
そうした苦心の引用も「投稿」ボタン押し忘れで、すべてが水泡と帰してしまった。
しかし再び同じ文面の復元は不可能に近い。諦めた結果、辞書の解説だけを手打ちで再現させることとした。
のび[野火](名)野火(一)野間の畑に、物の種を播きつけむ為に、冬の枯草を、春の頃、焼き払ふこと。やくワ。ぬび。野焼(解説略)(二)過ちより、山野に起こる火事。
前記変体仮名、旧仮名、本文のカタカナ表記を、ワープロに従っただけで、敢えて校正しなかった。

 

 

 

 


俳句会報より   奥塩原の旅から

2008-03-01 06:28:14 | 日録
        

露天風呂春雪の肌間の当たり       K・N
雪の湯治帰る車中の赤い顔        K・Y
春雪や禅林文学の森甘露山        I・R
夜の底を確かめてみる雪景色       谷 人

 偶然にも三月句会の前日、われわれ四人(K句会々員)は文学愛好者グループの一員として、鄙びた奥塩原の温泉宿に投宿し、雪国の感触を満喫することが出来た。
 当然、手帳や心に刻んでおいた句が、今日の句稿となったのである。わが町を出るとき、雪になることは運転手から聞いて知ってはいたが、これほどの雪景色とは全く想像し得なかった。さすが露天風呂に浸るのは躊躇せざるを得ず、前記K・Nさんの句は、窓外に見る湯槽にとけ込む雪を詠んだものであろう。
 当日は大相撲春場所十三日目で、西大関栃東関が、朝青龍の全勝を阻んだこともあって、般若湯の興奮まだ覚めやらぬ赤い顔が、途の車中にも残っていたものと思う。甘露山とは芭蕉句碑や漱石の文学碑の建ち並ぶ妙雲寺境内のことである。
(2005.3)
竹崎奇山さんの遺句集「糸遊」を頂戴した。本会にも「S会」や、俳誌「亜」に関わった方がおられるので、奇山さんのお名前を存知上げておられるかと思うが、ここでこの遺句集編纂者の一人であらせられるあき夫人の一句を紹介してみたい。

 大津絵の鬼に連れ添ひ寒詣で   あき

 あき夫人が、長年連れ添ってきたご主人を、「大津絵の鬼」と喩えた。奇山さんを知る人にとって、「宜しこそ」と唸りたくなる一句である。
 しかし、この句の意味は充分すぎるほど分かるのだが、恥ずかしながら小生は、この句に出遭うまで、「大津絵」を知らなかったのである。
蛇足にはなるが、広辞苑には次のように記されているので書き写す。

おおつゑ【大津絵】近世初期より近江の国大津の追分・三井寺辺で売り出された民衆絵画。庶民の礼拝用の略体の仏画から始まり、元禄の頃から諷刺を交えた明快な戯画風のものが登場し、道中土産として世に迎え入れられた。代表的な画題は鬼の念仏、槍持奴、藤娘、瓢箪鯰、座頭と犬など。追分絵。