狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

古い新聞記事から

2006-03-19 21:58:17 | 反戦基地

 
3.20日 窓の障子明るきに眼を覚ます。5時をやや過ぎし時刻なり。月の光にやと思いて窓を開ければ東天既に白み始む。一点の雲なく冬空の如く冴え渡りたり。恐らく今朝再び大霜の朝なるべし。
昨夕妻と街のホームセンターに小用具を購いに行きたりしが、突風に似し北寄りの風吹き荒び、日没までおよびにけり。彼岸なりと云に、洵に「大荒れ」の模様なりき。
 急ぎデジタル・カメラの用意をなす。5日前わが家2階から望む、日の出を撮りしが、位置やや北に寄れるを、肉眼でも確め得たり。階下に降り、雨戸を開け朝刊紙を見るに、注目すべき大見出しなし。
きょうの天気「冬型の気圧配置が一時的に強まる。日本海側では、雪か雨で所により雷を伴う。太平洋側では、朝から乾燥した晴天」。とありぬ。
     日出   5.43
     日入  17.49
           月出  23.09
     月入   8.00

 Mさんのブログに「高松宮日記」ありければ、その発行をめぐり宣仁親王殿下没後平成3年(1991年)に宮内庁の職員が宮邸の倉庫から発見した日記(大正10年~昭和22年)が、喜久子の強い希望で中央公論社から一部編集を経て出版された経緯があったころ、T市の Dr.J・S 氏よりそのコピーを送られてきたのを、思い出されて、スクラップブックを捜しいたれば、大見出しの新聞記事切り抜きてあリぬ。
目を通せば、角田三郎記事引用最中の折から、貴重なる記事にして、忽ちにして余の思いはこの記事に集中したりき。
 

このところ記事引用のみのブロクとなってしまったが、もうしばしお赦しを乞いたい。  2002年(平成14)8月5日朝日新聞記事抜粋

昭和天皇・GHQ最高司令官 会見録入手 
                              天皇、東京裁判の対応に謝意 
                               マ元帥、米軍駐留の構想示す

 戦後の占領期に、昭和天皇と連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官が頻繁に行った会見について、通訳を務めた外交官が克明に書き残した手記が見つかった。講和交渉や独立後の日本の安全保障、朝鮮戦争の情勢など、高度に政治的な内容が詳細に語られていた。これまで会見内容は、ごく一部しか明らかになっておらず、戦後史の空白を埋める貴重な資料だ。

(略) 朝鮮の戦況質問 
マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語っていた。
これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、勿論反対しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不起訴になった経過を明らかにした。

朝鮮戦争さなかの51年5月に始るリッジウエー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるのか?」とも尋ねていた。 リッジウエー司令官は「原子兵器の使用の権限は米大統領にしかない。野戦軍指令官としては何とも申し上げられないと答えながらも、地図を前に詳細に戦況を説明した。(略) >


責任をとるということ(5)

2006-03-18 21:33:21 | 反戦基地
鴻毛の軽さ(2)   角田三郎
 再言するが、敗戦の必至を知悉していた天皇と幕僚が、フィリッピン戦・沖縄戦をただ〝国体護持〟の有利な条件を得るための捨て石とし、さらに広島・長崎の惨禍にまで至ったことの責任は重大である。

天皇制のイデオローグ上杉慎吉の『憲法述義』によれば、「我ガ国ニ於テハ天皇ガ主権者ニマシマストイフコトヲ以テ国体トスル」とか「天皇ガ帝国ノ主権者ニ在マスト云フコトハ千古動カスベカラザル帝国ノ国体デアッテ」「我ガ国体法上天皇ノ意思ハ唯一ナル統治権ニシテ、国家ニ於ケル凡テノ意志ハ之ニ服従ス」とある。

天皇は、統治権を持つ唯一の絶対者として、天皇制を守るために、すべての人々をあの惨苦に引きずりこんだのである。それは、ただ軍隊の大元帥としての命令のみでなく、統治権者の意志だったから、兵士のみでなくすべての民衆が服従を強制させられ、また、その生命を無価値なものとみなされ、自らもみなすように枠づけられていたのである。

 民衆の個々の生命さえ鴻毛の軽きに比されるものだったから、まして、信仰や良心や思想などの価値は一顧もされぬほどのもので、ただ、天皇の意思と命令への服従の死のみが価値あることとされ、その価値をまた天皇が認めて、祭りをすることとしたのだ。だから、靖国の祭りは、天皇が、天皇に忠実だったものを価値ある者と認め、その価値を皆にしらしめるためのものだったのである。

 こんな立派なおやしろに
 神とまつられもったいなさよ
 母は泣けますうれしさに

 こんな歌を歌わされるほど、民衆の生命の価値を見事に無視し切られたことを、私は、天皇と靖国神社に対して、決して忘れようとしない。靖国神社の立派さなど(それも明治神宮に比して比較しようもなく劣れるものだが)、そこに死んだ人々の価値に対して無に等しい。『靖国神社の歌』は、また歌っている。

 宮柱太く燦たり
ああ大君のぬかずき給う
栄光の宮 靖国神社

 大体、自民党にしろ靖国当局にしろ、エリザベス女王来日の時にその参拝をねがったような事大主義がある。根本的な差別観がある。女王や天皇の参拝が〝栄光〟であると考えることの裏側に、民衆の生命を〝鴻毛の軽き〟に比した思想がピッタリと一体になっている。表敬法案の思想構造もそうしたものでしかない。

まして、天皇は、法的には無答責とされるかも知れないが、どう考えても戦争犯罪者の第一人者である。侵略戦争の大元帥であり、天皇制を守るために遅疑しゅんじゅんとして大量死をうんだ当人である。『天皇制を問い続ける』(わたつみ会編)の中の、老医師の遺文〝日本国天皇に申す〟には、こう書いてあった。

「私は日本国天皇に申したい。貴方は何故に責任を取らないのか。取ろうとしないのか。あなたが……摂政時代から約数十年間というもの、一切合財の日本の政治が、全く無知盲目の裡に行われたというのか。あなたも軍服を着ていた日本の軍隊において『上官の命令は朕が命令と心得よ』という1条ゆえに、どれだけ無数の無理弾圧の悲劇があったろうか。それらすべてを知らぬ、存ぜぬ、責任は全くないというのか。

もし然りとするならば、この世の一切の道徳も責任も皆無泡沫の如きものではなかろうか。諸外国のことはいざ知らず、少なくとも我が国において、天皇あなたの無責任破廉恥が、戦後日本国民の道徳的無秩序頽廃に寄与していること絶大なりと明治生まれの私は確信している。……(中略)

天皇あなたは深くあなたの過去半世紀にわたって、あなたの名においてなしてきた、及び、あなた自身がなすべきであってなさなかった不作為の罪にたいして、深く反省して天皇の座を、あなたのお子さんと共に未来永劫にわたって静かに去られるのが良い(後略)」。

このように考えられるのが当然の天皇の参拝が、なぜ、靖国の神にとっての〝栄光〟なのか。それほどまで死者と死者に連なる遺族は、無価値でお人好しで判断力がないとされるのだろうか。 

 今回も角田三郎論文となった。長文と言えば長文であるが、雑誌からのコピーらしく、主題の脇上部には小挿画(カット)がある。文面から推して、「新自由クラブ」「民社党」の時代1980年(昭和54)のものと思われる。小冊子なので散逸を免れかねず、それを惧れ全文を引用した。次回の〝公式参拝とは〟1章で掲載を終える。

美術館〝tani〟

2006-03-17 18:36:18 | 日録

 


〝偉大なる画家〟の名をタイトルにし、絵画・写真、エッセイに織り込んだH・Pと添え書きある「写画あーる」(シャガール)を拝見している。

 昨年の1015日に、「東京都知事賞」をいただいたという「スフインクス」を描いた大作は次のようなことが書いてあった。

 

 <思いもよらぬ大賞の「東京都知事賞」をいただき、嬉しさのあまり約30通ほどの招待はがきを送付したところ、先方のかた達からも祝辞に添えて自らの個展、グループ展の「お知らせ」があり、この3週間は自分と友人達の展覧会場通いで多忙を極めた。過去に写真で大賞の「労働大臣賞」を受賞したことがあったが、今回は絵でのことであり興奮した「・・・石原慎太郎・印」があった。このところ写真は休止し、油絵に力点を置いていたので努力が報われたと感動した。この絵はエジプト旅行の写真をコンピューター・グラフィックで処理したものを参考にし、半年かけて作成したF-80号の作品である。

 
さらに1018日には、ルネッサンスの中心地「フィレンツェ」を同じ手法を使った作品が掲載されていた。 
さてそのコンピューター・グラフィック処理の仕方を「遊彩」さんにお尋ねしたところ、そのマニュアルの書名を教えていただいた。

 すぐそのマニュアルを購入はしてみたものの、難しそうなので、そのまま放置しておいたが、今日パソコン名人のHさんが、その秘法を伝授してくれた。これが前日の「六地蔵」である。

しかし残念ながら小生がこれを油彩にすることだけは、今から一生かかっても不可能であることは確かである。

 

 

 


彼岸会

2006-03-17 10:17:24 | 日録

 

毎土曜日の「朝参り修行」が行われている天台宗T・J山Z寺境内にて写す

 今日2006年3月17日は曹洞宗家庭暦には次のように記されています。
大三月MAR 彌生・嘉月・櫻月 旧二月小三月大(3月29日が、旧暦3月朔になります)
十七日(金)きのと・み旧暦2月17日  不成就日  みつ 先勝 婁
そして明日3月18日が
彼岸入り、兵庫尼崎市スーパー火災(平2)旧2の午とあります。

我々の住む世界を仏教では「娑婆」と申し上げているようでございます。かつて日本の兵隊さんや、監獄におられた方が、使った「娑婆」という言葉も、そのような意味だったのでございましょう。

下の太字の表の1~3を三悪道、4~6を三善道と申しまして、人間界におります人間は、悪いことを繰り返せば、畜生や地獄に落ち、善いことを積めば天に生れ変わると申されております。
六道輪廻と呼ばれているのがこのことでございます。(tani 贋法話より)

1)六道ニ表ハレテ、衆生ヲ済度スルヲ云フ六種ノ地蔵菩薩。即チ、延命、寶處、寶手、持地、寶印、堅固意、是ナリ。

書言字考節用集、十、数量門「六地蔵、ロクヂザウ、延命、寶處、寶手、持地、寶印、堅固意」寂照堂谷響集、十、六地蔵「今詳六地蔵、實以地蔵菩薩、寶處菩薩、寶手菩薩、持地菩薩、寶印手菩薩、堅固意菩薩、名六地蔵也」狂言記、六地蔵「コレニ六地蔵ヲ作ラセウト申ス談合キハマッテゴザル」

2)六ヶ所ニ安置セル地蔵ノ称。(大槻文彦 新編大言海 冨山房による)

 

1 地獄道    大定智悲地蔵(地蔵菩薩) 宝珠 錫杖
2 餓鬼道    大徳清淨地蔵(宝手菩薩) 宝珠与願印
 
3 畜生道    大光明地蔵(宝処菩薩) 宝珠 如意宝珠
 
4 ()修羅道  清淨無垢地蔵(宝印手地蔵) 宝珠 梵篋
 
5 人間道    大清淨地蔵(持地菩薩) 宝珠 施無畏印

  6 天道      大堅固地蔵(堅固意菩薩) 宝珠 経巻 


付記(上写真の六地蔵様は、向かって右側から下のような地蔵尊名が付されていました)

金剛願地蔵   度地獄界
金剛宝地蔵   度餓鬼界
金剛悲地蔵   度畜生
金剛憧地蔵   度阿修羅界
放光王地蔵   度人間界
預天賀地蔵   度天上界


    
六地蔵菩薩

十界(仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天上界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界)のうち地獄界から天井界の六つの迷える世界の者を導く菩薩様




責任をとるということ(4)

2006-03-16 06:56:32 | 反戦基地
 鴻毛の軽さ(1)       角田三郎
 「天皇の靖国公的参拝をめぐって」という主題から、ややそれた形で書き始めたようであるけれど、同時に、具体的な形で本質的な点にも触れたのだと思う。なぜなら、天皇こそ民衆の心と生命を天皇自身の保身の前に鴻毛の軽きに比して死へ追い込みつつ、他方、民衆のそのような死こそ、天皇制確立の為の教育上称揚されるべき死なるゆえに、靖国神社に祀ってこれを敬慕すべしと命じた、その当人だからである。「靖国」は、鎮魂・慰霊のテラではない。むしろ、それは天皇制に基づく死への教育のための神社である。このことは、私たちが肝に銘じて知らねばならぬことなのだ。「靖国」は、民衆の悲しみの心から生れたものでなく、天皇の心から生れたものなのだ。

さて、天皇と靖国神社との関係は、当然のことであるが二重になっている。それは統帥権を持つ大元帥としての天皇と祭祀権を持つ現人神としての天皇との二重の支配を受けている。

靖国神社が戦前陸軍省・海軍省の所管する神社だったことはそこから生まれている。逆に見るならば、靖国神社は国家神道の原型であり、申し子だから、天皇の二重の支配を受ける。そこには、民衆の基本権としての信仰や思想・良心の自由はあるべきものでないし、また、平和思想ともほど遠い軍国主義による死臭が漂う。
しかし、それが靖国の誇りなのだ。


さて、「陸海軍ニ下シ給へル勅喩」(明治15年1月4日)によれば、その開口一番

「我国の軍隊は、世々世天皇の統率し給ふ所にそある」と統帥権を説かれ、中途では
「夫、兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ、その大綱は朕親之覽り、あえて臣下に委ぬべきものにあらず。」
「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」等々の統帥権に関する宣言がある。

この言葉だけでも、天皇が十五年戦争あるいは一〇〇年戦争に無責任でありうるはずがないのは自明のことであろう。軍人勅諭はさらに、忠節、礼儀、信義、武勇、質素の五箇条の徳目を語り、その中に既に引用した
「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。其操を破りて不覚を取り、汚名を浮くるなかれ」等の言葉があり、ここに臣民ののがれ難い死への宿命を負わされたわけである。

そして、生命を鴻毛の軽きものとされ、死をのがれ難く負わされた皇軍の兵士は、さらに自ら小暴君と化して、侵略した隣国の民衆を蟻を踏む潰すように死へ追いこんでそれを当然とした。日本の軍人と民衆の死への全き無感覚さを持つまでにすべての日本人を教育したのである。

 先日、私は某紙の投書欄でひとりの女性の言葉を読んだ。彼女は、かつて、人生をその能力と功績によって評価する教育を受け、その競争に破れず、誇らかな傲岸に生きたという。しかし、一児が重症心身障害者児となった今、その子のわずかな前進に喜び、その病に母として自らの不注意を嘆く中で、生命そのものの尊厳に深く手を合わせるようになったという。このような「生命の尊厳」の思想が、天皇制下にあっただろうか。

 かつて陸軍士官学校に学んだ日、私は、小銃に菊の御紋章のあるゆえに、泥流にのまれた兵士が銃をさしあげつつ沈んだ話をきいた。そして私自身、ある日、脳貧血で倒れた時、全く意識のなくなったままで、完全に小銃を手にかばっていささかの傷もつけなかった経験がある。

そこでは、人間は、直接的な天皇の命令下で死に赴くのみでなく、常時、菊の紋章という物よりもはるかに低く評価されるものでしかなかった。小銃の製作には相当のお金がかかり、兵一人は一銭五厘の赤紙で召集できる消耗品であるとは、当時、下士官が兵をいびる時に、常に口にした言葉であった。兵は徹底的に無価値なるものとされ、自らの無価値さを知らされる絶望の極で命令に従ったのである。

抄本 攣連草

2006-03-15 10:33:00 | 怒ブログ

 

 

    抄本攣連草

 第十三煖.

ひとりPersonal Computer のまえにて、Blogをひろげて、見ぬ世の人を友とする、こよなう慰むわざなり。

Blogは、小児の文選をよむあわれの巻々、あやしき大和ことば、博士の文集、老師のいくさびとへのくるしごと、飛鳥の篇。

この国の博士どもの書ける物も、いにしへのあわれなること多かり。

 第十四段 

 新聞こそ猶おかしき物なれ。あやのしづ、ものはこびのしわざも、やんごとなきかたのみおしへかきつれば面白く、恐ろしき猪も、「臥す猪の床と言へば、やさしく成ぬ。

 この頃の新聞のさま、ひとふしおかしく言ひ叶へたりとみゆるはあれど、古き瓦のやうに、いかにぞや、言葉のほかにあはれにけしき覚ゆるはなし。

 


 

特に怪しむに足る新聞紙ではありません。㊤は、ご近所のさる奥様が何くれと布教らしき言の葉に添えて、㊦は、老句友が、句会の折欠席した私のために、当日の資料をこの新聞紙に包んで持ってきて賜ったものです。

 両紙の開祖様の仲については、愚生の詳らかとするところではありませんが、お互い敬遠の間柄の感触はあるものの、「朝日」と「産経」を併読するような「おもしろ、おかしさ」はありません。

偶然わが庵の護美と捨て去るのも、知的損失の惧れ有之やもしれませんので、両紙への表敬の念度し難きを慮り、ブログ上に保存したものであります。

 


日の出3.15

2006-03-15 06:19:33 | 日録

 
今朝の日出(5.50時写す)

  
 
2006・3・15。昨日より冬型気圧配置が続き、真冬並の寒気に覆はる。テレビニュース日本海側ほぼ一日大雪となりし模様を伝へゐたり。わが地方は、終日晴れたるも、再来の寒気老体に大いに堪ふ。
 今朝5時に起く。茅屋小窗より東の空を望めば、湖上の空澄み渡り冬晴れのごとし。

 
朝日新聞の第1面次の如き注目すべき記事あり。
 いよいよ余も創価学会を、頼りにせざるべからざる歟。
 記事下記の如し。

 自民党の宇宙開発特別委員会は、宇宙開発を「非軍事目的」に限ってきた政府解釈を緩和することなどを盛り込んだ宇宙活動推進法(仮称)の議員立法を目指す。偵察衛星やミサイル防衛などに絡む「非攻撃的な防衛目的」での宇宙利用に道を開くもので、従来の中核である「研究開発」に、「安全保障・防災」「産業振興」を加えた3本柱を、宇宙開発・利用の目的と位置付ける方向だ。自民党執行部は与党内調整が進めば、来年の通常国会にも提出したい考えだ。

 政府は69年の「平和利用原則」の国会決議に基づいて「非軍事」をうたい、自衛隊の衛星利用も民生分野で「一般化した技術」に限っている。

 法案ではこうした政府解釈を緩和する文言を総則などに盛り込む方向。緩和されれば、69年以来の大きな転換点となる。例えば民間より高精度の偵察衛星を開発できるようになるほか、現在、米国に依存している弾道ミサイル発射の早期探知を、日本独自の早期警戒衛星が担うことも可能になると考えられている。

 また、3本柱による戦略的な宇宙開発・利用を求め、文部科学省や経済産業省など複数の府省庁がバラバラに進めている施策を効率化、一元化できる仕組み作りも目指す。あわせて、宇宙利用の特命担当大臣や宇宙戦略会議の内閣設置などを政府に求める。

 自民党・宇宙開発特別委員会の宇宙平和利用決議等検討小委員会(委員長=河村建夫・元文科相)は2月末から「政府解釈は国際的に特異」として、「非攻撃的な防衛目的」は容認できないか、議論してきた。

 当初は政府に解釈の見直しを求める方針だったが、宇宙開発全般の問題点も解消すべきだとして包括的な立法を目指すことにした。28日の小委員会で正式決定後、8月までにたたき台をまとめ、議論を重ねたい意向だ。

 自民党幹部は「与党内でまとめ、できれば来年の通常国会に議員提出したい」と話しているが、9月に総裁選があり党執行部の顔ぶれも変わることや、公明党との調整などもあり、議員立法として国会提出するまでにはなおハードルがある。

 政府の「非軍事」解釈では、98年の北朝鮮による弾道ミサイル試射を受けて開発した情報収集衛星の解像度を1メートル四方と、当時の民間水準に合わせた経緯がある。日本経団連は04年、武器輸出3原則と併せて、解釈見直しを提言していた。

 


詩集 碧い柩

2006-03-14 12:55:24 | 日録

 最近は、色々な無料誌・紙がさまざまの場所においてあったり、新聞折込と一緒に配達されてくる。以前「くらしの情報ローカル紙」で無料プレゼントに応募して、見事外れたことを書いたが、今度は別の情報誌で、 2回も続けて当たってしまったことを書いてみたい。

 「白い風」というA5版58ページの洒落た造りの冊子で、年4回発行の季刊誌である。
 僕にこの幸運が向いたのは、創刊号のグルメガイドで「鴨セイロそば」無料食事券、そして5号では詩集「碧い柩」が送られてきたことだ。

このカルチャー情報誌「白い風」誌には《わが母校》という特集記事があって、郷土であるT市内の高等学校の紹介が毎号連載されている。詩集の著者Y・T氏は、市内で今は男女共学になってしまったけれど、前身は県でも数少ない歴史を持つ高等女学校であったX女子高校出身の方である。

先ず詩集の著者紹介の記事がある。

<この人に聞く
 地域医療に尽くす医師―
 母として、女として生きて   医師Y・Tさん

 内科・小児科、産婦人科の医師として地域医療に携わるY・Tさん。プライベートでは母、妻、嫁、そして詩人として活躍されています。今回はこの地方での青春時代の思い出や現在に至るまでのとっておきのエピソードについてお伺いしました。

(インタービュー記事)
―クリニックに海の写真がありましたが……。

 海に潜って私が撮影したものです。56歳から始めた遅まきのダイバーですが。日ごろ子供たちとふれあう機会が殆どなかったので、毎年夏休みにあちこちの海に一緒に行っていました。海外の海ロタ島で、その美しさに魅了され、素もぐりでは飽き足らず、海底まで行って見たいと、家族全員(親子5人)ダイビングの資格を取ってしまいました。子供たちがひとりだちしてしまった今も、夫と二人で、体調と相談しながら、年に2~3回魚たちに会いに行きます。>

その後の記事は、記者との質問に答えて、医学の道に入った動機、高校時代水泳部、文芸部、演劇部などで活躍なされ、今でも詩やエッセーを書いておられること、1992年子供たちに贈る詩集「愛」を、1997年には詩と随筆「碧い柩」を自費出版したこと、また母親業と仕事の両立等が、きめ細かく語りかけられている。

そして氏自身、以前からいろいろな病気をして、今も軽度の腎不全と膀胱癌を抱えているのだが、

 聖書の中の『自分が人にしてもらいたいことを、人にしてあげなさい』という言葉に従い、微力ながら残された生命の続く限り地域医療に携わっていきたいと結んでおられた。

 この言葉でもわかる通り、氏は、市内に在るキリスト友会のイースター礼拝会や、クリスマス礼拝会には、毎年欠かさず礼拝献金をなされている熱心なキリスト者であり、僕も以前からご高名や、詩人であることなども存じ上げていたけれど、ダイバーなどということは全く予想もできなかった。また僕は氏の詩集を拝見できたのも今が初めてなのである。

 製本のことは疎いけれど、角背綴じの上製本で、美しい装丁がなされていた。
 収められている10篇の詩はいずれも長い。

   四季のめぐり
    「夏」の1節を記して今日のブログを閉じることとしよう。
 
  地平線の一点から
  放射状に無数の光の矢が
  空間を貫き
  夜を薙ぎ払う

  露の輝きを分けて
  葉群れから鳥達が
  吹き上げる青い炎さながら
  いっせいに飛翔する

  やがて熱の断層が積まれ
  陽炎の揺らめきの向こう
  遥か山並みと海や湖が
  煌き誘いの舞いをまう

  土は素早く色褪せ
  足元から伝い上る熱いヴェールが
  肌に纏わり付く
  苦しみを紛らわすたまさかの風
 

                海ニ逃ゲヨウ
                舳先ハ碧ヲ切リ船跡ハ白尾ヲ描キ
                風ハ髪ヲ漉キ抜ケサル
                波ノ下ハ珊瑚ノ丘ニ魚群ノ乱舞

                山ニ逃ゲヨウ
                氷河ハ真珠ト琥珀ノ織リナス絨緞
                静寂ガ体ヲ透キ通ラセ
                雲ガ湧キ続ケ潤ノ泉

 赫あかと地平線に陽が融け去ると
 余韻にふるえながら
 星がまたたきはじめる
 夢の懐を求め家路につく森の住民たち

 なぜわたしの枕から花の薫りが消えたのか
 なぜわたしの心は眠ろうとしないのか
 夜陰に海鳴りを聴き峰の葉摺れを想う
 明日がい訪れる証しのない長い熱帯夜



ペット霊園

2006-03-13 13:14:08 | 日録

午後、村の中を散策した。
土曜日の朝、Z寺の朝参り会に参加するようになって久しい。約4キロの道のりを、去年は何回か歩いて行ったものだが、今年はまだ歩いたことはない。約45分の道程である。寒い冬の間は朝の7時からの読経だが、多分4月からは6時半からになるだろう。

 1年経つと、それだけ心身ともに衰えてくるのがわかるような気もする。しかしこれだけはどうにもならぬ。八味地黄丸を服用しているが、目に見えるような効果を期待することは先ず無理であろう。

 朝の散策は、途中必ずといって良いくらい夫婦らしい二人連れの数組に出会う。
最近女性の方が先になり大手を振って活気ある歩き方なのに、どうも男子のほうが追従しているように意気地なく見えるのは、気のせいか?

 日中や夕方には殆ど人と道で出会うことはない。たまに犬の散歩と兼用のウォーキングにすれ違う。今は子供たちが野良で遊ぶ姿や、田畑にいる農夫の姿は全くみ掛けないので、どうしても己の子供の時分に思いが耽ってしまうのである。

前にも書いたが、今日は「森の径」という喫茶店で休憩をしてから、宅地が散在する集落の道を歩いて行くと、異臭が漂ってくるもに気が付いた。

 以前「ペット」の火葬場がこの辺りに出来て、近所の人から苦情が出ている話を聞いたことがあるが、別に気にも留めなかった。第一こんな所にそんな施設を作ってみたところで、利用者はあるかどうかが疑問であった。ペットが死んでも埋葬する場所には事欠かない田舎であるからである。

 そんなことを思い浮かべながらさらに歩を進めると、通りに「ペット霊場」と書いたレンガ造りの入り口があった。道は奥に続いている。足を止めた序に、その施設内に入って行ってみた。煙は出ていなかったが、異臭はその左側の一見化学工場のような建物から発していた。

 また入り口の門があって、中には数台スペースの駐車場がある。2台の車が置いてあった。数人の一団が、法事の引きもののような手提げ紙袋をぶら提げ、左の建物から出てきた。
 さらに右側の建物を覗くと、そこは待合所で、テーブルの卓上にはお茶を終えた跡があった。また正面は仏具の陳列棚で、大小様々な骨壷、それに被せる金ぴかの覆具が並んでいる。

 広場を挟んで相当規模の墓石が並んで建っている。石塔には××家の墓と刻み込まれ、一段高くしたい中央に、観世音菩薩の仏像が建っていた。そばの小舎には観世音と施主を冠した塔婆が何十組も並んでいる。

 そしてもう一組の一団が遺骨を抱えて左側の斎場から出てきた。
 まず人間の斎場を小型にして、墓地を併設したような設備と思えばよい。
 仏具の名前を知らないから、施設内の説明が大雑把だが、懼れ入ってしまった。

 オーナーのような人が出て来て私に、
「どうぞこちらへ」と斎場内に招かれたが、
「お墓を見せてください」と断わると、
「どうぞ。お墓参りですか」と静かな口調でいうのであった。

 私は己の墓地だけは購ってあるが、まだ更地のままである。出来ることなら葬式だけは身内だけのものにして欲しいと、晩酌に機嫌の昂じた時など、家内に宣言はしてきたが田舎では無理だろうと妻も娘もいう。そんなことが脳裏を過ぎった。

 やがて私はそこを辞し、帰途についた。
小学校を巡る径を通る。小学校正門は鉄の扉に施錠がしてあった。インターホンを通して内部の人がそこまで出てきて、鍵であけないと入れない仕組みのようだった。灯刻、校庭に人影はなかった。

やや行きと、犬を牽いた男が、今落とした犬の糞を挟みでつまみ、手にぶら下げた袋に入れているところにであった。校庭隅に水仙の花が出揃っているのが見えた。


責任をとるということ(3)

2006-03-12 11:11:23 | 反戦基地
 
 この文は初回に述べたように、角田三郎氏(日本キリスト教団上大岡教会牧師=執筆当時添え書き)の小冊子から、丸ごと引用したものである。

 これは私が属している「キリスト友会」傘下の地方月会から配布されたものだ。

 本会は「『宗教法人キリスト友会日本年会地方月会』というのが正式名称で、日本に於ける唯一の「クウェーカー」組織だが、会員の高齢化に相俟って目立った反戦活動は行っていないのが実情だ。

 今朝の新聞記事に
<米平和活動家遺体で発見 イラク>という小さな見出しで、イラクで活動を続ける欧米の平和主義グループ「クリスチャン・ピースメーカー・チームズ」の一員で同僚ら3人と共に昨年誘拐されていた米国人、トム・フォックスさんが遺体で発見された記事が載っている。

 <フォックスさんは絶対平和主義の立場を取るクウェーカー教徒。誘拐される前日には、ネット上の報告で「同じ人類の同胞を、間扱いするような行動は決して取ったり考えたりしないことこそが『愛』だ」と、暴力による報復の連鎖を否定。イラク駐留米軍が、「テロリスト」掃討名目で市民に被害を及ぼしている、と批判した。>と報じている。

     捨て石(2)  角田三郎
 私は又、前日、沖縄県教組で頂いた『これが日本軍だ・沖縄戦における残虐行為』という小冊子の終わりのほうの言葉を思い出していた。

「沖縄戦下で、沖縄県民に対する日本軍の差別意識は、むき出しにされました。 県民に対するスパイ嫌疑による拷問と虐殺その他の他の残虐行為は、差別意識と表裏一体をなすものでした。それは……沖縄守備軍全体の政策であったというべきでしょう。たとえばそれは『新聞記者であろうと、警察官であろうと、沖縄人は信用できない』という司令部将校の方言などに端的に現れたのです……」。

 一方では差別観があり、他方ではそれゆえに徹底した皇民化教育がなされたゆえに、死地に立った沖縄の民衆は、一方では純に素朴に祖国防衛のために殉じ、他方では、まさに郷党家門の面目にかけ、日本人の証しを立てる死へと自らを強制したのではなかったか。彼らをそこに追い込んだのは実に、天皇制下の本土人全体であり、その根源たる彼であった。

さらにその本には、この民衆の死を単に沖縄の差別からのみとらえてはならないとし「四五年六月大阪の陸軍司令官が『この際食料が全国的に不足し、且つ本土は戦場となる由、老幼者及び病弱者は皆殺す必要あり。是等と日本人が心中することは出来ぬ』と放言した」事実から、日本軍の思想を、沖縄の民衆の死の根本でとらえていた。しかし、私は、なぜもっとさらにはっきり言わないのかと思った。

「それは、日本軍の思想なのか。天壌無窮の皇運を扶翼するために、天皇中心の国体を守るためには、民衆の死を当然とした、天皇制の思想がそれを生んだのではなかったか」。

 そもそも沖縄戦とはなんであったのか。沖縄戦は、戦史をみると、その最初の
段階で、本土決戦の立場からは切り捨てられた「捨て石」の役割を担わされていた。むしろこのことは、井上清の『天皇の責任』が告発しているように、フィリッピン戦を、沖縄戦の〝捨て石〟とした。

 この〝国体護持〟の思想、天皇のみを絶対とし、他を全く無視し切れた思想こそ、日本皇軍の思想であり、沖縄の痛恨に満ちた民衆の死の根源ではなかったか。
天皇とその軍隊の軍隊のゆえに、沖縄は死地に立たされ、民衆はその死地を逃れるすべもなく、無念の死へと追いこまれた。その死を、美化すべき多くの言葉はある。私も彼らの純情を思う。しかし、彼等を死地に追いやった思想と軍隊と、その根源である彼について、私は思わずにいられない。

 断崖の上で、父上の最後の地を見下ろす金城牧師の顔をまともに見られないままに、私は、その地に死んだ多くの人々の声を聞く思いでこれらのことを考え続けていた。

付記

2006-03-11 14:10:14 | 反戦基地
沖縄戦の凄惨、苛烈さの写真を添付したいと思い、太平洋戦争に関わる本を捜した。
第二次世界大戦文庫8<「神風特攻隊」地獄の使者>A.J.バーカー/寺井義守訳サンケイ出版という文庫本を見つけた。

1特攻と自決、そして玉砕
2サイパン、グァム、硫黄島の玉砕
3人間魚雷「回天」を開発
4航空特攻「神風特別攻撃隊」
5「回天」ウルシーに初出撃
6有人滑空爆弾「桜花」散る
7「回天」の活躍もむなし
8特攻でかざった沖縄戦
9本土決戦に備えて
これが200余ページの内容である。 第1章は降伏より玉砕を、の扉から始る。

神風特攻の創始者大西滝次郎中将
第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将、
第1総軍指令官杉山元元帥、
日本陸海軍の最高統帥者、大元帥陛下、の御真影、
故郷の人々に迎えられる戦死者の英霊
きびしい訓練の間に肩をたたき合う陸軍の兵士たち

この順での写真掲載は続く。本文特攻隊の序章であってここまでには凄愴な写真はでて来ない。しかしページを繰るごとに、累々たる玉砕兵士の遺体の地獄絵図である。
最後の沖縄戦は眼を覆いたくなる衝撃的、激震的、ハルマドゲンの世界が展開した。
自決した牛島司令官と長参謀長の遺体も生々しく写っている。

「沖縄では10万人以上が降伏より死を選んだ」の註釈ある写真をスキャナーの入れたが、グログに載せるには余にも強烈であり、残酷であった。勿論掲載を断念し手を合わせ黙祷するだけであった。

風化

2006-03-11 12:21:56 | 反戦基地

去年の3月10日、あるホームページの「掲示板」に「今日は何の日だか知っている?」
と投稿したら、Kちゃんいう若い常連の女性の方が、
「〝水戸の日〟じゃない?」というコメントを下さった。

 8月15日は、毎年コイズミやその他多勢の先生方が、靖国神社に参拝するの、しないので問題が起きるし、甲子園の高校野球でも正午を期して黙祷を捧げるから、日米戦争終結の日ということは大概の人ならわかっていると思う。

 然るに、1945(昭和20)年3月10日の、東京がアメリカ軍B29爆撃機による大空襲で死者約10万人、焼失家屋約27万戸という、第二次大戦で最大級の被害を出したことは、すっかり忘れられてしまいそうである。

 東京では、「東京都平和の日」が条例で定められてあって、東京大空襲を記録する運動みたいのがあるらしいけれど、何万人も参加する集会なら、テレビも新聞も黙っているはずがないと思うのだが、実際静かな金曜日であった。

 せめて「みどりの日」を「昭和の日」としたり、「防衛庁」を「防衛省」にして、「愛国心」を煽る考えがあるくらいなら、
コイズミさん、61年前に起きた3月10日の「鬼畜米英の東京爆撃の日」を記念して不戦の誓いをしてみたらどうだろう。

 戦前はこの日は、1905(明治38)年、日露戦争の陸の決戦・奉天会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領した日に当たり、これを記念して「陸軍記念日」となったそうである。
        ◇       ◇

 ふうか【風化】①徳によって教化すること。性霊集三「君臣―の道」②地表およびその近くの岩石が、空気・水などの物理的・化学的作用で次第にくずれさること。比喩的に、心に刻まれたものが弱くなって行くこと。「戦争体験がーする」③硫酸ナトリウム一〇水和物、炭酸ナトリウム一〇水和物のように結晶水を含んだ結晶が、空気中で漸次水分を失って、粉末状の物質に変わる現象。風解。(例によって例の広辞苑に依る)


責任をとるということ(2)

2006-03-10 12:07:36 | 反戦基地

       捨 石

 六月二十三日(金)、沖縄敗戦の日に、摩文仁岳と喜屋武岬を訪れた。1坪数発の猛烈な砲爆撃下に地形も変わり、一片の緑もない焦土と化したと言われたかの地も、33年を経て、ようやく育った木々の濃い緑に戦跡は覆われていた。戦跡の公園化は着々進み、空も海もあくまで青く、夏の照りつける日差しの中で茫々として光りひろがっていた。

 しかし、緑がいかに戦跡を覆いはじめたとしても、風光がいかに美しくても、沖縄戦に〝怨〟〝恨〟は、被われたり、払われたりするものではない。案内して下さった名護の金城誠昭牧師は、その父上と二人の兄上を失った方であった。
 父上は喜屋武の小学校長として、かの地に最後までとどまり、まさに最南端の岬の断崖下の洞窟で火炎放射機の焔を浴びて、無念の死を遂げられたのである。

 

その、父上の最後の地を見下ろす断崖の上に立った時、沖縄戦の終末に、断崖の汀の僅か数十メートルの地に追い込まれつつ、なお、降伏をしなかった人々のことを思わずにはいられなかった。
 
 戦争は、事実決定的に敗れ、終わっていたのである。兵も、まして1市民は、なんの戦う力もなかったのである。それなのになぜ!私は、断崖の上で、しきりに、 教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓を思い起こしていた。

 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

 義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ、その操を破りて不覚を取り、汚名を受くるなかれ。

 恥を知る者は強し。常々、郷党家門の面目を思い……生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。

 これは、教育の根源たる天皇の勅語であり、皇軍の大元帥の命令であった。
 この勅語・勅諭は絶対であった。この勅語、勅諭をかつて全校生徒と地域の青年の前に奉読した金城校長には、生きる道は閉ざされていた。
 その道を閉ざしたは、生き、その戦争への無責任を方言しているというのに……。                     (角田三郎氏の文に依る)


責任をとるということ(1)

2006-03-09 22:20:03 | 反戦基地

   責任をとるということ
       ―天皇の靖国公的参拝問題
せきにん【責任】①[荘子天道]人が引き受けてなすべき任務。「―を全うする」「―を持つ」「―をとる」②政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事責任と、主として対個人的な民事責任とに大別され、それぞれ一定の制裁を伴う。=広辞苑第5版

 実はこの表題の「責任をとるということ」の文は、何かの雑誌か、あるいは会報に載せられた(日本キリスト教団上大岡教会牧師)角田三郎氏の論評文で、いま僕の手元にあるのはそれをコピーした片面6枚のパンフである。

 フレンド派キリスト友会の研修で頂いたものである。部屋の片付けで何処からか出てきた。内容を見ると、

 その結びは、次のような文で締めてある。

 <最後に、天皇の靖国公的参拝の可能性とその対応について一言する。靖国問題にかかわる多くの人々が宮内庁や官房長官や各政党に回って説得に努めている。
しかし、自民党や新自由クラブ、民社党までは、まず、殆どその問題性に無感覚である。推進側であるといってよい。一番(といっても表面しかわからないが)慎重なのは宮内庁であるけれども、これも、高知における天皇の護国神社参拝のように、いつどうなるか予測できない。

 したがって、私たちは、靖国問題を風化させずに持ちこたえて、真剣に、私たちの信仰と良心と市民の権利の問題として、徹底的にたたかうという姿勢を堅持すればよいのだと思う。相手は、常に変わらずに、天皇制的であり軍国主義的であり憲法改悪的なのだから、こちらも常に変わらずに、私たちのあり方をはっきりと明示してゆくほかにない。公的参拝は、こちら側の姿勢が弱ったり弛んだりした時点で起こる。一見きれいな中道路線などというものは、実際には靖国問題ではありえない。天皇志向か、否か、である。教会でも、もっとこの点は常に明らかにされるべきであろう。>

このパンフにには日付が入っていないが、「新自由クラブ」「民社党」などと懐かしい党名がでているので、1976年(昭和51)~1977年)の頃の記事だと思う。
『高知における天皇の護国神社参拝』とは、どのようなことだったのか、調べようもなかった。文脈から推して、天皇が高知にお出でになったとき、護国神社を参拝したということだろうと思う。

※戦後初の任期満了による選挙。自民敗北、過半数割れで衆院委員長の独占がくずれた。公明、民社、新自由クラブ躍進。新自由クラブブーム。共産は大敗。<投票率73%>
[自民]249、[社会]123、[公明]55、[民社]23

筆者をIEで検索したら、(参照)
<1925年生まれ。陸軍航空士官学校卒業。戦後、「キリスト教者遺族の会」に携わり、靖国合祀取り下げ訴訟原告に。著書に「靖国と鎮魂」他。>とあった。
 
以下は『8月15日の靖国事件に抗議する声明』の抜粋である。
<2005年8月15日、軍国主義と民族排外主義を掲げる右翼団体が靖国神社にあつまり、6千人の大集会を行いました。核武装を主張する安倍晋三、石原慎太郎をはじめとして、複数の閣僚と多くの国会議員が、右翼団体とともに靖国神社に参拝し、戦没兵士への「哀悼」の意を表しました。それは、かつての東アジアへの侵略戦争から現在のイラク戦争に至るまで、他国の民衆への虐殺行為を不問にし、自らの加害と被害を無関心の淵に沈めることで、戦争を容認するものです。(略)>

 


ラーメン屋にて

2006-03-08 16:47:21 | 怒ブログ

   お母さんへ
私たちは、元気なお子様が大好きです。
お子様は散らかすことの名人です。
私たちも幼い頃はそうでした。
テーブルの上や席の周りの汚れ物等を気になさらないで下さい。
私共が片付けますので。
当店にいらした時ぐらいは、
ごゆっくりお召し上がり下さい。
お母さん。

これは、ある日妻と一緒に入ったラーメン屋の、和風脇座敷の壁にあった大きな貼り紙の文面である。

私「この貼り紙の文句は、『こんな行儀の悪いことは、させるな』とも受けとれるけど」
妻「あなたは、何故そうゆう風に素直な気持ちで読まないの?へそ曲がり!」
私「俳句人《少なくともブンガクを語る人なら》は、そのくらいの観察はするさ」

こんな会話を交わしていると、私のすぐ隣のテーブル座席に、2人の子供を連れた若い夫婦が席を陣取って、置いてあるメニュウの中から注文する品定めの相談をし始めるのだった。

すると間もなく店員が籠いっぱいの玩具を携えてきてテーブルの上に置き、子供の欲しがるものを選び与えてくださいとのサービスぶりである。

「お決まりになりましたら、そこのボタンを押してお知らせ下さい」といってその店員は厨房の奥に下がっていった。

その後の座席でのドラマは、いちいち私がここで解説を加えなくてもいいだろう。
当然政治家ならぬ私でも、日本の国の将来を憂えたことはいうまでもない。
結局妻がいうとおり、貼り紙に書いてあることをそのまま素直に受け取るべきであった。

私はこの場面で俳句を詠む素材は充分にあったと思う。しかし、座席に流れてくる演歌はあまりにも喧騒を極め、客が出入りするたび店員たちの発する
「いらっしゃいませ!」
「有難うございました!」の掛け声はまさに怒号に等しく
適切な暖房の効いたラーメン屋の脇座敷であったけれど、さすがに1句すら物することはできなかった。

そこで、ある俳聖からの盗(戯)作1句
冬座敷隣は何をする人ぞ