狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

わが短歌抄

2007-06-28 22:07:43 | 日録


すべてが道化だよとおめえとおれが来た
       木枯しの道は暗かったなあ    大庭雅八郎

 この小生のペンネエムは、大庭葉蔵を真似て作ったものである。
前にも書いたが、

「ここを過ぎて悲しみの市ー」
   枯野過ぎしは おれ ばかりなる     大庭雅八郎

今は故人となってしまった短歌会長のM先生は高校講師、神職も兼ねて居られたが、小生を真面目に「大庭先生」とよんでくれた。
「おおばかやろー」を見破ったのは流石、長塚節研究で著名な作家H氏である。いずれも鬼籍に入られた方々である。

わが家が持ち上がった。

2007-06-27 14:50:36 | 阿呆塾

  わが家の重量は、計算はしたことはないけれど、10tトラックで運ぶと約10台分として、100t以上位はある筈である。少女はそれを軽々と持ち上げてしまった。2005年の夏休みのことである。
 今年の「何とかの日」には、音信不通だったけれど、次の日曜日である25日に父親である愚息と一緒にやってきた。
 日帰りだったので、昼食は「ノン、アルコール」の食事会となった。上州名物「水沢うどん」を小生が茹でて振舞った。
 「何とかの日」
に期待していた1.8リットルは今日も無視されたが、2人は庭先に花壇を丹念に造っていった。
 帰ってしまった後、流石にわが家の〇さんの顔は、優しい小生が傍にいるにもかかわらず、寂しそうな表情を隠しきれなかった。オシマイ。 

 


日録

2007-06-25 21:38:54 | 怒ブログ

「沖縄慰霊の日」阿倍首相は沖縄入りしたはずである。
そうした場合必ず記者会見がある。しかし、会見内容の記事は見つからなかった。
24日朝日新聞第2面
首相動静 23日

【午前】8時、羽田空港。43分、日本航空機で出発。10時48分、那覇空港。
11時30分、沖縄県糸満市の平和記念公園。同公園内の国立沖縄戦没者墓苑で献花。54分、沖縄全戦没者追悼式に出席し、献花、あいさつ。
【午後】0時50分、報道各社のインタビュー。1時18分、那覇空港。25分、同空港内の有料待合室で扇千景参院議長、仲井真弘多沖縄県知事。2時25分、日本航空機で出発。4時25分、羽田空港。5時15分、東京・西新宿のホテル「ヒルトン東京」。同ホテル内の村儀理容室で散髪。7時11分公邸。34分、東京・港南のストリングスホテル東京インターコンチネンタル。同ホテル内のレストラン「チャイナシャドー」で昭恵夫人らと会食。10時9分、公邸。

一方、天皇陛下の動向も38ページの「社会面」にわずか見出し共、35行の小さな記事である。
開拓の記録道庁に寄贈   天皇陛下
宮内庁と北海道庁は23日、天皇陛下が、戦前の北海道の開拓や産業の様子を記録したフィルムなどを寄贈したと発表した。
 宮内庁の記録だと、36年に道庁から昭和天皇に献上された全13巻と、献上元不明の「雪中の軍事教練(北海道)1巻。いずれも16㍉で、北海道の沿革と都市、それぞれ農林水産や鉱工業、国立公園、拓殖の様子を撮影している。
 天皇陛下が戦時中、疎開先の日光の田母沢御用邸で見た記憶があり、その後ずっと東京・小金井の御仮寓所や東宮職で保管していたが、昨年秋、高橋はるみ道知事に寄贈を申しでていた。
           ◇
 天皇、皇后両陛下は23日、北海道に到着。苫小牧市で24日に日開かれる第58回全国植樹祭に出席し、26日まで滞在する。(何れも朝日新聞(東京)6.24付から引用。

勝手に忠臣の昔話を、ネットから引用する。
正平二年(1346)、楠木正行(くすのきまさつら)が四条畷の合戦に向うにあたり、この地で辞世の句を詠んだ、有名な
返らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる
(今度の戦いは生きてかえれぬ身であるが故に亡き人の仲間入りをする名前を残して出発します)歌を思いだしてしまった。済まぬ。


沖縄慰霊の日

2007-06-23 22:11:20 | 怒ブログ


 この朝日新聞記事のコピーは、
昭和47年7月10日発行
週刊朝日創刊50周年記念
『朝日新聞でみる世相50年』朝日新聞社1972  非売品  に拠った。

この本のその目次は、
(大正)
ムッソリーニ政権をとる(11・10・31)から
社会民衆党結成(15.・12・6)まで
(昭和「戦前」)
昭和と改元(1・12・25)から
太平洋戦争終わる(202・8・15)まで
(昭和「戦後」)
日本、降伏調印(20・9・3)から
飛鳥で法隆寺級壁画発見(47・3・27)
までの、新聞1ページ分のコピーが収録されている。
この記事20年6月5日である。
『沖縄戦局いまや重要段階
 全線に亘って苦戦
  彼我戦力の差漸く顕著』と、非常に微妙な表現の報道である。
其の左下には、
戦敗ドイツの実相:前ベルリン支局長記のルポが載っている。字が小さくて、拡大鏡を使っても判読出来ないので、見出しの所をコピーする。
・中間的な解決なし
・奇跡は遂に起こらず
・ヒ総統布告の疑問
・指導者間に縺れ
・呆気なく戦いの終幕

記事は、20年8月8日へと飛ぶ。
広島へ敵新型爆弾
B29小数機で飛来攻撃
 相当の被害、詳細は目下調査中。
皮肉にもけふ大詔奉戴日として「宣戦詔書」が上段に大きく掲載されているのである。


梅雨と紫陽花

2007-06-22 11:42:04 | 怒ブログ

今年初めての梅雨らしい空模様である。拙宅前のOさん宅の生垣の紫陽花がようやく生気を取り戻した。こんな日が2、3日続くともっと素晴らしい姿となる。

 ここしばらくご主人の姿が見えないのが、ちょっとばかり気にかかるが、乃公との年齢差が殆どないので、大いに自戒している。
今日は「夏至」太陽の黄経が90度に達する時で、北半球の昼が最も長く、当然のことながら、夜が最も短い。

明日は「沖縄慰霊の日」となっているが、広辞苑によれば、<【沖縄戦】太平洋戦争末期、沖縄本島とその周辺で行われた日米両軍の激戦。1945年4月アメリカ軍は沖縄本島に上陸、日本軍は抗戦のすえ6月23日全滅・住民十数万人が死亡。>とあるのみである。
このときの「集団自決」について、来年から使用する教科書から「軍による強制ではなかった」として、修正または削除されたという。あれから60余年、あの阿鼻叫喚地獄の戦争が風化されるばかりでなく、美化するような風潮が恐ろしいし、残念である。

今朝の朝日新聞コラム「天声人語」から
 沖縄はきのう梅雨明けの空が広がった。その空へ向けて、米軍嘉手納基地から訓練の戦闘機が盛んに飛び立つ。基地を見渡せる、通称「安保の見える丘」に立つと、ごう音で空気が震えていた。

 朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争……。基地を通じて、沖縄はいくつもの戦争にかかわってきた。憲法9条に庇護(ひご)された本土とは異なる戦後を、島は生きてきた。目下のイラク戦争でも、兵員や兵器が、ここから戦場へ向かっている。

 
 太平洋戦争の末期、沖縄は本土を守る「捨て石」になった。戦争が終わると、今度は米国の世界戦略の「要石(かなめいし)」とされた。沖縄生まれの詩人、山之口貘(ばく)は、虐げられる島を悲しんだ。〈戦禍の惨劇から立ち上り/傷だらけの肉体を引きずって/どうやら沖縄が生き延びたところは/不沈母艦沖縄だ……〉。

 沖縄県の面積は国土の1%に満たない。そこに国内の米軍専用施設の75%がひしめく光景は異様だ。「基地の中に沖縄がある」状況は、本土復帰から35年たっても変わらない。

 失業率は全国平均の2倍近く、とりわけ若い世代を苦しめている。平和を願いつつも、基地の経済的恩恵に頼らざるをえない。相克の中で、沖縄はあす62回目の「慰霊の日」を迎える。





目はじきについて

2007-06-21 22:01:02 | 日録
特に深い意味はないんだけれど、ボクらが子供のころ「めはじき」ということをやった。これは植物の花芽を眼の瞼へ挟むだけの単純な遊びである。
その植物のあった思い出の“いけす″の縁を今日訪ねてみたが、今は何もなかった。わずかに「クコ(枸杞)だけは当時のまま残っていた。

 辞書、百科事典、植物図鑑、等で「めはじき」を調べてみたが、いずれもボクの覚えているそれとは違う。そのほとんどは次の広辞苑と同じである。

『シソ科の越年草。茎は四角く、高さ1メートル以上。夏・秋に淡紅色の小唇形花を多数輪生状につける。花をつけた全草を茺蔚(じゅうい)といい、女性の血止めおよび補精薬。果実は利尿剤・眼病に供する。
子供が、この茎を短く切って、上まぶたのつっかいぼうにする遊びからの名という。益母草・[季]秋。

ボクがいう“目はじき【目弾き】”とはそんなややっこしいものではない。
わが地方でいう「めはじき」覚えている方があったら是非教えて頂きたい。

抽刀断水水更流,举杯销愁愁更愁这首诗题目为何?


文豪書斎

2007-06-19 11:58:02 | 日録

  確かに名士邸には違えないが、文豪の書斎ではないし、文士のお住まいでもない。
況や小生のパソコン室でないことに於いておやだろう。
 此処の、所有者はボクの先輩でかつ友人のY氏であるが、氏の老夫人がご近所のお茶の同好者を集めて、茶室として使っているところである。20年ぐらい以前、茅葺の書院造りの建屋を主人が何処からか購い求めてきてここに復元した。
 ボクは、所用があって月に1度は必ずここを訪れる。今朝は障子が開け放されて、掃き掃除をした後のようであった。断らずにパチリ。携帯電話についているカメラで撮った。

 この建屋は2~3年前屋根を葺き替えたばかり。屋根葺き職人も、その筋に頼んでおけば、組合みたいものがあって、県内各地がら集まってくるという。
 ちょうど一年前、(2006.6.24)LivedoorBlog「PITITES NOUVELLES」(恰好をつけてフランス語にした。莫迦でもあっぺ乎)を立ち上げたばかりのころ、「ネコのワッチ研究所々長」のnoaさまから、記事編集で懇切丁寧なるご指導を得た。

Livedoorは、例のホリエモン騒動で敬遠されがちの上、gooblogに比すると大変ややっこしいblogであった。noaさまは、時によりコワーいひとになるが、小生は尊敬して止まない。改めてお礼を申し上げたい。

「PITITES NOUVELLES」の開設日は2006.5.23日である。1周年記念にテンプレートの模様替えも考えた。しかし熟年者向きの適当なものが見つからないので、当分このまま、going my way!とした。 

茅葺きの書斎・茶室 

 


『何とかの』日

2007-06-17 21:26:08 | 日録

 今日は〝何とかの日〟といっても、〝何とかの日〟では広辞苑では牽けなかった。勿論〝何とか還元水〟も第5版には載っていない。流石Yahoo Internet Explorerでは〝何とか還元水〟は何項目も検索出来たが、〝何とかの日〟は、検索は出来たものの、何とも不可解なモノばかりであった。屁理屈は止めよう。ボクは素直な気持で、わが家の食卓にしては楚々たる雰囲気の中に数時間の食事に浸ったのである。まさに「けふ」は『何とかの日』、有難く粗餐を頂戴致した。


水郷に遊ぶ

2007-06-14 19:15:53 | 日録

 近くにお住まいのYさん、Hさん、それに小生の三人で、水郷といわれる隣県にまたがる地方に、毎年恒例になってしまった「あやめ祭り」の小さな旅を楽しんだ。
 3人ともブログの友人である。
 実は、昨年暮れの相談では、3人でささやかな忘年会をする計画であった。
 ところが、その後、幹事役のYさんが体調を崩して入退院を繰り返し、新年会になり、次は観桜会となり、日延べに日延べを重ねて、最後は桜の終わる頃、食事会でもやろうかという親睦会が、こういう形でようやく今日実現した次第である。

 ボクは、ここへは以前(昔)何回が足を運んでいる。近くには一時有名になった
ロッキード観音」もあったのだ。
 しかし、振り返った過去のことは、大概美しく見えるものだが、過去も現在も感動するものは少しも無かった。わが県人は商売がヘタで、巡査に適していると昔は言われた。オレをはじめ、まったくその通りであると痛切に感じた。

 昔は『娘船頭さん』の強引な客引きで悪名を轟かしたものだが、今はそれはない。
駐車料金?額は普通料金だろうなぁ…伏せておこう。
 しかし、たしかに他所の観光地から比べると何につけても下手だ。
 せめて演歌の一節を歌って、わが県をPRしておこう。

 ♪潮来花嫁さんは
  潮来花嫁さんは 船で行く
  月の出潮をギッチラ ギッチラ ギッチラコ
  人の噂に 隠れて咲いた
  花も十八 嫁御寮

 


 

 


大日本帝国有識者会議

2007-06-11 09:49:40 | 怒ブログ

今朝は、茶の間のNHKテレビニュースに釘付されてしまった。
 先月行われた集団的自衛権の行使をめぐる政府の有識者初会合で、安倍総理大臣が、アメリカに向かうかもしれない弾道ミサイルを日本のミサイル防衛システムを使って撃ち落とすことが認められるかどうかなど4つの具体的な類型を示し、議論を行うよう求めたというのである。

 懇談会の中には、平時の共同訓練などの場合でも自衛隊の艦船が反撃することを認めるべきだという持論をもつ委員が多いという。
 テレビ画面は海上自衛艦の堂々たる威容や、実戦の歩兵部隊を思わせる訓練の様子が次々と放映されていた。

 1945年6月10日の悪夢がどこかへ吹っ飛んでしまった。
 大日本帝国海軍連合艦隊が、アメリカ太平洋艦隊を撃滅したあの真珠湾攻撃の感激を思い出してしまった。
 隣国を仮想敵国としてのデモとも受け取れる、防衛軍の実態とセットした有識者会議風景の放映であった。


六月十日 日曜日なり

2007-06-10 22:37:00 | 怒ブログ

 6月10日が巡って来た。日曜日である。奇しくも1945(昭和20)年6月10日も日曜日であった。今日と同じ朝から雲が垂れこめてゐた。

   六月十日といふ題にて詠める     

 人間の襤褸を 見たり古き日の
               六月十日は 曇天なりき  

                                            狸便乱亭主人   谷人               


明記せよ!6月10日

2007-06-09 21:40:14 | 怒ブログ

 この写真は本文とは全く関係がない…否!
      昭和日本史7『戦争と民衆』暁教育図書(株)よりコピー

次はわが町に住んでおられた某医院々長夫人M・T子さんが町の文化文芸誌に寄稿された寄稿文の抜粋である。(『A町文化』誌昭和52年第13号より)

昭和20年になると、3月の東京大空襲に続き、本土は次々にあちこちと空襲に脅かされるに至った。わが町の国民学校も、再三機銃掃射を受け危険のため、分散教育をせざるを得なくなり、各のお寺や公会堂に分かれて教育を受けた。

二十年早々から中学校女学校も生徒は勤労動員されて、長女は隣市の海軍航空関係廠の寮に入り、飛行機の部品の整理やら主として神風特攻機の昇降舵の作成を手伝ったという。

中学生は家から通勤して、飛行機の修理や整備を手伝った由。女学校はすでに英語の授業は禁止されていたが、相手国の語学は戦争中なればこそ、一層学ぶべきであったろうにと、随分矛盾も甚だしいことゝ、今更ながら考えざるを得ぬことの一つである。二十年四月頃より五月にかけ隣町の海軍航空関係廠は、しばしば敵の艦載機P51に狙われ、50キロロケット弾投下や、機銃掃射で時には200機も来襲波状攻撃を受けた。飛行機整備工場4棟全焼、その他要人10数人が爆風で戦死、また近くの山林中に逃げ込んだ学徒動員の女子工員3名が犠牲となり、他に負傷者もあった。この日はすごい爆音にて、防空壕に出たり入ったりしながら空を見上げて、只はらはらする許りであった。敵機来襲のつど、壮烈な空中戦展開、敵数機を撃墜したが、わが方も火だるまとなって、落ちるなど遠からぬ所なので恐ろしい思いをした。動員された子供達は無事帰宅を許されて帰ってきた。

610日曇り空。8時ごろより空襲警報発令。B29大編隊来襲の予報あり、警防団員はじめ万一に備えて色々心構えをした。

我が家も予て大きく頑丈に造っておいた防空壕に隣家2家族(Aさん母娘及私の姪母娘)それに私方5人共に食糧飲料水などを持ち込み避難していた。

いよいよB29の来襲。

其の爆音たるや雷鳴の如く、町から北西方向に聳えるT山を目標に飛来したらしく、大体30機ほどの編隊だった。

時々壕の扉を細めに開けて外を覗けば轟々たる爆音ばかり、今にもこの上に爆弾が落ちはしないかと気もそぞろ、中にいる者すべて死なば諸共にの覚悟であったが、念仏を唱えてみ仏におすがりするより他術がなかった。

警防団員は空襲の合間をみてかけ廻り、各防空壕を見廻ってくれた。そして少しづつ情報が明らかになってきた。まだ解除にならぬ中に、戸板に載せられた血まみれの被爆者や、手足をやられた人など次々と運ばれてきた。

当時産婆の方々など、白衣の看護婦としてなりかけつけてくれ、応急処置を手伝ってくれた。

てんやわんやの最中にもかかわらず敵機はまたまた頭上に飛来し、出血多量のため動かすことも出来ぬ患者は壕にも入れられず、そのままにしておく他術もなく心ならずも壕に避難し、又様子をさぐっては処置するなどあの時の恐ろしさは一生忘れる事ができない。あの時の警防団員や救護班の方々の奮闘は全くわが身を捨てての奉仕であった。

正午過ぎまで空襲は続き、やっと警報解除になり外に出て全く驚いた。幸い周囲にはB29250キロ爆弾は投下されなかったが、他へ爆撃した震動で殆どのの家がガラスは割れ、内も外もない破損と汚れですごかった。次々と報告された情報は只々唖然とする許りであった。

 


教科書彷徨

2007-06-07 21:15:15 | 日録

襖の下張に使った和紙の本の主体は漢文で木版刷りあるが、稀に活版刷りのもあった。奥付を見ると、やはり明治も後年になって印刷されたもので、この教科書がそのうちの1冊である。

高等小学 筆算教科書巻之三
明治27年3月25日 印刷
仝  年仝月30日発行
仝  年7月22日再刷
仝 31年2月19日14刷

著者    竹貫登代多
東京市芝区浜松町1丁目15番地
発行者   白井練一
東京市京橋区竹川町13番地
印刷者   石崎安蔵
東京市芝区宮本町29番地
発行所  共益商社書店
東京市京橋区竹川町13番地
印刷者
東京市芝区宮本町29番地
      定価金12銭

その内容を見てみる。
高等小学 筆算教科書巻之三

              竹貫登代多著
第壱篇  複比例並帰一法。
第壱課  複比例。
第一条 複比例  其一
定義 複比例トハ同種類ナル二数の中チ其一数ヲ知テ他ノ一数ヲ求ムルニ二箇以上ノ比ヲ用フルモノヲ云フ。
問題 第一
第一 九人ノ大工十二日の賃銭金三十七円八十銭ナリト云フ、問フ五人ノ大工十八日間ノ賃銭ハ金幾何ナルカ。
第二 七人ノ左官十五日ノ賃銭金四十四円八十銭ナリト云フ、問フ六人ノ左官十四日間ノ賃銭ハ幾何ナルカ。

こういう調子でこの教科書は延々と続く。全部コピーしたいような名文で書かれているが、その篇の定義などを、ところどころ少し書き留めてみる。

第二篇 連鎖比例
第七条 連鎖比例。
定義 連鎖比例トハ諸数ヲ両々相較シテ一数ニ対スル他ノ一数ヲ求ムルノ法ヲ云フ、即チ一種ノ複比例ナリ。
第三篇 百分算(略)

第九条百分算其一上。
定義一 割トハ十分ノ一ヲ以テ計ヘタル数ニシテ、分トハ百分ノ一ヲ以テ計ヘタル数ナリ。
而シテ厘、毛等之ニ準ズ。





グットバイ

2007-06-05 22:24:28 | 日録

 太宰 治年譜
昭和23年(1948年)  40歳 1月、「犯人」を「中央公論」、「酒の追憶」を、「地上」、「饗応夫人」を「光」に発表。 2月、俳優座公演として、「春の枯葉」が千田是也主演で毎日ホールで上演された。 3月、『太宰治随想集』が若草書房から出版された。「美男子と煙草」を「日本小説」、「眉山」を「小説新潮」に載す。「如是我聞」(「新潮」)は俄然文壇内外に波紋を生ぜしめた。熱海市咲見町気起雲閣に滞在して「人間失格」の「第二の手記」まで書く。 4月、三鷹の仕事部屋で「第三の手記」を、月末から5月12日まで大宮市大門町の藤縄方にて完成す。4月号への発表作品は、「渡り鳥」が「群像」、「女類」が「八雲」であった。また、『太宰治全集』の第一回配本『虚構の彷徨』が八雲書店から刊行された。五月号への発表作品は、「桜桃」が「世界」、「如是我聞」の二が「新潮」である。 5月中旬から朝日新聞から依頼されていた新聞小説「グットバイ」を書き10回分までは原稿を渡した。
          日本現代文学全集88 太宰 治集(講談社)年譜より抜粋引用   

    
この写真は(『朝日現代用語 知恵袋2000』別冊付録朝日新聞連載小説の120年を引用した)
 これは1948(昭和23)年朝日新聞に連載する予定だった太宰治最後の小説である。太宰は同年7月から、同紙に連載するはずだったものであるが、13回分の草稿を残したまゝ失奔、玉川上水に入水してしまった。

 その1回分だけが、学芸欄に掲載されたものである。はじめにその経緯が簡単に述べられている。

 『太宰治氏が本紙に連載予定の小説「グット・バイ」を執筆しはじめたのは五月のはじめで、この小説が自分の価値を決定するものだといっていた、こゝに掲載するのは第一回で、以下十三回までは朝日評論7月号に収録する。』

 ボクは1947(昭和22)年3月中学を卒業したばかりだった。当時の世相を歴史年表などで調べてみると、

4月の総選挙で、社会党が第一党となり、5月に新憲法施行。6・3制スタート。6月片山内閣(社会党)が成ったのであった。

 序でにメモしておきたいのはこの年12月23日、東条英機はじめA級戦犯7名が処刑されたことである。


文明の利器

2007-06-04 22:09:56 | 反戦基地

愚息が、車を購った嬉しさに○を乗せて東京から、ドライブにやってきた。(新しい車を購入したのは、よっぽど嬉しかったらしい。その「タンジュン」さは、ボクも嬉しいが、さらにその上前をはねて、僕ら夫婦は○も一緒に、近所の野道をその車に同乗してドライヴを愉しんだのであった。

 いくらオレが古くても「カーナビ」の存在ぐらいは知っている。しかし数年の間に、これほどの進歩があるとは魂消てしまった。

 話は飛躍するけれど、610日がすぐやってくる。忘れもしない1945年の6月である。曇り空の上からこのあたり一帯に爆弾が降ってきた。この小さな村でも20名近くがB-29の爆弾で死んでいるのだ。

 当時日本にも電探(デンタン)と呼ばれるレーダーがあった。ボクもそのブラウン管をのぞいたことがある。今の子供の玩具より幼稚だった。そんな昔の事を思い出してしまった。

 偶然いまここに与謝野晶子の詩がある。長い詩である。その一部分を引用してみたい。

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守()
安しと聞ける大御代(おおみよ)
母のしら髪()はまさりぬる