狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

日本海海戦について

2006-03-26 21:23:58 | 反戦基地

【日本海海戦】明治三八年(1905年)5月27日から翌日に賭けて行われた日露戦争中最大の海戦。日本海対馬沖で、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。(松村明編・大辞泉 小学館)

【日本海海戦】日露戦争における日本・ロシア両海軍の決戦。1905年(明治三八)5月27日から翌28日にわたり、日本海対沖で司令長官東郷平八郎の率いる連合艦隊がバルチック艦隊を壊滅させた。(新村出編・広辞苑第5版)

(日本海海戦)1904年(明治37)年2月、日本は英米の支持を受け、ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争。戦場になったのは朝鮮と満洲だった。1905年、日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利した。

ロシアは劣勢をはね返すため、バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は、アフリカの南端をを迂回し、インド洋を横切り、8ヶ月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の開戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。(市販本新らしい歴史教科書 扶桑社)
 
第十 日本海海戦
 露国が連敗の勢を回復せんため、本国における海軍の殆ど全勢力を舉げて編成せる太平洋第二・第三艦隊は、朝鮮海峡を經てウラヂボストックに向かはんとす。わが海軍は、初より敵を近海に迎へ撃つの計を定め、豫め全力を朝鮮海峡に集中してこれを待つ。

 明治三十八年五月二十七日午前四時四十五分、我が哨艦信濃丸より、無線電信にて「敵艦見ゆ。」との報告あり。東郷司令長官は、直ちに全軍に出動を命じ、先づ小巡洋艦をして、敵艦隊を沖島にいざなひ寄せしむ。
午後一時五十五分、我が旗艦三笠は戦闘旗をかゝぐると共に、信号旗を以て令を各艦に下せり。いはく、
「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮勵努力せよ。」と。我が軍の士気大いに振るふ。三笠に乗れる東郷司令長官は、六隻の主艦隊を率ゐて、上村艦隊と共に先頭なる敵の主力に當り、片岡・出羽・瓜生・東郷(正路)の諸隊は、敵の後尾をつく。

敵の先頭部隊は直ちに砲火を開始せしが、我はこれに應ぜず、距離六千米に近づきて始めて應戦し、烈しく敵を砲撃せしかば、敵の艦隊忽ち乱れ、早くも戦列を離るゝものあり。

風叫び海怒りて、波は山も如くなれども、沈着にして熟練なる我が砲員の打ち出す砲弾は、よく敵艦に命中して、火災を続々起こし、黒煙海をおほう。午後二時四十五分、勝敗すでに定まれり。敵はかなはじと、にはかに路を変へて逃げ去らんとす。我は急にその前路をさへぎりて攻撃せしかば、敵の諸艦皆多大の損害を受け、続いてわが駆逐艦より二回の水雷攻撃を受けて、敵の両旗艦を始め、その他の諸艦も多く相次いで沈没せり。夜に入りて、我が駆逐艦、水雷艇隊は、砲火をくぐって敵艦に迫り、無二無三に攻撃せしかば、敵艦隊は四分五裂の有様となれり。

明くれば二十八日、天よく晴れて海上波静かなり。我が艦隊は、東郷司令長官の命により欝稜島付近に集まりて敵を待ちしが、忽ち東方に當りてはるかに数条の黒煙を見る。よりて主戦艦隊及び巡洋艦隊は、直ちに東方に向かって敵の進路をふさぎ、片岡・瓜生・東郷の諸隊は、その退路を断ちて、午前十時十五分、全く敵を包囲せり。敵将ネボカトフ少将、今は逃れぬところと覚悟したりけん、にわかに戦艦ニコライ一世以下四隻を挙げて部下と共に降伏せり。

敵の司令長官ロジェストウエンスキー中将は、昨日の戦闘に傷を負ひ、幕僚と共に一駆逐艦に移りしが、我が駆逐艦漣・陽炎の二隻に追撃せられ、遂に捕へらるゝに至れり。

此の両日の戦に、敵艦の大部分は、我が艦隊のために、或は撃沈せられ或は捕獲せられて、三十八隻中逃れ得たるもの巡洋艦以下数隻のみ。敵の死傷及び捕虜は、司令長官以下壱萬六百余人。我が軍の死傷甚だ少なく、艦艇の沈没したるもの僅かに水雷艇三隻に過ぎず。

東郷司令長官の発せし戦況報告の末尾にいはく、
「我ガ連合艦隊ガ能ク勝ヲ制シテ前記ノ如キ奇蹟ヲ収メ得タルモノハ、一ニ天皇陛下ノ御稜威ノ致ス所ニシテ、固ヨリ人為ノ能クスベキニアラズ。特ニ我ガ軍ノ損失・死傷ノ僅少ナリシハ、歴代神霊ノ加護ニ由ルモノト信仰スルノ外ナク、曩ニ敵ニ対シ勇進敢戦シタル麾下将卒モ、皆此ノ成果ヲ見ルニ及ンデ、唯々感激ノ極、言フ所ヲ知ラザルモノノ如シ。」
と。勝報上聞に達するや、司令長官にたまへる勅語の中に、

「朕ハ汝等ノ忠烈ニ依リ、祖宗ノ神霊ニ對フルヲ得ルヲ懌ブ。」
と仰せられたり。将兵、すべて感泣せざるはなかりき。
(文部省・尋常科用 小学国語読本巻十一)

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3 コメント

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ご苦労様です (針 三)
2006-03-27 13:38:35
長文ご苦労に存じます。

しかし明治時代の人たちは、よく頑張ってくれましたよね。もしあれが、ロシヤに負けていたらその後の日本は、どうなったでしょうね。

ただあの海戦では、日本の海軍にとって、最も効果的だったのは、主砲弾に装填された〝下瀬火薬〟であったとも、言われたそうです。

この火薬は、〝鉄が燃える〟と言われていたそうで、敵の艦船の甲板などに命中をすると、火が甲板上に拡がって、まるで砲塔までも、燃えているようになったので、敵艦の兵たちの士気の阻喪にもかなりの効果があったと、言われたそうです。

しかしその後の日本海軍の首脳たちは、あの海戦での主砲の威力が忘れられずに、飛行機や潜水艦の時代に変わったのに、世界で最大の主砲を備えた、大和・武蔵・などの巨艦を造ってしまった。

やはり時代の変化には、柔軟ではないと、いけないと言う事なんでしょうな。
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一つ削除願います (針 三)
2006-03-27 13:46:29
なにか、クリックがダブったみたいで、失礼しました。
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辞書と教科書を並べただけ (tani)
2006-03-27 14:29:20
有難うございます。辞書と教科書丸写しです。

此の後、岩波の「国語巻3」の〝日本海の海戦〟、更に水野広徳の「この一戦」にまで及びたいのですが、

「皇国の興廃斯の一戦に在り」のところで全部切るつもりで始めても、読んでいるともう少し、もう少しと思いながら、とうとう小学国語読本は全文写してしまいました。

今から村道散策。後は夜になります。

そんでわ。
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