狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

橘孝三郎余聞

2006-03-01 21:55:31 | 反戦基地
 解説に依れば、
≪海軍将校、陸軍士官候補生らの一団が首相官邸に押し入った。犬養毅(つよし)首相は客間に通し「話せば分かる」と制止したが「問答無用、撃てっ」―短銃弾は老首相めがけ集中した。
 別動隊は牧野伸顕・内相官邸、警視庁ほかに投弾、右翼結社の一隊は変電所を襲った。昭和七年五月十五日夕刻、いわゆる五・一五事件である。≫

さてこの後、
昭和8年 ヒットラー独逸首相となる。(ナチスの政権奪取・第三帝国の発足)      日本国際連盟脱退。
     12月明仁天皇誕生。

昭和9年 満州国の帝政実施。愛新覚羅溥儀。5月東郷平八郎死去(88歳)国葬。

昭和10年忠犬ハチ公死ぬ。(参照)

昭和11年 2,26事件。

これから日本は太平洋戦争に突っ走る訳だが、
なぜか小生は今日雨降りを利用し、部屋の片付け(散らかし)を始めたのだった。不要な古新聞類を燃やしていたら、昭和十五年十月二十二日付朝日新聞地方版のコピーが出てきたのである。思わず片付けの手は止まってしまった。
こうだから、部屋はひとつも片付かぬ。これが(リンク)というモノなのだろうと、諦める。

≪愛国!烈々の血
    たちまち頬は高潮――橘氏は語る
仮出所後の三日間を東京に送った5・15事件の民間側頭目、愛嬌塾頭、橘孝三郎氏(48)は義弟林正三氏に付添われ二十日午後1時4分水戸駅着列車で、父の顔も知らぬいたいけな3男秀作君(9才)や親戚、友人塾生多数の出迎えを受け、自動車で常盤神社に参拝の後7年ぶりで水戸市新原町の愛郷熟に帰った、

 7年ぶりに主を迎える愛嬌塾は橘氏が塾生に烈々たる気魄を以て革新の道を説いた一室も7年前と少しも変わらなかった、橘氏は入獄中先立たれた母もんさんと妻ふくさんの位牌に無言の対面をしたがその日は訪客との面会を一切謝絶し、早く寝に就き21日は、午前11時ごろ漸く起き出した、

眼にしみる様な白菊の咲き乱れる庭先に面した座敷で簡素な和服で寛いだ橘氏は7年前と少しも変わらぬ元気で心境を語るのだった。

『刑務所で骨になる覚悟を決めてゐた私には出所等夢にも信じられぬ私だけに自分だけが知る喜びで胸一杯です、思い出のこの塾で再び皆様とお会い出来ようとは…

東京から帰る時も汽車の中の人々が皆んな水戸人のように思われてならない程子供っぽい嬉しさに浸ってきましたが笑って下さるな、刑務所では暇さえあれば感想録を執筆してゐましたが半ば脱稿したので近く世に出すときが来ると思います、

7年有余の長い獄中生活で視力や聴力がすっかり弱りました、獄舎生活中苦労をかけた母と妻に病死されたことが唯一つの…』 ≫此処で記事は切り取られている。(靖国会の歩み)

また、この地方版には大きく、
「揺るぎなき威風堂々」
   二千六百年記念陸軍観兵式
≪紀元2600年記念陸軍観兵式は山田茂大佐諸兵指揮官の下に21日午前10時秋深き水戸市外堀原練兵場に37、42の両部隊及び市内高校、中等学校生徒3000名特別参加の上挙行せられた、この日一般観人席には不自由な身に威儀を正す白衣の勇士100余名の姿がまばゆい秋の陽に人目を惹いた、閲兵に続いて我が陸の精鋭両部隊の分列式に移り皇軍堂々の揺るぎない威武を誇示すれば続く学生隊は、
水高、茨師、青教、水中、水農、
■茨工、水商、茨中
の順で一糸乱れぬ堂々たる分裂行進を行い超戦時下逞しくも頼もしい銃後学生の燃える熱と意気を高揚して10時30分、輝く観兵式を終わった≫とある。