狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

マヤの一生を読んで

2007-10-31 20:30:14 | 日録
小学3年生の「読書感想文」を読んだ。優秀作品選考の委員に、どうした間違いだったのか、選ばれてしまったのである。

 ぼくの部門別(小学生3~4年生部門)の委員は3名で、現学校教師が2名、元運送屋のボクと合わせて3名である。

 戦中派の、ボクにとっては、若い先生方とは、こと戦争に関するかぎり、当然のことながら考え方が違う。ボクの選んだのは、多数決の原則により削除された。
入賞作品は、冊子にする予定だが、小生の選んだ作品は全て(3点)没になる可能性が高い。

 だから、戦争に対する子供たちの考えを、このブログで公表することにした。勿論、作者児童の名前は選考者に分からないのは、当然である。

(306)←小学3年、6番目という記号。

 
 マヤの一生を読んで

 ぼくは、「戦争」という事がどんな事だったのかよくわからなかったのでこの本を読んでみようと思いました。
 五人ぐらしの次郎の家に、子犬がやって来ました。すると、兄弟三人で子犬の取りあいになってしまいました。ぼくは、自分の家に子ねこが来た時の事を思い出しました。ぼくも子ねこをさわりたくてお兄ちゃんと取りあいをしたからです。思わず、
「ぼくの家と同じだ。」
と思いました。
 子犬は、「マヤ」という名前をつけてもらいました。夜になり、マヤがだれと一緒にねるかじゃんけんをしてきめることになり、一郎が勝ちました。一郎がマヤをだっこしてねてしまった後、次郎はうらやましそうに見ていました。すると、マヤは一郎のふとんをぬけ出して次郎のところに来てしました。ぼく
は思わず「クスッ」と笑ってしまいました。
一郎は、せっかくじゃんけんで勝ったのにかわいそうですが、ぼくが次郎の立場だったらすごくうれしいし、かわいくてかわいたくて
仕方ない思います。我が家のねこのマーブルも、お兄ちゃんが自分のふところに入れてもすぐにげてきてぼくと一緒のねます。だから
ぼくは次郎になった気分になりました。マヤは、すっかり次郎が気に入ってしまいましたが、一郎と三郎はさみしいと思うし何だかかわいそうです。えも、三郎にはヒヨコ、一郎にはねこをかう事になりよかったと思いました。
 マヤをかいはじめて少したつと、日本軍は
アメリカとイギリスを相手に戦争をはじめてしまいました。そのため食べる物もきる物も不足してしまいみんな苦しみました。ぼくと同じくらいの子も、もっと小さい子も食べる物がないなんてショックでした。ぼくは、毎日当たり前のように食べているのに、自分の生活で反省しなければいけない事がたくさんあるような気がします。食べ物がないという理由から軍用犬い外の犬は殺すようにという命令が出され、とうとうマヤがつれていかれることになりました。次郎のお母さんが、首になわをかけるとマヤはさんぽとかんちがいしてしっぽをふりました。ぼくの目からポトンとなみだが落ちました。ぼくは、
「どうしてマヤを殺そうとするの。」
と強く思いました。不吉な物を感じたのかマヤが怒りくるってほえたてました。すると、マヤをつれていこうとした男たちがぼうでマヤをなぐりました。ふらふらになりながらにげたマヤは必死に自分の家にもどって来ました。でも、家の前で息たえてしまいました。
きっと次郎や家族に合いたくて必死に歩いて来たにだと思いました。
 戦争という物は、みんなをきずつけたり、
かなしませたりいい事なんか何もない、絶対にしてはいけない事だと思いました。

(参照)

わが青春に悔いあり

2007-10-28 22:11:29 | 日録
(まえがき)
 今年から、町の任意文芸同好会(正式名称は“□□町郷土文学研究会”という学術的(?)グループの会)の同人誌のような、年刊誌の編集長に強制的(自分から、やっても良いとも云った事は確かだが…。)になってしまった。

 前任者は、ボクと同じ年齢、それも中学同級生の、A兄である。
 兄は、ワープロの、キーボードを叩くのは、遙かにボクよりも長けているが、機能引き出しについては、あまり関心がない。集まった原稿を(フロッピーにしたものも数点ある)、これを全部自分1人で、「一太郎」ワープロに打ち直したのである。
 出来た印刷物を、製本も手掛ける印刷業者に頼んで、格安な値段で仕上げてきた。
 執筆陣の原稿は、おしなべて長文である。
 その、編集、割付、ワープロ打ち込みを、第1号から第11号(平成18年度)まで、兄1人でこなしてきた。その労苦は推して知るべしである。
そして遂に今年から、一応ワープロ打ちが出来る、小生と交代したということになったのである。勿論、同好会の趣味の雑誌であるから、町からの補助金などは一切ない。
  
 執筆者は、何れも、定年を過ぎ会社を止めた人、お金持ちはあまりいないようだが(失礼!)、著書も多い方々が、数人いるので、文の内容も、いろいろに亘るが、長い文章を書くことに長けている方が多いのが特徴だ。
 






 閑話休題
 この写真は、元K海軍航空隊の正門跡と、下は荒れ放題になってしまった、兵舎、戦後その一部が、東京医科歯科大学の、地方名を付したK分院となった建物の遠景である。
 そのときの勤務医師であった、T氏の地方新聞紙への寄稿の切り抜きを見つけた。(年月不明)
 これは、医師でもあり作家でもあるT市在住J.S氏の著書に登場してくる、この航空隊にまつわる部分への感想文の寄稿の抜粋である。

このK海軍航空隊跡でK分院の診療が始まったのは 昭和21年12月、私が赴任したのは24年5月ですが、当直をしていた私のところに立ち戻ってきた友人が「よくひとりでこんな部屋に泊まっていられるネ。今、大谷(国道125線からK分院に通じる道路の分岐点)へ向かって車を飛ばしたが、俺も連れていってくれと後ろで声がするので、恐ろしくなって戻ってきたんだ」と話したことがあります。
 思えば戦時中、非業の死をとげた若い兵士もいたであろう。戦後は肺結核で病死したした患者も多かった。分院のここかしこ、こうした霊がさまよっているのではないだろうか?ここにも鎮魂歌(レクイエム)がなければならない。そうしなければさまよえる霊はいつも浮かばれまい、と友人は語ってくれた。
 平成9年(1997)3月28日午後3時から、K分院閉院式典を挙行するとの案内状が送られてきました。二内(第二内科)発生の地、A村大山(地名)の灯が消えてゆくのです。
 二内では当時、私と同時に赴任してきた、N.K先生、先任のN.K先生と三人の侍がO教授のもと肺結核症の治療にあたりました。20床にすぎなかったベット数も、結核患者が全国から集まるようになり、昭和29年には165床となり、活気あふれるk分院となりました。
 老朽化の激しい旧木造病棟などはとり壊されましたが、敷地内には、K航空隊時代のコンクリート製の指令本部や、ボイラーの煙突、錨(おかり)の紋章の入った消火栓などが当時の姿のまま残されています。かつてこの地で猛訓練をうけた飛行学生らは、操縦席からどんな景色を見ていたのでしょうか。
 上空から跡地を訪ねると、枯れ草に覆われた広大な敷地に当時の建物の配置がはっきりと見て取れました。練兵場のようにがらんと空き地になった分院跡の一角に、元予科練生らが同窓の戦死者の霊を弔おうと記念碑を建立しました。我々にとっても感無量なものがあります。
 航空隊の跡地の国有地10万2千平方㍍の跡地利用をめぐっては、複数の動きがあります。まだどれも具体化していないようであります。物言わぬ遺物たちは戦後50年を経た今も、草むらの中でひっそりと戦争の記憶を伝えています。
 この地を難渋の地といっている人もいるようですが、私はこのA村のよさをしみじみ実感しています。都会の雑踏から離れただけで、緑を楽しみはなの香りを賞で、小鳥の囀りに耳を傾ける生活がそこにはあります。手近に自然があるという事は現代では贅沢な部類に入ります。そう思うと、駅まで遠いとか、バスの弁が悪いとかはさほど苦にならない筈だと思います。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、流れに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、人の世もかくのごとし」
 このように、河川、湖沼、雨、霧、雪など水はさまざまに姿を変えて、人の心を動かし、来し方、行く末を考えさせます。このK湖もまた同じでしょう。…(略)
 


 実は今日、友人の車に同乗して、この元航空隊跡を一週してきた。そこには全国で2番目に大きく広い湖が広がっていた。
 航空隊内の格納庫から湖面への誘導路になった緩やかな傾斜のコンクリートの広場にはかつての面影があったが、湖面で、モーター付きボートによる疾走の風景は、この地でなくては見られまい。
 巨大な貸しボート会社がいくつも建ち並び、無数に近い若者たちの車で埋められていた。バーベキューを愉しむグループ、風力ヨットによるサーフィン。
 ラジコンによる模型飛行機の競技。
これを見ただけでも「わが青春に悔いありき」である。
初め、ブログのタイトルをこれと決め、若者たちの喜戯たる様子と、己の過去を比して書くつもりでいた。
 写真だけを貼り付け、後から文を入れる段階で、こちらの「一太郎」が耄碌し出した。修復に相当の時間を要した。
 従って、ー太郎ワープロでの練習文の転載となってしまった。
何回か読み返したが、誤字脱字不適切な文は何れも一太郎の所為
のみならず、小生の痴呆症もだいぶ進んできたとお察し願いたい。

広辞苑

2007-10-26 13:55:57 | 日録
「広辞苑めっちゃ変身」10月24日、朝日新聞社会面の、大きな記事である。
「若者言葉含め1万語追加」
 4割弱カタカナ語
これが大きな見出しであった。

次はネットで調べた、この記事である。


広辞苑:10年ぶり改訂 1万項目を追加

来年1月発売の広辞苑。机上版(右)は初めて2分冊に=2007年10月23日午後4時22分、手塚さや香撮影 私と「ラブラブ」の彼は「めっちゃ」「いけ面」で「癒(いや)し系」なのに、「メタボリック症候群」で、ちょっと「うざい」……21世紀にはこんな言い回しも、国語として「どんぴしゃ」らしい。日本の代表的な国語辞典として知られる「広辞苑」(岩波書店)の第6版が来年1月11日に刊行されることになり、東京都内で23日、発表会が開かれた。

 改訂は10年ぶり。第5版収録の全23万項目を再検討、現代語など約1万項目を追加した計24万項目を収録した。インターネットや電子辞書の普及で敬遠されがちな重さに配慮、普通版より文字が大きい机上版を初めて上下2冊に分けた。さらに、これまで巻末に収録されていた付録を、両版とも別冊化した。

 候補10万項目の中から厳選されたという新採録語のうち4割弱を、「カミングアウト」「ピッキング」などの片仮名語が占める。また「ネットサーフィン」「ヘッジファンド」など情報通信や金融に関する語が格段に増えたといい、社会の激変をうかがわせる。ネット上で検索される頻度も参考にしたといい、新語の選定自体も「21世紀型」になっている。

 富山の「きときと」、愛知などの「やっとかめ」といった「若者には分からなくなりつつある」各地の方言や、「ウルトラマン」などの「昭和」語も充実。一方、「萌(も)え」「イナバウアー」など、用法が定着していない語や、流行語で終わりそうな言葉は見送られた。

 人物では故人となった「網野善彦」らのほか、外国人では「ビル・ゲイツ」や「プーチン」も。同じく“広辞苑入り”した故吉村昭さんの妻で作家の津村節子さんは「死んだら無になる、と生前に言っていましたから、載ったページを開いて遺影の前に立ててやりたい」と話した。来年6月末まで完成記念特別定価(普通版7875円、机上版1万2600円)で販売される。【斉藤希史子】

ボクは、博文館「辞苑」以来この辞書のお世話になった。
 だが、この
広辞苑第6版を、購入すべきかどうか、非常に迷っている。
 勿論、広辞苑6版購入の資金は、何とか工面は出来るだろう。しかし、拡大鏡で見る年齢になってみれば、机上版は2冊になってしまったのが、実用に適しているかどうか?
しかし、やはり、購うことになってしまうようなきがする。

かわいそうなぞう

2007-10-25 23:05:49 | 怒ブログ
今日は十五夜だそうである。
 昨日まで、いや正直いうと、町の小中生の読書感想文の、審査会が今日の午後からあった。勿論、政治家とは違うから、料亭を借り切ってやったのではない。
町の、公民館の一室で、厳正なる審査を行ったまゝである。

 勿論、これが、最終結果ではないと、事務局長からのお話だが、町の教育委員が一人も審査に加わっていないのだから、間違いなく今日の結果が、コンクールの表彰結果になることは、ほぼ間違いないと思う。

 ボクは小学校3~4年(中学部)29篇の審査員3人の(民間側?)の1人だった。
 ある程度は予測はしていたが、ボクの選んだ作品は3篇とも、選ばれなかった。
ボクの選んだ作品は、何れも戦争に関係した作品でばかりであった。

 作品は、表彰が決まるまで、決定的なものではないから、まだ公表は差し控えるが、戦争末期、上野動物園の3頭の象に、食物を与えず餓死させた物語の本の感想文である。(題名:かわいそうなぞう)
 夕方、オレは近くの野道を散策した。審査会の重荷をおろした安堵感からである。
 十五の月はまん丸かと想っていたが、やゝ欠けかけはじめていた。
 象を餓死させた当時を想うと、小学生の文ではないが、涙が出そうになった。



雑録抄

2007-10-22 22:45:42 | 日録
非情に多忙な日が続いている。
 ○が、「昼食のオサンドンやりたくない。結婚して、まだ何年も経たない気分だが、あの日以来二人でラーメンを食べたことがないから、今日は連れて行って!」と仰せられた。
 余も久しく「ラーメン屋」さ行ったことがない。
新婚気分でラーメンを食した次第である。非情に美味かったことはいうまでもない。

読書感想文を読んで

2007-10-21 12:27:52 | 本・読書
←打ち合わせ風景
今年も、町教育委員会主導による、小、中学生低学年児童の読書感想文の審査員の末席を穢すことになった。
小生が、どういうことをする部門を担当するかというと、予め渡された、小学3・4年生児童の読書感想文3学年分15篇。4学年分14編計29編作品の予備審査にあたる。
○読書の喜び、楽しさが感じとれるか。
○読書によって得た自己の変革が見られるか。
○登場人物の心情や作品の語っているものを的確にとらえ、自分の意見、感想を具体的に述べているか。
○応募規定に合っているか。
の4項目について、「大変よい」3点
         「よい」    2点
「もう一歩」  1点
の合計点数から、最優秀賞 1作品。優秀賞 1作品。
        優良賞 上記以外の作品 。を決める。
その各作品の評価と、その合計点数を審査するということがボクの役目になる。

鳫作ゴッホが描いた打上げパーティ

2007-10-18 17:32:12 | 日録
先日拙グログに書いた、畏友N・I兄の、脚本・演出・制作の劇団「Sの会」による演劇「ゴッホとゴーガン」は、実に素晴らしい演劇だった。
ただ残念なことに、主催が「I県県南地方総合事務/演劇による青少年と大人の交流実行委員会」という長い名称のそれから考えても、演劇に無関心とも思われる市役所側の主催であるから、PRも不足だったし、「地元の高校生演劇部」との共演では、ちょっとばかり理解出来ない演劇だったかも知れない。

ボクはこれまで知らなかったのだが、この脚本はN・I兄が北海道H大学生の時に書いた脚本を、1時間の舞台に纏め上げ、脚色したものであるということを、隣席にいた、兄の知り合いだったらしい方から聴いて初めて知った。

 この一幕もので、「ゴッホ」や「ゴーギャン」さらに弟「テオ」を知っていない人に、その流れを理解させる演出力には、ただただ恐れ入るばかりである。並大抵の感覚では出来得ないだろう。
 ボクはあらかじめInternet Explorerでこれをを検索して、予備知識を得ていたから、理解出来たようなものだ。
 演出力もそうだが、役者の演技も、とでも一般社会人の芸であるとは思いないほど充実した立派なものだった。

 恐らく、これはボクの予感だが、今後秋の文化祭に、アンコール再演の可能性もあるであろう。その時は、何幕ものになる分らないけど、元の脚本のままの演出と演技が見たいものである。

※このパーティの絵画は、自称谷人画伯がマシンを使って描いたものである。

 

短いスカート

2007-10-17 14:48:43 | 日録
 公民館入り口のところで、女子中学生十人ぐらいの一団がたむろしていた。恐らく何かイベントがあって、皆が揃うのを待っていたのであろう。

 その極端に短いスカートはボクの目を惹いた。いつだったかの新聞に、中国でのニュースだが、女子スカートの長さを一定以上短いことの取り締まるのに、警察官がメジャーを使って計っている写真まで出ていたのを思い出したからである。

 まさか小生が、しゃがんで戯れている女子中学生のミニスカートを撮ったら、痴漢と間違われるであろう。急いで館内に入り、窓際に設けてある休憩所から、彼女らのスカートの丈を携帯電話のデジカメに収めてしまったのである。

 後でブログの記事のネタになると思って、わくわくしながら撮った。
 しかしボクとしたことが、大分緊張してしまったのであろう、どう操作を間違えてしまったのか、2枚撮したつもりだったが、一枚も写っていなかった。残念!

冬近し(近況とお詫び)

2007-10-16 06:33:15 | 日録
お早うございます。
「宝篋山(461)」さ行ってきてから、朝足の攣るのがなくなりました。今まで、之に悩まされ、
2時~3時に目を覚ますのもしょっちゅうでしたが、
すっかり「ネゴボウー」になってしまいました。
今朝は珍しく、5時起床。まだ真っ暗でした。んだよなー。もうすぐ11月の声が聞かれます。
「歳時記」に依りますと、「初冬」とは、立冬から立春まで、すなわち11月7日頃から2月4日頃までだそうでありまして、今手元にあるあるオレのカレンダーを見ましたら、今年は 11月8日が「立冬」とありました。
 
  鉛空、あと 半月で冬が来る     谷仁←この俳号のほうが名句らしくなるかな?

【お詫び】 迷惑メール(全て英文)が、続々とはいって来るようになり、使い慣れたメールアドレスを取り替えてみました。アドレスの変更で、これに該当するメールは皆無となりましたが、思わぬトラブル発生。Reでの返信が出来ないことや、「ハイク・ブログ」へのコメントや、返句の通知のなくなってしまったりして、皆様からご指摘がありました。
いろいろ研究の結果(笑)今度は修正致しましたので、直ったと思います。ご迷惑をおかけしたことを、ブログを借りてお詫び申し上げます。ただ、稀にではありますが、ブログのコメントやトラックバックに、「アリャリャ何だこれ?」と、
わがキョーヨー(?)を疑わせるようなものが、誤信されることがありますので、気がつき次第削除しております。

※添付写真はT氏の写真をお借りしました。今年(2007.7.28)撮影のもので、真夏の冬です。


秋深し

2007-10-11 22:07:06 | 日録

 わが屋の[金木犀]が一斉に咲いた。その匂いが伝わらないのが残念である。
手が回らない上に、職人を頼んでまで、選定したり、手入れをする程の銘木でもない。昔は「木犀」が咲くころ、「初茸」が出る前兆であった。
今でも出る「秘密」場所があって、去年も立派な「アカハツ」を友人から頂いたのは今頃だった。

カットの「金木犀」は、この写真「ピラカンス」も奥に見えるのがそれである。
去年は、全く剪定をしなかった。ここに写っている場所は、拙宅の一部分だが、植物という植物は、おしなべて野生のものである。
手前の「カナメノチ」は、一旦殆ど枯れかかったのが、自然に復元した。もう大丈夫だろうと思っている。


あーにまる

2007-10-08 18:07:29 | 日録

もう、古いむかし話になってしまったが、ボクと○妻が飼っていた「ユータ君」の戸籍が見つかった。新聞切り抜きスクラップブックを、地元高校野球の審判団不手際で再試合となった記事を捜していちに見つかった。これはユータ君の戸籍に当たる、「あーにまる」の役員であった、S女史の地方新聞記事である。
無断で記事や、写真を引用したが、もう年月も経っていることでもあり、(勿論ユータ君は鬼籍に入って久しい。)赦して頂けるものと思う。

 


続宝篋山

2007-10-06 22:33:45 | 日録
朝小雨が残ると言う予報であったらしかったが、殆ど快晴である。急遽小田の「宝篋山」行く事に決める。

 昨日、ひと月の内、半分以上山登りを愉しんでいる畏友Tさんに、あすの宝篋山行き決行を報告し、登山道を尋ねたら、『「宝篋山」ハイキングコー』スというパンフレットまで持参してくれた。
 さらに夜には、
「19時の天気予報では明日の朝方まで雨で、昼過ぎから晴れる様子ですが、雨後は登山道が泥濘滑りやすくなるので、一日延期してみては如何でしょうか。
 つまらぬ事で怪我でもすると大変です。もし行くのであれば十分注意して登ってください。」とまで心配りのメールまで頂戴した。有り難いことである。

 登山と言えるかどうか。それでも461メートルの山を徒歩で登るのである。高齢者のわれら夫妻にとっては、快挙と言っても差し遣いないだろう。嘗て(おおむかし)筑波山にまだケーブルカーもロープウエーもなかった頃、筑波山(876㍍)へ2~3回、団体やグループで登ったことがあるがそれ以来である。
 だが、前日はやはり緊張していた。
以前やはりTさんに、
『 素朴な質問。連日の山歩き、弁当はどうすんだっぺ?などと浅はかな考えを浮かべています。』とメールを送った事がある。
 
『食料大臣答弁。
 山歩きの基本と言ってはなんだが、昼食はオニギリか好みによりパンなどを持つが、歩行時間が昼に掛かる時は必ず持参する事。
 それから歩いている時に意外とエネルギーが切れる事が有るので、アンパン、飴、チョコレートなど消化が良く、すぐエネルギーになる物を携行する事。
 それから忘れてはならない事は水(日差しの強い時は多めに)平地と違い、雨が多いので雨具、特にこれから寒くなるので防寒具(歩いている時は暖かいが休むと急に寒くなる)汗拭きタオルなどは必携となる。
 蛇足だが膝の保護の為靴下は厚手の物を(下に薄いのを履きその上に厚手の物を)手袋も忘れない。』微に入り細に亘る解説をお寄せもなった。


登山は、上り下り、5時間かけて、安全第一を旨とした。下りは別コースを選んだ。山頂で出会った、この山に何度も足を運んでいるというベテランの方ともベンチで腰を掛けながらお話を聞いたが、下りのほうが滑りやすいので、登るときとと、同じ時間をかけている、とアドバイスをうけた。女性同士2人組。熟年ご夫婦に山頂で出会ったが、みなみな親近感を覚えるいい方たちばかりであった。
 トイレの場所が分からなかったので、今登ってきたばかりのご夫婦に尋ねたら、親切に教えてくれた。終点から少し下って、登ってきた道とは別なコースへの降り口だった。
 あまり綺麗だったので、内部まで撮してしまった。



 山頂より眺める筑波山のアングルは、H.Pでも数多い風景で、人口に膾炙していると云わねばならぬ。
 そこから約180度回って、筑波山に背を向けた下界である。日本で2番目に大
きいとされるK湖が遠くに見えるが、実景はもっと迫力がある。すっきりと澄んだ秋空とはいかぬ今日の天気である。
 また秋晴れの日には、これから約90度右に、富士山がくっきりと写しだされるという。

宝篋山征服

2007-10-05 20:21:43 | 日録

 ←(クリックすればオリジナル画面になります)

 つくば市内で、住民が自らハイキングコースを整備―。自然や歴史の宝庫である小田を、より広く知ってもらおうと、市内小田東部区(本川福一郎区長)で二十二日、宝篋(ほうきょう)山ハイキングコース整備作業が行われ、地域住民のほか藤沢順一市長、地元の橋本喜美子市議ら約三十人が参加した。
 地域へのスポーツ公園誘致の一環として始まったハイキングコース作りは、住民の間で予想以上の盛り上がりを見せ、これまで二回にわたって整備作業を実施。藤沢市長は作業開始に当たり「学園都市だけがつくばではない。周辺の自然に目を向けた地域づくりに感謝する」とあいさつ、地域住民が主役の活動に期待を寄せた。
 参加者は二組に分かれると、早速コースの上と下から作業を開始。コースは三十―四十年ほど人の手が入らなかった里道のため、シノやササの生い茂る中、草刈り機で少しずつ道を切り開いていった。 この日参加した瀬尾脩さんは、「頂上の宝篋印塔景色はとても素晴らしく、コースの目玉」と話し、区長の本川さんは「ハイキングコース作りで地域が一つにまとまった」と、これまでの整備作業を振り返った。
             ←山頂「宝篋印塔」                                

  宝篋山ハイキングコースは、小田の常願寺をスタートして、小田城跡、小田遺跡、宝篋山(通称小田山)などを巡る約十キロのコース。史跡や自然に親しみながら、山頂の宝篋印塔を目指す。
 橋本市議は「五月の連休明けには開通のお披露目式も予定している。市内外から多くの人が集まる、楽しい場所になれば」と話していた。(常陽新聞ニュース2003年3月23日)


「宝篋山」と地元の人に訊ねても、殆どの人が知らない。「小田山」と云えば納得する。この山は拙宅からも雨でも降らない限りくっきりと見える山である。しかし筑波山は子供でも知っているけれど、「宝篋山」の山の名称を知っている人は、4万人の人口のわが町でも、恐らく20~30人(?)を下回る人数ではないだろうか。

この名山をボクに紹介してくれたのは、近くにお住まいで、小生のブログでも度々写真などを引用させて頂いて畏友Tさんである。 

[宝篋山遠景]画面中央部に見える、突起するアンテナのある場所が、頂上(461㍍)で、約3.2㎞登り約2時間・下りは、1時間半といわれているが、全体的に斜面がきつくハードな林道なので、下りも同じ時間2時間とみた方が安全であろう。

 


わが戦跡

2007-10-03 17:54:40 | 反戦基地

「わが戦跡」という表題ではちょっとばかり大袈裟であるが、実はこの写真に写っている近くの民家「農家」でボクらは、終戦の天皇の(いわゆる玉音)放送を聴いたのだった。

あれから60余年、今では、その近くが「ファミリー・レストラン」になってしまって、ボクはその駐車場に車を停め、当時掘っ立て小屋の飛行機修理工場を建て、なす事もなく終戦を迎えた場所を探しながら、約60年前の当時を偲んでいるところである。

 今でこそ、ラジオ放送が雑音が入っていて、よく聞き取れなかったとか、感泣したとか、種々の日誌や、回想録に見られるが、ラジオは普段よりよく聞こえたと思う。
 ただ、天皇のお言葉は、「何を言ったのか全く分からなかった」のが本音ではあるまいか。
 われわれは、30人ぐらいラジオの前に、何列かの縦隊に並び、この放送を聴いたのであるが、誰一人として泣くものはなかった。何のことだか、意味が分からなかったのである。

ただ、天皇のお言葉は若い澄んだお声で、(畏れ多いことだが)今の天皇のお声と比べ、神々しい厳かなお声であったことは間違えない…。 われわれ(中学3年生)が分からないのは当然で、時の中学校長が「何を言ったのがサッパリ分からなかった」と何かの本に書いてある回想談話を読んだことがある。 

 当時、この住宅地は、田圃か畑だったと思う。手前の草藪のように見えるのが、カットにした、裏山である。ここに掘っ立て小屋を建て、万力台を並べた。屋根は爆撃でやられた本廠から、トタン板を拾い集め、リヤカーで運んできて張った。オレは屋根に上ってコールタールを塗った覚えがある…。
 本土決戦は間近のような情勢だった。しかし戦うにも、竹槍すらなかった。

 沖縄戦争がどのように悲惨なものであったかは、想像に難くない。
 ここの技術士官たちですら、自決用の青酸カリを用意していたと聞くが、われわれは虜囚の辱めを受けない前に、無抵抗のまま、爆弾か、火炎放射器で死んでしまったであろう。沖縄の集団自決は、当時としては当たり前の考え方だった。
 また、軍紀などは無きに等しかった。「弾は前からばかり、来るんじゃねえぞ!」工場が停電になったある時、一人の工員が怒鳴った瞬間、同調の声が、大きなウエーブになって、真っ暗になった大型飛行機組立工場内に糾弾の叫びが谺したのを、今でも思い出す。
 終戦になって、ビンタをはることで恐れられてた、H中尉は部下の工員から、かなりの殴る、蹴るの「リンチ」を加えられた話を聞く。その後何回が当時の人たちの親睦会があったが、K中尉だけはとうとう姿を見せなかった。