狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

思い出

2006-06-30 22:00:15 | 日録
 過日・名前は忘れてしまったが、オーストラリアからクエーカーの外国夫人キリスト友会会堂に来る。
 会幹事のIさん夫人、「にぎりめし」だの、「のり巻き寿司」だのを作りきて、一同昼食会を催したりしかば、誰も皆外国人を意識してか、手掴みにして之を食う者なし。

 余は握り飯なるものは手掴みにて食するものと思っていたので、堂々と手づかみにて食しながら、その外国婦人を横目で見ていると、やはり余と同様手掴みであった。
 しかし彼女は足の置き方だけは、日本流にいうと恂に行儀悪く見えたのである…。

 余興に郷土有志による、ひょっとこ踊りが披露された。
 踊り子は外国夫人に近寄って来て、踊りながら巧みに主客の婦人を舞台に誘導した。
 ひょっとこ踊りは地方に依って若干違うとは思うけれど、

 ♪~テン、テレスコ、テン、ドンドン。 テン、テレスコ、テン、ドンドン~。
という大太鼓、小太鼓、笛、鐘摺りの
単純極まりない伴奏が、延々と続くのである。特に難しい踊りではない。
 婦人は大汗を流しながら伴奏に合わせて手足を懸命に動かしていた。お面をつけていないから、悲壮だった。

 今想うと、もうかなり高齢になっているはずだが、古い日記から当時の思い出に耽ってしまった。

森の石松 三十石船道中

2006-06-29 23:02:22 | 怒ブログ

♪~跨ぐ敷居が死出の山 雨垂れ落ちが三途の川
 そよと吹く風無情の風 これが親分兄弟分に
 一世の別れになろうとは 夢にも知らず石松が
 菅の三度を傾けて 別れを惜しむ富士の山♪~

 石松は行く先々でうまい酒を呑みながら、無事に讃岐の金毘羅様へ刀と奉納金を納めて大阪へ戻り、八軒屋から伏見へ渡る三十石舟に乗り込んだ。
旅情あふれる三十石船、乗り合い衆の賑やかさ、船の中では利口が馬鹿になって大きな声でしゃべっている。話に花が咲いている。世間話はいつしか靖国神社の話となる。

船客「A級戦犯が祀られているから靖国神社に参拝してはいけないなどというが、
中国も韓国も、日本のマスコミも、知識人も、政治家すらも
だ――――れもA級戦犯とは何なのがを知らない!
   
石松「ほう、呑みねえ、呑みねえ」

船客「さあ、いわゆるA級戦犯とされているこの人々の中で、(東条英機以下27の似顔絵を示す)あなたは何人知っているのか!?」

石松「そりゃぁ時代が違うんだから知らなくても仕方ないよ」

船客「まさか知りもしないでA級戦犯を悪者だと思い込み、差別してのではあるまいな!?」

石松「…お前さん、ばかにくわしいようだから聞くんだけれども、どうだいこの日本の中で、本当の一番悪い奴は誰だか知っているかい」

船客「そりゃ知ってらい」

石松「だれが悪い」

船客「日本の中で一番悪いのは…。」

 船客は立ち上がると、
見よ~、旭日の旗の下~~♪
わしはこの旗が好きでありま~~~す!
血がたぎって、闘志がわいてくるのでありま~~~~す!
船客は朝日新聞社旗に向かって顎がはずれるばかりの大声で怒鳴り続けた。

 このたび、差別ぬき、思い込みぬきで、いわゆるA級戦犯とされて人々を全員、紹介する本を描きおろしたそうである。
 この本の中に石松が期待する日本で一番悪い奴の名前が出てくるかどうか…。


♪~丁度時間となりました。

「側近日誌」木下道雄から(2)

2006-06-27 22:38:45 | 本・読書
昭和天皇独白録「寺崎英成御用掛日記」をやっと見つけた。
特に意味はないけれど、「側近日誌」木下道雄と、対照的な部分もあるかと思って一所懸命捜し当てたのである。

反戦老年委員会「ましま」さんの御著書「海と周辺国に向き合う日本人」の下にあるのは、ましまさん御著書巻末の膨大な参照文献主要に載っていなかった、
「古代近江の朝鮮」石原進・丸山竜平 【人物往来社】昭和59年11月15日の初版本である。
今から之らを読破する気力と時間が乏しいが、所々拾い読みして反戦委員会の論旨を理解しようと、一所懸命ブログに挑戦する老生であった…。

マレーネ・デイトリッヒ

2006-06-26 21:11:29 | 日録

j先生虎皮下

Fax拝受。
小生明日俳句会あり。五句製造中。
マレーネ・デイトリッヒについて家内・娘の連合軍と対峙。喧嘩した。
「離婚」とまでは長考…中也。
兼題は「汗」「当季雑詠」

今宵からビールと決めて作務衣よし

滴れる汗報酬は何もなし

年金に裸の汗を考える

戦争と平和を生きし妻の汗(←愛妻のことです)

マレーネ・デイトリッヒ観る老年の初夏の夢

                 tani道人

「側近日誌」木下道雄から

2006-06-25 22:15:15 | 本・読書
御用掛・寺崎英成の『昭和天皇独白録』(文藝春秋)で、昭和天皇が、戦争の原因について語られたことを読んだ記憶があるが、(確かにどこかにあることは確かである)散らかしっ放しの、わが部屋(書斎?)では捜せ出せなかった。
 代わりの見つけたのが、
 『側近日誌 木下道雄』(文芸春秋)である。=2004年町図書館廃棄本無料配布で入手した。
同じようなことが記されている。
 以下要所を明日から引用してみたい。

  海上、聖なる讃
月なく星も稀れな夜空の下、黙々と鹿児島湾を南下する軍艦榛名のうす暗き後甲板は、人なく声なく、只ひとり陛下おん挙手の尊影を仰ぐ。
 御会釈を賜る者は、そも誰か。肉眼にこれを求めて之を得ず、わずかに望遠鏡のレンズのうちに、薩摩半島沿岸一帯はるかに見ゆる奉送の灯火。

盛んなるかな、山々には篝火、岸辺にはちょうちんの群、延々として果てしなくつづく。げに闇をも貫く、まごころの通い道。
 さらば陛下よ、おんすこやかに、おかえりませ。
 ありがとう、皆も、元気でね。
 海波遠くへだてて、君臣無言のわかれの語らい。ああ、誰か邦家万古の伝統を思わざる。

 時はこれ昭和6年11月19日
                 唯一の目撃者 木下道雄識

「天皇をめぐるGHQ人脈」等あまり一般に知らされていない(太平等戦争を知らない人の世の中になってしまった)解説ー「昭和天皇と『側近日誌』の時代」 高橋紘が頁の約3分の1強を占める。


「作務衣」を着る

2006-06-24 22:50:48 | 怒ブログ

作務衣とは、<僧が作務のときに着る衣服。素材は主の木綿。上衣は打ち合わせ式で短袖、下衣はズボン状で裾がすぼまる。>これが「広辞苑」の解説である。

ボクは、約60年間その殆どを土工が着るような作業服で通してきた。だからボクには月見草ならぬ作業服が自分でもよく似合うなと思っていた。

しかし仏門に入ったわけではないが、毎週天台宗z寺の「浅参り会」に参加し、読経を続けていると、老師の作務衣に非常に心惹かれた。

僧籍になくとも、今はこの「作務衣」着用する人に度々遇うようになった。
是非オレも着てみたいと思っていた折、今日わが最愛の妻がニヤニヤしながら、風呂上りの小生にそれを用意しておいてくれたのである。

久しぶりの感激を味わうことができた。

仮タイトル?

2006-06-23 22:22:38 | 怒ブログ

田中・長野県知事、立候補を表明
2006年06月22日18時55分
 長野県の田中康夫知事(50)は22日、8月6日投開票の知事選に3選を目指して立候補する意思を表明した。この日開会した県議会で、「『信州から日本を変える』という知事就任当初に申し上げた気概を抱き続け、県政改革を担わせて頂きたい」と述べた。

 7月20日告示の同知事選では、すでに自民党の若林正俊参院議員の長男で公認会計士の若林健太氏(42)が立候補を表明。同党前衆院議員で第1次小泉内閣の防災担当相・国家公安委員長の村井仁氏(69)も立候補の意向を固めたとされる。

 田中知事は00年10月に初当選したが、県議会との関係が悪化、02年7月に不信任決議を受けて失職を選び、同9月の出直し知事選で再選された。

 昨年の衆議院解散直後に自民党から離反した国会議員らと新党日本を立ち上げ、代表に就任。周囲からは国政に転向する意欲があるともみられていた。
(アサヒ・コム)より。

兎も角『朝日』社説

2006-06-23 22:07:16 | 反戦基地
沖縄慰霊の日 悲劇と狂気を思い起こす

 沖縄の「慰霊の日」が今年も巡ってきた。太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった人々を悼み、平和を祈る日だ。

 80日余りの戦闘で亡くなったのは20万人を超える。このうち、本土からやって来た兵士よりも、住民の犠牲の方がずっと多かった。それが沖縄戦の特徴だ。

 そうした住民の犠牲のうち、沖縄の人たちにとって、消し去りようのない痛みを伴う記憶が「集団自決」だろう。

 那覇市の西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島は、米軍が初めて上陸したところだ。追いつめられた親がわが子を、夫が妻を、兄弟が姉妹を、愛するがゆえに手にかけた。

 慶良間諸島の座間味(ざまみ)島で生まれた宮城晴美さん(56)は、35年以上も集団自決の事実を調べてきた。身内も当事者だ。祖父は上陸した米軍が避難壕(ごう)の前に現れた時、「敵に捕まるよりは」と祖母や自分の首をカミソリで切ったが、命をとりとめた。母親は手投げ弾で自殺しようとしたが、不発で生き延びた。

 狂気の世界というほかない。

 米軍に投降すればいいではないか。自殺することはない。いまの若い人たちはそう疑問を抱くだろう。

 宮城さんは「皇民化教育は国のために死を惜しまないことを教えた。集団自決は敵を目前にした住民の必然的な行為で、国に死を強いられた」と語る。

 さらに住民は「米兵に捕まると、女性は辱めを受ける」などと、「鬼畜米英」の恐ろしさを信じこまされていた。

 これは沖縄に限らない。たとえば、佐賀県唐津市では終戦直後に、「米軍が上陸する」というデマが広がった。恐怖にかられた市民が一斉に山間部に逃げるという騒ぎが起きたほどだ。

 米軍の上陸前、座間味島の住民は約600人だった。集団自決で命を絶った住民は135人にのぼり、その8割が女性や子供だった。慶良間諸島全体では犠牲者は700人になる。

 「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の砲撃や空爆は、沖縄本島に上陸後も、さらに激しくなった。戦闘に加われる住民は、日本軍に根こそぎ動員された。残った住民も沖縄から逃れられるわけでなかった。そこで米軍を迎え撃とうとする限り、おびただしい犠牲は避けられなかった。

 こうした沖縄戦の事実は沖縄では語り継がれているとはいえ、本土にとっては遠い土地の昔の話かもしれない。

 慶良間諸島の集団自決について「沖縄ノート」に記した作家の大江健三郎さんは「沖縄戦がどんなに悲惨で、大きなことだったか。集団の自殺を頂点として、日本軍が沖縄の人々に大きな犠牲を強いたことを日本人の心の中に教育し直さなければならないと思う」と話す。

 すさまじい犠牲の末に、沖縄は米軍に占領された。それはいまもなお、広大な米軍基地というかたちで残る。

 沖縄戦の悲劇と狂気を絶えず思い起こす。それは日本の進む道を考えるうえで、苦い教訓となるに違いない。



三島由紀夫全集

2006-06-22 22:16:15 | 日録

『三島由紀夫全集新潮社版第三十五巻/補刊一』限定1千部。
昭和48年(1973年5月25日第1回配本(第10巻)~
昭和51年(1976年)六月二十五日発行(第36回配本にて完結)

 以前、(昭和40年代の昔話になる)友人の自宅の新築祝いに招待されて行った時、三島由紀夫全集が作りつけ書棚にぎっしり揃えてあったのを見て、いいなあと思った。
 「岬にての物語」「仮面の告白」などを読みかじっている頃だった。
 早速行きつけのT市S書店の外商係りを呼んで予約を申し込んだ。
 保証人を付させられた。途中でキャンセルされると困るほど高価だったのである。

 いま三島由紀夫全集は大概の図書館に揃っていると思う。最新のものでは『決定版 三島由紀夫全集』(全42巻/補巻1、別巻1)であろう。

 ボクの所持しているのは流石限定1千部だけあって、豪華造りの本であることはこの上ない。飾っておくだけである。わが町の図書館にないのは勿論だが、最近矢鱈と古書店に積んであるのを見かけると、限定1千部は当てにならないのかなあと思いたくなるときもある。 

 その注文時、S書店の外商部長だったT・Sさんと知り合った。
 今は全くその書店とも交流はなってしまったが、
 わが地方に毎週土曜日無料配送される情報紙「〇〇リビング」平成14年5月25日付第1紙面に
 「T高校・定時制に成人特例選抜制度で入学」という孫のような生徒に混じって歓談するT・Sさんの大きな写真入り見出しの記事に偶然出会った。
 
 記事に依ると、
昨年12月、45年間勤め、本店店長を経て外商部長を歴任した同社を定年退職してからの、還暦の高校生である。隣村M村の出身で、中学3年の進路決定のさなか、大切な母様を亡くし、高校進学できなかった夢を果たしたという。
 浪花節の台本になりそうなT・Sさん、定時制はたしか4年と聞いたから、多分去年か今年優秀な成績で卒業なされた筈と思い出している。

三島由紀夫全集に纏わる思い出である。 
 


詩・サルタンバンク その2

2006-06-21 22:38:43 | 日録

 ボクはこの冊子を編むにあたって、ページの最後に、彼の若かりし頃の写真と詩集の中で、彼が自薦の1篇の詩を載せたかった。当然I氏にその旨を伝えたら、即座に
「サルタンバンク」との答えが返ってきた。次の詩である。

 サルタンバンク
              詩集「□□の□□」サルタンバンクより

  部屋に灯りは一つだけと誰が肯いて鍵を廻したのか
  サルタンバンク 追放の詩情よ
  どうしたのだ、秩序にそんな鍵を渡してしまうなんて
  ひとつの灯りが狭い世界を発見するとき
  今日を眠らせるのは不可能なのに
  スタンドランプを点けるがいい 1つ二つ三つ
  そして青い古(いにしえ)の悲劇
  無償のカタルシス 叫びたい、 むしろ悶絶したい
  濃度を込めて
  四つ目のランプはおまえのヴァニティを押すのだ
  たくまれた逆説の方へ
  聴こえるだろう
  期待という少年の持物が川に流れ出すあれが
  サルタンバンク サルタンバンク
  期待がそうきこえる サルタンバンクが流れ出す

  うとましい酒場なんか知らない
  そこを出るのは明け方の腹部たち
  山のすそで欲望が自然に充たされていた
  あの頃の女ではない
  たった一つの灯りを消すならわしに
  今宵も充足の眠りをつづける「習慣」たちだ
  股をひらき意志の通行者がやっと
  詩を行動するする視線を迷路に運ぶとき
  闇は一層深くなる おう
  鉄の深夜の扉がひらくそこに
  待つものは居るのだ
  サルタンバンク きみよ悲劇のひとつ

  ひきはがされて雲が織り込む
  香るような明け空に
  白く光るナイフがあった
  「敵」は街角を曲がった昨夜の少女
  ピアノに触れた手は太陽と崩れて行ったが
  きみは待ったりはしなかっただろう
  深い魂の工場を通るのは明日だったから
  そしてひきはがされて雲は織り込む
  香るような明けの空を見たかったのだから
  草の虫よ、露の形態に鳴っているあの鐘をきけ

  やがて雨が来るだろう
  小さな侵蝕源の弾痕に船を浮かべる
  そんな幻想にきしめいている乾いた地帯
  精神に
  涙そそぐのもそんな時だ
  雨が降る、と救われなかった祈りの数々が
  女の光る唇の形で胸に還る
  あゝ 屋根屋根に降る雨の音よ
  
  しめる舗道の上、喧騒の妖しい舌に
  倒れて消えていく「青春」の色した隊列
  それらも雨にぬれようとする
  サルタンバンク 誰のために泣くのだ
  おまえは

  どこかに漂着する豊麗な底の灯たち
  青春よ
  静かに過ぎたことがこの夢に色どりを与えるなら
  いま季節の城をはなれて
  定まらぬ風のように鮮血を地殻に注ぎ込め
  血は底の灯を浅ぐろい感覚でやわらげるだろう
  やさしい誤解のつなが持ち唄を澄む空に投げかける   
  こめられた復讐、レペルチオはいつも風だ
  どこからきたのか たずねるものは
  サルタンバンク、赤い色した意識
  おまえの初めての存在だ


詩「サルタンバンク」

2006-06-20 22:04:04 | 日録
 
 朋友 I兄が、詩集〝「□□の□□」〟を出版した。兄が42歳のときである。
その出版記念会に、参加者に配布する詩集に添付する冊子を、小生が頼まれもしないのに製作編集して彼に贈った。

 執筆をして頂いた方々は、住井すゑはじめ、16名の著名な方々である。
今日梅雨休みの一日、本の整理中(反って散らかしてしまった)、その冊子を見つけた。
以下はその冊子の小生署名のあとがきである。

      あとがき
 I氏が□□□□の筆名で、詩集「□□の□□」をものしたのには吃驚した。そう思ったのは、小生ばかりではあるまい。夥しい善良な市民が、この快挙に呆れ果て、仰天し絶句して仕舞った。
 氏は斯の事について、噯にも口に出さなかったし、建設業と村議会の議員という変哲もない職業上の組み合わせが、氏への評価を一層複雑にしたのである。

 さて、この詩集であるが、頗る体裁に富む。段ボール風の外函に嵌め込んだあたりは、妙に格調高く見え、油彩を配した扉部分は、古風であり、閃きがあるなと思った。 恐らく、詩の内容にも相当なものがあるであろう。

嘗て、小生は、西脇順三郎の詩を愛した事があった。
〝AMBARVALLA 〟それは、I書店の書棚の片隅に睡っていたのを、定価五十五円で購い求めたものだ。

其処には、カプリの牧人があり、哀歌があり、生命の破裂があった。遂に、鼠は屋根から落ちることを知らなかったのだが…。

この著名な詩人は謂う。(小生なりの要約であることを赦してくれ給え。)
科学的哲学的考え方は自然界人間界宇宙界にある物の存在の関係を何かしらの法則という組織の中で統一し整頓することであるが、この動かすことのできない関係が少しでも破られた場合には自然界に重大変化が発生する。

詩の方法はこの破壊力乃至爆発力を利用するのであるが、この爆発力をそのまま使用したときは人生の経験の世界はひどく破壊されてしまって、人生の破滅となる。

併し詩の方法としてはその爆発力を応用して即ちかすかに部分的にかすかに爆発をおこさせて、その力で可憐なる小さい水車をまわすのである。今日の多くのシュルリアリズムの芸術は人生が破壊された廃墟にすぎないし、昏倒した夢の世界にすぎない。この水車の可憐にまわっている世界が私にとっては詩の世界である。
(東京出版『〝LE MONDE MODERNE〟』より)

だが、残念なことに、小生には、この言葉を以ってしても、作者I氏の世界を検討するだけの余力を持たぬ。
僅かに、某新聞が、紙面のスペイスを大きく割いてこの詩集を報道したのに、少なからぬ共感を覚えたのみであったのだ。乃公の知的欠如は覆い隠す術を知らないのだった。嗚呼。

聞く処によると、氏の同僚達が、近くこの出版を記念に、盛大なる宴を準備すると謂う。友情に囲まれた実に倖な男がいるではないか。

それ以前、実は近邑の住人として、就中、建設業に係わる知人・同志(小生は建設資材が主体の運送店経営者である)等が、一等先に大袈裟な振舞いでなくとも、ささやかに祝賀の宴を催する計画があった。それを、全く彼等に先手を越されて了ったのは、他意はない。不況の所為と諦めている。

そこで、一つの可能性として、この文集を編むことを試みた。小生の初めの考えでは、氏の作品に酷評を加え、叱咤罵倒し、かつ氏に拘わるゴシップの類を網羅する計画であった。それが氏に対する表敬の手段であろうと考えたからである。

併し識者は明らかにこの企画には拒否反応を示した。I文学この「詩集」への賛辞は止まる処を知らぬ。加之「I宗」は、巷の宗教を凌駕した。

編集に当たり玉斧を乞うた執筆者各位の中には、小生の全く面識の無かった方々も多かったにも拘わらず、即座に快諾の報を得ることが出来た。電話連絡に終始した欠礼をお詫びするするとともに、心からの謝意を表する次第である。

 これと言うのも、至極月並みな言葉になるが、詩集「□□の□□」の作品と、I氏の人徳によるものであると断言せざるを得まい。
「鼠算」の項。
 2×17の12乗。二七六億八二五七万四四〇二。
 I氏の大成を庶幾う所以である(tani)

あぢさゐ

2006-06-19 21:20:22 | 


隣家の見事な花垣である。この紫陽花はお住まいになっている、老夫妻が、(ご主人はボクより一つ年上である)毎年花が終わった後もそれを摘み取ったり、剪定をして入念な手入れをしているで、垣根代わりに植えた色々な種類が見事に育ち、今では隠れた街の名所になってしまった。

写真ではその一部分しか写っていないが、実際はかなりの量である。道路に面しているので、通りがかりの人が、車を停めてカメラに収めている姿が時折見られる。

 この紫陽花が見事の頃、「美空ひばり」の訃報をラジオで聞いた記憶がある。
 丁度句会があり、その兼題が「あじさい」だったので、その訃報をあじさいに読み込んだら、高位得点をいただいた。だからなお更鮮明にそれを覚えているのだ。

 今調べてみたら、案の定美空ひばりが死去されたのは1989年(平成元年)六月二十四日である。その頃既にこの花垣は見事だったのである。

 ところでこの「紫陽花」の仮名遣いのことだが、ボクも編輯委員の一人になっている町の文化誌の俳句欄に、平仮名で「あぢさい」と書いた投句があった。編輯会議の席上、委員長が疑わず「あじさい」と校正した。

 俳句人は未だに旧仮名遣いを固執しておられる方が多い。(朝日新聞の俳句投稿欄は今も旧仮名が主流である)案の定作者からクレームがついた。しかし辞書で調べたら、「あぢさゐ」が正解で「ゐ」が「い」の混用だった。

 ボクも俳句を始めた頃、旧仮名の句を作っていたが、(旧仮名でないと微妙な感覚表現の違いが出てくるのは否めない)、今は新仮名で通している。ワープロ普及で、どうしても旧仮名遣いは面倒になるからだ。
 ただこの「あじさい」の校正に関しては、作者の書いた通りにすべきであると云っただけで強い主張はしなかった。


父の日抄

2006-06-18 21:53:57 | 日録

「父の日」だそうである。その所以も知らないし、実感も湧いてこない。

*ちちの‐ひ【父の日】父に感謝する日。6月の第3日曜日を当てる。アメリカに起こった行事。(広辞苑第五版)

*ちち‐の‐ひ【父の日】父に感謝をささげる日。6月の第3日曜日。アメリカのJ=B=ダット夫人が、この日、父の墓に白いばらの花をささげたことに由来する。[季語・夏]
   「父の日の隠さうべしや古日記/不死男」 (広辞泉 小学館)

*ちち の ひ【父の日】父に感謝をささげる日。6月の第3日曜日。アメリカのJ=B=ダット夫人の提唱により1910年に始った。(大辞林 三省堂)、

新聞折込
〇E店 父の日セール
お父さんのおつまみ特集。ありがとうご馳走メニュー

〇T店 Fathers Day いつもがんばるお父さんへ
今夜のごちそう 黒毛和牛VSほんまぐろ サアどっち!?

〇K店 お父さん 大満足!
父の日特別お寿司・お刺身 家族揃って味わう和風ステーキ

〇K/D店
「父の日」特集 だいすきな お父さん ありがとう
   お父さんの大好きなごちそうメニュー

〇F店
父の日特別号  大好きなおとうさんへ。
 お父さんへの大ネタにぎり
ご馳走ステーキ
お父さん、ご満悦 安らぎを贈る、おすすめの逸品
まぐろづくし刺し身 ボイルタラバガニ  焼酎 3種

ああ、草臥れた。酔いも醒めた。小便を垂れて寝よう。血圧の薬はしばらく飲んでいない。10時5分前なり。
 

桜桃忌

2006-06-17 13:21:13 | 日録

太宰治氏情死
玉川上水に投身、相手は戦争未亡人
”書けなくなった〟と遺書
特異な作風をもって終戦後メキメキと売り出した人気作家太宰治氏は昨報のごとく愛人と家出所轄三鷹署では行方を捜していたが前後の模様から附近の玉川上水に入水情死したものと認定玉川上水を中心に二人の死体を捜索している。
(1948)昭和23年6月16日水曜日 朝日新聞)

   その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。
 
 その夜、三鷹に住んでいた太宰治は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。

 太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。(6.16日付天声人語より抜粋)    

               六月十九日 
 何の用意も無しに原稿用紙にむかった。こういうのを本当の随筆というのかも知れない。きょうは六月十九日である。晴天である。 私の生まれた日は明治四十二年の六月十九日である。

 私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんとうの子でないと思い込んでいた事があった。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされているような気がしていた。容貌がまずかったので、一家のものから何かとかまわれ、それで次第にひがんだのかも知れない。

  蔵へはいって、いろいろな書き物を調べてみたことがあった。何も発見できなかった。むかしから私の家に出入りしている人たちにこっそり聞いて廻ったこともある。その人たちは、大いに笑った。私がこの家で生まれた日の事を、ちゃんと皆が知っているのである。夕暮れでした。あの、小間で生まれたのでした。蚊帳の中で生まれました。ひどく安産でした。すぐに生まれました。鼻の大きいお子でした。色々のことを、はっきり教えてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかった。.なんだか、がっかりした。自分の平凡な身の上が不満であった。  

 先日、未知の詩人から手紙をもらった。その人も明治四十二年六月十九日生まれの由である。これを縁に、一夜呑まないかという手紙であった。私は返事を出した。「僕はつまらない男であるから、遇えばきっとがっかりなさるでしょう。どうもこわいのです。明治四十二年六月十九日生まれの宿命を、あなたもご存知のことと思います。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割りに素直に書けたと思った。                       ―「博浪抄」昭和15年8月号

ひとりごと:「光陰如箭 」だなァ。こう見えても、オレはあのころ〝文学少年〟だったんだよなァ。幾つぐらいの時だったっぺ歟!
 ここを過ぎて悲しみの市ー
  重々しく枯野出でしは俺ばかりなる
 
ある短歌会でこのオレの歌を、わが地方では女医であり、有名歌人であった
K・U子女史が絶賛してくれたっけ。あの頃の短歌雑誌に載っているはずである。

              


万緑

2006-06-16 21:26:15 | 日録


友人TさんからEMailが入った。
>11日一泊二日でクラス会が那須温泉で開かれたので、ついでに沼原湿原と近くまで何回も行って登っていなかった、朝日岳に登って来た、沼原湿原は雨の中を、朝日岳は何とか天気は持ったが、下山した途端にガスってしまう。
どちらも花は全く無く唯黙々と歩くのみ。

6本添付された写真の中から「湿原」を無断借用した。
「万緑」という俳句の季語に相応しい緑である。

結城哀草果の歌に
 焼け跡の煉瓦の上にsyobenを
       すればしみじみ秋の気がする
というのがあった。写真木道前方の森に佇み、「万緑」に向かってture syoben
をしたら、さぞ良い句も生まれるだろうなどと思うけれど、勿論昨今そういう行為をする人は全く見かけないし、(軽犯罪?)相当な覚悟が必要となろう。
※つれしょうべん【連れsyoben】連れ立って一緒にsyobenをすること。(広辞苑)